2019年8月15日 (木)

終戦記念日に 「自由」の危機まん延を憂う

 今月初めに予定していた公開シンポジウムの取材を、前日になって編集部と相談の上で取りやめた。主催者側から、あくまで事前の原稿チェックを求められたからだ。

 取材先から原稿確認を求められることは、しばしばある。掲載媒体によっては応じることもよくあるが、それはあくまで発注先の編集部判断である。今回は新聞協会加盟社の発行する題字を背負っていたため、報道の自由を守るためには検閲につながる一切の要求を容認することはできなかった。

 問題なのは、今回の主催者が某国立大学の研究センターだったことだ。学問の自由を守るべき大学の一部門が、報道の自由に鈍感だということを看過すべきではない。

 あえて難癖を付けたのは、いま自由と平和に対する危機がまん延しているように思えるからだ。某政治家の「戦争しないとどうしようもなくないですか」を持ち出すまでもなく、今や過去の敗戦に想像力も至らず、戦前・戦中に自由が制限されてきた歴史さえ顧みない世代が社会の中心を担ってきている。

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由・その後」の一件にみられる通り、表現の自由そのものを問うた企画に対してさえ表現の自由の乱用だと疑義が向けられた。それだけでなく、「市民の血税で日本人の心を踏みにじっていいのか」と某首長が言ったり、「日本人に対するヘイト(憎悪)」などと主張する報道機関さえあったりするしまつである。

 危機というのは、個別具体の自由が制限されることの積み重ねだけではない。その制限を許容する雰囲気が広く世間に醸成されていることだ。学問の自由に敏感であるはずの大学、しかも教育学系の研究センターでの鈍感さも、その一端と言えよう。

 公金を支出する以上は表現の自由も制限されてよいという論理を許容するなら、国の助成を受ける以上は国の方針に反する研究もできないという批判に応じざるを得なくなる。ただでさえ研究者個人の自由な研究ができにくい環境が進行する中で、自由への鈍感さが自らの首を絞めかねないということに想像すら至らないとしたら背筋が寒くなる。

 もっとも先の研究センターにしても、本社古巣の業界紙のように事前チェックにほいほいと応じるメディアがあってこその勘違いであろう。それも、報道の自由が戦後も徹底されなかった証左とみることもできよう。その上で、業界紙基準を一般紙にも強いて平然としている無自覚さにこそ戦慄せざるを得ない。

 安倍首相がひた走る「お試し改憲」も、それが蟻の一穴となって次々と市民的自由に制限が加えられる改悪が繰り返されかねない。実は今、それを受け入れる土壌が着々とできつつあるのではないか。

  今こそ唯一の希望である教育で、自ら考え自主的に判断し主体的に行動できる市民を育成しなければならない。しかし教員養成大学には教員免許更新講習以来、国の方針を無批判に前提とする教育・研究が常態化してきている。それが現場をますます苦しめる結果となりかねないのに、である。その上に大学教員の養成を掲げる最高学府が学問の自由にさえ鈍感になってしまったとしたら、絶望感しか抱けない。

 

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2019年7月17日 (水)

【池上鐘音】アベノストーリー

▼安倍首相が参院選の応援演説で何度も「民主党の枝野さん」と言い間違えている。意図的な支持者向けのネタなのだろうが、それは単なる皮肉や「一種の選挙妨害」(枝野幸男・立憲民主党代表)にとどまるものではないように思える▼首相の放言といえば「悪夢の民主党政権」もある。おそらく、それと同根なのだろう。本来なら第1次政権の政策を続けていれば「美しい日本」は再生できたはずなのに、自ら政権を投げ出してしまった。今こそ時間を取り戻さなければならない、と▼だから成果を誇る数値の比較も、民主党政権の前後でしかない。今やデフレから脱却して好循環が始まっている。ゆくゆくは末端まで「アベノミクスの暖かい風」が届くだろう。後は改憲だけだ――▼首相周辺は、同じストーリーを共有できるお友達や官邸官僚ばかりで固められている。そうした人たちによって都合の良いデータが集められ、ストーリーが補強される。出来上がったストーリーを、首相自身が本気で信じているのかもしれない▼小子自身「アベデュケーション」という言葉すら忘れていたが、教育政策に関していえば第2次政権後のスタートダッシュで「教育再生」のストーリーも既に完成しているのだろう。道徳教育は正常化された。ダメ教委の制度も改められた。学力も世界トップレベルに戻った。後は「真に必要な子どもたち」に高等教育の無償化をすれば終わりだ、という筋書きだ。それ以外のストーリーを描いたり修正したりするスタッフは周辺にいないから、耳にも入ってこない▼実は第1次政権の時から、首相は反日教組・反戦後民主主義教育以外の教育施策に関心がないのではないかといぶかっていた。例えば教員免許更新制の導入趣旨が換骨奪胎されても、当時の首相はおそらく文部科学省が起草した通りに原稿を読んでいた。一度ストーリーが完成したら後はそれを繰り返し朗読して聞かせればよく、対話の必要などもない▼首相が参院選の焦点として「政治の安定」を強調するのも、完成されたストーリーのゆえだろう。しかし、そのストーリーは本当にリアリティーがあるのか。読者である国民のリテラシーが問われる。少なくとも教育政策に関しては破綻しているということは、過去の社説で示してきたところだ。

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2019年7月 9日 (火)

【内側追抜】消費増税

 今後10年は上げる必要がないのではないか。もっとも、あたくしの総裁任期は2021年9月ですから、その後は知ったことじゃありません。経済がどうなろうと、それまでに改憲できれば日本人は誇りを持って生きていけるでしょ?

   ――某首相

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2019年7月 4日 (木)

安倍1強で教育は今後も良くならない

 参院選が公示された。改憲以外に争点らしい争点もなく、6年半の安倍政権に評価を下す選挙とも言える。若者の間には好調な就職状況も反映してか、自民党支持が強いという。しかし売り手市場なのは団塊世代の大量退職後に進んだ人手不足という人口動態的な現象でもあり、入社後はブラック職場や低賃金が待っているのでは浮かばれまい。

 ではこの6年半、教育は良くなったのか。今後の残り総裁任期で、教育は良くなるのか。いずれも否、と断じたい。

 ブラックといえばこの間、教員の過酷な勤務実態が明らかになり、わずかながら世間にも同情が広がったのは光明というべきかもしれない。しかし、考えてみよう。ちょうど第1次安倍政権に差し掛かる2006年の調査と比べて、10年後の16年には1日当たり小学校で平日43 分・土日49 分、中学校で各32 分・1時間49 分増加している。よもや民主党政権のせいで急増し、安倍政権で減少したなどとは言えるまい。

 悪化した理由は明らかだ。05年度の義務制第7次完成以来、新たな教職員定数改善計画は策定されていない。その間、学力向上対策に加えて特別支援教育や不登校、外国人児童生徒への対応など、よりきめ細かな対応が求められているからだ。確かに17年度から通級指導と日本語指導の加配定数を10年かけて基礎定数化する措置が進行しているが、これをもって「新たな改善計画」などと呼ぶのは看板に偽りがある。

 「世界トップレベルの学力と規範意識」というのが、安倍政権の教育再生スローガンの一つである。これ自体が何を言わんとしているのかさっぱり分からないが、トップレベルなるものを維持するために尻をたたく以外に何か「内閣の最重要課題」にふさわしい財政措置を伴う施策を打ってきたか。その有力な指標らしいPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の18年調査結果は年末にも発表されるだろうが、果たして今回も「上位グループ」と言い張れるかどうか密かに危ぶんでいる。

 政権に返り咲いた直後は下村博文・文部科学相の下、教育再生実行会議を使って猛スピードで改革を進めた。しかし例えばその第1弾であるいじめ対策で、いじめの重大事態が減少したか。確かに起こってしまった重大事態に対する第三者による事後の検証などは進んだが、新たな重大事態は後を絶たない。それはそうだろう。いじめ調査なども含めて現場の多忙化が加速し、平素からいじめを生まない環境づくりがおろそかになってしまっている。道徳の教科化によっていじめが抑制されたなどというエビデンス(客観的な証拠)も、もちろん聞いたことがない。

 確かに高等教育に関して無利子奨学金の拡大が進んだことや、給付奨学金と一部「無償化」が導入されたのは画期的なことだ。しかし奨学金に関して言えば下村氏の個人的な思いが結実した側面が強く、政権を投げ出すまで銀のさじをくわえて生きてきた首相には消費増税の口実以外に思い入れが感じられない。無償化措置にしても「真に必要な」者という限定が最初から付いていた。おまけに今後10年ぐらいは消費税率を上げる必要はないらしいから、中所得者層の学生にまで「暖かい風」が吹くことは全く期待できない。

 進んだことは何かといえば、モリ・カケ問題に代表される教育行政のゆがみだ。そうでなくても「学校の働き方改革」にみられる通り、財政措置を当てにしない範囲内での施策展開を余儀なくされている。先月27日に発足した中央教育審議会初等中等教育分科会「新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会」で小川正人臨時委員(前期中教審副会長・初中分科会長・「学校における働き方改革特別部会」部会長)が、現行の定数も「今ある業務量にふさわしい教職員数を算出しているわけではない」と指摘し、働き方改革で確定された本来業務を踏まえて業務量を客観的に把握した上で、それに見合った定数改善の方策を検討するよう提案したのは傾聴に値する。しかし、その意見が顧みられる見通しは暗いと言わざるを得ない。

 潮目を変えるには、安倍1強に歯止めをかけることからしか始まらない。何も今の野党に政権を取らせよなどと主張するつもりはないが、少なくとも与党内の勢力図が変わらない限りは希望すら持てない。

 もちろん現下の厳しい財政事情の中、どんな内閣であっても有効な打開策を見いだすのが難しいのは民主党政権を振り返れば明らかだ。しかし首相が何と言おうとも、悪夢とまでは言わないが今後いい夢を見られる可能性も少ないだろう。あくまで本社の守備範囲である、教育政策の話であるが。

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2019年6月 3日 (月)

【池上鐘音】2021年度!?

▼大学入学共通テスト実施大綱の記事を書いていて、ようやく気付いた。5月29日の第14回「大学入学共通テスト」検討・準備グループ会合に示された案では、本文に「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト(以下『令和3年度大学入学共通テスト』という。)」とあることだ。問題はカッコ書きの方である▼元号で表記しているから気付きにくいが、令和3年は西暦で2021年度になる。しかし今まで共通テストは「平成32(2020)年度から」だと、さんざん言ってきたではないか▼現行の大学入試センター試験は、大学入試=入学年度で表記する。大学入試センターと各大学が共同で行う共通試験なのだから当然だ▼しかし共通テストは「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」と呼んでいた時から、実際に実施される年度で表記してきた。だから20年度センター試験の後継テストが20年度共通テストという、奇妙なことになる。そのため「21年1月からセンター試験に代わって実施される共通テスト」という表現をひねり出して記事を書かざるを得なかった▼正式名称の「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト」なら、21年度入試に使う20年度共通テストだとも言い張れる。しかし略称で21年度共通テストと認めたら、大げさに言えば方針転換ではないか▼こんなことになったのも、2020というマジックナンバーめいた数字のせいだ。12年末に政権を奪還した第2次安倍政権は東京五輪・パラリンピック招致を契機に、この年度をあらゆる教育改革の「ターゲットイヤー」に据える。学習指導要領の改訂も、小学校の全面実施をオリパラに合わせた英語の教科化という名目で20年度からに早めた▼高大接続改革をめぐっては民間の英語資格・検定試験活用をはじめ、いまだに拙速という批判も根強い。それも「20年度」という数字に、無理やり合わせたためだと言っても過言ではなかろう▼アベちゃんとそのお友達にとって2020という数字がいったい何を意味するのか、よく分からない。ただ、首相はいまだに20年度改憲の方針を捨てていないらしい。やはり何かあるに違いない、と勘繰りたくもなる▼もちろん今回の実施大綱(案)は、あくまで案である。正式通知ではどのような表現になるのか、密かに注目している。

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2019年5月21日 (火)

「やってる感」全面展開の実行会議11次提言

 これで今でも「大方針」だと胸を張れるのだろうか。

 政府の教育再生実行会議がまとめた第11次提言は、19ページだった1月の中間報告に対して33ページにわたっている。確かに「作文」としての統一性は取れているが、中身はゴミみたいな提言の寄せ集めにすぎない。

 「今が取り組むべき最後のチャンス」「対応が遅れた場合、我が国は新たな国際競争の大きな潮流の中で埋没してしまうおそれさえあります」――。確かにSociety5.0時代を控えて、問題意識だけは大言壮語だ。しかしICT(情報通信技術)が「マストアイテム」だという割に、地域格差の拡大が深刻になっている環境整備に関しては要因・背景を分析して対応を可及的速やかに行うだの、教育委員会だけでなく地方公共団体全体に直接かつ継続的な働き掛けを行うだの、極めて具体性・有効性に欠ける。

 奇妙なことだが、むしろ同会議に参考資料として示された自民党の教育再生実行本部第12次提言、とりわけ「次世代の学校指導体制実現部会」の提言の方が、はるかに具体的だ。文章も整いすぎるほど整っている――というより、いつもよく目にするような言い回しにあふれている。きっと霞が関あたりの優れた「文学者」が書いたに違いない。

 そんな党「本部」提言の中にも、極めて珍妙な文章がある。「高等学校の充実に関する特命チーム」提言だ。そこでは、高校制度が「昭和の学校」から脱却し切れていない状況にあり、今こそ「令和」にふさわしい高校へ生まれ変わることが必要だと指摘する。良くも悪くも高校改革が「平成」の時代に進行した歴史を知らないのか。少なくとも、それに対する総括はない。

 そうした「昭和」の頭で提言されたのが、高校普通科の改革だ。党「本部」提言にはサイエンス・テクノロジー科だのアスリート科だの事細かな「改正イメージ」が示されて、肝心の政府「会議」提言では四つの「類型の例」にまとめられているが、今さら細分化の発想はいかがなものか。それでいて文系・理系のバランスが取れた科目履修を求めるなど、今以上にカリキュラム編成を窮屈にするような矛盾した提案を平気で並べている。

 実行会議は、確かに第2次提言ぐらいまでは是非はともかく「実行」のスピードに目を見張るものがあった。しかし発足から6年が過ぎ、10次以上を重ねるまでもなく「やってる感」で出し続けているような提言が目に付く。第11次は、その際たるものだ。

 こんな「大方針」を受ける中教審も大変だと同情したくもなるが、おそらく心配はないだろう。官僚の頭の中で、ある程度の整理はできているに違いないからだ。たとえどこかに忖度(忖度)したかのようなゴミを寄せ集めた提言でも、である。

 そうして答申にこぎつけたとしても、教育現場にとって困難な現状を打開するような施策が出てくる期待は現段階で薄いようにしか思えてならない。文教政策の形成をめぐるそうした空虚さ自体が、実は深刻な問題なのかもしれない。
 

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2019年5月 6日 (月)

初中教育諮問〈2〉 「人員増」じゃない? 徹底追及を

 10連休明けに当たる7日付の『内外教育』(時事通信社)に、注目すべき記事が2本載っている。中央の動きを伝える「スポット」欄の「教員弾力配置へ標準法見直し」と、取材メモから裏話も含めて伝える「インサイド」欄の「財務省も納得?」だ。

 やはりネット時代にあっても、専門誌は購読すべきものである。記事の内容は、ぜひ当該誌で確認してもらいたい。ただ、「現状の人員のまま」(スポット記事)と「教科担任制イコール人員増」のイメージを文部科学省の初等中等教育局担当者が否定したくだり(インサイド記事)は看過できない。

 とはいえ中央教育審議会では4月17日の総会で諮問直後に自由討議が1回行われただけで、初等中等教育分科会に至っては8日の開催予定である。たとえ真偽を尋ねても、現段階で方針は「何も決まっていない」と言われるのが関の山だろう。これは業界用語で言う「観測気球」の可能性が高い。未確定情報を一部報道機関に流して、関係者や読者の反応を見ようとするものだ。

 しかし本社は、かなり確度の高い検討方向ではないかとみる。インサイド記事にもあるように現下の情勢では、教員の純増につながるような教職員定数改善に「財務省が納得するわけがない」。だからこその「弾力配置」だ。

 本社は先の社説で、小学校の教科担任制が教職員配置と免許制度の「義務教育9年間」に関係してくる出あろうことを指摘しておいた。そう考えれば、スポット記事で紹介されているような案は容易に思いつく。だからこそ焦点は、定数増につなげられるかどうかにあった。記事を読む限り、予想の中では最低の案だ。

 そもそも、この時点で手の内を明かすこと自体に文科省の限界が露呈していよう。表向きは現状維持に見えて、実は純増せざるを得ないような仕組みをたくし込むような高等戦術を仕掛けているのなら別なのだが。

 記事にあるような「配置」は、現場からいって机上の空論であることは明らかだ。しかも中学校教員に更なる負担を強いるもので、働き方改革に逆行すると言っても過言ではない。「専門性の向上」など、昨年論じた免許外教科担任制度の協力者会議報告と同根のフィクションにすぎない。

 せっかく観測気球が上がったのだから、ぜひ中教審の委員・臨時委員には徹底追及を期待したい。その過程でようやく、新時代の在るべき教職員定数について議論の端緒が開けよう。たとえ定数改善が実現しなくても、である。文科省の腹案のままでは、ますます現場を窮地に陥らせる「改善」が行われかねない。

 もっとも最近、間違いや不正確な記事配信も少なくない本社のことである。ポイントや読みがずれているかもしれない。だからこそ中教審等では事務局に丸め込まれることなく、徹底的に議論してもらいたい。

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2019年5月 1日 (水)

【池上鐘音】新元号の呪縛

▼田中秀征・元経済企画庁長官へのインタビュー集『平成史への証言―政治はなぜ劣化したか』(朝日新聞出版)を読んで、はっとさせられた。「二、三百年に一度の世界的変動」に際しながら、選挙制度改革にかまけて「冷戦の終わりに何をすべきかという認識が著しく欠けていた」「さらに深刻なのは、それから三〇年が経ってなお、日本の針路について、多くの国民が合意するような政治の方向性が明確になっていない」 という指摘だ▼田中氏は民主党政権を評して、反自民勢力の「受け皿政党」という戦略が一番の問題だったと喝破する。一方、自社さ政権で当時の社会党が方針転換したのと同様に自民党も「憲法尊重に転換するというようなことを明確に打ち出せればよかったと悔やまれてならない」と振り返っている▼もちろん、それは宮澤喜一・元首相の側近として「保守本流」を自任した田中氏の、保守二大政党を志向する立場からの回顧である。さらに言えば、自民党政綱に「現行憲法の自主的改正」を入れることを主導した傍流の旧日本民主党系とは対極にある▼きょう改元があった。前回に比べて生前退位というお祝いムードの中、詳細な制定過程についても報道で明らかにされたことが大きな特徴だろう。そこから浮かび上がったのは、政令で定められる元号には首相の意向が強く働く余地があるということだ。裏を返せば徳仁新天皇の在位中、安倍晋三首相の“好み”に呪縛され続けることになる▼元号が改まって国民にも明るい新時代を期待する声が高まっているようだが、田中氏の言う「宿題」は残されたままだ。「官僚が『国民主権』というものをいまだに理解していない」とも指摘しているが、国民自身も十分に理解していないとしたら事態はもっと深刻かもしれない▼退位の日まで憲法に基づく象徴天皇の在り方を徹底して追求した昭仁上皇とは対照的に、 安倍首相は岸信介氏の孫として改憲にひた走っている。第1次政権の時に比べれば表向き謙虚な姿勢を取ってはいるが、国会で野党を冷笑するような答弁も端々にみられる。有力な元号候補として十七条憲法を典拠とする「和貴」が一時浮上したというが、 令和が「冷和」にならないことを祈るばかりだ。

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2019年4月28日 (日)

【池上鐘音】アートの共犯者

▼連休初日の27日、東京・上野では『クリムト展』や『国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅』展でさえ待ち時間なしで入れたのに、西新宿では16時半の段階で100人以上がたった1枚の絵を見るために20分待ちの行列を作っていた。都が第一本庁舎2階で開催した『バンクシー作品らしきネズミの絵』だ▼同絵をめぐっては都が本物かどうかバンクシーに連絡を取ったものの、反応がないという。それでも公開に踏み切った都の判断には賛否両論あるようだが、真贋(がん)は関係ないと本社は考える▼所有者や管理者に断りもなくストリートにスプレーやマーカーなどを使って表現されるグラフィティは多くの場合、犯罪行為だ。一種の暴力とさえ言える。しかしその犯罪的・暴力的行為が、時に市民や所有者にさえ歓迎される。そんなアートの力を如実に示したのがバンクシーだ▼バンクシーと言えば昨年10月のオークションでシュレッダーを内蔵した『愛はごみ箱の中に』で大いに話題となったが、イスラエル西岸地区の分離壁に描いたシリーズでも知られる。小さな暴力が大きな暴力を告発する、アートの真骨頂と言えるだろう▼芸術は鑑賞されてはじめて成立する。とりわけ現代アートには、鑑賞者の積極的な関与を促す作品も多い。そうであるなら違法作品を保存した段階で都はアートの共犯者となったのだし、公開した段階でアートの主宰者に昇格したと言えるのではないか▼もちろん行列に並び、あまつさえSNSに写真をアップして嬉々としている人々も共犯者だ。文章で表現している本社も例外ではない。「本物だったらいいね」などとほざいている日本人は、チコちゃんに叱られるよりバンクシーに冷笑されるかもしれない。

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2019年4月22日 (月)

初中教育諮問〈1〉 “つまみ食い”にはするな

 柴山昌彦文部科学相が4月17日、中央教育審議会に「新しい時代の初等中等教育の在り方について」を諮問した。まずは“包括諮問”にこぎつけたことを評価しておこう。

 今回の諮問は、1月に答申のあった「学校の働き方改革」論議の延長戦という側面も持つ。小学校への教科担任制導入も、答申の「今後更に検討を要する事項」に入っていた。

 本社は当時、働き方改革答申の是非を論じなかった。本職の記事配信に忙しかった事情もあるが、評価を保留したというのが正直なところだった。教職員定数の改善など抜本策が打ち出されない限り、答申の提言が絵に描いた餅にしかならないことは目に見えている。しかし文科省が現段階での限界を自覚した上で、次の諮問に期待をつないだのだとしたら別だと考えた。

 通級と日本語指導の加配定数を10年掛けて基礎定数化する“なんちゃって改善計画”を除けば、本格的な教職員定数改善計画は前次終了以降10年以上も策定されていない。答申に従えば次の勤務実態調査まで3年以上も学校現場に業務削減の無理を強いることになるが、状況の打開策を検討するにはそのくらいの時間を要することも致し方ない。

 だからこそ、今回の包括諮問を“つまみ食い”してはならない。諮問理由には、検討事項として25項目が挙げられている。働き方改革答申はもちろんだが、それ以外も既視感が拭えない項目が多い。要するに一見、教育再生実行会議をはじめ政府の提言・検討案や過去の省内提言を寄せ集めたようなものばかりだからだ。

 もちろん、それを有機的に組み合わせることで新たな展開が期待できるものもある。小学校の教科担任制がそうだろう。あえて「義務教育9年間を見通した」という一文を指導体制にも教職員配置・免許制度にも付けているのは、単なる枕詞であるはずがない。

 もっと言えば「義務教育9年間」は、教科担任制の導入などを踏まえた「教育課程の在り方」にも係ってこよう。「義務教育、とりわけ小学校において、基礎的読解力などの基盤的な学力の確実な定着に向けた方策」という検討項目も匂う。9年間をどう区切り、そのための指導体制と教職員配置、さらには小・中に分かれている免許はどうあるべきかまで展望しているに違いない。

 その上で、あえて指摘しよう。そんな“つまみ食い”では駄目なのだと。

 本社は先に、「次期」学習指導要領ではコンピテンシー・ベースへの「転換」を図るべきだと主張した。標準時数を大幅に上回る授業時数の削減を求めた文科省の姿勢も批判した。そうしたことも含めての「教育課程の在り方」の抜本的見直しでなければならない。基盤的学力が必要だからといって学習内容の「習得」を強いること自体をも再検討する必要がある。

 唯一手放しで評価するとすれば、「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方」を独立した柱に掲げたことだろうか。これも単に外国人労働者の増加に対応した政府方針の忖度(そんたく)にとどめず、内なるグローバル化、市民性の育成による国内融和に貢献するものとして大いに議論を深めてもらいたい。

 もう一つの柱である高校教育の在り方にみられる通り、実行会議などの下請けでは栄えある中教審の名が泣く。17日の自由討議もメモを取る気が失せるほど低レベルだったが、発言を控えた委員、これから始まる初等中等教育分科会の臨時委員も含め奮起を促したい。個別の論点に関しては、折に触れて論じよう。

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«授業時数見直し 矛盾した行政のツケを回すな