2017年5月28日 (日)

【社告】本社社員出演情報

  29日(月)朝の日本テレビ系列『スッキリ!! 』で8時以降、本社解説委員のコメント(録画)が使われる予定です。テーマは「中学生のカバンが重い!」。

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2017年5月26日 (金)

【社告】本社社員出演情報

 20時55分ごろ、首都圏ネットのFMラジオJ-WAVE(81.3mhz)『JAM THE WORLD』(パーソナリティー=青木理氏)のコーナーに本社論説委員が出演を予定しています。テーマは「教教員の長時間労働について」。

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2017年5月17日 (水)

高大接続改革 本丸は「入試」ではなく「教育」

 文部科学省が「高大接続改革の進捗(しんちょく)状況」を発表し、「高校生のための学びの基礎診断」「大学入学共通テスト」(いずれも仮称)と2021年度大学入学者選抜実施要項の実施方針等の案をパブリックコメント(意見公募手続)に掛けた(6月14日まで)。

 6月いっぱいの策定が「年度初頭」に当たるのかどうか疑問だが、そもそも「目途」と逃げを打ってあったのは「霞が関文学」の真骨頂である。しかし、これまでの経緯を振り返っても、なかなか「進捗」しない状況には苦笑せざるを得ない。

 今さら共通テスト案の妥当性を論じるつもりはない。既に文科省自身、修正が効かないほど周辺政策も含めガチガチに固めて動き出しているからだ。「10年かけて育ててほしい」という担当者の説明は、本音だろう。かつて本社も配信記事で「10年後」を展望して論じた。

 高大接続には「入試接続」と「教育接続」があるとの説に従えば、入試接続はこの際どうだっていい。個人の人生にとっても社会への人材輩出にとっても、教育接続を進めることの方が絶対的に重要だからだ。

 その点、大学側は既に18歳人口減の再本格化を控えて「三つの方針」(3ポリ)改革に血眼になっている。「入試が変わらないと変われない」とうそぶいていた高校側も、高大接続改革論議の効果も相まって変わらなければいけないという機運が出てきた。

 大学教育と高校教育がコンピテンシー(資質・能力)ベースで転換してくれば、その間にある大学入学者選抜もコンテンツ(学習内容)ベースからの転換を余儀なくされるはずだ。どういう入試をするかは、技術的な問題でしかない。その技術論でいつまでも迷走しているのは、入試接続のわなに文科省自身が陥っているようなものである。

 過度の入試依存は、大学入学経験者の人生にいびつさを与えてきた。若い時期にどこの大学を出たかで人間の価値が決まるはずはないのに、世間ではいまだに偏差値信仰がこびりついている。

 少子高齢化やグローバル化をはじめとした社会の変化を、深刻に受け止めるべきだ。今こそ教育に注力し、少数精鋭で有意な人材を輩出しなければならない。それは決して国や経済のためという矮小化された戦略ではない。現行憲法の保障する幸福追求権の実現であり、改正教育基本法さえ追認した平和で民主的な国家の理想の実現である。

 幸か不幸か、本丸であるべき入学者選抜実施要項はザルのようなものである。3ポリ改革の自由度を縛らないための配慮でもあるのだろうが、それだけに大学側は真剣にアドミッション・ポリシーに基づく入学者選抜の在り方を模索してほしい。

 それは当然、入学後の教育につなげるための手段でしかない。「高大連携」で高校側へ正確なメッセージとして伝えることから、教育接続への第一歩が始まろう。国に頼っても、資金を出してくれないばかりか口ばかり出されたあげく混迷に巻き込まれるだけである。

【過去の社説】
高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜 (2010.11.25)
大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から(2011.1.16)
「終焉」した大学入試に対応が急務だ(2012.2.11)
大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない(2012.6.8)
高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ(2012.9.2)
実行会議4次提言 半年遅らせただけの「大改革」論議(2013.11.2)
大学入試改革 「人物本位」は誤解を招く(2013.11.9)
大学入試改革 各方面で「覚悟」を(2013.11.21)
「発展レベル」テスト まずは必要性と緊急性の共通認識を(2014.6.21)
〔戦後100年へ③〕高大接続改革 「入試」から決別する時だ
(2015.1.4)
「基礎学テ」をセ試改編の「高大接続テスト」に(2015.7.3)
高大接続改革 あえてスケジュールにこだわれ(2015.12.30)
残念な複数回先送り 新テストの“入試接続”依存
2016.1.30)
高大接続改革 できることだけ着実に進めよ(2016.9.5)


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2017年5月 6日 (土)

【内側追抜】沖ノ島、世界遺産は条件付き

観光マインドが全くないイコモスも、がんだな。一掃しなきゃ駄目だ。

     ――某前某担当相

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2017年5月 3日 (水)

【池上鐘音】ザラ紙と書院

▼会社に入って1、2年、原稿を書くのが恐ろしく遅かった。ザラ紙ペラ(1枚)10行の原稿用紙に書いては直しを入れるだけでも足りず、切り張りを何枚も重ねたあげく書き直しては無駄な時間を使っていた▼劇的な変化が訪れたのは、ワープロを使い始めてからだった。推敲が何度でもでき、しかも紙を無駄にしない。相変わらず要領は悪かったが、スピードは段違いだった。学生時代に使っていた他社の古い機種に比べ、「書院」シリーズは物書きにふさわしく感じられた▼憲法施行70年は、朝日新聞阪神支局襲撃事件から30年でもある。たまたま関西に滞在しているので、きょう兵庫県西宮市の同支局資料室に行ってきた▼社屋は建て替えられたが、銃弾を受けた応接セットが当時のように置かれている。脇腹に穴の開いた小尻智博記者(当時29)のブルゾンも痛々しいが、胸を突かれたのは血染めの原稿用紙だった。朝日は当時ペラ6行だったらしい。写真を撮るのもためらわれたが、意を決してシャッターを切った▼別のガラスケースには犯行声明文の実物と、犯人が使ったと同型のワープロが展示されていた。「書院」だ。小子が使っていたものより、相当旧式だった▼実は1987年当時、あまり事件に衝撃を受けた記憶がない。世界情勢では米ソ対立、学内情勢では「せん滅」が日常用語として飛び交っていて人が殺される感覚がマヒしていたのかもしれない▼事件の存在が徐々に大きくなっていったのは、やはり会社員時代だった。それも度重なる言論テロにというより、同紙の連続企画「『みる・きく・はなす』はいま」を読み続けてである▼資料室には、小尻記者の新人あいさつ文もパネル化されていた。「自分が読んでよかったと思える記事が書ければ、と思う」――小子が数年後に気付いたことが入社時に分かっていたとは、赤面するばかりだ▼たまたま派遣された事件現場で登校する生徒の背中にすらシャッターを押せず、決定的に記者失格であることを自覚した。会社を辞めても、しょせんは毒にも薬にもならない駄文を連ねるライターふぜいである▼それでも記事を書く矜持と覚悟は、常に持っていたいと思っている。「マスゴミ」「死ね」の言葉が飛び交うネット社会にあってこそ、正確で信念を持った報道が必要なのだと改めて教えてもらった気がする。小尻記者は、個人が狙われたわけでは決してない。

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2017年4月17日 (月)

【社告】本社配信記事が入試に出ました!

 旭川大学で3月に行われた2017年度社会人編入学試験の小論文問題に、ベネッセ教育情報サイト「教育動向」の本社配信記事が使用されたことが分かりました。

 本社は今後とも、教育界および一般社会に正確かつ有益な情報を配信してまいる所存です。

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2017年3月10日 (金)

【内側追抜】某防衛相会見

  「あたくしは隊員にも軍人勅諭を暗唱させたらいいと思っています」

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2017年2月18日 (土)

【内側追抜】新指導要領(番外)某官房長官会見

 「幼児期の教育に第一義的責任を有する家庭でも本来は国旗を掲げ、国歌を教えるべきであって、保育所で親しませることに対する批判は全く当たりません」

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2017年2月10日 (金)

新指導要領(2) 「三つの柱」更なる検証を

 育成すべき「資質・能力の三つの柱」を基に、教科・領域等に横串を、学校段階に縦串を刺して、学習指導要領を「構造化」する――。今回改訂の眼目である。今後10年に向けた検証の第一は、まさに「三つの柱」自体に置かれるべきだろう。

 ①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学びに向かう力・人間性等。これら三つの柱が、学校教育法30条2項で定める「学力の3要素」(①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学習態度)に沿ったものであることは容易に想像がつこう。

 だから「学力の3要素」との違いをめぐって混乱が起きて当然だし、過去の例からも一字一句の違いをめぐって“トンデモ解釈”が流布する恐れさえある。それはひとえに、緻密で分かりにくい「構造化」を選んだ文部科学省の責任である。

 「三つの柱」に比べれば、改訂の準備作業段階で国立教育政策研究所(国研)が提唱した「21世紀型能力」の方がよほど分かりやすく、すっきりしていた。基礎力・思考力・実践力の3層構造で、思考力が中心となって「生きる力」を育成する、というものだ。

 「資質・能力」検討会では国研の報告に対して、3層の外に「人格」を位置付けることを求めた。それによってますます「日本型資質・能力の枠組み」が完成するとの期待を抱かせるに十分だった。

 しかし中教審の本格論議以前に、この21世紀型能力を採用しない方針が事実上決まっていた。代わりに文科省事務局が議論を誘導したのが、「三つの柱」の原型だった。要するに「学力の3要素」との整合性を重視する方法を選んだのだ。

 本来、資質・能力は国際バカロレア(IB)の「10の学習者像」のような単純なものでも良かったのではないか。「明治以来140年」をうたうにしても、21世紀型能力はその現代的解釈として見事に通用する。

 そもそも「学力の3要素」に、妥当性はあったのか。学校教育法に規定する際、中教審に諮ったわけではない。きちんとした教育学・学習科学の裏付けもなく、文科省の政策的判断として立法されたにすぎない。つまり「教育」ではなく「政治」だ。

 中教審答申は、「三つの柱」が「2030年に向けた教育の在り方に関するOECDにおける概念的枠組みや、本年5月に開催されたG7倉敷教育大臣会合における共同宣言に盛り込まれるなど、国際的にも共有されている」としている。後者について、伊勢志摩サミットで配られた「リーマンショック時並み」という妙な資料と同レベルとは言わないが、同様の国内向けである色彩が濃い。

 文科省が説明する通り、確かに米国のカリキュラム・リデザイン・センター(CCR)によるカリキュラム・デザインのベン図にある三つの円が「三つの柱」に対応しているのだが、「知識」の円が知識・技能に、「スキル」の円が思考力・判断力・表現力にという対応関係は合っているのか。「人間性」に至っては、むしろ同センターのアイデアを拝借したものと言うべきだろう。

 もちろん21世紀に向けたコンピテンシー・ベースのカリキュラムをどうデザインするか、国際的にも定説があるわけではない。だからこそ今後10年、学校現場と研究者を総動員した実践研究によって検証と模索を続けるべきだ。少なくともその間、政治的な判断は極力排除したい。

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2017年1月 3日 (火)

新指導要領(1) 壮大な未完の「転換」

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会の答申が、昨年12月21日にまとまった。諮問から2年余り、前段の「育成すべき資質・能力」検討会を含めれば4年にわたる大掛かりな改訂である。文部科学省事務局の膨大かつ緻密な作業と粘り腰には、中教審委員ならずとも労をねぎらいたい思いがする。当初から注目してきた通り、総論には大賛成だ。しかし3月に小中学校の告示を控えた今、無念さと懸念が募る。

 次期指導要領は、これまでの「延長」なのか、「転換」なのか。当の文科省は、転換という言葉を嫌っているらしい。確かに指導要領の「構造化」は前回2008年改訂以来の課題だったし、1998年改訂から掲げた「生きる力」、ないしは臨時教育審議会答申を受けた89年改訂の「自己教育力」―あえて「新学力観」は留保しておこう―を継承したものであることも確かだ。

 そもそも「生きる力」とは、どうすれば育成できるのか。今までの指導要領ではその点が必ずしも明確ではなく、その解釈も実践も学校現場に任されていた。その脇の甘さは「新学力観」時代からのネックであり、それゆえに、いわゆる「ゆとり教育批判」にも足元をすくわれた。

 だからこそ本社は、「資質・能力」シフトを掲げた今回の改訂に大きな期待を掛けていた。これによって、ようやく21世紀型の教育に向かって具体的なスキル育成に乗り出せるとともに、08年の中教審答申で指摘されていた「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立から脱するだけでなく、二項対立そのものを無化できると考えたからだ。そのように位置付けてこそ、90年代の「受験競争の緩和」にとどまらない「(狭い)学力」偏重も是正できたろう。

 とりわけ資質・能力検討会が切り開いてくれた「21世紀型」の地平は、過去と未来の指導要領に現実的な結節点を見せてくれたように思った。コンピテンシー(資質・能力)の深い学びにはコンテンツ(学習内容)や教科ならではの学びが不可欠だというのも、その範囲内で大いに同意できる。多少強引と思えなくもないトップダウン式の審議会運営も、大転換のための必要悪としてなら黙認できた。

 しかし今回それを逆手に取って学習内容の削減を「一切」行わないという方針を、さほどの議論もなく既定路線として誘導したのは問題だ。今でさえ次期指導要領の理念が現行時数でこなし切れるのか、現場からは懸念が出ている。

  文科省事務局は、よほど「ゆとり教育批判」の再燃を恐れているらしい。「脱ゆとり教育宣言」が極めて永田町・霞が関ムラ内のお家事情で発せられたとはいえ、文科省自身が二項対立に捕われていることの査証にしかならない。

 そもそも現行の学習内容を、無条件に認めたままでいいのか。各教科では、極論すれば「親学問」のミニ版を改訂のたびごとに足したり引いたりしてきたにすぎない。無藤隆・中教審教育課程部会長は扱いに「メリハリ」を付けることを提唱しているが、次期指導要領にも明記されるのか、少なくとも答申上の保証はない。

 残念だったのは、14年6月で実質上打ち切られた高等学校教育部会の「審議まとめ」で提唱された「市民性」(シチズンシップ)の論議が一向に深まらなかったことだ。「コア」は高校教育にとどまるべきものではない。教育が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法1条)の育成を期すというなら、市民(シチズン)としての判断に資する知識とは何かが本格的に検討されなければならなかった。アカデミーに進むための知識は、あくまでオプションだ。

 今回の改訂は、文科省による机上プランでしかない。それも八方美人的な政策判断をさんざん重ねた上に、だ。「カリキュラム・マネジメント」の美名の下、全ての課題解決を押し付けられる学校現場はたまったものではない。

  今こそ教育現場と研究者の総力を挙げて次期指導要領を実践的に検証し、改革提言を行うべき時だ。それも自主編成だの教育の条理だのという時代遅れではない、エビデンスに基づいた未来志向と社会連帯の教育課程論議を、である。今すぐ着手してこそ、やっと2030年改訂での「転換」が展望できよう。少なくとも今回は、さまざまな点で「未完」と言うべきである。

 

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