2012年5月20日 (日)

【池上鐘音】思い込みの危険性

▼1カ月間、ブログの更新を自粛していた。本業の本社配信記事で誤報をしてしまったためである。発注先とは穏便に済み訂正も滞りなく行えたのだが、たとえ一瞬でも読者に誤解を与えたことは重大だと考えた▼もっとも最近は月1本の更新ということもままあるので夏休み直前の停学処分のようなものなのだが、ごく少数とはいえ本社説に期待してくれている読者にもおわびするしかない▼どのような記事だったかは発注先との関係で明らかにできないが、原因は思い込みによる勘違いであった。それも生資料に当たれば容易に気がつけた勘違いなのだが、「資料を見ても載ってないだろう」という思い込みが重なってミスを犯してしまった。記者として基本中の基本を怠ったということで猛省した次第である▼言い訳をするわけではないが、思い込みとはやっかいなものである。誤字・誤植の危険も日常茶飯事だが、思い込みで読んでしまうため自分ではなかなか気づくことができない。だからこそ新聞社には厳しい校閲・校正部門が置かれているのだが、一人偽装会社ではそれもかなわない▼思い込みといえば、最たるものは東京電力福島第一原子力発電所の事故であろう。「安全神話」というより、安全である、事故は起こらないはずだ、との思い込みが最悪の結果を招いてしまった――というのは誤報の言い訳にもならないが、一つのミスで信用を失墜しかねないのは同じだろう▼厳しく批判ができるのも、それが事実に基づいていればこそである。事実そのものが間違っていては、ただ怒りに任せて文句をつぶやくのと同じだ。批判の主張をするにしても、批判する対象はもとより読者にもその批判が妥当かどうか判断できるよう配慮しておくことが求められる。それが最末端であってもマスコミ人の責任だ。その点でも猛省しなければなるまい▼いま教育界は大変な状況に置かれている。いわゆる「ゆとり教育」批判にみられるように世間からの思い込みによって、いわれなきバッシングにさらされて更なる困難に陥っていることも少なくない▼本社はそうした風潮に流されず、事実を正しく踏まえた上で報道、主張していくことが使命だと思っている。時には教育界に厳しい注文もつけなければならないが、それも正しい事実を踏まえてこそ聞き入れてもらえることだろう。それだけに常に記者の基本に立ち返り、思い込みを排すよう留意しなければならないと自戒しているところである。

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2012年4月14日 (土)

新教育課程 中学校でも「遅れ」に注意を

 中学校でも新教育課程が全面実施となった。新しい教科書が配られ、驚いたのは生徒より教員の方かもしれない。生徒は既に小学校で昨年度「厚くなった教科書」を経験済みなのに対して、多くの中学校教員にとっては初めてだからだ。

 中学校教科書のページ数は全教科平均で前年度に比べ26%増加しており、小学校の23%増をも上回っている。とりわけ理科は補助教材分が吸収されたとはいえ、45%増にもなる。数学も34%増だ。

 もちろん、学習内容が26%増えたということではない。全面実施に際して文部科学省が6日付で出した通知でも「時数の増加の程度ほどに指導内容は増加していない」と断言している。授業時数が増えたのは、知識・技能の習得だけでなく「活用」の学習活動を充実させるためでもある。教科書が厚くなったのは、その反映だ。

 ただ、そのことを軽視してはいけない。

 一足先に全面実施を迎えた小学校がいい例だ。ベネッセ教育研究開発センターの調査によると、昨年1学期の段階で国語で4割、理科で3割近い学校に授業進度の遅れがあった。主な理由は「学習内容や教科書の分量が多い」とともに「児童間の学力差が大きい」だった。にもかかわらず、遅れへの対応としては「全体的に授業の進度を速める」が両教科で約7割を占めた。とりわけ若手教員は単元に重点を置くことができず、進度を速めることに頼りがちになっている。

 初年度が終了した段階で、最終的にはつじつまが合ったことも考えられる。国語などでは新しい教材が取り入れられた教科書もあり、教材研究の時間が十分でなかったという事情もある。ただ試行錯誤の結果、児童にとって十分な理解に至らなかった可能性は大いにある。同センターのヒアリングによると、2学期以降も遅れが取り戻せなかった学校があったという。この点、17日に行われる全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果が注目される。

 小学校から得られる教訓は、2つある。一つは、同じように進度の遅れを生じさせないことだ。厚くなった教科書をページごと丁寧に扱おうとしては、とても時間が間に合わない。文科省も先の通知で「まとめ方などを工夫したり、内容の重要度や生徒の学習の実態に応じてその取扱いに軽重を加えたり」することを求めている。特に若手教員は軽重の付け方が分からないだろうから、教科・学年間で授業の進め方を念入りに調整・相談しておく必要がある。

 一段落ついたら今一度、言語活動も含めた授業の在り方について教科ないしは学校全体で校内研修を実施すべきだろう。こう言っては失礼だが、新指導要領に対応した授業改善に関しては中学校以上に熱心だった小学校でさえ、このような混乱ぶりである。本当に中学校は大丈夫なのか、改めて検証しなければなるまい。

 もう一つの教訓は、実はもっと深刻かもしれない。消化不良のまま小学校を卒業してくる生徒の学力向上に、今から備えなければならないことだ。

 小学校での進度の遅れは、必ずしも初年度の特殊事情とは限らない。小学校では2学年持ち上がりであることが多く、一つ上の学年でも教員にとっては依然「新しい教科書」であるため、混乱は今年度にも引き継がれる。ヒアリングでも「担任が一通りの学年を経験し終わるまで落ち着かないかもしれない」との声があったという。また、社会での遅れが生じているは全体の2割だが、3校に1校では5年生に遅れがみられた。同センターでは歴史分野が6年生にずれ込むことで、公民分野にしわ寄せが来ることに懸念を示していた。社会に限った話ではないことは、言うまでもない。

 新指導要領は学習内容の着実な定着を目指すため、前の学年や学校の内容を「スパイラル(反復)」で学習させることも求めている。しかし早過ぎる授業で定着が不十分なまま中学校に入った生徒に、さらに早過ぎる授業を課しては「落ちこぼれ」をますます増やすだけだ。いわゆる「ゆとり教育」の見直しで小学校卒業生の学力は向上するだろうと高をくくっていては、大変なことになる。 

 こうした混乱は、必ずしも教員や学校のせいばかりとは言えないだろう。これも後で論じよう。ただ、愚痴を言っても授業は待ってくれない。健康に留意しつつも、何とか可能な限り理想的な授業を追求していただきたい。

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2012年4月 7日 (土)

日本の教育、やはり「間違っていなかった」

 本社は先ごろ、ベネッセ教育情報サイトに「日本の学校教育は間違っていなかった!?」を配信した。MSN産経ニュースなどにも同時配信されているから、ご覧になった方も多いだろう。これに対する反応は、賛否相半ばといったところだろうか。いちいちツイッターにかみつくのはマスコミ人の端くれとしてはしたないが、「信じられない」は仕方ないにしても「都合のよい解釈」「詭弁だ」といった反応は残念と言わざるを得ない。「ゆとり教育」「脱ゆとり」政策が存在したと信じて疑わない人にはいくら説明しても分かってもらえないと思うが、新年度を迎えて本社は大いに「日本の学校教育は間違っていなかった」と主張したい。

 先の記事で根拠としたPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)は、まさに各国の教育政策をエビデンス(証拠)ベースで検証するための基礎資料だ。もちろんOECDは経済発展に資するための教育を追求しているのだし、主な調査対象として日本政府=文部科学省を相手にしている、という制約はあろう。しかし、その分析には日本の教育の「強み」や「弱み」が客観的に表わされていると見ていい。少なくとも「ゆとり世代はダメだ」といったような印象論より、はるかに信頼できる。

 厚い本だが、『PISAから見る、できる国・頑張る国2―未来志向の教育を目指す:日本』(明石書店刊)をぜひ一読いただきたい。そこでは文科省の「生きる力」を、OECD=PISAが重視するキー・コンピテンシーなどと軌を一にするものとして肯定的に記述している。「ゆとり教育」についても「教育の質がこの時期に低下したという主張とは裏腹に、PISA2009年調査の結果にはそうした低下の証拠が認められない」とさえ断言している。

 こうした指摘には、必ず「塾通いによって学力が向上した結果だ」という反論が返ってこよう。しかし塾通いの過熱化は「ゆとり」学習指導要領が本格実施となる2002年度以前に始まっていたのだから、塾が学力を押し上げたとするならPISA2003や2006の「成績」も上がっていたはずだ。それなのに見掛け上の国際順位が下がったことをもって短絡的に「ゆとり教育」による「学力低下」が裏付けられたと主張するのは、矛盾してはいまいか。

 もっと言えば、第1回のPISA2000で日本は数学的リテラシーで国際順位が1位、科学的リテラシーで2位だったのは、1989年告示の「新学力観」指導要領の成果ではないか。「ゆとり教育」の起源を1977~78年告示の「ゆとりと充実」指導要領にまでさかのぼらせる議論も見受けられるし、今回の改訂でも是正のターゲットとなったのはむしろ新学力観だったのだが、PISAで測定される「学力」に限っては必ずしも指導要領のせいで「低下」したとは決して言えない。

 世間とは裏腹に、PISAから得られた日本の課題については文科省の方が「正確」に把握していたと言っていい。その代表例がPISA2003の結果を受けて言語力育成に力を入れたことで、07年度から全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)に「活用」のB問題を入れたのも、今回の新指導要領に「言語活動の充実」を盛り込んだのも、その一環だ。そうした努力はPISA2009の結果に表れ始めていると言ってよかろう。

 ここで改めて注意しておきたい。PISAが測定しようとしているのは学校教育の国際ランキングなどではなく「社会に出て役立つ力」であり、「これからの社会に必要とされる力」だ。そして各国はPISAの結果を参考にして自国の教育政策を見直さなければ、今後の変化する国際社会に対応していけないだろう。

 新指導要領にまったく問題がないわけではない。それは後の社説で展開しよう。しかし、あるべき教育の基本線を、文科省が外しているとは思えない。だからこそOECDは日本を「未来志向の教育を目指す」国だと評したのだ。

 問題はむしろOECDが指摘するように、日本の教育に格差が拡大していることだ。これにはPISAの対象である15歳が日本では学校間格差の大きい高校生であるという特性も影響しているのだが、シュライヒャー教育局次長が3月に行った「東京政策フォーラム」で自治体間格差の拡大に懸念を示したことに、もっと注目していいだろう。「上海に学べ」というのも、そうした文脈でのことである。

 だから公立学校はダメだ、塾に通わせなければならない、私学の方がまともな教育をしている……という短絡的な発想では、問題の本質を見失う。何より「ゆとり教育批判」は、根拠なき公立学校不信を増幅させた。それにより公立学校の教育が困難さを増しただけでなく、私立学校でも過剰な「教育サービス」要求が強まったことも、弊害の一端と言えよう。

 いま第一に考えるべきことは、未来につながる学力格差を解消し、全体の底上げを図ることだ。教育条件整備も急務だが、教室レベルでの具体的な実践が欠かせない。そのためにこそ指導要領が改訂されたのだ、と学校現場は受け止めるべきだろう。

 いま進めている教育の基本線に、確信を持とう。細かな問題点は、実践で乗り越えよう。どうしても乗り越えられない壁が出てきた時には、堂々と改善を主張しよう。場合によっては「裁量」を使ったっていい。ただそれは、決して旧来型の学力のためであってはならない。あくまで「未来志向」の教育のために、である。そうした教育を担う専門職としての教員の責任は重いし、だからこそ本社は今後も学校現場にエールを送りたい。

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2012年3月31日 (土)

高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな

 新学習指導要領に基づく高校教科書の検定結果が先ごろ公表されたが、報道では相変わらず「脱ゆとり」という位置付けが目立つ。ご丁寧にも新聞の1面で「ゆとり教育」の用語解説を載せた社すらあった。しかし本社がたびたび指摘するように、この間の教育政策の変遷を「ゆとり教育」とその転換と捉えたのでは本質を何一つ理解できない。ましてやそれが学校現場に悪影響を及ぼしかねないとしたら、黙っていられない。とりわけ高校関係者は、そうした報道ぶりに惑わされることなく改訂趣旨を正しく理解した上で、どのような授業改善が求められているかを冷静に受け止めるべきである。

 しつこいようだが、確認しておこう。確かに「ゆとり」は文部省(当時)が付けた改訂のキャッチフレーズの一部分だが、「ゆとり教育」とはあくまでマスコミの造語である。 しかも1998年に前指導要領の改訂案が発表された時に、「詰め込み教育」から脱却するキーワードとして肯定的に使ったものだった。それが「分数のできない大学生」問題や大手学習塾による「円周率が3になる」といった“誤報”で新指導要領への不信が世間に広がると、大手のみならず多くのマスコミは手のひらを返したように「ゆとり教育」批判を始めた。これに恐れをなした文部科学省も「ゆとり」という言葉を使うのをやめてしまった。

 もちろん、分かりにくさの責任の一端は文科省にもある。一番の淵源は当時、学力向上路線への転換を図った遠山敦子文科相―小野元之事務次官のラインと、伝統的な教育課程行政を堅持したい初等中等教育局との温度差である。そのため初中局担当者が教育関係者に向けた説明も奥歯にものが挟まったような言いぶりで、お世辞にも上手とは言えなかった。しかしそこからが文科官僚の真骨頂で、外からは「ゆとり教育」批判に抗し切れずに方針転換したように見せながら、改訂趣旨の基本線は守り通したのだ。あまつさえ改正学校教育法にその理念を法制化することにさえ成功した。

 本社はそのような文科省の姿勢を、結果的には必ずしも否定しない。いわれなき「ゆとり教育」批判を交わし、21世紀に求められる能力の育成を目指す方向性を堅持したと評価するからだ。

 ただ寺脇研氏らの個人プレーを除いてはマスコミ報道に対して堂々とした論戦を挑まなかっただけに、文科省が方針転換をしたのか、しなかったのかさえ不透明なままになってしまったのは残念だ。そうした中でマスコミが「脱ゆとり」報道を続けては、世間のみならず教育関係者すら文科省が一時「ゆとり教育」なる方針を掲げ、その方針の誤りを認めて方針転換を行ったと誤解するのも無理はない。

 確かに今回の改訂では、中教審で議論を主導した梶田叡一教育課程部会長も方針転換を強調した。しかし梶田氏が主な批判の対象としたのは前々回改訂(1989年)の「新しい学力観」であり、必ずしも「ゆとり教育」ではなかったことに注意する必要がある。事実、中教審答申は前回過程時に「ゆとり」とセットだったキャッチフレーズ「生きる力」の継承を堂々とうたっているではないか。

 「ゆとり教育」をどう定義するかにもよるのだが、それが単なる内容削減・授業時数減を意味するのなら確かに「転換」であろう。実際、今回の改訂では削減された内容が一部復活し、小・中学校では標準授業時数も増やされている。しかし前回改訂の本質は、いわば知識の「量」から学習の「質」へと重心を移したことだったろう。今から思えばPISAの「リテラシー」や新指導要領の「活用」「探究」を先取りするものであった。

 これも文科省の巧妙さによるのだが、2007年度から始まった全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では各教科で「習得」と「活用」の2種類を出題した。この「活用」を「応用」問題のことだと勘違いした世間は、自然かつ好意的に受け入れた。本当ならこれを「ゆとり教育」の残滓として批判すべきはずなのに、である。

 このような分かりにくさも、すべて「ゆとり教育」か「脱ゆとり」かで教育課程改革の流れを理解しようとするからである。経済協力開発機構(OECD)が提唱するような未来志向の学力をどう育成するかという観点で把握しようとした方がよほど正確で、かつ建設的である。

 もちろん高校も例外ではない。新課程においては内容増だけでなく、思考力・判断力・表現力等を育成する言語活動の充実が各教科・領域等で求められる。そうした点に目を向けず、狭い意味での「学力向上」に執心できると思ったら大きな間違いを犯す。ましてや「ゆとり教育」の転換で中学生の学力が向上すると期待していては、大変なことになろう。新指導要領では、義務教育段階の学習内容の「学び直し」も高校に期待されている。高校入学者の質の変化について、前回あるいは前々回の改訂時以上に戸惑うことも十分予想される。

 高校でも新指導要領の全面実施まで、あと1年に迫った。一刻も早く改訂趣旨を受けた授業研究に着手すべきである。そうでなくても多くの高校現場は「総合的な学習の時間」の低調さにみられるように、指導要領に正面から向き合ってこなかったきらいがある。2006年に発覚した必履修科目の未履修問題などは論外である。「脱ゆとり」報道を真に受けて、いっそう受験指導に力を入れていいのだと意気込んでいるとしたら勘違いも甚だしい。本音と建前は教育界の常ではあるが、建前を理想論として本気で語るのもまた教育界の特質ではないか。 

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2012年2月11日 (土)

「終焉」した大学入試に対応が急務だ

 受験シーズンのさなかに、刺激的なタイトルの本が出た。『大学入試の終焉―高大接続テストによる再生』(北海道大学出版会)だ。

 著者の佐々木隆生・北星学園大学教授(経済学)は、前任の北大時代に文部科学省の委託を受けた「高大接続テスト(仮称)」に関する調査研究委員会の研究代表を務めた。本書は同委員会の協議・研究を踏まえたもので、趣旨も基本的に同じなのだが、著者個人の見解であるだけに報告書より明快に論じられている。

 実はタイトルや帯の「時代にあわない落第入試はもういらない!」に比べると、本文の表現は穏当だ。しかし穏当なだけに、具体的な事実に基づく論述が迫力を持つ。高校・大学のみならず全ての教育関係者は、タイトルなどに表現された危機感を持って本書を真摯(しんし)に読むべきだろう。

 佐々木教授は「高大関係者が一致する高大接続テストの構想を打ち出した」(「はじめに」)と胸を張る。しかし報告書が出てから1年以上が経過しても、関係者に危機感が共有されているとはとても言えない。

 高大接続テストの検討は大学入試センターに引き継がれたことになっているが、「逆に言えば本省ではやらない」との解説さえ文科官僚から漏れ伝わる。高校関係者の多くも報告書が提起した問題意識は受け止めながら、大学入試センター試験をはじめとした現行の大学入試に大きな変更がない範囲内でなら高大接続テストを許容する、というのが本音だ。委員会での論議とは裏腹に、いまだテスト創設の機運は盛り上がらない。

 高大接続テストやセンター試験をはじめとした大学入試の改革については以前に論じたので繰り返さないが、今のような入試体制を続けていては「知識基盤社会」に対応することなどできないことは、重ねて強調しておきたい。

 「あとがき」によると、本書は昨年7月末までに書かれている。「従来の試験・テストは…会場や監督員の手配をはじめ莫大なコストを要するという弱点を持っています」(第3章)という指摘は、今年1月に起こったセンター試験のトラブルを予兆させるものではなかったか。

 「秋入学」のように東大が率先してセンター試験からの離脱を打ち出すくらいの英断をしなければ、世の中は動かないのだろうか。「『改革の意思決定が遅い』という現象を教育の分野では見たくないものです」(第4章)という佐々木教授の控えめな問い掛けを、関係者は深刻に受け止めなければならない。 

 【過去の社説】

 ・高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜

 ・大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から

 

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2012年1月27日 (金)

「日の丸・君が代」 今こそ不毛な対立の終息を

 卒業式の本格的な準備時期に入った。折しも最高裁では、国旗・国歌の扱いに関する職務命令違反に処分基準が示された。来月には「予防訴訟」の最高裁判決で教職員側敗訴が確定する見通しとなった。これを画期として教育行政側も教職員側も、戦後以来の「日の丸・君が代」をめぐる長い不毛な対立を終息させるべきだ。

 最高裁判決を受けて、東京都教委は国旗掲揚と国歌斉唱の適正な実施を通知した。大阪府教委は松井一郎知事の意向を踏まえて起立斉唱を徹底させる職務命令を府立学校長に出し、橋下徹大阪市長は大阪府と同様の国旗国歌条例案を提案する方針を表明した。これらの教委でも判決を受けて違反の際の処分基準は変えざるを得ないだろうが、起立斉唱はむしろ徹底させる構えだ。

 主張したいことは4年前の社説と変わらない。日の丸・君が代の扱いだけを取り上げて焦点化させること自体が、学校現場にとって不毛だということだ。現下の学校教育の課題はそれだけではないし、国旗・国歌問題を解決しなければ全てが前に進まないという時代でもない。

 確かに今回の判決で、職務命令の適法性は認められた。最高裁が指摘するように不起立等の行為は式典の秩序や雰囲気を一定程度損ない、参列する生徒への影響を伴う。ましてや式典で掲揚を妨害するのは論外である。

 しかし一方で判決は、不起立等の行為自体は「積極的な妨害等の作為ではなく、物理的に式次第の遂行を妨げるものではない」と指摘している。不起立等が「個人の歴史観ないし世界観等に起因するものである」とも認めている。国旗国歌法制定の経緯や国会附帯決議を考え併せても、妥当な指摘だ。

 学習指導要領の目標は、学校の教育活動全体で達成されていれば問題はない。実施に当たって教職員が分担して行うことも当然だ。政治的・運動論的理由は別にして、何も日の丸・君が代だけを取り出して全教職員に職務命令で徹底を強要する“指導上”の合理的理由はないはずだ。指導要領違反を言うのなら、むしろ活用・探究の授業を実施する職務命令も出したらいかがとは思うのだが、おそらくそんな発想は出てくるまい。 

 卒業式・入学式に引き寄せて言えば、クラス担任やピアノ伴奏者など列席が当然視される教職員には一定の行動が求められよう。しかし不起立は別として、一人ひとりが歌っているかどうかをチェックしたり、ましてや音量を測ったりすることまでする必要があろうか。指導要領が求めるのは式典での国旗掲揚・国歌斉唱の“実施”までである。教育効果を考えても、第一に評価すべきは教職員ではなく児童・生徒の態度の方だろう。

 反対する側にも注文を付けたい。教職員の思想・信条の自由は尊重されるべきだが、それを表現する場は式典ではあり得ない。ましてや組織的に行動することは、日の丸・君が代に抵抗を感じない若手教職員が増加する中では反発を招くだけである。起立斉唱をしたくない場合には式典に列席しない役割分担を求める等、それこそ交渉事項に属することではないか。

 他の社説のまねをするわけではないが、やはり判決に付された旧労働省出身の櫻井龍子裁判官の補足意見で締めよう。引用が長くなるが、関係者は一言一句をかみしめてほしい。

 「今後いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態が教育の現場の在り方として容認されるものではないことを強調しておかなければならない。教育の現場においてこのような紛争が繰り返される状態を一日も早く解消し、これまでにも増して自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり、全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要があるものというべきである」

 

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2012年1月21日 (土)

「秋入学」を機能別分化の契機に

 東京大学の懇談会が、秋季入学への全面移行を提言する中間まとめを公表した。秋季入学を主導する濱田純一総長は5年後を目途に検討を進めたい意向を示している。いわゆる秋入学に関しては「社会全体」で考えるべきだとの論調も目立ち始めており、中間まとめでも各界の幅広い理解と協力を求めている。しかし、これには多少の違和感を禁じ得ない。むしろ大学側が自らの責任で、率先して進めるべきと考えるからだ。

 東大が秋入学を進めるのは、国際的な大学間競争とグローバル人材養成への対応のためだ。学生を「よりグローバルに、よりタフに」育成するために、学部段階でも国内外の出入りをしやすくしたり、全員に国際的な学習体験をさせることはもとより、合格から入学まで半年の「ギャップターム」を利用して、大学受験で染み付いた点数至上主義の受動的な学びをリセットし、体験活動などを通して主体的・能動的な学びに転換させるという、高大接続の視点もあるのだという。

 結構なことだ。受験エリートの頂点たる東大が率先して大学教育上の是正に乗り出し、旧帝国大やトップ私大などにも呼び掛けて共同歩調を呼び掛けてもいる。大学教育全体、さらには大学受験全体に対するインパクトは大きかろう。

 だからこそ、これを「全体」の問題として論議してはならない。

 これまで大学教育改革や入試改善をめぐっては大学という一本化された「制度」を前提として、抽象的な建前論として論じられることが多かった。しかし進学率の上昇に伴って大衆化と多様化は進み、700校を超える大学すべてを同じ「大学」としてくくることは現実的に不可能になっている。いわゆるユニバーサル段階にあっては期待される役割に応じて大胆な特色化を図ることが不可欠であり、2005年の中央教育審議会「将来像答申」で機能別分化が提言されたのもそうした認識があってのことだが、5年を過ぎた今に至るまで中教審大学分科会では機能別分化の促進策をめぐって延々と議論が続いている。個別大学で大胆な「機能」特化を打ち出した例も、寡聞にして知らない。

 そんな中での東大の英断は、評価してもし過ぎることはない。創設以来、旧文部省と一体となった「護送船団方式」の先頭を走ってきた大学が、本当の意味で独自の路線を進もうとするのだ。もちろん単騎では無謀だし力も十分発揮できないから、ラインを組むことも必要だろう。機能を同じくする大学とコンソーシアムを形成することがあっていい。

 しかし、それはあくまで個別大学の判断だ。とりわけ東大は、中間まとめの中でも自らを「研究大学」「総合研究大学」と位置付けている。だから秋入学を導入するのであって、他の機能を目指す大学が必ずしも同調する必要はない。

 例えば教員養成系大学・学部は、高校以下の学校に合わせて引き続き春入学とするのが合理的だろう。もともと日本の高等教育機関が秋入学から春入学に改めたのも、高等師範学校が率先したからだという。もっとも秋入学にして卒業後のギャップタームを初任者研修に充てるアイデアもないではないと思うのだが、それは別の話だからおいておく。

 国立でも地方大学は、近隣私大などと連動して地域人材を供給するために卒業時期を一緒にすることが当然だし、求められよう。つまりは学年の始期の選択によって、国際的な「研究大学」を目指すのか、「地域貢献」大学を目指すのか、旗幟(きし)鮮明にすることが迫られるのだ。

 秋入学を選択する大学も、公共投資など政府への支援を求めるだけでは今までと同じだ。自ら国際競争に身を投じる覚悟があるのなら、それによって高まる競争力で独自の研究・教育資金を集める気概が欲しい。もちろん国家戦略としてどう教育投資を充実させるかは別問題だし、実際に秋入学を導入する大学が増えれば日本学生支援機構の奨学金をギャップターム中にも支給対象とするなどの対応も必要になってこよう。しかし大学側としても、卒業生などからの寄付による独自の給付奨学金で賄うくらいのことは打ち出すべきではないか。

 東大がこれまで「市民的エリート」(東大憲章)を生み出してきたことは歴史的事実だろうし、今後もそれを目指すことも大いに結構だ。ただし独自判断に踏み切る以上、そのリスクも負わなければなるまい。現実的には考えにくいことだが、ギャップタームを嫌って受験生や企業から多少の敬遠をされることも織り込まなければなるまい。それにも増して大学のアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)などが明確になり、目指す人材育成が容易になるのだから。 もちろん、「ミニ東大」にも言えることである。

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2012年1月 1日 (日)

【社告】新年ごあいさつ

中央・地方とも教育界に混迷が予測される中、今年も本ブログをよろしくお願いいたします。

    「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」代表社員 渡辺敦司

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2011年12月23日 (金)

「教育基本条例」の全国展開に警戒を

 橋下徹・大阪市長らが東京で繰り広げた2泊3日の就任あいさつ行脚は、ダブル選挙圧勝の力をまざまざと見せつけた。争点となった「大阪都構想」についても、みんなの党がさっそく地方自治法改正の要綱案をまとめたほか、民主、自民、公明の主要与野党も相次いでプロジェクトチーム(PT)を設置している。

 教育基本条例案をめぐっては、最終日が象徴的だ。朝一番で面会した中川正春文部科学相に対して橋下市長は、条例案が法律に抵触することを指摘した政府見解を「首長をばかにするような決定」だと批判。上京の締めくくり相手として選んだ石原慎太郎・東京都知事からは、都でも同様の条例案を検討したい言質を得た。

 橋下市長は石原知事との会談後、「東京と大阪のダブルで教育委員会制度に挑戦する」と語っている。「大阪維新の会」の威力を恐れる与野党が都構想だけでなく教委制度改革にも積極的に応じる恐れは、十分にある。

 実際、中川文科相は翌日の記者会見で、省内にタスクフォース(特別作業班)を設置し、年度内に教委制度の課題を整理したい意向を示した。場合によっては中央教育審議会への諮問や審議要請につながる可能性も捨て切れない。

 もちろんその場合、文科省や中教審は規制緩和・民間開放論議や「教育再生」論議の時と同じように「抵抗勢力」として振る舞うだろう。しかし与野党こぞって橋下連携に秋波を送る中、どれだけ譲歩を迫られるか危惧される。

 中川文科相も言及しているように、そもそも民主党は2009年の衆院選マニフェストで教委制度の抜本的な見直しと「教育監査委員会」の設置を掲げており、政権交代直後に副大臣に就任した鈴木寛氏は政権担当4年間のうちに教育行政と学校運営の「ガバナンス(統治)」改革にまで着手したい意向を示していた。橋下氏の提起に乗じる下地は、大いにあるのだ。

 中央政界のみならず、地方でも呼応する動きが出ないとは限らない。「維新の会」方式を採用すれば、橋下人気にあやかって当選の見込みが出てくると考える者も続出しよう。橋下氏との共著もある堺屋太一・元経済企画庁長官は自民党のPTで「橋下・松井改革」を長州藩の騎兵隊になぞらえて、「全国から同志を集めて日本を変えたい」と発言している。

 政治家が維新の志士を気取るのは今に始まったことではないが、明治維新の熱狂が廃仏毀釈(きしゃく)など負の側面をもたらした――というのは言い過ぎにしても、その後の第二次世界大戦敗戦まで突き進んだ歴史的教訓も忘れてはなるまい。

 大阪府・市と東京都の連携といっても、優秀な東京都職員のことだから国の法令に反するような条例案を作成するはずはない。この間の教育改革にしても都教委の絶大な主導によって進められたものであり、教委制度を問題視するとも考えにくい。しかし学校現場の締め付けを強化するような提案が出されることは予想でき、ただでさえ息苦しい現状のさらなる悪化が懸念される。そして、そのような他県にも受け入れやすい教委改革メニューが、維新の志士気取りたちによって全国に波及するかもしれないのだ。

 大阪の条例案に関しては、全国的な関心が薄いとも言われる。本社は必ずしも現行の教委制度が理想形だとは思っていないし、マルティン・ニーメラー牧師の詩を引用するつもりもないが、条例案が学校教育を良くするとは全く考えられない。国民的な注視が必要だろう。

 

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2011年12月21日 (水)

【池上鐘音】言いたかったのは2

▼本日、ラジオというものに出演した。3年前と同じJ-WAVEの帯番組である。2度目ということに加えて、待ち時間の雑談段階から構成作家さんやリポーターの方に上手に誘導され、本番のナビゲーターは本社より本日のテーマに詳しいのではないかという堤未果さん。お陰でリラックスして話すことができた(あくまで本社比)▼しかし終始かみっ放しの上に要領を得ない説明で、さぞお聞き苦しかったことだろう。たまたま聴かされたリスナーの方にはおわび申し上げるとともに、意図的に聴いた意地悪な関係者の方は是非そっとしておいていただけるとありがたい▼それでも教育マスコミ人として最低限の役割は果たせたかと自負している。テーマである大阪の教育基本条例案がどれほど学校現場の実態を無視したものかは、教育関係者なら左から右まで一致するところであろう。堤さんも米国や英国の実態と照らし合わせて条例案を問題視していたが、そちらの方に時間が割けず申し訳なかった▼分かりやすい事例として「効果のある学校」を紹介できたのも、個人的にはヒットだと思っている。とにかく言いたかったのは、有効な改革のタネは教育現場にある、ということである。どこぞのブレーンが諸外国の失敗例をつまみ食いしようとしても「効果」どころか逆効果である……というところが、どこまで伝わったか▼残業しながら聴いていた企業戦士の方からは「だから教育界は甘いんだよ」とお叱りを受けるかもしれない。しかし本社は教育界の実態を踏まえて、可能な範囲で実効性があると信じる方策を訴えるだけである▼3年前の繰り返しになりますが、出演や講演の類は基本的に本社の営業外です。今回のようによほどの関心事や訴える責務のあるテーマの場合にのみご相談に応じます。たまたま検索で引っ掛かって手当たり次第問い合わせをいただいても、しょせん場末の木っ端業界ライターですので悪しからず。

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