2008年7月19日 (土)

夏休みに思う 教員に研修の“自由”を

 全国の多くの小・中・高校では、きょうから夏休みが始まった。しかし教員にとっては、補習や部活動指導、事務等に追われ、必ずしもほっとできる環境にはないというのが現状だろう。そこで、あえて今、長期休業中に教員の自由な研修を保障することの必要性を訴えたい。

 長期休業中の勤務が息苦しくなった大きな原因が、2002年7月の文部科学省通知「夏季休業期間における公立学校の教育職員の勤務管理について」にあることは否めまい。自宅研修の扱いが厳しくなっただけでなく、いわゆる官製研修以外の研修に参加しにくくなったことも確かだ。これにより民間研究団体も壊滅的な打撃を受けている。

 一方、3月に告示された小・中学校の新学習指導要領では、さっそく来年度から一部教科も含めた移行措置が始まる。「習得、活用、探究」の授業改善に対応するには、これまで以上の研修・研究が不可欠になろうというのに、である。移行期間中は時数合わせに追われ、新指導要領の趣旨が十分にそしゃくされないまま本格実施に突入するとしたら、間違いなく今度の新教育課程は「失敗」するだろう。その度合いは、「総合的な学習の時間」を目玉とした現行教育課程の比ではない。

 長期休業は、日ごろの業務を離れ、落ち着いて一人ひとりの研修課題に向き合える貴重な機会である。というより、平日はとてもそんな余裕はない。その上で長期休業中まで縛ったたままでは、たとえ服務の適正化という面では必要であったとしても、実際にはますます教員の思考停止状態を深刻にするだけだ。

 文科省は5月に「学校の組織運営の在り方を踏まえた教職調整額の見直し等に関する検討会議」を設置し、給与や勤務の在り方の検討を始めたが、6月の「骨太の方針」と7月の「教育振興基本計画」閣議決定までの経緯を見れば、定数改善や給与改善の見通しは暗いと言わねばならない。ヒトも増やさず、カネも出せないのが現状ならば、せめて精神的な自由くらいは与えてもいいのではないか。もちろん、その必要性について国民・住民に十分な説明をする責任は生じようが。

 勤務管理を甘くすると服務規律が乱れるとか、自主研修といっても反文科省・反指導要領の民間団体を利するだけだ、などと懸念する向きもあろう。しかし、今はそんなことを言っていられる状況を既に過ぎているように思う。近年の教育改革一般に言えることであるが、角を矯めて牛を殺すような政策はそろそろ軌道修正すべきである。

 異論があるのは承知だが、検討会議でも課題に挙げているように、1年間の変形労働時間制の導入も考慮に値するのではないか。せめて昔のように夏休みくらいは自由に研修できるようにしないと、教員はますます疲弊するばかりであろう。

 

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2008年7月16日 (水)

【コラム 池上鐘音】固有

▼般若心経という有名なお経の中に、「色即是空」という、これまた有名なフレーズがある。ここで言う色とは、もちろんセクシーのことではない。「もの」、それも現代風に言えば「商品」から「原子」まで、と言ってよかろうか。抽象的な概念までをも含めてよかろう▼要するに諸行無常、固定したものなど何もない。だから執着することなんか止してしまえ――というわけである。これだけでも2500年前のお釈迦さんの考えは凄いものであるが、この後に「空即是色」と続くのだから、もっと凄い▼もう一つ凄いと言えば、日常語にもなっている「縁起」とは、何もミステリアスなものではない。原因(縁)があるから結果(起)がある、という、極めて科学的な思想である。色に執着するから、いろいろな煩悩も起こる▼なぜこんなことを書いたかというと、学習指導要領解説・社会編で、竹島を「固有の領土」と書くかどうかが焦点になったからである。確かに近代国家の要件として領土、領海、領空があることを教えるのは、基礎・基本として認めていい▼加熱する政治論議から一呼吸置いて、仏の教えに耳を傾けてみよう。もともと「固有」なんてものはないんだよ。確かに「固有の領土」の存在は国際社会に認められているけれど、「国家」という縁がなければ、「領土」という起もないんだよ、と。抹香臭い話を嫌う向きには、ジョン・レノンだってそう歌っているよね▼本社は北海道にゆかりがある。それじゃ「北方領土」はどうなるのかね、と問われる向きがあるかもしれない。そうしたら、こう答えよう。そもそも北海道は「アイヌ固有の領土」ですよ、と。

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2008年7月15日 (火)

「竹島」問題 政治論議より冷静な指導論を

 新しい中学校学習指導要領解説の社会編で焦点となっていた竹島の扱いは、「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」との表現で決着した。これについては日刊各紙等でさんざん報じられ、また論じられている。本来であれば本社は世間からあまり注目を集めないが学校現場にとって重要なテーマをほじくり返してマニアックに論じるところが持ち味であり、指導要領解説についてももっと検討するべき点はあるのだが、あえてこの問題を取り上げるのは、どうしても国際関係や国家論といった政治の立場から語られ過ぎて、肝心の教育論や指導論が二の次、三の次になる傾向が透けて見えるからである。

 さて当の記述に対する評価であるが、結果的にバランスの取れた妥当な表現になったのではないか。日本国の主張は主張として踏まえつつも、「相違」という形で韓国の主張にも着目させることを求めている。自民党などの一部には「固有の領土」と書かれなかったことに不満があるようだが、あえて言い切ってしまえば、それは政治の範疇(はんちゅう)である。

 そもそも中学校社会科は「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を培う」ことが目標である。国際社会で、自国の主張のみを振りかざして事足れりとする態度では不十分であろう。まさに、多面的・多角的な考察を踏まえ、広い視野を獲得してから、意見の違いは違いとして認識しつつ、解決に向かっていく姿勢を身につけさせることが、いっそう求められるのではないか。何より解説自身が、国土と歴史に対する愛情は「偏った理解の上に立つものではない」と指摘しているではないか。

 素人考えからの提案であるが、こうした領土問題を、課題探究のテーマとしてはどうだろうか。まさに地理、歴史、公民の各分野を総合して、国際社会に生きる日本人としての思考力・判断力・表現力を育成する格好の教材になると思うのだが、いかがだろう。

 本社は公教育が政治と無関係に存在できるとは思わないし、ましてや手垢のついた国民教育権論などに加担するつもりは毛頭ない。しかし、学習指導要領や教科書に何でもかんでも国家の立場を書いて教えればいいという一部の主張には、稚拙さを感じる。そもそも指導要領自体が大綱的基準であることを、ご存じないのだろうか。教科書が万能であると思っているのなら、教材論としては戦前の国定教科書以下のレベルである。そんな論議よりも、実際の教室を想定して、いかに生徒に考えさせる授業を展開できるかを研究するほうが先決だ。何より重要なのは、主体的に考える力を持った主権者の育成であろう。

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2008年7月10日 (木)

大学全入時代 入試対策より重要な“教育接続”

 中央教育審議会の大学分科会は8日、学士課程教育(学部教育)に関する答申案をまとめた。日程調整の関係から正式答申の目途は立っていないようだが、内容が大きく変わることはなさそうである。ここではもちろん大学の質の保証がテーマなのだが、「高大接続テスト(仮称)」が話題になったように、「高大接続」による質の向上ということも、その一つの重要な方策になっている。ところで本社はリクルート『キャリアガイダンス』誌に、大学全入時代の高大接続問題に関して記事を配信した。取材を通して痛感したのは、目先の入試対策では済まされない、深刻な事態である。このほど誌面化された(2008.7 No.22)のを機に、改めて論じてみたい。

 全入時代にあっては、既に一部の大学を除いて、入試が学生の質を担保するものとはならないことは、中教審でも指摘している通りだ。しかし、取材の過程では、もっと厳しい見方も聞いた。「大手企業は採用に当たって、大学名だけでなく、高校名を見ている」。つまり、同じ大学の出身者であっても企業から見れば、「使える」学生とそうでない学生が出身高校によって歴然としている、というわけだ。

 これは、どういうことだろうか。本社なりに推測しよう。大学教育では、論理的思考力や問題解決力、コミュニケーション能力、自己管理力などの育成が求められている。つまり中教審で言う「学士力」、経済産業省風に言えば「社会人基礎力」である。入学者にも当然、そうした大学教育に耐え得るだけの基礎が身についていなければならない。一部の者だけが大学に進学していた「エリート段階」や「マス段階」であれば、厳しい受験競争に勝ち抜いた者は自ずとそうした力も身につけていた。しかし全入時代には、そういう保証はなくなる。それでも手取り足取りの受験指導を受ければ難関大学に合格することはできるのだが、付け焼き刃の「入試学力」だけでは、既に社会で評価されない時代が来つつあるのだ。

 これを高校関係者に向けて乱暴に言うと、こうなろうか。多くの高校では今、進学実績を上げようとして苦慮している。必履修科目を未履修にさせてまでの、涙ぐましい受験シフトである。しかし、そうまでして難関大学に合格させたところで、あなたたちは社会で通用しない人間を育てているだけなんですよ、と。

 もちろん全部の高校が、というわけではない。普段の授業や教育活動を通してそうした能力の基礎を自然と培っているところは存在しているし、だからこそ企業はそういう高校名を見ているのだろう。しかし、「だからやっぱり私立中高一貫校だ」といった某学習塾のような主張は本社と相いれないし、公立伝統校の「文武両道」にしても本当の意味で伝統が継承されているか、若干の疑問はぬぐえない。新興の“2番手校”の方が良質の教育を行っている場合だってあろう。いずれにしても、受験対策一辺倒では何もならないことだけは確かである。

 では、どうすればいいか。だからこその「高大接続」である。キャリガイ誌で取材した複数の大学では高大連携を、大学側が入学者に求める能力を発信する機会として、積極的に位置付けていた。高校生の側もそれを理解して努力し、学習意欲を高めて入学するから、ミスマッチは起こらないし、入学後も一般入試を経ただけの学生以上に伸びるという。

 高大連携を単なる一過性のイベントに終わらせず、日常的な「教育接続」にまで高めることができれば、それによって高校、大学両方の質をも高めることができよう。大学側が学生確保に躍起となっている中で、その条件は整っている。そうであれば、どんな高校であっても活用次第ではチャンスが開かれているのではないか。

 もっと言えば、大学全入すなわち大学淘汰(とうた)の時代には、平等かつ公平な入試ばかりが大学進学の唯一のルートとは限らなくなる。私立大学で地方の高校の準系列化や一定の推薦枠設定などが広がっているのも、その一端だろう。大学と高校はもっと具体的な形で結び付きを深めていくのだろうし、大胆に推測すれば「何でもあり」の方向に進んでいくのだろう。それを「不公平だ」と非難できる時代では、もうなくなりつつあるのかもしれない。

 そうした時代を見据えて、高校側も将来的な教育の在り方を考えていく必要があろう。いつまでも「大学入試が変わらなければ高校教育も変えようがない」と嘆いていて済むとは、限らないのである。

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2008年7月 2日 (水)

振興計画閣議決定 結局は現状の固定化だ

 初の教育振興基本計画がようやく閣議決定された。本来は3月中だったはずが、中央教育審議会答申自体が1カ月遅れ、そこからさらに2カ月の迷走を経ての策定である。しかし結果的には、10年後、5年後の目指すべき姿に向けた計画というよりも、教育政策の現状を追認し、それを今後5年間固定化させるものでしかない、と断じざるを得ない。

 計画の意義や主な内容については、過去の社説で論じたので繰り返さない。答申後の折衝で焦点となった教育投資の数値目標盛り込みも実現せず、対国内総生産(GDP)比のくだりも、結局は中教審答申のままとなった。教育投資について「欧米主要国を上回る教育の内容の実現を図る必要がある」との一文は入ったものの、あくまで「内容」であり、イコール投資額を増やすという意味ではなかろう。

 逆に、後退した格好の部分も少なくない。「必要な教職員配置の措置」といった表現は、いずれも「教職員配置の適正化」に直されている。中教審と政府という立場の違いはあるにしても、定数増をけん制した言い換えであることは疑いない。のみならず、「人材確保法に基づく優遇措置を縮減する」という一文まで挿入される念の入れようである。「多様化・複雑化する教育問題」が「多様な教育課題」に替えられていることも、教育現場が必ずしも昔に比べて複雑=加配が必要という認識ばかりではないぞ、という財政当局の思惑が反映したものと見なせる。

 文科省側の「完敗」は最初から予想できた話だが、本社の予想が外れた部分もある。高等教育についてはもう少し色よい表現になるかと思ったが、修正部分を読む限りそうとは受け取れない。例外は私学だが、これは“お約束”のようなものだから勝利の部類には入るまい。

 策定された計画は、子どもの体力を1985年ごろの水準に回復させる、といったような細かい目標を別にすれば、目新しいものはほとんどない。要するに、最近の文教政策を総花的に並べて肉付けしただけである。文科省にとっては概算要求の根拠となる資料が増えた意義はあるのだろうが、財務省にとっては織り込み済みの話だから、影響力はほとんどなかろう。

 それでも、計画は計画である。閣議決定され、国会にも報告される意味は大きい。たとえ総花的であろうとも、少なくとも中期5年間は、この計画に従わざるを得ない。固定化されたとは、そういう意味だ。学校評価も進めなければならないし、教員評価も進めなければならないし、PISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の順位を上げる努力もしなければならない。何が変わるわけではないが、逆に言えばはしごが掛けられないまま、現場は少なくとも5年間、今の苦労を続けるしかない、ということでもある。

 結論は、これまでの主張を繰り返すばかりだ。これでは、何のための教育基本法改正だったのか、と。

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【社告】いつもご愛読ありがとうございます。社内事情により、またも更新が滞り大変申し訳ありません。振興計画が策定されたのを機に、「シリーズ 文教予算」(仮題)を始めたいと思っております。好事家の方はご期待ください。

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2008年6月10日 (火)

国研PISA中3アンケート 基礎データ蓄積を今後も

 興味深い調査である。国立教育政策研究所(国研)が5日発表した、「PISA調査のアンケート項目による中3調査集計結果(速報)」のことだ。教育振興基本計画の策定をめぐっては依然こう着状態が続いているが、“ポスト振興計画”のためにも、このような実証的なデータの蓄積を今後も求めたい。

 日本でのPISAは高校1年生に対して6~7月に実施されているから、同じアンケート項目を1~2月、中学校3年生に実施した今回の調査は、2学年下(2006年度は中2)とはいえ「5カ月前の中学時代」の状況を調べようとしたものと言える。

 その結果、高1よりも望ましい回答があった割合の高い項目が多かっただけでなく、OECD加盟国平均をも上回った項目すらある。例えば「科学の話題について学んでいる時は、たいてい楽しい」と回答した割合は、日本の高1で51%だったのに対して、中3では69%と、OECD平均の63%をも上回った、という具合である。

 たった5カ月の間に、何があったのか。象徴的なのが、「観察実験などの体験を重視した理科授業を受けている」割合(関連4項目の平均値)だ。OECD平均が38%、日本の高1は23%と参加57カ国・地域中54位だったのに対して、中3では46%と、16位に入る数値だ。

 もちろん、高1とそれほど変わらない数値もある。中学校段階の理科教育の課題については、国研も指摘するところだ。しかし、それ以上に改善すべきは高校の授業である、ということが鮮明になった結果と言っていいだろう。

 高校の授業改善の問題は別に論じたいが、いずれにしても、こうしたデータの蓄積は、指導要領の改訂論議や授業改善のための条件整備に、大きく資するものであることは間違いない。そんな地道な取り組みを、少しずつ重ねていくことが今後も求められよう。それなしに、やれ3.5%だ5%だのと根拠があるようなないような論議を繰り返して情と政治決着に訴えるだけでは、学校現場の苦悩の解決と、よりよき公教育の推進は望むべくもない。

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2008年5月24日 (土)

【コラム 池上鐘音】半年分の針

▼折衝過程をいちいち論じてもせんないことだが、むなしさは募る。文部科学省が23日にまとめた教育振興基本計画案に、5年間で2万5千人の教職員増を盛り込んだことだ。もしこれが通れば学校現場にとっては結構なことに違いはないが、要するに時計の針を半年戻しただけに過ぎない。しかも現状では同省案通りに策定される見通しが立たないとあっては、繰り返すようだが旧教育基本法と引き換えに得た振興計画とはいったい何だったのか▼半年というのは、昨年末の予算編成直前のことである。2008年度概算で文科省は、2009年までの3年間で2万1千人余りを増員する強気の教職員定数改善を要求した。その時点でも財政当局から「何を考えているのか」と相手にされず、結局は主幹教諭を中心に単年度で約1200人しか認められなかったのは、周知の通りだ▼2年前にすら時計の針が戻せなかった、と言ったら酷であろうか。2006年度概算では、「第8次」と銘打った定数改善計画(2010年度までの5年間で1万5千人増)を要求していた。もちろんその前年度に第7次計画(2001~2005年度で2万6900人増)が完了していたから、当時とすれば次期計画の策定要求は当然、という雰囲気があったのも確かだ。それにしても、今後5~10年を展望する基本計画の中に改善計画が打ち出せないというのは、純減を定めた行政改革推進法があるとはいえ、いかにも不備と言わざるを得ない▼もちろん、学校現場のためには多少なりとも定数改善が勝ち取れるに越したことはない。それほど教員は疲弊している。しかし焼け石に水の増員では、学校教育の困難さを根本的に解決するものにはならない。かえって「成果」を求める財政当局サイドの批判に根拠を与えることにすらなりかねない、というのは言い過ぎだろうか。

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2008年5月22日 (木)

振興計画論議 むなしい“空中戦”からの脱却を

 教育振興基本計画の策定が迷走している。中央教育審議会答申自体は腰が引けたものだったのにもかかわらず、文部科学省が自民党文教族の後押しを受けて、教育の公財政支出を現在の国民総生産(GNP)比3.5%から5%に引き上げることを主張。これに対して財務省が詳細な反論書を公表し、文科省がまた再反論する、といった泥沼の様相を呈している。

 と言っても、勝敗は目に見えている。ただでさえ後期高齢者医療制度などをめぐって混迷している政局の中では、財政再建論議の中であえて教育に多大の投資を行う判断ができるとは、とても思えない。いくら「教育が大事だ」と叫んでも、一般財源化が見込まれる道路特定財源の分捕り合戦と目されるしまつである。政府の教育再生懇談会が5%引き上げを求める緊急提言を発表したが、これは前身の「教育再生会議」と違って文科省の応援団であることは誰の目にも明らかだから、大した影響力はあるまい。せいぜい中国・四川大地震を教訓に、学校の耐震化予算が拡充されるのが関の山であろう。

 むなしいのは、5%という数値だ。お互いがいくら根拠となる調査結果を示して口角泡を飛ばそうと、つまりは今の教育投資では不十分だから経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均値までに引き上げろ、いや現在でも十分なのに効果が上がっていないのが問題だ、という水掛け論に終わっている。しかも、ただ過去や諸外国と比べた数値で“空中戦”を演じているから、今の学校教育にどんな困難があり、どうすれば打開できるか、という地に足のついた解決策が、一向に見えないのである。それなしに教育投資の増減の是非をいくら論じたところで、「エビデンスベース(証拠に基づいた)」の論議になるわけがない。

 あえて厳しい言い方をすれば、文科省の予算要求の姿勢にも問題があろう。マイナスシーリング以降、いかに財政当局に認めてもらえる理屈をつけるかに腐心してきた。初等中等教育で言えば、堂々と35人学級を主張せずに、チームティーチングや少人数指導などの加配で何とか教員定数を増やそうとしてきたのが、その典型だ。2008年度予算でも主幹教諭1000人の配置が認められたのは学校教育法改正を受けてのことであるが、中間管理職が増えたところですぐに教員の負担が軽減されるわけではないことは、以前に既に指摘したところである。振興計画によって予算拡充に弾みをつける、という文科省の戦略も、そうした姿勢の延長線上にあるものでしかない。

 いずれにしても初の振興計画策定は、今年の「骨太の方針」決定スケジュールともからんで、近く決着をつけざるを得ない。今さら新たな調査や論議をする時間的余裕などない。10年の計画期間のうち、もう「今後5年間」は諦めて、後期5年間に向けた準備を始めるべきである。

 初中教育を例に挙げれば、学校規模やクラスサイズと教育効果、チームティーチングや少人数指導と一斉指導との違いなど、国、地方、研究者が、総力を挙げて徹底検証する必要がある。その上で、真に効果がある教育政策として、教育投資も含めた国家戦略を打ち出さなければならない。それには、あと5年あっても足りないくらいであろう。

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【おわび】しばらく更新が滞って申し訳ありません。それにもかかわらず頻繁に閲覧していただいた方、また応援のためクリックまでしていただいた方に、この場を借りて厚く感謝申し上げます。

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2008年4月27日 (日)

【コラム 池上鐘音】執念の調査

▼ある意味、すごい調査である。文部科学省が21日に発表した、「学校図書館の現状に関する調査」「学校図書館図書関係予算措置状況調べ」のことだ。何がすごいかと言って、都道府県はもとより市町村ごとの状況が、こと細かに記載されている。学校図書館にそろえる本の冊数の基準となる「学校図書館図書標準」の達成率を25%刻みで分け、それぞれ何校あるかまで載せているのだから恐れ入る▼統計調査を発表して地方の尻をたたく、というのは、文科省がよくやる手法だ。典型的なものは、かつての日の丸・君が代実施状況調査であった。法制化以前、実施率の低い自治体には大いに効果を発揮した。しかし、これも都道府県・指定都市レベルどまりである。調査が法的に定められた「指定統計」でもないもので、ここまで公表するというのは異例中の異例と言っていい▼子どもにとって本との出会いの場である学校図書館の重要性を否定する人はなかろう。加えて「新しい学力観」や「総合的な学習の時間」の導入を契機に「調べ学習」の重要性は高まっているし、新学習指導要領が求める「活用」および「言語力」を育成するためには、国語の力だけでなく統計や図も含めたデータを読み取り、表現する力が不可欠になる。豊富な図書資料なしには実現しない学習であることも確かである▼しかし、それだけでは文科省の“執念”を説明できない。調査結果にも現れていることであるが、必要な財政措置をしているのに、それがさっぱり各自治体で予算化していない、といういら立ちが、そこには込められている。実際、図書標準の達成率は小・中学校で4割ほどにとどまる。これでは世界トップレベルの学力を目指すことなどできない、とでも言いたげである――といったら、深読みし過ぎであろうか▼学校図書館に関しては「図書整備5か年計画」により、2002~06年度で総額約650億円が計上された。07~11年度には約1000億円に拡充される見通しである。財政事情の厳しい中、これだけ国で措置しているのだから地方もしっかりやってくれなきゃ困る、という言外の主張は、分からなくもない▼しかし、これはあくまで地方財政措置である。自治体に一括して渡される地方交付税は、補助金のように使途が決められているわけではない。必要ないと判断したら予算化しなくても責められることはないはずだ。教育以外の地方自治関係者の中には、顔をしかめる向きも少なくなかろう▼教育財政に関して、文科省は防戦一方だ。義務教育費国庫負担は国の負担率が引き下げられ、増額への起死回生策だったはずの教育振興基本計画は当初からつまづきを見せている。そんな不満のうっ積が八つ当たりとなって地方に向けられた調査だ、というのは、さすがに言い過ぎか▼もっとも、何でも地方任せにすることに対する危機感は、ゆえなしとはしない。教育界では地方交付税が教育以外の費目に使われることの例えとして「橋や道路に化ける」という言葉がよく使われるが、今月16日に東京で開かれた道路特定財源の暫定税率復活を求める総決起大会では、ある首長が「このままでは福祉や教育にしわ寄せが来ざるを得ない」といった趣旨の発言をしていた▼教育問題はどうしても「べき論」や精神論で語られがちだが、公教育はあくまで政策問題として語られるべきものだ。当然、そこには財政の重点化も含めた戦略がなければならないのだが、そうした土壌が国にも地方にも欠けている。そうした意味でもいろいろ考えさせられる調査ではあるのだが、あまりにもマニアックな読み方であることは認めておこう。

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2008年4月19日 (土)

振興計画答申 文科省の戦略は失敗した

 これにはもう、失望感しか抱けない。中央教育審議会が18日、渡海紀三朗文部科学相に提出した、教育振興基本計画の答申である。これが来月に閣議決定されれば、今後10年ないし5年の教育財政のあり方を、逆に縛ってしまうことになる。教育基本法を改正してまで狙った予算の拡充という文科省の戦略は、明らかに失敗したと断じざるを得ない。

 答申文を読んでいくと、これがいったい何の答申なのかという疑問すらわいてくる。これまでの諸施策および検討中だった課題について、総花的に並べただけと言っても過言ではない。

 個別の課題について目指す姿の一々はもっともでも、新規の具体的な数値目標はと言えば、▽成人の週1回以上のスポーツ実施率を50%とする▽世界最高水準の卓越した教育研究拠点150程度を重点的に支援する▽養護教諭未配置校へスクールヘルスリーダーを週1回程度派遣する▽認定こども園を早期に2000件以上とする▽小学校のスクールガイドリーダーを5校に1人程度の割合で配置する――といった程度である。

 答申素案(本頁3月4日付社説参照)よりも、後退した印象さえある。幼児教育を受ける割合を9割に引き上げることや、国公私立を通じた大学コンソーシアムを200件程度するとあった文言は、答申で消えた。「必要な教職員定数を措置する」との表現は残ったものの、「教職に対する強い情熱、教育の専門家としての確かな力量及び総合的な人間力を備えた教員の確保を図り、社会から信頼を得られる学校をつくる」は丸々削除されている。定数増へのけん制であることは明らかだ。教員給与にかかわって「優れた教員を確保するための優遇措置の維持」「人材確保法による優遇措置の基本を維持」とあった素案の表現も、もちろん残っていない。「意欲と能力のある者」が経済的理由により断念することなく教育を受けられるよう条件を整備するという部分では、「意欲」が抜け落ちた。

 象徴的なのは、教育が「未来への先行投資」であるとした文言が削除されたことだ。このキャッチフレーズが初めて登場したのは、細川連立政権下での1994年度文部省(当時)概算要求資料の中だったと記憶している。以後、自民党が与党に復帰しても変わらず使われ続けてきたから、文科省、さらには与野党を超えた文教族の一貫した主張であったとみて間違いはない。ここには、何とかして教育予算拡充の行き詰まりを打破したい、という思いが込められていた。そんな理念すら、取り下げを余儀なくされたのである。

 それに代わるようにして入ったのが、「歳出・歳入一体改革と整合性を取り、効率化を徹底し、まためり張りを付けながら、真に必要な投資を行うこととする」との一文である。教育予算の抑制にお墨付きを与えたようなものだ。経済協力開発機構(OECD)諸国平均よりも低い日本の公財政教育支出のGDP比すら、「単純な指摘はできない」と事実上片付けられている。もっと言えば、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保」するとの物言いは、「欧米先進諸国の開発した科学技術を上手に活用するというこれまでの手法はもはや許され」ないとして国際モデルなき時代への挑戦を宣言した1996年の中教審答申からいっても、大きな後退である。

 確かに、教育改革国民会議で振興計画策定のアイデアを打ち出した2000年の段階では、まだ希望もあったろう。森喜朗氏の後を受けて就任した小泉純一郎首相があれほどまでに規制緩和・構造改革路線を進めるとは、思いもよらなかった。加えて、「ゆとり教育」批判による公教育の信頼失墜である。そんな中で、義務教育費国庫負担は中教審が負担率2分の1の堅持を答申したにもかかわらず、政治判断であっさりと3分の1に引き下げられた。この時点で敗北は決まっていたのであり、それにもかかわらず、ずるずると教基法改正まで望みをつないでしまった。当時の国民会議担当室長であった銭谷真実氏が現在の文部科学事務次官であることは、めぐり合わせの皮肉としか言いようがない。

 計画が来月に閣議決定されるたところで、高等教育など一部に拡充が認められるだけで、初等中等教育にはほとんどメリットがあるまい。むしろ学校現場の苦悩をいっそう深めさせる恐れさえある。もう振興計画に期待することなどやめ、新しい戦略を練ることを考えるべきである。

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«【コラム 池上鐘音】学習塾の無定見