2019年6月 3日 (月)

【池上鐘音】2021年度!?

▼大学入学共通テスト実施大綱の記事を書いていて、ようやく気付いた。5月29日の第14回「大学入学共通テスト」検討・準備グループ会合に示された案では、本文に「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト(以下『令和3年度大学入学共通テスト』という。)」とあることだ。問題はカッコ書きの方である▼元号で表記しているから気付きにくいが、令和3年は西暦で2021年度になる。しかし今まで共通テストは「平成32(2020)年度から」だと、さんざん言ってきたではないか▼現行の大学入試センター試験は、大学入試=入学年度で表記する。大学入試センターと各大学が共同で行う共通試験なのだから当然だ▼しかし共通テストは「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」と呼んでいた時から、実際に実施される年度で表記してきた。だから20年度センター試験の後継テストが20年度共通テストという、奇妙なことになる。そのため「21年1月からセンター試験に代わって実施される共通テスト」という表現をひねり出して記事を書かざるを得なかった▼正式名称の「令和3年度大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト」なら、21年度入試に使う20年度共通テストだとも言い張れる。しかし略称で21年度共通テストと認めたら、大げさに言えば方針転換ではないか▼こんなことになったのも、2020というマジックナンバーめいた数字のせいだ。12年末に政権を奪還した第2次安倍政権は東京五輪・パラリンピック招致を契機に、この年度をあらゆる教育改革の「ターゲットイヤー」に据える。学習指導要領の改訂も、小学校の全面実施をオリパラに合わせた英語の教科化という名目で20年度からに早めた▼高大接続改革をめぐっては民間の英語資格・検定試験活用をはじめ、いまだに拙速という批判も根強い。それも「20年度」という数字に、無理やり合わせたためだと言っても過言ではなかろう▼アベちゃんとそのお友達にとって2020という数字がいったい何を意味するのか、よく分からない。ただ、首相はいまだに20年度改憲の方針を捨てていないらしい。やはり何かあるに違いない、と勘繰りたくもなる▼もちろん今回の実施大綱(案)は、あくまで案である。正式通知ではどのような表現になるのか、密かに注目している。

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2019年5月21日 (火)

「やってる感」全面展開の実行会議11次提言

 これで今でも「大方針」だと胸を張れるのだろうか。

 政府の教育再生実行会議がまとめた第11次提言は、19ページだった1月の中間報告に対して33ページにわたっている。確かに「作文」としての統一性は取れているが、中身はゴミみたいな提言の寄せ集めにすぎない。

 「今が取り組むべき最後のチャンス」「対応が遅れた場合、我が国は新たな国際競争の大きな潮流の中で埋没してしまうおそれさえあります」――。確かにSociety5.0時代を控えて、問題意識だけは大言壮語だ。しかしICT(情報通信技術)が「マストアイテム」だという割に、地域格差の拡大が深刻になっている環境整備に関しては要因・背景を分析して対応を可及的速やかに行うだの、教育委員会だけでなく地方公共団体全体に直接かつ継続的な働き掛けを行うだの、極めて具体性・有効性に欠ける。

 奇妙なことだが、むしろ同会議に参考資料として示された自民党の教育再生実行本部第12次提言、とりわけ「次世代の学校指導体制実現部会」の提言の方が、はるかに具体的だ。文章も整いすぎるほど整っている――というより、いつもよく目にするような言い回しにあふれている。きっと霞が関あたりの優れた「文学者」が書いたに違いない。

 そんな党「本部」提言の中にも、極めて珍妙な文章がある。「高等学校の充実に関する特命チーム」提言だ。そこでは、高校制度が「昭和の学校」から脱却し切れていない状況にあり、今こそ「令和」にふさわしい高校へ生まれ変わることが必要だと指摘する。良くも悪くも高校改革が「平成」の時代に進行した歴史を知らないのか。少なくとも、それに対する総括はない。

 そうした「昭和」の頭で提言されたのが、高校普通科の改革だ。党「本部」提言にはサイエンス・テクノロジー科だのアスリート科だの事細かな「改正イメージ」が示されて、肝心の政府「会議」提言では四つの「類型の例」にまとめられているが、今さら細分化の発想はいかがなものか。それでいて文系・理系のバランスが取れた科目履修を求めるなど、今以上にカリキュラム編成を窮屈にするような矛盾した提案を平気で並べている。

 実行会議は、確かに第2次提言ぐらいまでは是非はともかく「実行」のスピードに目を見張るものがあった。しかし発足から6年が過ぎ、10次以上を重ねるまでもなく「やってる感」で出し続けているような提言が目に付く。第11次は、その際たるものだ。

 こんな「大方針」を受ける中教審も大変だと同情したくもなるが、おそらく心配はないだろう。官僚の頭の中で、ある程度の整理はできているに違いないからだ。たとえどこかに忖度(忖度)したかのようなゴミを寄せ集めた提言でも、である。

 そうして答申にこぎつけたとしても、教育現場にとって困難な現状を打開するような施策が出てくる期待は現段階で薄いようにしか思えてならない。文教政策の形成をめぐるそうした空虚さ自体が、実は深刻な問題なのかもしれない。
 

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2019年5月 6日 (月)

初中教育諮問〈2〉 「人員増」じゃない? 徹底追及を

 10連休明けに当たる7日付の『内外教育』(時事通信社)に、注目すべき記事が2本載っている。中央の動きを伝える「スポット」欄の「教員弾力配置へ標準法見直し」と、取材メモから裏話も含めて伝える「インサイド」欄の「財務省も納得?」だ。

 やはりネット時代にあっても、専門誌は購読すべきものである。記事の内容は、ぜひ当該誌で確認してもらいたい。ただ、「現状の人員のまま」(スポット記事)と「教科担任制イコール人員増」のイメージを文部科学省の初等中等教育局担当者が否定したくだり(インサイド記事)は看過できない。

 とはいえ中央教育審議会では4月17日の総会で諮問直後に自由討議が1回行われただけで、初等中等教育分科会に至っては8日の開催予定である。たとえ真偽を尋ねても、現段階で方針は「何も決まっていない」と言われるのが関の山だろう。これは業界用語で言う「観測気球」の可能性が高い。未確定情報を一部報道機関に流して、関係者や読者の反応を見ようとするものだ。

 しかし本社は、かなり確度の高い検討方向ではないかとみる。インサイド記事にもあるように現下の情勢では、教員の純増につながるような教職員定数改善に「財務省が納得するわけがない」。だからこその「弾力配置」だ。

 本社は先の社説で、小学校の教科担任制が教職員配置と免許制度の「義務教育9年間」に関係してくる出あろうことを指摘しておいた。そう考えれば、スポット記事で紹介されているような案は容易に思いつく。だからこそ焦点は、定数増につなげられるかどうかにあった。記事を読む限り、予想の中では最低の案だ。

 そもそも、この時点で手の内を明かすこと自体に文科省の限界が露呈していよう。表向きは現状維持に見えて、実は純増せざるを得ないような仕組みをたくし込むような高等戦術を仕掛けているのなら別なのだが。

 記事にあるような「配置」は、現場からいって机上の空論であることは明らかだ。しかも中学校教員に更なる負担を強いるもので、働き方改革に逆行すると言っても過言ではない。「専門性の向上」など、昨年論じた免許外教科担任制度の協力者会議報告と同根のフィクションにすぎない。

 せっかく観測気球が上がったのだから、ぜひ中教審の委員・臨時委員には徹底追及を期待したい。その過程でようやく、新時代の在るべき教職員定数について議論の端緒が開けよう。たとえ定数改善が実現しなくても、である。文科省の腹案のままでは、ますます現場を窮地に陥らせる「改善」が行われかねない。

 もっとも最近、間違いや不正確な記事配信も少なくない本社のことである。ポイントや読みがずれているかもしれない。だからこそ中教審等では事務局に丸め込まれることなく、徹底的に議論してもらいたい。

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2019年5月 1日 (水)

【池上鐘音】新元号の呪縛

▼田中秀征・元経済企画庁長官へのインタビュー集『平成史への証言―政治はなぜ劣化したか』(朝日新聞出版)を読んで、はっとさせられた。「二、三百年に一度の世界的変動」に際しながら、選挙制度改革にかまけて「冷戦の終わりに何をすべきかという認識が著しく欠けていた」「さらに深刻なのは、それから三〇年が経ってなお、日本の針路について、多くの国民が合意するような政治の方向性が明確になっていない」 という指摘だ▼田中氏は民主党政権を評して、反自民勢力の「受け皿政党」という戦略が一番の問題だったと喝破する。一方、自社さ政権で当時の社会党が方針転換したのと同様に自民党も「憲法尊重に転換するというようなことを明確に打ち出せればよかったと悔やまれてならない」と振り返っている▼もちろん、それは宮澤喜一・元首相の側近として「保守本流」を自任した田中氏の、保守二大政党を志向する立場からの回顧である。さらに言えば、自民党政綱に「現行憲法の自主的改正」を入れることを主導した傍流の旧日本民主党系とは対極にある▼きょう改元があった。前回に比べて生前退位というお祝いムードの中、詳細な制定過程についても報道で明らかにされたことが大きな特徴だろう。そこから浮かび上がったのは、政令で定められる元号には首相の意向が強く働く余地があるということだ。裏を返せば徳仁新天皇の在位中、安倍晋三首相の“好み”に呪縛され続けることになる▼元号が改まって国民にも明るい新時代を期待する声が高まっているようだが、田中氏の言う「宿題」は残されたままだ。「官僚が『国民主権』というものをいまだに理解していない」とも指摘しているが、国民自身も十分に理解していないとしたら事態はもっと深刻かもしれない▼退位の日まで憲法に基づく象徴天皇の在り方を徹底して追求した昭仁上皇とは対照的に、 安倍首相は岸信介氏の孫として改憲にひた走っている。第1次政権の時に比べれば表向き謙虚な姿勢を取ってはいるが、国会で野党を冷笑するような答弁も端々にみられる。有力な元号候補として十七条憲法を典拠とする「和貴」が一時浮上したというが、 令和が「冷和」にならないことを祈るばかりだ。

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2019年4月28日 (日)

【池上鐘音】アートの共犯者

▼連休初日の27日、東京・上野では『クリムト展』や『国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅』展でさえ待ち時間なしで入れたのに、西新宿では16時半の段階で100人以上がたった1枚の絵を見るために20分待ちの行列を作っていた。都が第一本庁舎2階で開催した『バンクシー作品らしきネズミの絵』だ▼同絵をめぐっては都が本物かどうかバンクシーに連絡を取ったものの、反応がないという。それでも公開に踏み切った都の判断には賛否両論あるようだが、真贋(がん)は関係ないと本社は考える▼所有者や管理者に断りもなくストリートにスプレーやマーカーなどを使って表現されるグラフィティは多くの場合、犯罪行為だ。一種の暴力とさえ言える。しかしその犯罪的・暴力的行為が、時に市民や所有者にさえ歓迎される。そんなアートの力を如実に示したのがバンクシーだ▼バンクシーと言えば昨年10月のオークションでシュレッダーを内蔵した『愛はごみ箱の中に』で大いに話題となったが、イスラエル西岸地区の分離壁に描いたシリーズでも知られる。小さな暴力が大きな暴力を告発する、アートの真骨頂と言えるだろう▼芸術は鑑賞されてはじめて成立する。とりわけ現代アートには、鑑賞者の積極的な関与を促す作品も多い。そうであるなら違法作品を保存した段階で都はアートの共犯者となったのだし、公開した段階でアートの主宰者に昇格したと言えるのではないか▼もちろん行列に並び、あまつさえSNSに写真をアップして嬉々としている人々も共犯者だ。文章で表現している本社も例外ではない。「本物だったらいいね」などとほざいている日本人は、チコちゃんに叱られるよりバンクシーに冷笑されるかもしれない。

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2019年4月22日 (月)

初中教育諮問〈1〉 “つまみ食い”にはするな

 柴山昌彦文部科学相が4月17日、中央教育審議会に「新しい時代の初等中等教育の在り方について」を諮問した。まずは“包括諮問”にこぎつけたことを評価しておこう。

 今回の諮問は、1月に答申のあった「学校の働き方改革」論議の延長戦という側面も持つ。小学校への教科担任制導入も、答申の「今後更に検討を要する事項」に入っていた。

 本社は当時、働き方改革答申の是非を論じなかった。本職の記事配信に忙しかった事情もあるが、評価を保留したというのが正直なところだった。教職員定数の改善など抜本策が打ち出されない限り、答申の提言が絵に描いた餅にしかならないことは目に見えている。しかし文科省が現段階での限界を自覚した上で、次の諮問に期待をつないだのだとしたら別だと考えた。

 通級と日本語指導の加配定数を10年掛けて基礎定数化する“なんちゃって改善計画”を除けば、本格的な教職員定数改善計画は前次終了以降10年以上も策定されていない。答申に従えば次の勤務実態調査まで3年以上も学校現場に業務削減の無理を強いることになるが、状況の打開策を検討するにはそのくらいの時間を要することも致し方ない。

 だからこそ、今回の包括諮問を“つまみ食い”してはならない。諮問理由には、検討事項として25項目が挙げられている。働き方改革答申はもちろんだが、それ以外も既視感が拭えない項目が多い。要するに一見、教育再生実行会議をはじめ政府の提言・検討案や過去の省内提言を寄せ集めたようなものばかりだからだ。

 もちろん、それを有機的に組み合わせることで新たな展開が期待できるものもある。小学校の教科担任制がそうだろう。あえて「義務教育9年間を見通した」という一文を指導体制にも教職員配置・免許制度にも付けているのは、単なる枕詞であるはずがない。

 もっと言えば「義務教育9年間」は、教科担任制の導入などを踏まえた「教育課程の在り方」にも係ってこよう。「義務教育、とりわけ小学校において、基礎的読解力などの基盤的な学力の確実な定着に向けた方策」という検討項目も匂う。9年間をどう区切り、そのための指導体制と教職員配置、さらには小・中に分かれている免許はどうあるべきかまで展望しているに違いない。

 その上で、あえて指摘しよう。そんな“つまみ食い”では駄目なのだと。

 本社は先に、「次期」学習指導要領ではコンピテンシー・ベースへの「転換」を図るべきだと主張した。標準時数を大幅に上回る授業時数の削減を求めた文科省の姿勢も批判した。そうしたことも含めての「教育課程の在り方」の抜本的見直しでなければならない。基盤的学力が必要だからといって学習内容の「習得」を強いること自体をも再検討する必要がある。

 唯一手放しで評価するとすれば、「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方」を独立した柱に掲げたことだろうか。これも単に外国人労働者の増加に対応した政府方針の忖度(そんたく)にとどめず、内なるグローバル化、市民性の育成による国内融和に貢献するものとして大いに議論を深めてもらいたい。

 もう一つの柱である高校教育の在り方にみられる通り、実行会議などの下請けでは栄えある中教審の名が泣く。17日の自由討議もメモを取る気が失せるほど低レベルだったが、発言を控えた委員、これから始まる初等中等教育分科会の臨時委員も含め奮起を促したい。個別の論点に関しては、折に触れて論じよう。

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2019年4月 9日 (火)

授業時数見直し 矛盾した行政のツケを回すな

 新学期が始まっている。文部科学省は昨年度末に2018年度教育課程編成・実施状況調査の結果を公表するとともに、標準授業時数を大幅に上回る学校の年間授業計画を見直すよう都道府県教委などに通知した。

 矛盾した指導行政のツケを、これ以上学校現場に負わせるのか。ぜひとも姿勢を改めてもらいたい。

 そもそも現場で標準を大幅に超える授業時数が横行した淵源(えんげん)は、1998年告示の「平成元年改訂」学習指導要領が「ゆとり教育」だと批判されたことを受けて文科省が突然「指導要領は最低基準だ」と言い出したことにある。それまでは標準はあくまでも「標準」であって、結果的に下回ったとしても誰も問題にしなかった。それが、学力向上の要請とも相まって現場は授業時数の確保に追われた。

 一方で文科省は08~09年告示の指導要領で学習内容を増やたばかりか、17~18年告示の新指導要領では「学習内容の削減を行うことは適当ではない」(16年12月の中教審答申)と宣言しつつ小学校英語分の標準時数を増やし、プログラミング教育や統計教育など実質的な学習内容の増加を図った。ただでさえアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)には授業時数が必要なのに、である。

 これまで過労死ラインを超えてまで標準を越える授業を実施し、教科書を終えるので精いっぱいの指導要領をこなしながら学力を向上させてきたのは、外ならぬ学校現場だ。文科省も、それは分かっていよう。

 確かに「学校の働き方改革」をめぐる今年1月の中教審答申では「指導体制を整えないまま標準授業時数を大きく上回った授業時数を実施することは教師の負担増加に直結するものであることから、このような教育課程の編成・実施は行うべきではない」と言っている。しかし、この文章自体が文科省事務局の主導でまとめられたものだ。しかも、「指導体制を整えない」責任は誰にあるのか。

 もちろん現下の財政事情で、簡単に教職員定数の改善が図れないことは理解できなくもない。単年度改善の努力を重ねていることも分かっている。しかし、加配定数の基礎定数化をもって「16年ぶりの教職員定数改善計画が策定できた」などというごまかしは言ってほしくない。

 本来は今回の改訂で、標準時数や学習内容の「扱い」も抜本的に改めるべきであった。それをしないばかりか、コンテンツ(学習内容)ベースからコンピテンシー(資質・能力)ベースに転換したのかどうかさえ、あえて曖昧にしている。指導要領自体が無理と矛盾を重ねていることに、もっと自覚的であるべきだろう。

 政府部内のさまざまな矛盾する要請に必死で応えようとしている文科省の苦しい立場も、十分理解しているつもりだ。だからこそ行政的な割り切りで通知を流すようなことは、してほしくない。

 

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2019年3月11日 (月)

平成教育史・試論 教育課程〈下〉  「次期」は本格的なコンピテンシー改革を

 今回の学習指導要領改訂論議を諮問時から答申まで、教科等ワーキンググループ(WG)等も可能な限りフォローする中で、総論では賛成しながらも、どこかにモヤモヤした違和感を抱えていた。それがすっかり氷解したのは、昨年8月に仙台市の宮城教育大学で行われた日本教育学会第77回大会で発表された香川奈緒美・島根大学准教授と百合田真樹人・教職員支援機構上席フォローの共同研究成果を聞いてからだ(『内外教育』2018年9月28付12・13面拙稿参照)。

 それによると、日本の「確かな学力」観は、「知識・技能」が独立・固定して存在するという前提で、その上に「スキル」や「態度」を積み重ねていくという「加算式」の発想だ。それに対して経済協力開発機構(OECD)の「コンピテンシー」観は、これら3要素も境界線自体が明確ではなく切り離せないものと捉え、学習者が文脈やニーズに合わせて新しい知見を創造した成果物をコンピテンシーとして捉える「乗算式」の発想を採っているという。そう聞けばEducation2030の“Learning Compass”でKnowledgeとSkills、Attitudes and Valuesがらせん状に絡み合ってコンピテンシーを成すように描かれている意味が、ふに落ちる。

 今回の改訂は、OECDのEducation2030と「同期」(鈴木寛・元文部科学大臣補佐官)したとされる。しかし前回改訂から「習得・活用・探究」を引き継ぎ、学力低下論の再燃を恐れるあまり学習内容をすべて温存した点で、似て非なるものであったろう。だから改訂が画期的なのかどうなのかも曖昧だし、「基本的には現行指導要領の延長線上にある」(中教審臨時委員の市川伸一・東京大学大学院教授)という評価も成り立ってしまう。「コンテンツ・ベースからコンピテンシー・ベースへ」という一部学者の説明に当時の文部科学省担当者がストップを掛けたというのが、それを象徴していよう。あくまでもコンテンツ=知識・技能は所与のものなのだ。

 本社は香川准教授に発表後、新指導要領が語彙(ごい)力の強化を図った点に対する評価を尋ねてみた。すると、「知識を態度やスキルと切り離した考え方だ。『自分が伝えたいから、語彙が必要だ』とならないといけない」という答えが返ってきた。わが意を得たり、である。

 知識が学習者それぞれによって違った形で獲得されるものであるという構成主義の立場に依るならば、コンテンツの固定化を容認すべきではない。知識が点数によって正しく測れるという「テスト主義」がこびりついている日本人には、なおさらだ。

 返す返すも残念なのは、民主党政権下の中教審高等学校教育部会で打ち出された高校教育のコアとしての「市民性」概念だ。もちろん「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」と言い換えてもいい。高校教育のみならず学校教育で育成するものが全て市民としての判断・行動力に資するものとするならば、コンテンツを学ぶのも市民性を培うためであって、使えない知識を蓄えることではない。

 原発を例に考えよう。東京電力福島第一原子力発電所の事故で、浜通りだろうと中通りだろうと会津だろうと「福島」が危険になり、担当大臣すら「放射能がうつる」などと言うのは非科学的でしかない。一方で、じゃあ「放射線教育」を行えばいいかというと、使えないコンテンツを積み重ねるだけになりはしまいか。原発依存度を可能な限り低減すると同時に「ベースロード電源」だとして推進するというエネルギー基本計画の「ご飯論法」を見抜けないようでは読解力も何もあったものではない――というのは一つの政治的立場だが、原発の是非に対する立場を一人一人が自分の思考・判断で取れるようになってこその市民性教育だ。

 今日は東日本大震災から8年目の日である。OECDのアンドレアス・シュライヒャー氏が改めて日本の教育の力を確認したのも、震災直後の被災地を訪れたからだった。それがOECD東北スクール、さらにはEducation2030のコンピテンシーの再定義につながった。しかしこの間、私たちは震災前後の教訓を本当に生かしてきたと言えるのか。やれEdTechだのSTEAM教育だのと政権主導で目先の新しさと成長戦略だけに振り回されかねない兆しが出始めているのも、心配になる。

 今回の改訂論議に携わった中教審臨時委員でも、「学力観は大きく変わった」とする奈須正裕・上智大学教授の見方を支持したい。2030年を超えた次期改訂こそコンテンツ・ベースの凝り固まった考え方から脱却し、コンピテンシー・ベースへの転換を図らなければならない。そして、その時こそ真の高大接続改革、もっと言えば「小中高大接続」(白水始・東京大学教授)の新しい学びに対する展望が開けることであろう。

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2018年12月26日 (水)

平成教育史・試論 教育課程〈中〉  曖昧な「生きる力」

 「生きる力」の育成――。1996年7月の旧中央教育審議会答申で掲げられて以降、2020年度以降に全面実施となる新学習指導要領でも変わらない、学校教育の理念だ。当時は「子供に[生きる力]と[ゆとり]を」とセットになっていたことさえ、つい忘れがちになる。今もって「ゆとり」の定義がないように、「生きる力」もまた曖昧なものだった。

 もちろん96年答申に、定義らしきものはある。①いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力②自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性③たくましく生きるための健康や体力――というものだ。

 ただ、それが具体的にどのような資質・能力なのか、現在から見ればあまりにも漠としている。「変化の激しいこれからの社会を生きていくために必要な資質・能力の総称」(2016年12月の中教審答申の注記)というのが、実のところ正確ではないか。

 ①にしても、「自ら学び~」は90年改訂指導要領を継承したものだった。一般には「新学力観」と呼ばれたが、当時の初等中等教育局キャリアは「ゆとりと充実」(77~78年改訂)に続く公式のキャッチフレーズを付けることを嫌った。それもレッテルを貼られたくないという以上に、具体化は学校現場の裁量に任せるべきだという考えが強かった。だから事細かに中身を示すことも、あえてしなかった。

 その“空白”を埋めたのは、教員上がりである同局の教科調査官と、中央→ブロック→都道府県→市町村→学校という“伝言ゲーム”だった。生活科の「雀の学校」(むちを振り振り)から「めだかの学校」(誰が生徒か先生か)へ、という説明や、「知識・理解」より「関心・意欲・態度」が上位だという明らかな誤解は典型例だ。

 それでも曖昧な学校教育が案外成功したことは、2000年から始まったPISAの好成績で証明された。今までの延長線上で“何となく”やっていたら、世界でもトップを走っていた。だから文部科学省も「『生きる力』はキーコンピテンシーと軌を一にしている」とうそぶいていられた。

 そもそも「生きる力」という言葉は何となく永田町・霞が関界隈でささやかれ始めたと思ったら、いつの間にか急浮上した感がある。折しも、相次ぐいじめ自殺事件などへの対応が急がれていた時期だ。対策の決定打がないままアピール効果を狙えるのも、曖昧なキャッチフレーズならではだ。

 だから「生きる力」とはどのようなもので、どうしたら育成できるかが整理されるには、今回の改訂を待たねばならなかった。「ゆとり教育」批判に正面から答えるべきだった08年1月の中教審答申も、指導要領の「構造化」は積み残さざるを得なかった。それだけ困難な課題だったことも確かだろう。

 では、今回の資質・能力論によって本当に「生きる力」は明らかになったと言えるのか。そこをはっきりさせることが、平成の教育課程史にとって重要なことだと思えてならない。いや実は単なる回顧ではなく、新指導要領の実現はもとより教員の働き方改革の成否さえ握っていると言ったら飛ばし過ぎであろうか。

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2018年12月24日 (月)

【池上鐘音】明治と平成

▼フリーに休みはない。平成最後の天皇誕生日も、原稿を書いていた。19日に文部科学省が開催した、明治150年記念の教育シンポだ。政権への忖度(そんたく)がはびこる中、やっと年内に間に合わせたかのように設定された割に中身はまともだった▼教育史で明治といえば、真っ先に思い浮かぶのは元年ではなく5年(1872)の学制発布だろう。しかし、それに先立つ明治2年に京都では町衆が竈(かまど)金を出して64校もの小学校を日本で初めて創設した――パネリストとして登壇した門川大作市長のそんな話を、毎度のことと思って聞き流していた▼あらかた書き上げ、疲れた頭をクールダウンさせようと読みかけの『仏教抹殺』(鵜飼秀徳著、文春新書)を開いた。明治150年は、廃仏毀釈(きしゃく)150年でもある。浄土真宗の僧侶でもあるジャーナリストが各地をルポした最終章は奈良、京都だ▼全国各地を取材していると、寺と隣接する小学校が多いのに気付く。沿革に寺の境内で創立されたことを記す学校も珍しくない。しかし同書によると京都でスピード整備ができたのは、廃仏毀釈で廃寺となった跡地に伽藍(がらん)を転用して校舎を新設したからだ▼「神道そのもののシンボルとなった天皇家もまた、神仏分離政策に翻弄(ほんろう)された存在だった」(同書)こともまた、維新の側面である。いま我々が信じている日本の「伝統」も、わずか150年ほど前に創られたものが少なくない。学校教育も、そんな危うさの上に建てられている。

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«【内側追抜】改正入管法