2018年10月12日 (金)

就活指針廃止 もう経団連に教育を語る資格はない

 経団連が「採用選考に関する指針」の廃止を正式決定した。これを受けて政府は、関係省庁連絡会議で現行ルールと同じ日程を決める方針だという。経団連もオブザーバーとして参加するらしい。

 確かに現行ルールは形骸化しているし、新卒一括採用そのものが時代に合わないというのも正論だろう。中西宏明会長は大学教育の現状に対して厳しい見方も示しているが、それも経済界からの要求としては分からなくもない。

 しかし今回の一件は、経団連がその社会的責任を放棄した、あるいは昔のように社会的責任は負えないと宣言するに等しい。既に大企業が日本経済をリードする力がなくなったというのなら、その通りだろう。ならば経団連は、経済界を代表して教育に口を出す資格も力も失ったことを認めるべきではないのか。

 大学教育をめぐっては現在、「三つの方針」に基づく大改革(3ポリ改革)が急展開している。その大きな動機の一つは、経団連をはじめとした経済界からの強い要請だった。責任を持ってしっかりした大学教育を求めるのなら、逆に日程の後ろ倒しを求めるべきところだろう。

 政府の新ルールが法的拘束力でも持たない限り、実質的には今以上の早期化を容認することになるのは必定だ。そうなれば大学教育に更なる支障をきたすのは必定だ。中西会長は、言っていることとやっていることが本質的に矛盾していることに気付いていないらしい。

 本社はかつて、内定ではなく即採用すべきだという主張を展開した。本気で新卒一括採用を見直すというのなら、在学中の内定は一切やめるか、卒業を待たずに採用するかするのが筋だ。

 本来は卒業論文・研究を含めた4年間の成長まで見届けなければ、学生の資質・能力を正当に評価することなどできないはずではないか。3ポリ改革が進む現在なら、なおさらだ。それでもなお優秀な人材だと在学中に判断できるのなら、卒業を待たずに採用すればいい。早く内定という唾を付けておきたいというのは、都合が良すぎる。

 それによって必要な人材が確保できないとしても、既卒者を含め通年採用で努力するしかない。それでもなお不足するなら、入社後に人材育成コストを掛ける必要も出てこよう。そこまでの覚悟で今回の廃止を打ち出したのでなかったとしたら、あまりにも勝手すぎる。

 政権の姿勢に関しては、改めて論じよう。まずは経団連が責任を放棄した以上、これ以上の無責任な発言は控えることを勧めたい。

 

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2018年10月 8日 (月)

専門職大学 何だこのお粗末さは

 驚いたというより、あきれた。来年度からスタートする専門職大学等について、申請のあった17件のうち設置認可が答申されたのは1件だけだった。2件は保留だから複数の大学・短大が初年度開設校となる可能性は高いが、既に14件が取り下げたという。

 大学設置・学校法人審議会も吉岡知哉・大学設置分科会長名で声明を出し、▽実習の内容、評価基準、実施体制が十分検討されていない▽優れた実務上の業績がない者が実務家の教授等として申請されている▽実践的かつ創造的な専門職業人材の専門性の支えとなるべき理論の教育が不足している▽教育課程連携協議会の構成員が不適切▽「実践の理論」を重視した研究を行う施設・設備が整備されていない――など「専門職大学制度の特色を活用してその社会的使命を十分に果たす適切な設置計画としては認められないものが多くみられた」と厳しく指摘。 「制度創設初年度であるものの、総じて準備不足で法人として大学設置に取り組む体制が不十分と感じられた」としている。もう、けちょんけちょんである。

 はっきり言って、専門学校気分が抜けていない申請が多かったのではないか。よもや、さほどの「お友達」でもないのに政権の後ろ盾と忖度(そんたく)を期待していたわけではあるまい。

 そもそも専門職大学等の制度化自体、怪しいものだった。元々は2007年9月、安倍晋三首相が第1次政権を福田康夫氏に禅譲した2日後に設置が決まった「専修学校の振興に関する検討会議」で、専修学校を1条項に位置付けるべきだとの関係者の主張に対して大学関係者などから猛反発があり、議論を引き継いだ中央教育審議会が民主党政権下の11年1月答申で「職業実践的な教育に特化した枠組み」を新たな学校種として創設することを提言しながら、捨て置かれていたものだ。

 それが安倍首相の政権奪還を経て、教育再生実行会議第5次提言に学制改革の目玉として「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関」が盛り込まれた。これを受けた文部科学省は「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」を発足させ、新たな学校種を断念して大学体系の中に位置付けることで決着。16年5月の中教審答申で制度設計が決まった。その間、日本再興戦略や「骨太方針」など政府からの援護射撃が続けられたことも見過ごせない。

 しかし検討会議や中教審の議論を聞いていても、なぜ新しい学校種や枠組みが必要なのか、既存の大学・短大では対応不可能なのか、明らかに議論はかみ合っていなかった。代わりに垣間見えたのが、私学助成を受けられる私立大学と違って都道府県認可である専門学校に国費を流せる仕組みをいかに作るかという、あからさまな利益誘導だ。18歳人口減少を見越した、専門学校の生き残り策であることも透けて見える。

 中教審答申後は不気味なほどスムーズに学校教育法改正にこぎつけ、19年度からの発足が決まった。その果てが、このしまつである。

 もちろん、「職人大学」構想からケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD、現あんしん財団)の汚職事件を経て創設された私立大学が一定の評価を得ているように、出自が怪しくても大化けする可能性はなくもない。しかし初年度申請を見る限り、全体として「産業界と密接に連携して教育を行う新たな高等教育機関として期待されている」(11月末に予定される中教審答申案)という内実が伴っているとは、とても思えない。

 ましてや実務家教員が多いとの理由で「真に必要な」学生への高等教育無償化措置で優遇されるとしたら、お門違いである。今後の動向にも注視していく必要がある。

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2018年10月 6日 (土)

【池上鐘音】大臣の資質

▼柴山昌彦文部科学相が5日の閣議後会見で、教育勅語の現代風アレンジを「検討に値する」とした2日の就任会見での発言を撤回しない考えを明らかにした。文科省として活用を促したものではなく、個人や団体レベルで検討されていることに賛意を示したのだという▼柴山文科相は「あくまでも記者の質問に答えたもの」だと弁明し、「会見録を見てほしい」と繰り返したが、思い違いも甚だしい。就任会見は文部科学行政の長としての姿勢を、記者が読者・視聴者=国民の代表として問うものだ。しかも個人的見解などと注釈を付けることもしなかったから、それが教育課程行政に臨む新大臣の姿勢だと、会見録を素直に読めばそう受け止めざるを得ない▼こうした類の話は、支持者を前にしたスピーチではよくあることだ。「検討」している団体の前なら、なおさらだろう。しかし、公の会見で発言するのとは訳が違う。かの中山成彬氏ですら、文科相時代には外での大放言と会見での慎重な発言を使い分けていた。柴山文科相は外務政務官や総務副大臣を歴任しているが、いったい何を勉強してきたのか▼当人は悪気がなかったのかもしれないが、こうした曖昧な姿勢が忖度(そんたく)されて結果的に行政がゆがめられる恐れがあることは、先の社説で指摘した。それが分からないようであれば、大臣としての資質を疑わざるを得ない。いわんや文部科学相においてをや、である。

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2018年10月 4日 (木)

教育勅語の活用 柴山新文科相は即撤回を

 2日に就任した柴山昌彦文部科学相が会見で、教育勅語を現代風にアレンジして「道徳等」に使うことを「検討に値する」と述べた。おそらくは文教・科学技術行政の課題が多すぎて、「特別の教科 道徳」(道徳科)の創設経緯や趣旨についてレクチャーを受ける時間がなかったのだろう。

 改めて振り返るまでもなく道徳科は「考え、議論する道徳」への転換を目指したものであり、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」(2016年12月の中央教育審議会答申)。たとえ教育勅語が掲げる徳目に柴山文科相が個人的に「普遍性を持っている部分が見て取れ」たとしても、アレンジだろうと何だろうと「教えていくことも検討に値する」というのは大臣発言として不適当のそしりを免れない。

 文教行政に明るくない柴山文科相は、おそらく過去の国会答弁や質問主意書に対する答弁書をもって、教育勅語を教材として用いることを否定しないのが政府統一見解だと思っているのであろう。しかし、答弁した当時の下村博文文部科学相自身が「考え、議論する道徳」の提唱者であったことを見逃してはならない。

 もちろん、下村氏は柴山文科相のような混同も狙って確信犯的に「従来の文科省の慎重な姿勢を一変させる答弁」(前川喜平・元文部事務次官、毎日新聞出版『面従腹背』)を行ったのであろう。しかし厳密に適用しようとすれば「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」ことに疑いはない。

 それでも実際には『星野君の二塁打』にみられる通り、特定の価値観に誘導するような実践が残念ながら学校現場で行われていることも否定できない。そんな筋の悪い教材を検定教科書に採用することを容認あるいは促進してしまっているのは、政権の意図的な姿勢によるものに他ならない。

 そうした経緯や実態に無自覚な新大臣が教育勅語の「中身」を教えることを容認するような発言をしてしまっては、ますます「考え、議論する道徳」の趣旨がゆがむ。考え、議論した上で「普遍的」な価値に到達させようというのは、まさに「目指す方向の対極にある」ものである。

 教育現場に悪影響を及ぼさないためにも、そして何より大臣発言を根拠として教育現場に不当な介入を招かないためにも、金曜の定例会見で即刻撤回すべきだ。

 弁護士出身で安倍晋三首相にも近い柴山文科相は、不祥事続きの文科省を立て直す役割を担っているらしい。そうした新大臣に萎縮して文科省職員が注進しなかったとしたら、現場に混乱をもたらすどころか、ますます行政がゆがめられることになろう。たとえ柴山文科相が意図していなくても、である。

 それが分からないのであれば、国会が混乱する前に辞表を準備しておいた方がいい。省内に「あいさつ」運動など勧めている場合ではない。

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2018年9月17日 (月)

新指導要領の全面実施に危機感を

 NHK総合のクイズバラエティー番組『チコちゃんに叱られる!』が話題になっている。それに倣えば「学校現場の足元が揺らいでいるのに、やれSociety5.0だの、EdTeckだのと浮かれている日本人の、何と多いことか」と言いたくなる。

 経済協力開発機構(OECD)が先ごろ公表した「図表でみる教育」2018年版のカントリーノート(国別要旨)によると、日本は学校裁量で決定する事項は21%にすぎない。それも「上位の当局が規定する枠組み内」でのことだ。

 20年度から順次、全面実施に入る新学習指導要領は、変化の予測が困難な社会に向けて必要な資質・能力の育成を打ち出す一方、学習内容を削減せずに実質的には増加させ、かつ知識の確実な習得までをも引き続き求めている。「質も量も」を実現するにはアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)とカリキュラム・マネジメント(カリマネ)の両輪で学校裁量を最大限発揮しないと、とてもこなせるものではない。

 インターネット会見でアンドレアス・シュライヒャー局長は新指導要領について、シンガポールやフィンランドのように自由度が高い教授法の革新に進んでいくことに期待を示した。それには専門職としての自律性や現場の裁量権、教師の働き方改革が必要だとしながらも、基本的には「21世紀で最も成功している」日本の教育制度を楽観視しているようであった。

 しかし、7月の「日本の教育政策レビュー」では、そうした教育モデルの持続可能性に警鐘を鳴らしていた。国内的には、そちらの方を深刻に受け止めるべきだろう。

 指導要領の改訂諮問以来、現場ではALへの関心が急速に高まった。「大学入試が変わらないと授業は変えられない」とうそぶいていた高校までも、である。それ自体は結構なことだ。しかし現場の教員が嬉々として授業改善に取り組む陰で、多忙化に拍車が掛かったことも否定できまい。

 そもそも現下の深刻な多忙化の要因には、「ゆとり教育批判」を受けた学力向上対策も大きい。もともと教えたがりの教員は、多忙感を抱かないまま長時間過密労働を唯々諾々と受け入れた。一方で、その中から単なる学力テスト対策だけでなく「PISA型学力」の模索も生まれた。

 いったん低下した学力がV字回復したという文部科学省のストーリーは、少なくとも「生徒の学習到達度調査」(PISA)に限ればOECDが言う通り事実ではない。ただ、いわゆる「ゆとり教育」にせよ「脱ゆとり」にせよ徹頭徹尾、過労死ラインをもいとわない現場の努力による成果だということを忘れてはいけない。

 「図表でみる教育」には、そんな現場の困難な状況が一向に改善されていないことを示すデータにもあふれている。むしろ、そこに注目して今後の教育政策を考えるべきだろう。

 OECDの立場からは、新指導要領はもとより教育の無償化を進める日本政府の方向性を好ましく評価するのは当然だろう。しかし第3期教育振興基本計画ひとつ取っても、国外から見た期待に値するほどのものではないことは明らかだ。

 まずは政策レビューの推奨事項にあるように「指導要領の改訂実施を優先する」ことを第一に考えて、その条件整備が本当に整っているかを、まさに真の意味でエビデンス(客観的な証拠)に基づいて検証すべきだろう。これ以上、裁量もないのに「子どものため」なら何でも引き受けてしまう良心的な現場に無理を強いるべきではない。

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2018年9月 8日 (土)

【内側追抜】総裁選告示

某候補「震災対応に集中するため、延期すべきだった」

某候補「なら始まる前から勝負あったんだし、辞退しろよ。KYだな」

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2018年9月 6日 (木)

【内側追抜】東京オリパラでボランティア

「開催までに内定の決まった学生には繰り上げ卒業を認めます」

      ――大本営

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2018年8月30日 (木)

【池上鐘音】もはや竹やりではない

▼劇作家、鴻上尚史氏の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)のことは新聞広告で気になっていたが、手に取るまでには至らなかった。その元兵士、佐々木友次さんが同郷だったことも、仕事を兼ねて帰省していた実家で8月15日の北海道新聞朝刊の連載「戦いと死」第1回「7回出撃 7回帰還」(1面見出し)を読んで初めて知った▼母に聞いてみると、佐々木さんの話は父から聞いていたという。同じ農業関係の仕事をしていたのだから当然だ。そういえば以前、特攻関係の本を所望したのはそういうことだったのかと今さらながら気が付いた。もっと突っ込んで聞いておけばよかったと悔やんでも、父と佐々木さんはくしくも相次いで鬼籍に入っている▼仕事までに慌てて同書を読み、帰京後にはすぐ『特攻隊振武寮』(大貫健一郎・渡辺孝共著、朝日文庫)を買い求めた。読んで陰鬱(いんうつ)になったのは、決して過去の悲惨さからだけではない。当時の軍部の体質が、現在の政官界と変わっていないように思えたからだ▼揚力のある飛行機で急降下するより、高度から爆弾を落とした方が貫通力は増す。物理の「見方・考え方」を身に付けていれば当然分かることだ。しかし非科学的で兵器も人命も無駄にする作戦を、軍部は継続した。国のため、の名の下に▼多くの仕事が人工知能(AI)に取って代わられ、グローバル化も進む人生100年時代を生きる子どもたちには、三つの柱で資質・能力の育成を目指す新学習指導要領のような学習が不可欠だ――そこは認めよう。経済協力開発機構(OECD)も、全人的教育で成果を上げてきた日本の教育政策を高く評価した。しかし同時にその持続可能性に危機感を示し、確実な実施と支援を確保するための戦略を立てるよう提言していることを見落としてはならない▼限りある資源をどこに投入するのが効果的かを考えるのが戦略のはずだ。しかし日本が高い教育成果を上げてこられたのは、教育に情熱を傾けてきた教員の努力に多くを負ってきたからだろう。たとえ国に戦略がなくても▼しかし今や小学校の3割、中学校の6割が過労死ラインに置かれ、教員の努力にも限界が来ている。多少の「業務仕分け」で解消できる話ではないだろうし、残業時間の上限規制をしたからといって劇的に改善するとは到底思えない▼来年度概算要求が31日に締め切られる。「死ぬ気で頑張る」と言ってきた文部科学省は、新指導要領を学校現場が実施するに十分な条件整備を盛り込めるだろうか。結果的に教員の努力に依存するままでは、戦前の戦略なき軍部と何ら変わらない▼条件整備の不十分さを、教育界でもよく「竹やりで戦えと言うのか」と例えることがある。筆者も好んで使ってきた。しかし、それは銃後の発想だ。むしろ特攻に例えるべきではないか、と思い直している。最初から「子どもたちのために」なのだから、余計にたちが悪い。

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2018年8月29日 (水)

【内側追抜】キャッチフレーズ

「(ヘタ打ったら官僚の)責任、(すべては改憲のための)実行」

   ――某総裁

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2018年8月28日 (火)

免許外協力者会議 出さない方がましだ

 これほどひどい文案は久々に見た。ことによると最悪の部類に入るかもしれない。28日の文部科学省「免許外教科担任制度の在り方に関する調査研究協力者会議」に示された、報告書素案のことである。

 免許外担任の現状をめぐっては、第1回会合で示された基礎データだけでも事の重大さが読み取れた。会合を重ねれば重ねるほど、危機感が補強された感がある。各地で非常勤講師が確保できず新年度の授業が行えない実態が相次いで報じられるに及んで、対策の必要性は増すばかりだった。ましてや今後、教員需要が減少に転じれば事態はますます深刻となることは明らかだ。

 それなのに素案は、教育委員会や教員養成の現場に工夫と努力をツケ回す対策に終始しているといっても過言ではない。

 あまつさえ教科横断的な資質・能力の育成を求める新学習指導要領にかこつけて、複数免許の取得促進が「教師としての総合的な指導力の向上にもつながる」としている。ある意味で正論だ。「子どものため」という美談でもある。

 しかし新指導要領の趣旨を実施するための研修すらおぼつかないのに、認定講習を受けている暇などあるのか。更新講習と兼ねることすら提言しようというのは、制度的にも政治的にもセンスを疑う。

 養成段階から複数免許の取得を奨励しようともしているが、これも今後、教員採用の枠が狭まることで志望者自体が減るであろう必然性に目をつぶった話だ。ましてや希少免許状の養成を維持してほしいなどという論議は、国立養成系の統廃合を提言した別の有識者会議と矛盾していることに気付いていないのか。

 唯一みるべき点があるとすれば、更新講習を受けていない者を任用するため受講の弾力化を提言したことだろうか。それも、再任用には更新講習を「免除」してほしいという意見が続出した末でのことである。

 それでも免許外担任問題の深刻さ、ひいては教職員定数自体が機能不全に陥っていることの一端を白日にさらした協力者会議の意義は大きい。だからこそ「書きたいけど書けない」で済ませては、結果的にますます現場を疲弊させるばかりだ。

 次回までに多少の修文はあるのだろうが、限界は目に見えている。不十分な報告書なら、出さない方がましだ。いや、そもそも会議すら設けるべきではなかった。政府方針に忖度(そんたく)せざるを得なかったのなら、いっそ「免許外教科担任の解消にも資する遠隔教育の在り方に関する調査研究協力者会議」とでもすればよかったのだ。

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