2018年5月17日 (木)

【社告】本社社員出演情報

 〔中国地方注〕あす朝7時14分ごろ、広島RCCラジオ『本名正憲のおはようラジオ』に、本社論説委員が電話出演を予定しています。テーマは「先生が足りない!教育現場の現状とは」。

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2018年4月10日 (火)

文教行政の危機 政官の関係を見直す時だ

 森友・加計学園をめぐる忖度(そんたく)問題、前川喜平・前文部科学事務次官の授業内容に対する文部科学省の照会問題――。防衛省の日報問題は本社の範囲外なので論じないが、根は同じである。安倍1強体制の下で、前川氏が言うように行政がゆがめられている。

 「政治主導」は民主党政権が打ち出したものだが、少なくとも文部科学省においては政権発足当初の混乱を別にすれば、比較的うまく対応していたように思う。それは55年体制の下で、野党も含めた全方位的な国会対応によるノウハウがあったからだろう。

 しかし安倍自民党が政権を奪取し政治主導を狡猾に利用するようになると、文科省も他省庁と同様に相対的自律性を急速に失っていく。その中でも前川氏は、よく「面従腹背」を保っているなと当時から感心していたものだ。

 それでも下村博文氏が文部科学相の時には、誰が「主導」していたかが記者会見などで目に見えていた。自民党の「隠れキリシタン」(前川氏)馳浩文科相もそうだ。しかし水面下および松野博一文科相以降は、誰がどういう過程で忖度を迫っているかは、少なくとも国民には見えなくなっている。

 既に論じられているように、内閣人事局が霞が関にさまざまな弊害をもたらしていることは明らかだ。文教行政にとっても、一刻も早い廃止が求められよう。

 時々の政権が政治決断によって政策を主導するのはいい。それが民主主義の原則にかなっているからだ。しかし、それにブレーキを掛けて至極まっとうな政策に練り上げるには、官僚の力が欠かせない。政権に対する相対的自律性が、今こそ求められる。

 55年体制の時代がすべて良かったと言うつもりはないし、経済成長が望めない財政難の時代にあって、それが復活できるものとも思えない。だからこそ、政権交代時代に対応した政官の関係を見直す必要がある。

 気になるのが、省内での世代交代だ。天下り問題に伴う人事の混乱も相まって、かつての文教行政の“常識”が急速に失われているのではないかと懸念する。前川授業照会問題は、その典型だろう。

 何より行政のゆがみは、教育現場にツケが回される。しかし政権や与党の勝手に振り回されている場合ではない。22世紀まで生き抜く子どもたちにどういう教育を行うべきか、そのための条件整備はどうあるべきかについて真摯に考え、限界の中でも実現を図ろうとする文教行政が、今ほど切望される時はない。

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2018年3月18日 (日)

前川氏授業の調査 深刻な文科省の「世代劣化」

 名古屋市立中学校が前川喜平・前文部科学事務次官を講師に招いた2月の総合的な学習の時間について、文部科学省初等中等教育局教育課程課が市教委に授業内容の報告を要請していたことが分かった。きっかけは国会議員からの問い合わせだったというが、それにしては文面に前川氏への悪意が感じられる。

 天下り問題で辞職し、出会い系バーを利用した同氏を、道徳教育が行われる学校の場に、どのような判断で依頼したのか――。まるで前川氏の人格が反道徳的であるかのような書きぶりである。天下りはともかく、出会い系バーの方は違法性がないにもかかわらず一部新聞が1面肩で報じた在り方が政権側の意図をくんだと批判され、その後の週刊誌報道で性的欲求を満たす意思がなかったことが明らかにされたにもかかわらず、である。

 旧文部省系の現役官僚には前川氏を慕うだけでなく、批判的な者も相当数いるようだ。今回の報告要請の背景に、前川氏に対する怨嗟(えんさ)がなかったとは言えまい。しかも「考え、議論する道徳」を進める立場の初中局が、前川氏の道徳性を断じている。それも、その官僚たちが考える官僚としての道徳的価値で判断しているにすぎない。

 そんな省内の人間関係を問題視するのは、決して業界紙誌的な野次馬根性ではない。世代間のギャップが、今後の文教行政に深刻な劣化をもたらしかねないと懸念するからだ。

 少なくとも前川氏までの世代なら、個別学校の授業実践を文科省が直接問い合わせるなどということには極めて抑制的であるべきだという暗黙の合意があった。それは戦前・戦中の教育に対する反省であるとともに、戦後の「偏向教育」問題や教科書裁判など激烈な教育権論争を通して、旧文部省なりに得た教訓である。調査するにしても、ソフトなやり方はいくらでもあったはずだ。

 しかし最近ではいじめ問題や教科書採択問題など、担当課はもとより政務三役さえ現場に出張って調査する事例も珍しくなくなった。それが「異例」であるという感覚がまひし、法令上は何ら問題はないと平気で容認してしまう。

 例えば学習指導要領に関して、2003年の一部改訂をめぐり若手官僚には「なぜ改めて指導要領の基準性が問題になるのか。もともと指導要領は大綱的基準であって、現場の裁量が大幅に認められているではないか」という声があったという。指導要領通り、教科書通りに教えないことがしばしば政治問題化した戦後教育の歴史をまったく知らない世代らしい。日教組分裂後に採用された年次が既に課長級になっているから、それも致し方ないのかもしれない。

 しかし歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできないだろう。それで高校の新科目「歴史総合」を推進しようとしているのだから、先行きが不安である。

 今回の問題でもマスコミに発言している文科省OBの寺脇研氏は、前川氏との対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)の中で、「命がけの文部官僚」剱木亨弘(けんのきとしひろ)元文部相を話題にしていた。そこまで苛烈ではなくとも、歴史的葛藤の下に営々と積み上げられてきたのが文教行政の英知だったはずだ。それを顧みずに「明治150年来」などと言って済ましている場合ではない。

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2018年3月12日 (月)

【内側追抜】官邸にて

某官房長官「辞めた前長官に風俗通いはなかったのか」

某内調幹部「…」

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2018年2月28日 (水)

PISAグローバル・コンピテンス 「不参加」は解せない

 文部科学省が、2018年の「生徒の学習到達度調査」(PISA)で初めて実施される「グローバル・コンピテンス」調査への参加を見送る方針を決めたという。時事通信の16日配信記事によると、「多様な文化的背景や価値観を、一つの尺度で順位付けされる懸念があるため」というのが理由だ。

 まったく解せない。既に経済協力開発機構(OECD)は、国と生徒のランク付けに使用しないことを明らかにしている。もし順位を付けたとしても主要3分野と同様、各国が教育政策を検証するためであって国際学力コンテストでも何でもないことは文科省自身が認識しているはずではないか。

 PISA2015の協同問題解決能力(CPS)に続き革新分野として実施される同調査が開発途上であることも、OECD自身が認めている。グローバル・コンピテンスの4側面のうち「知識」「認知スキル」「社会スキルと態度」は測定するものの「価値観」は以降の課題として先送りするのが、いい例だ。

 しかし新学習指導要領は、「グローバルな視野で活躍するために必要な資質・能力の育成」(2016年12月の中央教育審議会答申)を掲げていたのではなかったか。外国語によるコミュニケーション能力の育成を徹底するため、大学入学共通テストに外部資格・検定試験を活用してまで4技能評価を導入しようとさえしている。たとえ完璧な調査でなくても、課題を発見し改善につなげるため一刻も早く参加すべきだと判断するのが筋だろう。

 文科省の思惑は容易に想像できる。都合の悪い結果が出て、PISA2003が学力低下批判を過熱化させたような事態を今から避けたいのだろう。それでいてエビデンス(客観的な証拠)に基づく教育政策を進めようとしているのだから、矛盾した姿勢だと言わねばならない。

 むしろ国内のみならず国外でも、他国や異文化・異民族に対する不寛容さが問題になっている。アンドレアス・シュライヒャーOECD教育・スキル局長が昨年12月、日本の記者向けにインターネット会見を行った際の配布資料にあった表題「インクルーシブかつ持続可能な世界に向けた若者たちの育成」が、いまグローバル・コンピテンスを問わなければいけない課題意識を象徴していよう。

 ましてや東京五輪・パラリンピックが2年後に控えている。安倍政権は、これを起爆剤として一気にグローバル化対応を図りたい考えだったはずではないか。そのために指導要領の改訂時期を早め、20年度から小学校英語を教科化することにまで突き進んだ。しかも授業時数が確保できないのに短時間学習の導入などという無理を押して、である。

 グローバル化対応の教育は、決して一部の国際エリート育成にとどまるものではない。シュライヒャー局長も、地域課題を解決するためにもグローバル・コンピテンスが不可欠だと強調していた。ますます新指導要領の趣旨にかなう話だろう。

 ぜひ文科省は方針を転換して参加を決めてほしい。結果が出たときにどう説明するか、その準備は今からなら十分できる。むしろ偏狭なヘイトスピーチ(憎悪に基づく発言)が広がる中、先導的に国内調査を行うぐらいの積極的姿勢が不可欠だろう。 是非とも忖度(そんたく)なしの判断が求められる。

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2018年1月 8日 (月)

【社告】本社社員出演情報

 9~11日、首都圏ネットのFMラジオJ-WAVE(81.3mhz)『JAM THE WORLD』のコーナー「CASE FILE」(19:30~19:35)に本社解説委員が3回にわたって録音出演を予定しています。テーマは「2018年問題」。

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2017年12月31日 (日)

【池上鐘音】失望続きの2017年

▼2017年は文部科学省の天下り問題をめぐり前川喜平事務次官の引責辞任で明けた。その後、加計学園問題の渦中に巻き込まれようとは当人も予期していなかったろうが、安倍1強体制の下で行政に忖度(そんたく)がまん延していることが白日の下にさらされた。面従腹背の愛すべき放言官僚が去っただけにとどまらず、後で振り返れば文教行政の変節点にならないかと心配だ▼その前川氏も大きく関わった新学習指導要領の義務教育諸学校分が告示され、解説書も発行された。前年末の中央教育審議会答申に沿ったものとはいえ、「ゆとり教育批判」の再燃を恐れるあまり学習内容の見直しを行わないまま「資質・能力の三つの柱」の枠を無理やり各教科等に当てはめ、かつ小学校英語の教科化をはじめ実質的に「量」も増やしたのでは、肝心の「質」が心配になる▼教育課程改革と車の両輪と位置付けられた高大接続改革も、目玉の大学入学者選抜の実施方針等が公表された。議論の迷走で肝心のテスト開発が遅れ、かつ理論的根拠の薄弱なことが露呈してきている。個別大学選抜でのコンピテンシー(資質・能力)評価も、どうなるか。何より「公平な入試」論の復活で「公正な選抜」理念が忘れられ、主体性・多様性・協働性のうち「多様性」がいまだに顧みられないのが残念だ▼両輪改革で、間違いなく教育現場の多忙化に拍車が掛かろう。中教審答申で議論が始まった「学校の働き方改革」は矢継ぎ早に緊急提言、中間まとめを出したが、まずは現場に努力を強いるものと言わざるを得ない▼その裏付けとなるべき来年度予算も官僚的には「改善」を勝ち取ったとしても現場にとっては「改革」に及ばないことは、先の社説で指摘した。「胡麻(ごま)の油と教員は絞れば絞るほど出るもの」だとでも思っているわけではないだろうが、結果的にそうなっている▼改革論議を聞いていて、何かと出てくるのが「教員志望の学生」だ。教員の質向上策としての教職課程改革のみならず、多忙化解消策のためのボランティア要員としてまで期待がかけられる。既にアルバイトの余裕すらなくなっているというのに▼そんな隙をついて忖度で文教行政を浸食しつつあるのが、北朝鮮のミサイル危機に乗じた「国民保護」対応だ。教職課程コアカリキュラムを皮切りに、第3期教育振興基本計画にも盛り込まれようとしている。憲法改正論議と相まって、本当に戦争の足音が学校に迫ってくるのではないかと心配になる▼年末が近づくにつれて失望感が増してくる中、来年こそはよい年にと思いたい。だだし現段階で、そんな展望を描ける状況にはない。教育こそが唯一の希望だと信じたいが、それを育む教員たちを案じるばかりだ。

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2017年12月29日 (金)

教師の働き方 「改革」には遠い

 中央教育審議会が報告した「学校の働き方改革」の特別部会中間まとめを受けて、文部科学省が緊急対策をまとめた。中教審総会の前には、2018年度予算案も閣議決定されている。少なくとも現状では、なお「改革」には程遠いと言わざるを得ない。

 もちろん中間まとめで、学習・生徒・進路指導など明らかに学校の業務以外に、これまで学校が引き受けてきた業務を14項目に整理し、学校が本来担うべき業務かどうかを「仕分け」(文科省)した意義は大きい。8月末の緊急提言で、教師の勤務時間の把握を求めたことに次ぐものだ。

 ただ、これも単に曖昧で済まされてきたことを、やっと明確化しただけにすぎない。しかも「基本的には学校以外が担うべき業務」と判定されたなら、明日にでも勤務から外されなければ道理が通らないはずだ。しかし登下校ひとつ取っても緊急提言が「連携を一層強化する体制を強化する」としているのは、何も言っていないに等しい。

 教師の本来業務はもとより、 「教師の業務だが、負担軽減が可能な業務」にしてもそうだ。負担軽減を言うなら、それ相応の予算措置が講じられてしかるべきだろう。ただ中教審の緊急提言を「受けた」文科省概算要求自体、義務教育費国庫負担金の総額をマイナス要求の範囲内に収めるなど不十分なものだった。しかも予算折衝では、小学校英語の加配要求が単年度2200人(9年間で6635人)から1000人(4年間で4000人)に圧縮された。中学校の生徒指導強化に至っては、500人(9年間で4100人)の要求に対して単年度50人という馬鹿みたいな数字だ。

 それでも省庁の論理からすれば、厳しい財政事情の中でも「改善」を勝ち取れたという評価になるのだろう。林芳正・文部科学相は閣僚折衝後の会見で①20年度段階での学級数減を見込んだ②標準授業時数を大幅に上回って授業をしている学校は、「働き方改革」の観点から現在の授業時数の範囲内で実施することが可能――という点から必要数を見直したと説明した。

 看過できないのは②だ。1998~99年告示の学習指導要領が実施直前になって巻き起こった「ゆとり教育批判」に対処するため、指導要領が「最低基準」だと突然言い張って教育現場に学力向上対策を求めたのは、いったいどこの省庁だったか。その結果、現場は標準時数以上の「確保」に奔走して学力向上の「V字回復」を果たしたが、それが多忙化に拍車を掛けたことは疑いがない。

 それなのに中間まとめには、「これまで学校現場に様々な業務が付加されてきた反省を踏まえ、今後、文部科学省において学校へ新たな業務を付加するような制度改正等を行う際には、既存の業務との調整や義務付けの必要性の検証、必要な環境整備等を行う必要がある」という一文さえある。いったい反省や検証は、いつするのか。

 もちろん、文科省の苦しい立場は分かっている。政権や文教族の後押しもないまま、徒手空拳で挑まなければならない状況に置かれているからだ。しかし、だからといって教育現場に努力ばかりを押し付けるのでは、進む改革も進まない。

 むしろ旧来の同省の行政手法が現下の課題解決に機能不全を起こしていることが露呈した、とみるべきではないか。ならば率先して「付加」した分の削減を提案するぐらいの覚悟が必要になろう。国民の総反発を招いても、だ。

 指導要領の改訂にしても、「質も量も大切」だとして実質的には質の分を大幅に増大させ、それに必要な条件整備は「死ぬ気で頑張る」と言った結果がこれだ。省や官僚個人を責めているのではない。予算獲得の見通しは暗い、という冷徹な現状認識をすべきであり、官僚的答弁ではなく、できないものは正直にできないと説明すべきだと言いたいだけだ。

 これはひとえに文教行政だけの責任ではないだろう。精神論だけで勝とうとした太平洋戦争末期の状況から、日本人の体質はなかなか脱却できない。国民学校が、その先兵を果たした教訓を忘れていないか。それで中間まとめも言う「日本型学校教育」の維持も何もあったものではない。

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2017年12月12日 (火)

【内側追抜】某勉強会で

わたくしは最近、反省ノートをつけ始めました。これで改めて首相の座を目指したいと思います。

      ――某元防衛相

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2017年12月 2日 (土)

【池上鐘音】「忖度」の本質

▼今年の「ユーキャン新語・流行語大賞」(自由国民社)年間大賞に、「インスタ映え」と並んで「忖度(そんたく)」が入った。当然だろう。選に漏れていたら、それこそ政権に忖度したかと疑問を抱かざるを得ない▼発端は籠池泰典・森友学園理事長(当時)が日本外国特派員協会で記者会見した際の発言だったが、事は「瑞穂の國記念小學院」、あるいは加計学園による岡山理科大学獣医学部の設置認可にとどまらない。政府全体に、安倍首相の意向を忖度する雰囲気がまん延していることだ▼加計学園問題で「総理の意向」文書を「なかったことにはできない」と証言した前川喜平・前文部科学事務次官は官邸ゴリ押しのもう一つの例として「明治日本の産業革命遺産」を挙げていたが、それだけではないだろう。本社説でもたびたび取り上げた「ミサイル教育」も、その一端でしかない▼霞が関通の間には、官僚が内閣の意向を忖度するのは当然だといった受け止めもよく聞かれた。それも昔から仕事のうちではなかったか、と。しかし問題の本質は前川氏が言うように、それによって「行政がゆがめられた」かどうかである▼その前川氏でさえ、在職時には表立って官邸に盾突くことはできなかった。「なぜ現役の時にやらなかったのか」という批判は関係者の間にも根強いが、とりわけ下村博文氏が文部科学相だった時にそんなことが不可能だったことは誰しも分かっていよう▼寺脇研氏との対談『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)では加計学園の設置認可を進め、文科省を批判してきたのが「規制緩和」論者であることを指摘している。財務課長時代の義務教育費国庫負担問題以来、規制緩和派の官僚に文字通り体を張って対峙してきたのが前川氏だ▼たとえ首相の直接的な指示がなかったとしても、官僚がその意向を忖度して適正なスキームを作って「国家権力の私物化」(同書)を正当化してしまう。そのことの方が恐ろしいし、民主主義の危機ではないのか。

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«小中教員 9000億円タダ働き!?