2012年1月27日 (金)

「日の丸・君が代」 今こそ不毛な対立の終息を

 卒業式の本格的な準備時期に入った。折しも最高裁では、国旗・国歌の扱いに関する職務命令違反に処分基準が示された。来月には「予防訴訟」の最高裁判決で教職員側敗訴が確定する見通しとなった。これを画期として教育行政側も教職員側も、戦後以来の「日の丸・君が代」をめぐる長い不毛な対立を終息させるべきだ。

 最高裁判決を受けて、東京都教委は国旗掲揚と国歌斉唱の適正な実施を通知した。大阪府教委は松井一郎知事の意向を踏まえて起立斉唱を徹底させる職務命令を府立学校長に出し、橋下徹大阪市長は大阪府と同様の国旗国歌条例案を提案する方針を表明した。これらの教委でも判決を受けて違反の際の処分基準は変えざるを得ないだろうが、起立斉唱はむしろ徹底させる構えだ。

 主張したいことは4年前の社説と変わらない。日の丸・君が代の扱いだけを取り上げて焦点化させること自体が、学校現場にとって不毛だということだ。現下の学校教育の課題はそれだけではないし、国旗・国歌問題を解決しなければ全てが前に進まないという時代でもない。

 確かに今回の判決で、職務命令の適法性は認められた。最高裁が指摘するように不起立等の行為は式典の秩序や雰囲気を一定程度損ない、参列する生徒への影響を伴う。ましてや式典で掲揚を妨害するのは論外である。

 しかし一方で判決は、不起立等の行為自体は「積極的な妨害等の作為ではなく、物理的に式次第の遂行を妨げるものではない」と指摘している。不起立等が「個人の歴史観ないし世界観等に起因するものである」とも認めている。国旗国歌法制定の経緯や国会附帯決議を考え併せても、妥当な指摘だ。

 学習指導要領の目標は、学校の教育活動全体で達成されていれば問題はない。実施に当たって教職員が分担して行うことも当然だ。政治的・運動論的理由は別にして、何も日の丸・君が代だけを取り出して全教職員に職務命令で徹底を強要する“指導上”の合理的理由はないはずだ。指導要領違反を言うのなら、むしろ活用・探究の授業を実施する職務命令も出したらいかがとは思うのだが、おそらくそんな発想は出てくるまい。 

 卒業式・入学式に引き寄せて言えば、クラス担任やピアノ伴奏者など列席が当然視される教職員には一定の行動が求められよう。しかし不起立は別として、一人ひとりが歌っているかどうかをチェックしたり、ましてや音量を測ったりすることまでする必要があろうか。指導要領が求めるのは式典での国旗掲揚・国歌斉唱の“実施”までである。教育効果を考えても、第一に評価すべきは教職員ではなく児童・生徒の態度の方だろう。

 反対する側にも注文を付けたい。教職員の思想・信条の自由は尊重されるべきだが、それを表現する場は式典ではあり得ない。ましてや組織的に行動することは、日の丸・君が代に抵抗を感じない若手教職員が増加する中では反発を招くだけである。起立斉唱をしたくない場合には式典に列席しない役割分担を求める等、それこそ交渉事項に属することではないか。

 他の社説のまねをするわけではないが、やはり判決に付された旧労働省出身の櫻井龍子裁判官の補足意見で締めよう。引用が長くなるが、関係者は一言一句をかみしめてほしい。

 「今後いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態が教育の現場の在り方として容認されるものではないことを強調しておかなければならない。教育の現場においてこのような紛争が繰り返される状態を一日も早く解消し、これまでにも増して自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり、全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要があるものというべきである」

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月21日 (土)

「秋入学」を機能別分化の契機に

 東京大学の懇談会が、秋季入学への全面移行を提言する中間まとめを公表した。秋季入学を主導する濱田純一総長は5年後を目途に検討を進めたい意向を示している。いわゆる秋入学に関しては「社会全体」で考えるべきだとの論調も目立ち始めており、中間まとめでも各界の幅広い理解と協力を求めている。しかし、これには多少の違和感を禁じ得ない。むしろ大学側が自らの責任で、率先して進めるべきと考えるからだ。

 東大が秋入学を進めるのは、国際的な大学間競争とグローバル人材養成への対応のためだ。学生を「よりグローバルに、よりタフに」育成するために、学部段階でも国内外の出入りをしやすくしたり、全員に国際的な学習体験をさせることはもとより、合格から入学まで半年の「ギャップターム」を利用して、大学受験で染み付いた点数至上主義の受動的な学びをリセットし、体験活動などを通して主体的・能動的な学びに転換させるという、高大接続の視点もあるのだという。

 結構なことだ。受験エリートの頂点たる東大が率先して大学教育上の是正に乗り出し、旧帝国大やトップ私大などにも呼び掛けて共同歩調を呼び掛けてもいる。大学教育全体、さらには大学受験全体に対するインパクトは大きかろう。

 だからこそ、これを「全体」の問題として論議してはならない。

 これまで大学教育改革や入試改善をめぐっては大学という一本化された「制度」を前提として、抽象的な建前論として論じられることが多かった。しかし進学率の上昇に伴って大衆化と多様化は進み、700校を超える大学すべてを同じ「大学」としてくくることは現実的に不可能になっている。いわゆるユニバーサル段階にあっては期待される役割に応じて大胆な特色化を図ることが不可欠であり、2005年の中央教育審議会「将来像答申」で機能別分化が提言されたのもそうした認識があってのことだが、5年を過ぎた今に至るまで中教審大学分科会では機能別分化の促進策をめぐって延々と議論が続いている。個別大学で大胆な「機能」特化を打ち出した例も、寡聞にして知らない。

 そんな中での東大の英断は、評価してもし過ぎることはない。創設以来、旧文部省と一体となった「護送船団方式」の先頭を走ってきた大学が、本当の意味で独自の路線を進もうとするのだ。もちろん単騎では無謀だし力も十分発揮できないから、ラインを組むことも必要だろう。機能を同じくする大学とコンソーシアムを形成することがあっていい。

 しかし、それはあくまで個別大学の判断だ。とりわけ東大は、中間まとめの中でも自らを「研究大学」「総合研究大学」と位置付けている。だから秋入学を導入するのであって、他の機能を目指す大学が必ずしも同調する必要はない。

 例えば教員養成系大学・学部は、高校以下の学校に合わせて引き続き春入学とするのが合理的だろう。もともと日本の高等教育機関が秋入学から春入学に改めたのも、高等師範学校が率先したからだという。もっとも秋入学にして卒業後のギャップタームを初任者研修に充てるアイデアもないではないと思うのだが、それは別の話だからおいておく。

 国立でも地方大学は、近隣私大などと連動して地域人材を供給するために卒業時期を一緒にすることが当然だし、求められよう。つまりは学年の始期の選択によって、国際的な「研究大学」を目指すのか、「地域貢献」大学を目指すのか、旗幟(きし)鮮明にすることが迫られるのだ。

 秋入学を選択する大学も、公共投資など政府への支援を求めるだけでは今までと同じだ。自ら国際競争に身を投じる覚悟があるのなら、それによって高まる競争力で独自の研究・教育資金を集める気概が欲しい。もちろん国家戦略としてどう教育投資を充実させるかは別問題だし、実際に秋入学を導入する大学が増えれば日本学生支援機構の奨学金をギャップターム中にも支給対象とするなどの対応も必要になってこよう。しかし大学側としても、卒業生などからの寄付による独自の給付奨学金で賄うくらいのことは打ち出すべきではないか。

 東大がこれまで「市民的エリート」(東大憲章)を生み出してきたことは歴史的事実だろうし、今後もそれを目指すことも大いに結構だ。ただし独自判断に踏み切る以上、そのリスクも負わなければなるまい。現実的には考えにくいことだが、ギャップタームを嫌って受験生や企業から多少の敬遠をされることも織り込まなければなるまい。それにも増して大学のアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)などが明確になり、目指す人材育成が容易になるのだから。 もちろん、「ミニ東大」にも言えることである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 1日 (日)

【社告】新年ごあいさつ

中央・地方とも教育界に混迷が予測される中、今年も本ブログをよろしくお願いいたします。

    「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」代表社員 渡辺敦司

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月23日 (金)

「教育基本条例」の全国展開に警戒を

 橋下徹・大阪市長らが東京で繰り広げた2泊3日の就任あいさつ行脚は、ダブル選挙圧勝の力をまざまざと見せつけた。争点となった「大阪都構想」についても、みんなの党がさっそく地方自治法改正の要綱案をまとめたほか、民主、自民、公明の主要与野党も相次いでプロジェクトチーム(PT)を設置している。

 教育基本条例案をめぐっては、最終日が象徴的だ。朝一番で面会した中川正春文部科学相に対して橋下市長は、条例案が法律に抵触することを指摘した政府見解を「首長をばかにするような決定」だと批判。上京の締めくくり相手として選んだ石原慎太郎・東京都知事からは、都でも同様の条例案を検討したい言質を得た。

 橋下市長は石原知事との会談後、「東京と大阪のダブルで教育委員会制度に挑戦する」と語っている。「大阪維新の会」の威力を恐れる与野党が都構想だけでなく教委制度改革にも積極的に応じる恐れは、十分にある。

 実際、中川文科相は翌日の記者会見で、省内にタスクフォース(特別作業班)を設置し、年度内に教委制度の課題を整理したい意向を示した。場合によっては中央教育審議会への諮問や審議要請につながる可能性も捨て切れない。

 もちろんその場合、文科省や中教審は規制緩和・民間開放論議や「教育再生」論議の時と同じように「抵抗勢力」として振る舞うだろう。しかし与野党こぞって橋下連携に秋波を送る中、どれだけ譲歩を迫られるか危惧される。

 中川文科相も言及しているように、そもそも民主党は2009年の衆院選マニフェストで教委制度の抜本的な見直しと「教育監査委員会」の設置を掲げており、政権交代直後に副大臣に就任した鈴木寛氏は政権担当4年間のうちに教育行政と学校運営の「ガバナンス(統治)」改革にまで着手したい意向を示していた。橋下氏の提起に乗じる下地は、大いにあるのだ。

 中央政界のみならず、地方でも呼応する動きが出ないとは限らない。「維新の会」方式を採用すれば、橋下人気にあやかって当選の見込みが出てくると考える者も続出しよう。橋下氏との共著もある堺屋太一・元経済企画庁長官は自民党のPTで「橋下・松井改革」を長州藩の騎兵隊になぞらえて、「全国から同志を集めて日本を変えたい」と発言している。

 政治家が維新の志士を気取るのは今に始まったことではないが、明治維新の熱狂が廃仏毀釈(きしゃく)など負の側面をもたらした――というのは言い過ぎにしても、その後の第二次世界大戦敗戦まで突き進んだ歴史的教訓も忘れてはなるまい。

 大阪府・市と東京都の連携といっても、優秀な東京都職員のことだから国の法令に反するような条例案を作成するはずはない。この間の教育改革にしても都教委の絶大な主導によって進められたものであり、教委制度を問題視するとも考えにくい。しかし学校現場の締め付けを強化するような提案が出されることは予想でき、ただでさえ息苦しい現状のさらなる悪化が懸念される。そして、そのような他県にも受け入れやすい教委改革メニューが、維新の志士気取りたちによって全国に波及するかもしれないのだ。

 大阪の条例案に関しては、全国的な関心が薄いとも言われる。本社は必ずしも現行の教委制度が理想形だとは思っていないし、マルティン・ニーメラー牧師の詩を引用するつもりもないが、条例案が学校教育を良くするとは全く考えられない。国民的な注視が必要だろう。

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2011年12月21日 (水)

【池上鐘音】言いたかったのは2

▼本日、ラジオというものに出演した。3年前と同じJ-WAVEの帯番組である。2度目ということに加えて、待ち時間の雑談段階から構成作家さんやリポーターの方に上手に誘導され、本番のナビゲーターは本社より本日のテーマに詳しいのではないかという堤未果さん。お陰でリラックスして話すことができた(あくまで本社比)▼しかし終始かみっ放しの上に要領を得ない説明で、さぞお聞き苦しかったことだろう。たまたま聴かされたリスナーの方にはおわび申し上げるとともに、意図的に聴いた意地悪な関係者の方は是非そっとしておいていただけるとありがたい▼それでも教育マスコミ人として最低限の役割は果たせたかと自負している。テーマである大阪の教育基本条例案がどれほど学校現場の実態を無視したものかは、教育関係者なら左から右まで一致するところであろう。堤さんも米国や英国の実態と照らし合わせて条例案を問題視していたが、そちらの方に時間が割けず申し訳なかった▼分かりやすい事例として「効果のある学校」を紹介できたのも、個人的にはヒットだと思っている。とにかく言いたかったのは、有効な改革のタネは教育現場にある、ということである。どこぞのブレーンが諸外国の失敗例をつまみ食いしようとしても「効果」どころか逆効果である……というところが、どこまで伝わったか▼残業しながら聴いていた企業戦士の方からは「だから教育界は甘いんだよ」とお叱りを受けるかもしれない。しかし本社は教育界の実態を踏まえて、可能な範囲で実効性があると信じる方策を訴えるだけである▼3年前の繰り返しになりますが、出演や講演の類は基本的に本社の営業外です。今回のようによほどの関心事や訴える責務のあるテーマの場合にのみご相談に応じます。たまたま検索で引っ掛かって手当たり次第問い合わせをいただいても、しょせん場末の木っ端業界ライターですので悪しからず。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

【社告】

 本日夜、首都圏ネットのFMラジオJ-WAVE(81.3mhz)の『JAM THE WORLD』に、本社論説委員が出演を予定しています。本社説に書いていることをお聞き苦しく話すだけですので、聞くなとは申し上げませんが、そっとしておいていただければ幸いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月23日 (水)

大阪府民は「教育条例案」拒否の投票行動を

 大阪府知事・大阪市長のダブル選挙が27日に迫った。本社は東京所在であり、母体も関西とはゆかりがなく、もとより大阪全体の抱える課題について発言する立場にはない。しかし「教育基本条例案」は問題が多すぎる。「大阪維新の会」の候補を支持したいとしても、せめて同条例案だけは拒否するような投票行動を呼び掛けたい。

 公教育の現状、とりわけ公立学校に不満を持っている府民は多かろう。それゆえ現状打破の道筋を示した同条例案に期待する気持ちは分からなくもない。

 しかし同条例案にはそもそも制定自体が無効になる可能性があること具体的な内容にも問題が多いことは、さまざまに論じられているし本社も指摘した。教職員組合の方針や行動に疑問を感じている府民も少なくなかろうが、教組に批判的な論者でさえ条例原案による学校教育の「大混乱」を懸念しているほどである。「角を矯めて牛を殺す」の典型例だ。

 橋下徹前知事および維新の会の政治行動原理がどのようなものであるかは、彼らのブレーンである上山信一慶大教授の『大阪維新』(角川SSC新書)を読めばよく分かる。大阪維新は「みんなで走りながら考える。雪だるまのように転がりながら、大きくなっていく市民運動」なのだそうである。しかしたとえ原案に修正を加えていったとしても、橋下氏お得意のラグビーのようにいびつなボールが果たしてどんな方向に転がっていくのか。そもそも投げた方向が間違っていては大変だ。

 そもそも上山教授によると、橋下知事の手法は小泉純一郎元首相のような「シングル・イシュー・ポリティクス」(一つの問題に焦点を絞った政治運動)であり、大阪維新も「一見無謀な手法でも駆使してみる」闘争なのだという。教育を「サービス産業」と位置付けているのも小泉新自由主義改革と同じだ。しかし小泉改革が公教育に何をもたらしたか。プラス面があったかもしれないが、それを差し引いてもマイナス面が大き過ぎた。

 大阪維新は「明治維新にも匹敵する国のカタチの再編成」が目的であり、そのために「全国に先がけて大阪を変える」運動だという。もちろんその過程でまず大阪を成長させるという前提があるし、セーフティーネットの充実も掲げているとはいえ、成長の陰で切り捨てられていくものが多過ぎはしまいか。

 何より主な照準が大阪というより「全国」に合わされている。維新の会の説明でも、教育基本条例は「文部科学省を頂点とするピラミッド型の教育委員会制度を一から見直」す(ブリーフィングノート)ものだという。一体どこを向いているのか。

 それでもなお、「元気」な橋下前知事に期待する府民は多かろう。それは否定しない。ただし維新の会が少数派である大阪市議会では、9月末に提出された条例案が即日否決されている。教育基本条例に期待して橋下前知事に投票しても、成立するとは限らない。

 成立する可能性があるのは維新の会が絶対多数を占める府議会だが、府条例で統制できるのは府立学校だけである。「One大阪」を掲げながら、お膝元の大阪市立小・中学校が統制できなければ均衡を欠こう。

 維新の会候補をダブルで当選させても、条例案をめぐって教育界にますます混乱を及ぼすだけである。無理に通しても、教育は決して良くはならない。そのことを府民はよくよく考慮して、投票に臨んでもらいたい。維新の会が射程に入れる「全国」の国民も注視している。 

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月21日 (月)

【池上鐘音】「空白」の高校教育

▼オウム真理教事件で最後に死刑が確定した遠藤誠一被告が高校の先輩だったことは、数年前に知った。生年からすると被告の卒業と小子の入学には1年のブランクがあるが、在学中に過去の資料を読んだり話を聞いた限りでは同時代を生きたと言ってよい▼全国的に学生運動の余波も去り、「三無主義」が指摘されていた時期だった。とりわけ高等女学校を前身とする母校はライバル校と違い、制帽自由化でさっさと矛を収めていた。多くの生徒の関心事といえば、大学進学だけだった。同級生が入学直後、口々に「北大に行きたい。学部はどこでもいい」と言うのを聞いて、北大だけは決して行くまいと心に決めたものだ。もっとも卒業時には出願したとしても足切り必至の成績であったが▼そんな雰囲気の中で、生き方に悩む進学エリートが満たされない気持ちを強めていったとしても違和感はない。世代的にもそうだ。北海道高等学校「倫理」「現代社会」研究会が35年にわたって行っている意識調査を見ると、神や仏を「信じる」との回答は1975年に28%だったが、80年には45%に跳ね上がっている。遠藤被告はその間に高校生活を送った▼小子は高校で新聞局(北海道では部活でなく生徒会の外局が一般的)、大学で自治会という時代遅れの青春を送ったため、幸いにもカルトにはまる素養は持ち得なかった。それだけに塀の内外はどちらに転ぶかの差でしかないこともよく知っている。地下鉄サリン事件が起こったのは会社員時代だったが、卒業後間もなく出身大学にオウム系サークルがはびこったことは後で知った▼中教審では先ごろ、高校教育部会が発足した。高校教育を真正面に据えて議論するのは、ほぼ20年ぶりだ。この間、「政策的エアポケットだった」という研究者もいる。しかし義務教育と高等教育のはざまにあって、教育の内実が「空白」だったのはそれ以前から多くの高校に共通する事態ではなかったか▼進学実績の向上を第一の「成果目標」とする昨今の風潮が、そうした空白を助長するような気がしてならない。先の意識調査では2001年以降、神や仏を信じる率が微増傾向にある。信心が広がるのは歓迎すべきことだが、それには深い内省が不可欠だ。まさに「倫理」の出番なのだが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月30日 (日)

12年度概算〈2〉 今度こそ「高校版就学援助」を

 2012年度文部科学省概算要求のうち、教職員定数改善に負けず劣らず実現すべきものがある。「高校生に対する給付型奨学金事業」、いわゆる高校版就学援助だ。

 高校版就学援助は、自公連立政権下の10年度概算要求で初めて計上された。直後の政権交代による組み換え概算要求では事業規模を縮小しながら、高校授業料無償化の財源確保を優先するためゼロ査定に。11年度も引き続き要求されながら、「政策コンテスト」でC判定(一定の評価はできるが、問題が大きい)を受け、やはり実現しなかった。「3度目の正直」にしなければならない。

 今回は、実現しなければならない決定的な理由がある。東日本大震災だ。被災により困窮した家庭は少なくない。将来的な復興のためにも人材育成が不可欠であり、経済的理由で進学や在学を断念する生徒が出てくるようなことがあってはならない。貸与制では、将来の返済に不安を感じて二の足を踏む恐れがある。大学等就学支援奨学金と併せて、是非とも実現する必要がある。 もし要求通りの計上が難しい場合でも、被災地に限定した人員だけは認めるべきである。

 そもそも今回の要求は、前年度に引き続き教科書等図書費相当額というささやかなものである。学用品費や修学旅行費など対象を広く取った前政権時はもとより、入学料を含めていた10年度概算より後退している。それでも、ないよりましである。せめてこれぐらいの要求は通してもらいたい。

 経済協力開発機構(OECD)の統計を見ても、日本は依然として教育への公財政支出が対国内総生産(GDP)比で最下位だ。経済が上向きだった時期には家庭も重い教育費負担に耐えられたが、今や格差社会の進行は隠し切れない。人材育成に対する国の投資が経済発展に直結する、という国際的な常識を今こそ思い起こすべきである。

 引用するまでもなく、周知の通り憲法26条は「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と規定している。その権利が保障されない事態が制定後65年を経た21世紀の現在に到来しつつあるというのは、恥ずべきことではないか。

 新自由主義を掲げる者も、競争のスタートラインにさえ立てない子どもたちがいる問題を直視すべきだろう。たとえ財政が苦しい時期であっても、与野党一致して実現に努力すべき事業である。

 家計負担が重い日本の教育費負担をどうすべきか。検討が進んでいる第2期教育振興基本計画の課題でもある。将来予測も含め、政府を挙げた対策が求められる。

過去記事:

http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f230.html

http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-37f3.html

 

関連配信記事:

来年こそできる?「高校版」就学援助

「高校版」就学援助、やはり実現せず!?

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月15日 (土)

教育基本条例案 教委制度を問う場は「地方」ではない

 「大阪維新の会」が提案している教育基本条例案について、先の社説では派生的な問題点を指摘するにとどめた。しかし同会を率いる橋下徹大阪府知事の求めに応じて府教育委員が対案を作成する姿勢を示したとあっては、本社としても正面から論じなければなるまい。

 個々の条文の問題点について、挙げればきりはない。しかし条例案の「キモ」は橋下知事自身が強調しているように、教育委員会制度を根底から覆すことだ。「民意」を反映させるという御旗の下、「政治の関与」によって教委を名実共に知事の下位に置くことを目指している。

 現行の教委制度が妥当かどうかは、さまざまな議論があろう。教育委員の任命制にしても、公選制の修正という歴史的経緯があってのことである。地方の立場として制度に根本的な疑問を呈することは、むしろ積極的にあっていい。

 しかし一地方議会の条例によって「覆す」ことができるかどうかは、別である。教委制度は、あくまで国の法律によって定められたものだ。その制度を改める場は国会であって、地方議会ではない。

 条例案は地方教育行政法の規定を根拠として、条例を定めれば政治が教育行政に「関与」できることが「明らかに予定されている」と主張する。しかし教育法令の第一人者である元文部官僚の菱村幸彦氏が指摘するように、条例は「法令に反しない限りにおいて」(地方自治法第14条)制定できるものだ(時事通信『内外教育』9月30日付)。条例案のキモ自体、無効になる恐れがある。

 「維新の会」が多数を占める府議会では条例案が成立する可能性が高いから、対案によって少しでも問題点を解消したいという気持ちは分からなくもない。知事から任命され、政治的中立を保たなければならない教育委員や、府政の一端を担う事務局職員の立場も理解できる。しかし、それこそ橋下知事や「維新の会」の思うツボだ。条例案の修正に手を貸すことは、違法な条例の成立に加担することになる。

 妥当性や影響力を無視して最も過激な方針を示し、反応を見ながら押したり引いたりするのは橋下知事の常とう手段である。そのようなケンカ政治に、まともに付き合う必要はない。

 府民にも冷静な対応を呼び掛けたい。橋下知事は公立学校や教育行政に対する不信感をあおるだけあおって、府民への共感と支持を訴えている。しかしそれは、自らの不信を「民意」に置き換えているだけだ。橋下知事を当選させたのが「民意」であることは確かだが、知事に全て白紙委任したわけではなかろう。間違っても、橋下知事の好き嫌いで決めてはいけない。

 公教育への不信感をテコに改革を迫る橋下知事の手法は、小泉構造改革路線や安倍教育再生路線と同じだ。しかし小泉・安倍改革で、いったい公教育がどう良くなったというのか。明らかにマイナスの方が大きかった、と断じざるを得ない。そのようにして進められる橋下教育改革が教育現場にどう作用するかは、言うまでもない。

 国が定めた制度を変えようとするなら、国政に打って出るのが筋だろう。それなのに、「大阪都構想」があるからといって大阪市長に「降りる」というのは、何とも解せない。万事がそのような橋下手法のおかしさに、府民も気付くべきだろう。

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«12年度概算〈1〉 定数改善に満額回答を