2018年12月26日 (水)

平成教育史・試論 教育課程〈中〉  曖昧な「生きる力」

 「生きる力」の育成――。1996年7月の旧中央教育審議会答申で掲げられて以降、2020年度以降に全面実施となる新学習指導要領でも変わらない、学校教育の理念だ。当時は「子供に[生きる力]と[ゆとり]を」とセットになっていたことさえ、つい忘れがちになる。今もって「ゆとり」の定義がないように、「生きる力」もまた曖昧なものだった。

 もちろん96年答申に、定義らしきものはある。①いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力②自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性③たくましく生きるための健康や体力――というものだ。

 ただ、それが具体的にどのような資質・能力なのか、現在から見ればあまりにも漠としている。「変化の激しいこれからの社会を生きていくために必要な資質・能力の総称」(2016年12月の中教審答申の注記)というのが、実のところ正確ではないか。

 ①にしても、「自ら学び~」は90年改訂指導要領を継承したものだった。一般には「新学力観」と呼ばれたが、当時の初等中等教育局キャリアは「ゆとりと充実」(77~78年改訂)に続く公式のキャッチフレーズを付けることを嫌った。それもレッテルを貼られたくないという以上に、具体化は学校現場の裁量に任せるべきだという考えが強かった。だから事細かに中身を示すことも、あえてしなかった。

 その“空白”を埋めたのは、教員上がりである同局の教科調査官と、中央→ブロック→都道府県→市町村→学校という“伝言ゲーム”だった。生活科の「雀の学校」(むちを振り振り)から「めだかの学校」(誰が生徒か先生か)へ、という説明や、「知識・理解」より「関心・意欲・態度」が上位だという明らかな誤解は典型例だ。

 それでも曖昧な学校教育が案外成功したことは、2000年から始まったPISAの好成績で証明された。今までの延長線上で“何となく”やっていたら、世界でもトップを走っていた。だから文部科学省も「『生きる力』はキーコンピテンシーと軌を一にしている」とうそぶいていられた。

 そもそも「生きる力」という言葉は何となく永田町・霞が関界隈でささやかれ始めたと思ったら、いつの間にか急浮上した感がある。折しも、相次ぐいじめ自殺事件などへの対応が急がれていた時期だ。対策の決定打がないままアピール効果を狙えるのも、曖昧なキャッチフレーズならではだ。

 だから「生きる力」とはどのようなもので、どうしたら育成できるかが整理されるには、今回の改訂を待たねばならなかった。「ゆとり教育」批判に正面から答えるべきだった08年1月の中教審答申も、指導要領の「構造化」は積み残さざるを得なかった。それだけ困難な課題だったことも確かだろう。

 では、今回の資質・能力論によって本当に「生きる力」は明らかになったと言えるのか。そこをはっきりさせることが、平成の教育課程史にとって重要なことだと思えてならない。いや実は単なる回顧ではなく、新指導要領の実現はもとより教員の働き方改革の成否さえ握っていると言ったら飛ばし過ぎであろうか。

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2018年12月24日 (月)

【池上鐘音】明治と平成

▼フリーに休みはない。平成最後の天皇誕生日も、原稿を書いていた。19日に文部科学省が開催した、明治150年記念の教育シンポだ。政権への忖度(そんたく)がはびこる中、やっと年内に間に合わせたかのように設定された割に中身はまともだった▼教育史で明治といえば、真っ先に思い浮かぶのは元年ではなく5年(1872)の学制発布だろう。しかし、それに先立つ明治2年に京都では町衆が竈(かまど)金を出して64校もの小学校を日本で初めて創設した――パネリストとして登壇した門川大作市長のそんな話を、毎度のことと思って聞き流していた▼あらかた書き上げ、疲れた頭をクールダウンさせようと読みかけの『仏教抹殺』(鵜飼秀徳著、文春新書)を開いた。明治150年は、廃仏毀釈(きしゃく)150年でもある。浄土真宗の僧侶でもあるジャーナリストが各地をルポした最終章は奈良、京都だ▼全国各地を取材していると、寺と隣接する小学校が多いのに気付く。沿革に寺の境内で創立されたことを記す学校も珍しくない。しかし同書によると京都でスピード整備ができたのは、廃仏毀釈で廃寺となった跡地に伽藍(がらん)を転用して校舎を新設したからだ▼「神道そのもののシンボルとなった天皇家もまた、神仏分離政策に翻弄(ほんろう)された存在だった」(同書)こともまた、維新の側面である。いま我々が信じている日本の「伝統」も、わずか150年ほど前に創られたものが少なくない。学校教育も、そんな危うさの上に建てられている。

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2018年12月11日 (火)

【内側追抜】改正入管法

「優秀な外国人材はご飯ではなくパンを食べるので、移民政策ではありません」

   ――某首相

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2018年11月24日 (土)

【内側追抜】万博決定

「次はオイルショックだな」

   ――相場師

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2018年11月23日 (金)

平成教育史・試論 教育課程〈上〉 「ゆとり教育」論を超えて

 天皇の代替わりが近づくにつれ、平成史を振り返ろうという企画が各紙で相次いでいる。教育に関しては、当然「ゆとり教育」が重要なキーワードの一つとなろう。ただ、これまでの報道ぶりを見ると、よくまとめているなと思う反面、隔靴搔痒(そうよう)の感も否めない。

 これに対して先輩記者・教育ジャーナリストである矢内忠氏の「平成の学校教育30年史」(時事通信社『内外教育』連載中)は平成の教育、中でも「ゆとり教育」研究の基本的文献となるべき論考だ。とりわけ学力低下論の影に経済産業省の存在があったこと(4月10日付)は、他にほとんど指摘されていない。

 その上で論じるのは蛇足以外の何物でもないのだが、かねて「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」という用語を使うべきではないという立場を取る本社としては、斜に構える本領を発揮して別の角度から未来志向の平成教育史を展望しておきたい。

 もっとも文部科学省は2016年5月の文部科学相メッセージで、それまで慎重に避けてきた「ゆとり教育」を行政用語として解禁してしまった。だから教育マスコミの端くれの端くれである本社も、本来は「ゆとり教育」をカギカッコ無しの用字用語として認めるべきなのだろう。それでもなお「ゆとり教育」は適切ではなく行政として撤回すべきだし、社会現象としてはともかく教育政策を分析する用語としても不適切である、という見解に変わりはない。

 そもそも先の文科相メッセージに、「ゆとり教育」の定義はない。「『ゆとり教育』か『詰め込み教育か』といった、二項対立的な議論には戻らない」と、否定的な文脈で使っているだけだ。08年1月の中央教育審議会答申で「『ゆとり』か『詰め込みか』」としていた文章に「教育」を付けただけだとも言えなくもない。

 確かに文部科学省担当者は口頭で、「『ゆとり教育』には戻らない」と明言することがある。それだけに文科省が「ゆとり教育」の過ちを認めて「脱ゆとり教育」にかじを切ったというストーリーは、いっそう確からしく耳に響く。

 しかし繰り返すようだが、「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」には今もって文科省にすら定義がない。そのため、使う人によって意味内容が違ってしまう。それでは議論がかみ合いようもないし、平成教育史から教訓を得ることもできない。

 その点、矢内氏が先の連載で銭谷眞美・元文部科学事務次官から「私は『ゆとりと充実』の指導要領の時から、教育の問題を考える際の基本構図はずっと変わらないと思っている」という発言を引き出したのは貴重だ。

 実は文科省は、方針転換などしていない。授業時数や授業内容の増減だけを言うなら方針転換と呼べるかもしれないが、学習・授業の質の改善という点では頑固なほど一貫している――というのが、本社の見方だ。

 しかし、そのこと自体が今回の改訂を受け止める現場に混乱をもたらし、ますます疲弊させるのではないか。そればかりか、世界的潮流を受けた未来志向の教育に一刻の猶予もないはずなのに、かえって禍根を残す結果を招くのではないかという危惧さえ抱いている。今後、改めて展開したい。

【過去の社説】
もうやめよう、「ゆとり教育」論議
高校新指導要領 「脱ゆとり」どころではない
高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな
馳「ゆとり決別宣言」は間違いだ

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2018年10月12日 (金)

就活指針廃止 もう経団連に教育を語る資格はない

 経団連が「採用選考に関する指針」の廃止を正式決定した。これを受けて政府は、関係省庁連絡会議で現行ルールと同じ日程を決める方針だという。経団連もオブザーバーとして参加するらしい。

 確かに現行ルールは形骸化しているし、新卒一括採用そのものが時代に合わないというのも正論だろう。中西宏明会長は大学教育の現状に対して厳しい見方も示しているが、それも経済界からの要求としては分からなくもない。

 しかし今回の一件は、経団連がその社会的責任を放棄した、あるいは昔のように社会的責任は負えないと宣言するに等しい。既に大企業が日本経済をリードする力がなくなったというのなら、その通りだろう。ならば経団連は、経済界を代表して教育に口を出す資格も力も失ったことを認めるべきではないのか。

 大学教育をめぐっては現在、「三つの方針」に基づく大改革(3ポリ改革)が急展開している。その大きな動機の一つは、経団連をはじめとした経済界からの強い要請だった。責任を持ってしっかりした大学教育を求めるのなら、逆に日程の後ろ倒しを求めるべきところだろう。

 政府の新ルールが法的拘束力でも持たない限り、実質的には今以上の早期化を容認することになるのは必定だ。そうなれば大学教育に更なる支障をきたすのは必定だ。中西会長は、言っていることとやっていることが本質的に矛盾していることに気付いていないらしい。

 本社はかつて、内定ではなく即採用すべきだという主張を展開した。本気で新卒一括採用を見直すというのなら、在学中の内定は一切やめるか、卒業を待たずに採用するかするのが筋だ。

 本来は卒業論文・研究を含めた4年間の成長まで見届けなければ、学生の資質・能力を正当に評価することなどできないはずではないか。3ポリ改革が進む現在なら、なおさらだ。それでもなお優秀な人材だと在学中に判断できるのなら、卒業を待たずに採用すればいい。早く内定という唾を付けておきたいというのは、都合が良すぎる。

 それによって必要な人材が確保できないとしても、既卒者を含め通年採用で努力するしかない。それでもなお不足するなら、入社後に人材育成コストを掛ける必要も出てこよう。そこまでの覚悟で今回の廃止を打ち出したのでなかったとしたら、あまりにも勝手すぎる。

 政権の姿勢に関しては、改めて論じよう。まずは経団連が責任を放棄した以上、これ以上の無責任な発言は控えることを勧めたい。

 

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2018年10月 8日 (月)

専門職大学 何だこのお粗末さは

 驚いたというより、あきれた。来年度からスタートする専門職大学等について、申請のあった17件のうち設置認可が答申されたのは1件だけだった。2件は保留だから複数の大学・短大が初年度開設校となる可能性は高いが、既に14件が取り下げたという。

 大学設置・学校法人審議会も吉岡知哉・大学設置分科会長名で声明を出し、▽実習の内容、評価基準、実施体制が十分検討されていない▽優れた実務上の業績がない者が実務家の教授等として申請されている▽実践的かつ創造的な専門職業人材の専門性の支えとなるべき理論の教育が不足している▽教育課程連携協議会の構成員が不適切▽「実践の理論」を重視した研究を行う施設・設備が整備されていない――など「専門職大学制度の特色を活用してその社会的使命を十分に果たす適切な設置計画としては認められないものが多くみられた」と厳しく指摘。 「制度創設初年度であるものの、総じて準備不足で法人として大学設置に取り組む体制が不十分と感じられた」としている。もう、けちょんけちょんである。

 はっきり言って、専門学校気分が抜けていない申請が多かったのではないか。よもや、さほどの「お友達」でもないのに政権の後ろ盾と忖度(そんたく)を期待していたわけではあるまい。

 そもそも専門職大学等の制度化自体、怪しいものだった。元々は2007年9月、安倍晋三首相が第1次政権を福田康夫氏に禅譲した2日後に設置が決まった「専修学校の振興に関する検討会議」で、専修学校を1条項に位置付けるべきだとの関係者の主張に対して大学関係者などから猛反発があり、議論を引き継いだ中央教育審議会が民主党政権下の11年1月答申で「職業実践的な教育に特化した枠組み」を新たな学校種として創設することを提言しながら、捨て置かれていたものだ。

 それが安倍首相の政権奪還を経て、教育再生実行会議第5次提言に学制改革の目玉として「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関」が盛り込まれた。これを受けた文部科学省は「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」を発足させ、新たな学校種を断念して大学体系の中に位置付けることで決着。16年5月の中教審答申で制度設計が決まった。その間、日本再興戦略や「骨太方針」など政府からの援護射撃が続けられたことも見過ごせない。

 しかし検討会議や中教審の議論を聞いていても、なぜ新しい学校種や枠組みが必要なのか、既存の大学・短大では対応不可能なのか、明らかに議論はかみ合っていなかった。代わりに垣間見えたのが、私学助成を受けられる私立大学と違って都道府県認可である専門学校に国費を流せる仕組みをいかに作るかという、あからさまな利益誘導だ。18歳人口減少を見越した、専門学校の生き残り策であることも透けて見える。

 中教審答申後は不気味なほどスムーズに学校教育法改正にこぎつけ、19年度からの発足が決まった。その果てが、このしまつである。

 もちろん、「職人大学」構想からケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD、現あんしん財団)の汚職事件を経て創設された私立大学が一定の評価を得ているように、出自が怪しくても大化けする可能性はなくもない。しかし初年度申請を見る限り、全体として「産業界と密接に連携して教育を行う新たな高等教育機関として期待されている」(11月末に予定される中教審答申案)という内実が伴っているとは、とても思えない。

 ましてや実務家教員が多いとの理由で「真に必要な」学生への高等教育無償化措置で優遇されるとしたら、お門違いである。今後の動向にも注視していく必要がある。

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2018年10月 6日 (土)

【池上鐘音】大臣の資質

▼柴山昌彦文部科学相が5日の閣議後会見で、教育勅語の現代風アレンジを「検討に値する」とした2日の就任会見での発言を撤回しない考えを明らかにした。文科省として活用を促したものではなく、個人や団体レベルで検討されていることに賛意を示したのだという▼柴山文科相は「あくまでも記者の質問に答えたもの」だと弁明し、「会見録を見てほしい」と繰り返したが、思い違いも甚だしい。就任会見は文部科学行政の長としての姿勢を、記者が読者・視聴者=国民の代表として問うものだ。しかも個人的見解などと注釈を付けることもしなかったから、それが教育課程行政に臨む新大臣の姿勢だと、会見録を素直に読めばそう受け止めざるを得ない▼こうした類の話は、支持者を前にしたスピーチではよくあることだ。「検討」している団体の前なら、なおさらだろう。しかし、公の会見で発言するのとは訳が違う。かの中山成彬氏ですら、文科相時代には外での大放言と会見での慎重な発言を使い分けていた。柴山文科相は外務政務官や総務副大臣を歴任しているが、いったい何を勉強してきたのか▼当人は悪気がなかったのかもしれないが、こうした曖昧な姿勢が忖度(そんたく)されて結果的に行政がゆがめられる恐れがあることは、先の社説で指摘した。それが分からないようであれば、大臣としての資質を疑わざるを得ない。いわんや文部科学相においてをや、である。

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2018年10月 4日 (木)

教育勅語の活用 柴山新文科相は即撤回を

 2日に就任した柴山昌彦文部科学相が会見で、教育勅語を現代風にアレンジして「道徳等」に使うことを「検討に値する」と述べた。おそらくは文教・科学技術行政の課題が多すぎて、「特別の教科 道徳」(道徳科)の創設経緯や趣旨についてレクチャーを受ける時間がなかったのだろう。

 改めて振り返るまでもなく道徳科は「考え、議論する道徳」への転換を目指したものであり、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」(2016年12月の中央教育審議会答申)。たとえ教育勅語が掲げる徳目に柴山文科相が個人的に「普遍性を持っている部分が見て取れ」たとしても、アレンジだろうと何だろうと「教えていくことも検討に値する」というのは大臣発言として不適当のそしりを免れない。

 文教行政に明るくない柴山文科相は、おそらく過去の国会答弁や質問主意書に対する答弁書をもって、教育勅語を教材として用いることを否定しないのが政府統一見解だと思っているのであろう。しかし、答弁した当時の下村博文文部科学相自身が「考え、議論する道徳」の提唱者であったことを見逃してはならない。

 もちろん、下村氏は柴山文科相のような混同も狙って確信犯的に「従来の文科省の慎重な姿勢を一変させる答弁」(前川喜平・元文部事務次官、毎日新聞出版『面従腹背』)を行ったのであろう。しかし厳密に適用しようとすれば「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」ことに疑いはない。

 それでも実際には『星野君の二塁打』にみられる通り、特定の価値観に誘導するような実践が残念ながら学校現場で行われていることも否定できない。そんな筋の悪い教材を検定教科書に採用することを容認あるいは促進してしまっているのは、政権の意図的な姿勢によるものに他ならない。

 そうした経緯や実態に無自覚な新大臣が教育勅語の「中身」を教えることを容認するような発言をしてしまっては、ますます「考え、議論する道徳」の趣旨がゆがむ。考え、議論した上で「普遍的」な価値に到達させようというのは、まさに「目指す方向の対極にある」ものである。

 教育現場に悪影響を及ぼさないためにも、そして何より大臣発言を根拠として教育現場に不当な介入を招かないためにも、金曜の定例会見で即刻撤回すべきだ。

 弁護士出身で安倍晋三首相にも近い柴山文科相は、不祥事続きの文科省を立て直す役割を担っているらしい。そうした新大臣に萎縮して文科省職員が注進しなかったとしたら、現場に混乱をもたらすどころか、ますます行政がゆがめられることになろう。たとえ柴山文科相が意図していなくても、である。

 それが分からないのであれば、国会が混乱する前に辞表を準備しておいた方がいい。省内に「あいさつ」運動など勧めている場合ではない。

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2018年9月17日 (月)

新指導要領の全面実施に危機感を

 NHK総合のクイズバラエティー番組『チコちゃんに叱られる!』が話題になっている。それに倣えば「学校現場の足元が揺らいでいるのに、やれSociety5.0だの、EdTeckだのと浮かれている日本人の、何と多いことか」と言いたくなる。

 経済協力開発機構(OECD)が先ごろ公表した「図表でみる教育」2018年版のカントリーノート(国別要旨)によると、日本は学校裁量で決定する事項は21%にすぎない。それも「上位の当局が規定する枠組み内」でのことだ。

 20年度から順次、全面実施に入る新学習指導要領は、変化の予測が困難な社会に向けて必要な資質・能力の育成を打ち出す一方、学習内容を削減せずに実質的には増加させ、かつ知識の確実な習得までをも引き続き求めている。「質も量も」を実現するにはアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)とカリキュラム・マネジメント(カリマネ)の両輪で学校裁量を最大限発揮しないと、とてもこなせるものではない。

 インターネット会見でアンドレアス・シュライヒャー局長は新指導要領について、シンガポールやフィンランドのように自由度が高い教授法の革新に進んでいくことに期待を示した。それには専門職としての自律性や現場の裁量権、教師の働き方改革が必要だとしながらも、基本的には「21世紀で最も成功している」日本の教育制度を楽観視しているようであった。

 しかし、7月の「日本の教育政策レビュー」では、そうした教育モデルの持続可能性に警鐘を鳴らしていた。国内的には、そちらの方を深刻に受け止めるべきだろう。

 指導要領の改訂諮問以来、現場ではALへの関心が急速に高まった。「大学入試が変わらないと授業は変えられない」とうそぶいていた高校までも、である。それ自体は結構なことだ。しかし現場の教員が嬉々として授業改善に取り組む陰で、多忙化に拍車が掛かったことも否定できまい。

 そもそも現下の深刻な多忙化の要因には、「ゆとり教育批判」を受けた学力向上対策も大きい。もともと教えたがりの教員は、多忙感を抱かないまま長時間過密労働を唯々諾々と受け入れた。一方で、その中から単なる学力テスト対策だけでなく「PISA型学力」の模索も生まれた。

 いったん低下した学力がV字回復したという文部科学省のストーリーは、少なくとも「生徒の学習到達度調査」(PISA)に限ればOECDが言う通り事実ではない。ただ、いわゆる「ゆとり教育」にせよ「脱ゆとり」にせよ徹頭徹尾、過労死ラインをもいとわない現場の努力による成果だということを忘れてはいけない。

 「図表でみる教育」には、そんな現場の困難な状況が一向に改善されていないことを示すデータにもあふれている。むしろ、そこに注目して今後の教育政策を考えるべきだろう。

 OECDの立場からは、新指導要領はもとより教育の無償化を進める日本政府の方向性を好ましく評価するのは当然だろう。しかし第3期教育振興基本計画ひとつ取っても、国外から見た期待に値するほどのものではないことは明らかだ。

 まずは政策レビューの推奨事項にあるように「指導要領の改訂実施を優先する」ことを第一に考えて、その条件整備が本当に整っているかを、まさに真の意味でエビデンス(客観的な証拠)に基づいて検証すべきだろう。これ以上、裁量もないのに「子どものため」なら何でも引き受けてしまう良心的な現場に無理を強いるべきではない。

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