2009年6月20日 (土)

LEC大募集停止 “小泉便乗”の退場を歓迎する

 LEC東京リーガルマインド大学(学長=反町勝夫・東京リーガルマインド代表取締役)が、来年度から学部の学生募集停止を発表した。同大学は2004年度、構造改革特区制度による初の株式会社立大学として開校したが、当初から本当に大学としふさわしい体制を整えているか、疑問がぬぐえなかった。会計専門職大学院は今後も募集を続けるというが、公教育を安易に考えてきた経営主体は早々に退場して当然だ。

 LEC大学は特区の特例により3カ月というスピード審査で設置認可されたが、その時から多くの留意事項が付けられ、その後の設置計画履行状況調査(アフターケア)でも毎年、留意事項による改善が求められ続けていた。2004年には肝心の特区である東京都千代田区の同意を得ないまま通信教育課程の設置を申請し、同新宿区などほかの特区の同意を得て認可されるという混乱もあった。そうしたこともあって定員割れに歯止めは掛からず、一時は14カ所あったキャンパスも12カ所に統廃合され、さらに2009年度は千代田キャンパスのみに募集を絞りながら、この結果である。

 同大学の運営会社は、これまで「他の事業部門で学部の赤字を補填(てん)」しながら「懸命な努力」を続けてきたが、「現在、学部に在籍している学生の適切な修学環境の維持向上の為に経営資源を集中させることが適切であると判断」した、と説明している。さすがは株主利益を優先する営利企業、設立も統廃合も募集停止も、すべては迅速な経営判断のたまものだ――と評するのは、皮肉に過ぎようか。

 だいたい、資格試験予備校が大学を設置すれば「ダブルスクール族」の学生の利便性が図れる、といった設立動機自体が、大学教育の何たるかを理解していなかった証左であろう。それを、当時は誰も抵抗できなかった小泉純一郎首相の威光とそれに乗じた一部省庁系官僚の威勢を借りて、設置認可をゴリ押しした面がなかったとは言えまい。その果てが10年も経たないうちに廃校では、あきれるばかりだ。

 株式会社立では、2006年度に開校した大阪市のTAC大学院大学(山崎正和学長)が既に今年度から学生募集を停止している。もちろん経営が順調な株式大学もあろうが、今後ともアフターケアや認証評価による厳密なチェックが求められよう。

 学校法人立大学も、他山の石とすべきである。やはり小泉政権下の規制緩和方針に従って設置認可自体が「事前規制から事後チェックへ」と弾力化され、18歳人口が減少しているにもかかわらず、専門学校や短大などを経営する法人が次々と4年制大学を新設した。今年度に入って私立大学が次々と募集停止を表明しており、今後も“連鎖倒産”は避けられまい。中央教育審議会の大学分科会は第1次報告をまとめたが、本格的な再編・共同時代を控えて、これに続く早急な具体的提言を期待したい。

 母校がなくなってしまう学生には、同情するほかない。しかし、これも自由選択に基づく「自己責任」である。責められるべきは経営主体であり、問われるべきは、かつて国民が熱狂的に支持した政権の規制改革路線である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年6月14日 (日)

「教育も社会保障」 文科省の危うい新戦略

 文部科学省が最近、「教育も社会保障だ」と言い始めている。同省が主導権を握ったと目される教育再生懇談会は、「人生前半の社会保障」を前面に打ち出した。しかし、これは増大する社会保障費の安定財源を確保するために浮上した消費税増税に便乗しようとするものであり、一概に否定すべきものではないにせよ、危うい戦略だと評せざるを得ない。

 教育の社会保障論は、直接的には教育再生懇の委員である広井良典・千葉大学法経学部教授が打ち出した。4月17日の会合資料を見ると、日本の国内総生産(GDP)に占める社会保障給付の割合が欧州先進諸国に比べて低く済んでいるのは、子ども・家族関係の比重が小さいためであるという。それを支えたのは終身雇用制に基づく「インフォーマルな社会保障」の存在であるが、新制中学校の義務化に始まる強力な「機会の平等」化も大きく寄与した。しかし所得格差の世代間再生産が懸念される中にあっては、教育が「最大の社会保障」であり、「教育政策と社会保障政策の統合」が重要になっている――というわけだ。

 広井教授の指摘には、確かにうなずけるところが少なくない。そもそも日本で公教育政策が論じられる時、狭い「教育」の枠内にとどめられることが往々にしてある。もちろんそれは教育そのものに価値を見いだす東アジア的伝統の良さでもあるのだが、一方で欧米諸国で高等教育政策が雇用政策と一体化させているような、国家戦略としての政策化がしにくい弱点も併せ持つ。教育政策を広い観点から意義付けることは、時代の要請から言っても急務だろう。

 ただし文科省がそうした論に乗ったことは、また別の意味を持つ。

 前提にあるのは、教育振興計画の“失敗”だ。文科省は振興計画の策定によって、伸び悩む教育予算の拡充に根拠を持たせようとした。しかし昨年策定された初の計画では予算総額の数値目標が盛り込めず、これでは何のために教育基本法を策定したのか分からないことは、以前の社説でも指摘した。折衝過程では、財務省から再三「財源はどうするのか」と詰問されたという。

 9日に示された「骨太の方針2009」の素案では、近年にないほど教育に関する記述が充実している。しかし骨太09の素案が、12%とも試算される消費税増税を前提にしていることは明らかだ。文科省の「教育も社会保障」論は、要するにそれを当て込んで、増税分の一部でも教育予算として確保したい意向を示したものにほかならない。小泉純一郎政権下での「骨太06」で示された歳出削減に悩まされている文科省としては、ここで何とか転換を図りたいと考えていることも無理からぬところだ。

 しかし、その代償は国民にとって小さくない。 

 もちろん教育予算の安定財源が確保できること自体は、必ずしも悪いことではない。というより今までそれなしに済んできたこと自体が、今にして思えば不思議だったくらいだ。もちろんそれは東アジア的な教育重視の世論に支えられてきたものだが、いわゆる「ゆとり教育」批判に始まる公教育不信によって一変してしまった。批判自体はいわれのないものだったとしても、移ろいやすい世論が相手では、新たな支持を得られるような戦術も必要になろう。

 ただ、事は国家運営のあり方そのものを問う話である。「中福祉・中負担」のための消費税増税は、まさに総選挙の主要争点になるべき問題だ。その中で堂々と教育も「人生前半の社会保障」だと位置付けて、その上で安定財源を振り向けることが国民的合意となるならば、確かにそれも一つの民主主義的な判断である。

 逆に言えば、消費税増税が行き詰まれば同時に頓挫してしまう“のるかそるか”の戦略でもある。国民の負担増も考えると、手放しで賞賛するには保留を付けざるを得ないというのが、正直なところである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

【池上鐘音】印度の日本人

▼今年アカデミー賞を受賞した『スラムドッグ$ミリオネア』(英、ダニー・ボイル監督)は、ヒンズー教徒によるスラムのイスラム教徒襲撃から物語が始まる。インドと言えばマハトマ・ガンジーの非暴力主義が有名だが、今も彼の国に暴力が渦巻いていることは日々のニュースでも明らかだ。しかし、そのガンジーすら生ぬるいと批判したインド人が仏教に改宗し、その衣鉢を日本人が継いでいるということを、どれだけの人が知っているだろう▼ガンジーを批判したのは、初代法相B・R・アンベードカル(1891-1956)。日本人、いや既にインドに帰化したから正確には元日本人が、佐々井秀嶺師(73)である。44年振りに一時帰国(これも正確には来日)し、1カ月半にわたり全国を巡った果てに7日、東京・大塚の護国寺で「最終公演」を行った▼インドのカースト制は、アンベードカルが起草した憲法で公式には廃止されたにもかかわらず、現実には厳然として存在する。かつて不可触民と呼ばれたアウトカーストをガンジーはハリジャン(神の子)と呼んだが、それを敢然と拒否したのがアウトカースト出身のアンベードカルだ。のみならずガンジーも信じたヒンズー教こそが差別の根源だとして56年、50万人ものアウトカーストを引き連れて仏教に集団改宗した▼よく知られているように、仏教は発祥の地であるインドでは13世紀初頭に壊滅した。それを復興したのがアンベードカルであり、その死から11年後に何の知識もなくタイから徒手空拳で飛び込んだ佐々井師が、現在1億人以上と言われるインド仏教徒の指導者となっているのは、まさに仏縁と言うほかない▼現在のインド仏教は系譜上、南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)に属する。一方、佐々井師はもともと東京・八王子の高尾山薬王院で得度した大乗仏教・真言宗の僧だった。護国寺講演でも佐々井師が小乗なのか大乗なのか問う質問があったが、師は断言した。「アンベードカルの思想と行動は、“超大乗”だ」▼20代半ばに学生浪曲師をやっていたダミ声の魅力もあって演説は人を引き付けるが、70年余の思いがあふれてか一回の講演や師の半生を描いた『破天―インド仏教徒の頂点に立つ日本人』(山際素男著、光文社新書)を読んだだけでは趣旨をつかみづらいのも確かだろう。しかし京都・種智院大学と横浜・総持寺に続く3回目の聴聞を経て、ある確信に至った。アンベードカルや佐々井師はまさに、ブッダや大乗仏教の確立者竜樹(150-250ころ)と同じことをしているのだと▼ブッダにしても竜樹にしても、当時のインド社会で苦しむ民衆に分け入り、その苦悩を共有する中で新しい宗教を生み出していったに相違ない。それが後世に語られる過程で、神秘性や超越性を帯びていったのだろう。佐々井師は、「『どん底のどん底のどん底』を見ずして、本当のインドを見たことにはならない」と再三繰り返す。日本のいわゆる鎌倉新仏教も、そうして生み出されたのだと推測させるものがある▼竜樹に呼ばれる夢を見てインド滞在を決意したという佐々井師が「帰国」で見せてくれたのは、「生きた」仏教、今まさに創造されようとしている仏教の姿である。ひるがえって考えれば現代の日本で現実の民衆の苦悩に応え得る仏教とはどうあるべきか、現実の課題として突き付けられた思いがする。師はこう呼び掛けた。「闘う仏教徒になってください」▼『スラムドッグ―』の襲撃場面では幼い主人公兄弟が逃げ惑う途中、子どもの姿をしたヒンズーの神を幻視する。それが物語の複線になっているのだが、映画の展開以上のメタファー(暗喩)を秘めているように思えてならない。憎しみの連鎖を断ち切ることを教えるのも、また仏教である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月31日 (日)

「格差解消」テコに公教育の信頼回復を

 教育政策をめぐってこの間、さまざまな動きがあった。文部科学省の「教育安心社会の実現に関する懇談会」発足(25日)、政府の教育再生懇談会第4次報告(28日)、文科省関係だけでも1兆3174億円という巨額な補正予算の成立(29日)などである。本社はそのいちいちに批判的な論評を加えようとも考えたが、ふと思い直した。いずれも教育格差の解消策が、まがりなりにも含まれているからである。むしろ格差解消策に教育界を挙げて取り組むことこそが、失墜してしまった公教育の信頼を回復する糸口になるのではないか。

 100年に一度と言われる世界同時不況の下で、教育格差の解消が喫緊の課題であることは論をまたない。もとより公教育は、発達した社会にあって国民・市民の幸福追求に不可欠なものである。今の状況は、憲法で保障されている「教育を受ける権利」の危機であると言ってもいい。「選択と集中」を言うならば、何をおいても権利保障を最優先すべきだろう。

 失墜した信頼と言っても、その中には理由のあること、理不尽なことが両方含まれている。相次ぐ教職員の不祥事はもちろん前者に入るが、学力低下批判は後者の部類に入ろう。総体としては過剰なほどの教員バッシング、教育界バッシングが行われたが故の、信頼失墜である。

 だからこそ国民・市民に急速な不安が広がっている時に、社会のセーフティーネットとしての公教育がその役割を発揮することは、安心をもたらす第一歩になるだろう。公教育に対する不信感の多くがいわれのないものであるならば、逆に改めて公教育の底力と存在感を示すことこそが、信頼回復への近道になるのではないか。

 これは何も、経済的に困難な家庭の教育費負担を軽減するだけにとどまるまい。いま受けている学校の教育で、将来的にも安心できる学力保障が行われることが第一である。教育現場でも、学力向上はもとより生徒指導面など、すべての子どもの成長を保障する教育実践に、いっそう意を用いるべきだ。

 もはやテストの成績や進学実績を伸ばすことに、きゅうきゅうとしている場合ではない。それぐらいの危機感と緊急性を持って取り組めば、成果主義に走らなくても信頼は徐々に回復してくると信じたい。 

 もちろんここで言う公教育には、公の支配下にある私立学校の教育も含まれることは言うまでもない。学校バッシングが狭い意味での「公立学校教育」バッシングに利用された向きもあるが、公教育の一端を担うものとして私学の役割と責任は重い。個別の学校法人は受け入れた児童・生徒を安易に放り出さないような努力を尽くすべきだし、行政もそのための支援に力を入れるべきだろう。

 その上であえて苦言を呈せば、いま国レベルで主張されている「教育安心社会の実現」が単なる教育費の焼け太りを目指すものであっては、それこそ信頼は得られない。本社は原則論としての教育費の増額に異論を唱えるものではないが、目下の財政難にあっては限界があることも認めなければなるまい。何が喫緊の課題で、そのためにはどこに集中的な投資を行うべきかを考えることこそが政策であり、政治というものであろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

キャリア教育 改訂の“目玉級”のはずが

 本来は改訂の目玉になっていいはずなのに、一部関係者を除けば驚くほど注目されていない――。高校で学習指導要領上はじめて明記された「キャリア教育」のことである。

 高校をめぐる状況については、先ごろ発行されたリクルート『キャリアガイダンス』5月号(No.26)の本社配信記事を参照されたい。しかし、小・中学校も決して例外ではない。そもそも改訂の基となった2008年1月の中央教育審議会答申にも、教科横断的な改善事項として情報教育、環境教育などと並んで、キャリア教育の充実が挙げられている。

 小・中学校の新指導要領にはキャリア教育という文言こそないものの、告示に当たっての文部科学事務次官通知(2008年3月)では「キャリア教育などを通じ、学習意欲を向上するとともに、学習習慣の確立を図るものとしたこと」と説明されている。高校の改訂通知(2009年3月)でも、まったく同じ文章だ。その上、2008年7月に策定された初の教育振興基本計画にも「小学校段階からのキャリア教育を推進する」と明記された。

 これを、「また文科省が○○教育を押しつけてきた」ととらえていいのだろうか。先の次官通知でも、学習意欲の向上や学習習慣の確立を図るための方策の一つとして、キャリア教育を位置付けている。

 その重要性を分かりやすく解説しているのが、国立教育政策研究所(国研)の生徒指導研究センターが3月に発行した「小学校におけるキャリア教育推進のために」と題するパンフレットだ。小学校での目標はもとより、低・中・高学年の各発達段階での課題や指導要領との関連、各教科・領域での教育活動礼などが、カラーのイラスト付きでコンパクトにまとめられている。中、高校版も今年度中に順次発行される予定だ。

 パンフレットでは、各教科・領域の教育活動の中に組み入れられているキャリア教育の「断片」を、道徳の時間や学級活動、「総合的な学習の時間」を使って振り返ったり、つなげていったりすることが必要だとしている。各教科・領域をキャリア教育の「視点」で見直すことが不可欠になってくるのだ。

 これも、国研の勝手な解釈ではない。中教審答申を読んだ方は、各教科・領域で実社会・実生活との関連を図り、活用できるようにすることを強調していたのに気付いただろうか。あまつさえ増加させる教育内容は、「反復(スパイラル)することが効果的な知識・技能」と並んで「社会的な自立等の観点から子どもたちに指導することが必要な知識・技能」等に限って加える、としているではないか。前回の改訂で削った内容を復活させた、という単純な話ではない。指導要領の根幹にかかわる問題だとすら言っていい。

 新指導要領の改訂趣旨を「脱ゆとり教育」などととらえていては、こうした重要性はまったく見えてこないだろう。最近の授業研究では「活用」ばやりだが、活用型の授業が単に全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)のB問題で高得点を上げることを目指すものであっていいのか。そもそも、学力低下批判の根拠となった経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(PISA)自体が、社会で活用できる能力を測ろうとしているものである。

 指導要領があくまで各学校が編成する教育課程の「基準」だととらえるならば、 その軽重も各学校の裁量範囲だ、ととらえることもできなくはないだろう。しかし世界同時不況に象徴される不透明な時代に、いつまでも大学全入時代以前の、知識注入型の教育を続けていていいのか。今は移行措置に向けて手いっぱいなのが現状だろうが、本格実施に向けて、キャリア教育を核とする新課程研究が急務である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 2日 (土)

最高裁の「体罰」判決 現場の参考にはならない 

 最高裁第3小法廷は4月28日、2002年に熊本県本渡市(現天草市)の市立小学校で男性臨時教員から体罰を受けて心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして男児側が市に賠償を求めた訴訟の上告審で、教員の行為を体罰と認定した1、2審判決を破棄し、請求を棄却する逆転判決を言い渡した。体罰に関して最高裁が判断を示すのは民事訴訟で初ということで注目され、新聞各紙もさまざまなトーンで報道・論評している。しかし残念ながらこの判決は、体罰問題に限って言えば、指導に悩む教育現場の具体的な参考になるような判例になるとは言えそうにない。

 訴えの基となったのは、お互いに面識のなかった教員と児童とが、しかも別の教員が別の児童を指導中という、たまたま遭遇した場面での行き違いから起こった行為である。しかも主な争点は、慎重167㌢の教員が同130㌢の児童の胸元をつかんで壁に押し上げて叱責(しっせき)した行為が体罰に当たるかどうかという、極めて具体的な行為をめぐるものだ。

 もちろん、どのような行為が体罰に当たるかどうかというのは、それこそ現場が目を皿のようにして知りたい判例だ。しかし、判決は「その目的、態様、継続時間等から判断して…許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」い、としているに過ぎない。

 文部科学省は2007年2月の初等中等局長通知で、懲戒行為が体罰に当たるかどうかは「当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある」としている。今回の判決は、これを超える判断基準を示してはいない。

 学校現場は今、昔に比べて対応が難しい児童・生徒の指導に悩んでいる。一方で、若手教員の増加や多忙化によるストレス増大により、きめ細かな指導を行う余裕がなくなりつつある現状も存在する。保護者対応も含め、体罰問題はますます具体的かつ日常的な悩みの種になってこよう。「拡大解釈許されず」「毅然たる指導こそ必要」といった論評をしたところで、現場には何も響かないだろう。

 判決で一つ、気になることがある。原告側の対応に関して、「長期にわたって…本件行為について極めて激しい抗議行動を続けた」とあるくだりがそれだ。実はこれが、本件のみならず体罰問題の本質にかかわるような気がする。

 下級審判決を参照しても、事案の発覚当初から、あるいはそれ以前から、学校と保護者の関係が良好なものではなかったことが推測できる。もちろん判決文からすべてを判断することはできないし、ましてや保護者をいわゆる「モンスターペアレント」呼ばわりすることは、厳に慎まなければならない。保護者を「モンスター」と規定する風潮自体が学校と保護者との良好な関係づくりを阻むものであることは、以前の社説でも論じたところである。

 「体罰を加えることはできない」というのは、学校教育法に定められた絶対条件だ。しかし、個々の指導場面においては、教員と児童・生徒の間に信頼関係が成立していなければ、効果はない。また、学校側と保護者側とに信頼関係が成立していなければ、いかなる厳しい指導も行いにくく、かえって指導を萎縮させてしまうことにもなりかねない。

 結局は本社説も、「日頃から教員等、児童生徒、保護者間での信頼関係を築いておくことが大切」という、文科省通知から一歩も出ず、従って現場には何の参考にもならない主張に落ちそうである。しかし、たとえ最高裁であれ、一片の判決から体罰問題自体を云々できるような単純な状況に学校現場はない、ということを言いたかっただけのことである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月21日 (火)

全国学力テスト 成績不振校から支援を

 再開3回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が、きょう行われた。本社はこれまで、しつこいくらいに全国学テを任意参加とすることを主張してきたので、繰り返さない。ここでは結果の返却に向けて、成績の振るわなかった学校から予算の傾斜配分や教職員加配などの支援措置を検討するよう、各自治体に求めたい。

 興味深いデータが先ごろ公表された。お茶の水女子大学の耳塚寛明教授らの研究グループが文科省の「新教育システム開発プログラム」の採択を受けて行った「教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書」である。ベネッセ教育研究開発センターとの共同研究という形を取ったから、報告書全文が同センターのホームページからダウンロードできる。

 教育格差が家庭などの階層格差によって再生産されることは近年、教育社会学が注目し、実証してきたところである。しかし、それは一歩間違えれば学力「決定論」に陥りかねない。報告書ではそれにとどまらず、「解消」に向けた学校の在り方まで探ろうとしているところが注目される。

 それによれば、たとえ経済的・文化的条件に恵まれない家庭の児童・生徒が多くても、テストで一定の成果を上げている「効果のある学校」(エフェクティブ・スクール)が存在する。そこでは、子どもが教師や友達などと良好な人間関係を築き、より積極的な学習態度や学習習慣を形成することに成功しているというのだ。

 調査対象は東北から九州まで7県の小学校42校と少ないが、そのうち「首都圏」のある県では5校すべてが階層的に恵まれた学校背景に置かれていたにもかかわらず、「効果のある学校」に認定できるのは1校しかなかった。一方、「2007年度からの全国学力テストでトップクラスの成績を収めている県」(報告書)では8校中4校が「効果のある学校」であり、しかも、そのうち3校はかえって階層的には恵まれていなかったという。極めて象徴的な対照ではないか。

 階層差がストレートに現れるのは、先の首都圏の学校のような「大都市部の効果のない学校」(同)だ。そういう学校の成績が良好だったとしても、家庭環境や学習塾などが学力を担保しているに過ぎない。同じ学校に通う階層的に恵まれない家庭との格差は、残されたままになる。一方、全国学テでトップクラスだった県の「農村部の効果のある学校」(同)では、平日に家で勉強する時間を尋ねたところ、「1時間くらい」が70%近くを占めている。大都市部のように二極分化してはいないし、それほど勉強時間が長いわけでもない。

 もちろん、そうした農村部の学校では「小・中学校の成績は良くても、大学進学率は低いではないか」という批判はあろう。しかし問題は、公教育政策としてエリート選抜を重視するのか、それとも国民的な資質・能力の底上げを図るのか、である。そもそも大学進学率を云々するのも、「大学全入時代」以前の発想だろう。

 肝心なのは、「効果のある学校」をどう増やしていくかである。そのためには、家庭や地域に課題がある学校に手厚い支援を行うことが早道であることは、論をまたない。であれば、政策論としては単純だ。せっかく国が何十億もかけて全国学力テストをしてくれているのだから、学校の設置者である自治体はその結果に応じて“下から”傾斜配分を行えばいいのだ。

 こんなことを偽装マスコミが場末のブログで論陣を張ったところで、何ら影響力がないことは分かっている。しかし、市町村・学校別の成績を公表するよう圧力を掛けたり、成績が良好だった学校に予算増額や加配をちらつかせたりする一部の首長が、いかに問題の解決と逆行した主張をしているかが、何となくでも分かっていただけるのではないかと信じたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月19日 (日)

【池上鐘音】憂うつな4月

▼新年度に入ったというのに、この4月はどうにも憂うつだった。何も仕事が増えないためではない。移行措置の始まった新学習指導要領に関して、相変わらず「脱ゆとり」「ゆとり教育の見直し」という報道ぶりが続いたためである▼本社は以前にも、文部科学省が行ってきた教育課程行政を「ゆとり教育」と呼ぶことの不毛さを指摘した。用語上も、使用する場合は必ず「いわゆる『ゆとり教育』」という持って回った表記を使っている。本ブログを何度も訪問してくれるような好事家、いや真面目な読者は理解してくれるであろうが、所詮は場末のブログである。これだけ「脱ゆとり」がマスコミで連呼されると、一般の人たちはもとより、教員すら新指導要領がいわゆる「ゆとり教育」の是正を主眼として改訂されたものだと思い込んでしまうだろう▼今は移行措置や日常業務に追われてそれどころではないだろうが、新教育課程対応が今後、本格的に迫られるようになると、その“恐ろしさ”に気づくのではないか。どう恐ろしいかは先日ある教育専門誌の企画で取材したので、仁義として同誌発行後に論じたい▼もっとも今回は、「新学力観」指導要領(1989年改訂)の時のような混乱は起こらないかもしれない。いわゆる「脱ゆとり」と全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)への対応さえしていれば、保護者や地域が納得するのだから▼その時に起こるのは、「教育課程の基準」という指導要領の存在意義そのものの揺らぎである。指導要領に書いてあることでも不必要だと判断すれば従わなくてもいい、あるいは軽重がついても仕方がない、という考え方がまん延しかねない、というのは、うがった見方だろうか。高校未履修問題や「総合的な学習の時間」への消極的対応という、悪しき前例もある▼もっとも、それは悪いことではない、という立場もあろう。解釈をまったく現場に任せる、というのも一つの方法である。しかし一時期、指導要領の弾力性を説明していた文科省が、最近になってまたぞろ「最低基準」を強調しているのも気に掛かる▼世間とのギャップ、行政とのギャップの板挟みに遭うのは、いつも現場である。だからこそ、現場は教育行政で何が行われようとしているのか、冷静に把握していなければならないように思う。本社がチマチマと場末のブログで論じているのも、そのためである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月10日 (金)

2人の校長に期待する〈下〉 今度こそ高校版“島小”の実現を

 新天地でスタートを切った校長に期待するシリーズの2人目は、私立開智高等学校(埼玉)の関根均氏(51)である。というより、こんなにも早く、かつ堂々と紹介できることを、うれしく思う。

 実は関根氏のことは以前、本社説でもこっそり取り上げた。前任の公立高校での取り組みについて興味のある方は、『月刊高校教育』(学事出版)の本社配信記事をぜひご覧いただきたい。同誌には4月号から、関根氏自身の連載も始まっている。

 振り返ってみれば高校教育界はこの間、世間のいわゆる「ゆとり教育」批判と「学力向上」の要請に勢いを得て、大学進学率を上げることに腐心してきた観がある。もちろん、そのこと自体は否定されるべきことではない。しかし、その裏にはどうしても「伝統校の復活」や「生徒確保」という本音が、透けて見えてしまう。たとえ「地域の期待に応える」「真のリーダーを育てる」などという建前を掲げていても、である。

 実は関根氏も、大学進学実績を否定しない。それどころか、自身の出身校である「東大」すら目標に掲げて隠さないほどである。しかし、それは原義通りの方便であろう。その過程で目指すのは、人のために努力して勉強できる「天才」を育てることである。しかも、そのための明確な方法論もある。それに従えば、誰でも「天才」になれる――。

 関根氏は、こう言っては大変失礼だが東大などとても口に出せそうにない前任校において、「東大」を看板にした自主講座を立ち上げていた。当時、取材でそのことに水を向けると「僕は本気なんだけどなあ」と半分真顔で笑っていたことを思い出す。続けて自身が東大に再入学すべく通勤途上で勉強を開始していると聞いた時は、さすがにのけぞってしまったが。

 本当ならばあと何年かその前任校にとどまって、ぜひとも結果を出してほしかった。しかし、関根氏を守り切れなかった某県教委の力不足である。その県の高校教育界にとっても、大変な損失であると言わざるを得まい。

 しかし、そのおかげで全国の教育界は、大きな可能性を得た。「学びのサプリ」を中心とする関根実践は、高校教育にとどまらず中等教育全体、さらには初等教育、高等教育、社会教育、ひいては生涯学習までにも応用可能であると信じる。何とかメソッドの比ではない。その実証が、これから始まるのだ。

 本社記者はかつて前任校の校長室で関根氏の話を聞きながら、なぜか川向こうの伝説的な校長のことをと思い浮かべていた。その学校が、現代の高校版「島小学校」になるのではないかと夢想したのである。その夢想は結局、実現しなかった。しかし関根氏のまいた種は、今も芽を出そうとしている。

 関根氏が今度こそ現任校を「島小」とすることを、そして関根氏の意思を継ぐ公立高の先生たちとも連携しながら、教育界全体にインパクトを与えるような実践を示してくれることを、願ってやまない。そのために本社は今後とも、関根氏の動向に注目しながら、文字通り微力ながらの取材活動を行っていくつもりである。ご期待いただければ幸いである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年4月 7日 (火)

2人の校長に期待する〈上〉 混迷する教育界の打開役に

 新学期が始まった。本社は、新天地でスタートを切った2人の校長に注目している。1人目は、東京都品川区立大崎中学校校長の浅田和伸氏(47)である。

 浅田氏は、前内閣参事官の文部科学省キャリア官僚。経緯などは本社配信記事に譲るが、順調だった事務次官への道を投げ打っての“覚悟の転進”だ。

 浅田氏が校長を志した動機の通り、教育界には今、深い亀裂が走っている。学校現場は次々と降りかかってくる教育改革メニューに「改革疲れ」を起こし、判断停止にさえ陥っているように見える。

 文科省の方針も、現場には決して一致しているとは受け止められていない。それもそのはず、「行政の継続性」に腐心していることは本社のような教育行政マニアには理解できないこともないのだが、構造改革や「教育再生」路線と整合性を取ろうとして、かえってグランドデザインが描けていないと言わざるを得ない。しかも、かろうじて一致している部分すら「脱ゆとり教育」といった皮相的な見方によって誤解されたままである。

 教育再生会議に対する評価など、実際に担当者だった浅田氏と、本社の認識には自ずと違いがある。しかし、あえて困難な場に身を投じ、現場と苦労を共にしようとした浅田氏の決断には、掛け値なしにエールを送りたい。

 浅田氏は赴任前、まず自分の目で学校現場の実態を把握してからだと、具体的な抱負を述べることを慎重に控えていた。しかし若手官僚時代から柔軟な考えと、相手の話を聞く耳を持っていた氏のことである。本社の取材に語っていた「教職員の能力が最大限に発揮されるような環境づくりが校長の役割」という姿勢や、きょう行われた入学式で述べていた「教育を大切に思う気持ちは人後に落ちない」という言葉に、嘘はない。

 幸い赴任校は、地域的にも落ち着いた学校のようである。きっと教職員や保護者、住民にもその姿勢が理解され、安定した学校運営が行えるに違いない。そこから徐々に、地に足のついた新機軸を打ち出していくことだろう。その上で困難があれば、国に対しても現場の立場から、堂々と提言してほしい。

 何より「行政と現場の心をつなぐ」役割は、まさに浅田氏が志したところである。そこから発信される実践や提言は、必ずや混迷する教育界の課題を打開する糸口になるはずだ。

【更新のお知らせ】本社配信記事のリンク先を修正しました。(4月20日)

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«「流産させる会」 冗談では済ませられない