2024年6月 2日 (日)

【池上鐘音】「ありふれた」学校現場

▼現職教員は、公開中のドイツ映画『ありふれた教室』(イルケル・チャタク監督)を見ない方がいい。内容が的外れ、というわけでは決してない。過呼吸を起こしかねないほど、自分の職場で現実に起こっていることと錯覚しかねないからだ▼主人公が教育に情熱と信念だけでなく確かな技術も持っていることは、実態を知っている人なら冒頭すぐ分かるだろう。そんな優秀な教師が、ちょっとしたボタンの掛け違いから始まる「学校」崩壊に巻き込まれていく。ゼロトレランス(不寛容)方式を導入しているという設定は象徴的だが、どこにでも起こり得る話だ▼それでも見に行くという人は、ぜひパンフレットも買ってほしい。東京都の教職員を多数診てきた真金薫子・山楽病院精神神経科部長の寄稿が、日本の現場実態を余すことなく伝えてくれている▼パンフで他の執筆者が強調するほど、描かれた「教室」の姿に独日の文化差はないように思える。おそらく経済協力開発機構(OECD)加盟諸国のどこにも、大なり小なり置き換えが可能だろう▼真金部長の寄稿は、全学校関係者に向けて「学校の日常がどのようなものか、日々教師がどんな思いを抱きどのような学校生活を送って仕事をしているのか、現場を肌感覚で理解するためにも、是非観ていただきたい作品である」と結んでいる。とりわけ「教育行政に携わる方」こそ、深刻に受け止めるべきだ▼宣伝チラシには「ラスト、あなたが感じるのは【希望】か?【絶望】か? それとも【恐怖】か?」とある。少なくとも小子は、そこに教育の本質を見た気がした。

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2024年5月19日 (日)

中教審 次の改訂諮問は「指導体制」も一体で

  中央教育審議会の初等中等教育分科会「質の高い教師の確保特別部会」が13日、長々としたタイトルの「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)」を正式決定した。

 終業から始業までに一定時間以上の継続した休息時間を確保する「勤務間インターバル」について素案では「大きな意義がある」とするにとどめていたが、成案では「11時間を目安」として「進めることが必要である」と踏み込んだ。ほぼゼロ回答だった「学校の働き方改革」に、やっと新たな柱が一つ加わった格好になる。

 しかし国の制度改革は必要とせず、導入の判断は人事権を有する教育委員会や学校に委ねられる。しかも11時間という数値は、前回論議で「学校における働き方改革特別部会」の部会長を務めていた小川正人・東京大学名誉教授が「時間外在校等時間月100時間を容認することになる」と指摘して12~13時間に設定することを提言していたものである(『教職研修』5月号特集1)。

 もっと問題なのは、素案と比較して「学校現場においても、学校の判断により実行できる改善の取組を重ねる」(第2章=教師を取り巻く環境整備の基本的な考え方)とか「教育委員会には、従来型の指導・助言にとどまらず、現場との対話を通じ、課題解決に向けた学校の取組を支援する伴走者としての役割が期待されていることも踏まえる必要がある」「教師が自ら時間管理意識を高めつつ、より裁量性を持って業務をマネジメントできるよう、校長等の管理職がリーダーシップを持って取組を進めることが重要である」(第3章=学校における働き方改革の更なる加速化)といったように、現場に更なる改善を求める修文を行っていることだ。これ以上、何を努力しろというのだろう。

 一方で審議まとめには「『乗ずる数』の改善については、他の定数改善施策との関係にも留意しつつ、検討を深めることが望ましいと考えられる」(第4章=学校の指導・運営体制の充実)といったように、もって回った表現ながら本格的な定数改善の検討に期待する文言が端々にある。極め付きは「1人1台の学習者用 ICT 端末の整備といった学習環境の変化や、生成AIの普及といった今後の社会の変化等を踏まえた新たな学びの在り方については、今後、学習指導要領の改訂に向けた議論が進められることとなるが、この議論と連動して、それを支える学校の指導・運営体制の構築については改めて検討していく必要がある」(同)という一文だ。

 要するに働き方改革にも資する定数改善論議は、次期指導要領の改訂とセットにならざるを得ないということだ。これは一面で仕方のないことだろう。

 改めて思い起こしたいのが、総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」(2022年6月決定)で示された、小学校35人教室の多様性を示すポンチ絵(概念図)だ。分かりやすいとCSTI議員に好評だっただけでなく、文部科学省も一部改変して中教審等の参考資料に使っている。

 定数は、1学級に担任1人を基本に「乗ずる数」を設定するなどして算定してきた。しかし1学級1担任制は「中くらい」のレベルに合わせて一斉授業を行い、適応できない子は「お客さん」扱いしてきた時代に通用したものでしかない。「個別最適な学びと協働的な学び」が指導の個別化と学習の個性化を言い換えたものだとするなら、チーム・ティーチング(TT)が欠かせないのは必定だ。発達や不登校、外国ルーツ、社会経済的背景(SES)といった幅広い特性や関心に対応し、誰一人取り残さない教育を本気で実現しようとするなら最低2人を張り付けることが不可欠だろう。つまり「学級数×2担任に乗除する数」という発想が必要ではないか。

 いずれにしても次期指導要領では、発想を抜本的に転換した定数の在り方が求められる。それでこそ合田哲雄・文化庁次長の持論である「サプライサイドの学校組織法」から「デマンドサイドに合わせた教育課程プログラム」への発想の転換にかなうのではないか。前回14年11月の改訂諮問で審議要請した事項の筆頭は「教育目標・内容と学習・指導方法、学習評価の在り方を一体として捉えた」指導要領等の基本的な考え方だったが、次期改訂諮問ではこれに「指導体制」も加えるべきである。 

 

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2024年5月 5日 (日)

「教師確保」素案〈下〉 抜本的改革は「魅力」喪失の現状認識から

 中央教育審議会に「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について」を諮問するのに先立ち、論点整理を担うため文部科学省に設置された会議体の名称は「質の高い教師の確保のための教職の魅力向上に向けた環境の在り方等に関する調査研究会」だった。議論の場が中教審に移っても、しばしば委員から「教職は本来、魅力ある仕事だ」「もっと教職の魅力をアピールすべきだ」といった発言が聞かれた。

 背景には教員採用試験の倍率低下による質の低下への懸念と、構造的に「教職浪人」を当てにしてきた臨時講師人材の枯渇による「教師不足」があった。魅力向上策を打ち出せば、そうした問題も解消されるはずだとの楽観的な認識があるように思えてならない。

 もう、はっきり言ってしまおう。今の教職には、かつてあったような魅力は失われている――。そうした認識から出発することなしには、本当の意味での魅力向上策など期待できない。

 中教審でもう一つ、委員から繰り返された発言がある。教職が「高度専門職」だ、ということである。本来、今回の審議まとめ素案もそうした観点からまとめられたはずだった。しかし、これも「現状では、教職は高度専門職ではない」という認識から出発すべきである。

 言うまでもなく、戦後の教員養成は開放制の原則を取ってきた。たとえ教員養成学部であっても、教員免許の取得が必ずしも教師としての優秀性を証明するものではない。運転免許証と同様、あくまで教壇に立つ資格を得るというだけだ。

 だからこそ教育公務員特例法で「研究と修養」が努力義務化され、改正教育基本法にまで規定された。つまり教職は、高度専門職に向かって絶えず学び続ける存在ということだろう。それは、教育の目的である人格の完成に似ている。

 「教職課程でしっかり教えるべきだ」――これも教育課題を議論する時、しばしば聞かれる言葉である。しかし、それが教職課程のカリキュラム・オーバーロードをもたらしてきた認識をしっかり持つべきだ。教職課程コアカリキュラムを策定したからといって、解決できる問題ではない。それどころか、ますます教職離れをもたらすだけだろう。

 教師をめぐる政策は養成・採用・研修を一体で行われなければならないというのも、昔から言われてきたことである。教師の質や教職の魅力に危機が訪れているとしたなら、まさに養成・採用・研修を一体とした抜本改革が必要になる。具体的には養成段階から安心して学べるような環境を用意するとともに、採用でも優遇。入職後は「研修の自由」が保証されなければならない。それでこそ、高度専門職と呼ぶにふさわしい。

 「教育の質は、教師の質を超えることはない」――経済協力開発機構(OECD)教育・スキル局のアンドレアス・シュライヒャー局長が繰り返す指摘を、何度聞いたか分からない。 もちろん文科省もそれを意識しているからこそ、教師の質にこだわっているはずだ。そうであるなら、本気で教師の質を向上させる政策づくりに取り組まなければならない。幾ら既成政策の部分最適を積み重ねたところで、全体最適にはならない。児童生徒のみならず教師のウェルビーイング(個人的にも社会的にも人々が心身ともに幸福な状態)を追求しようとするなら、なおさらである。

 

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2024年4月27日 (土)

「教師確保」素案〈中〉 何の前進もない「働き方改革」

 中央教育審議会初等中等教育分科会「質の高い教師の確保特別部会」審議まとめ素案を巡る先の社説では、教員給与特別措置法(給特法)の扱いと「学校の働き方改革」が別問題であることを確認した。では、肝心の後者はどう扱われたのか。

 乱暴に一言で評すると、何の前進もない。当該章の表題が「 学校における働き方改革の更なる加速化」であることは、その象徴だ。

 2019年答申以来の働き方改革に関して、素案は「全体として見れば着実に進捗してきている」と自賛。具体的には、22年度勤務実態調査から推計される教諭の月当たり平均時間外在校等時間が小、中学校とも6年間で約3割減少したこと、有給休暇の年間平均取得日数も約2日増加したことをもって「教育委員会や学校の尽力の成果である」とした。

 しかし、その後すぐに 「一方、教育委員会や学校における取組状況の差がみられるという課題も残っており」「そもそも上限方針を定める教育委員会規則等が未整備である教育委員会もごく僅かであるが存在している」などと、まだまだ教育現場に改善の余地があるかのような説明を加えている。

 その後の長々とした指摘は、ほとんど今までの繰り返しだ。審議過程で委員から出た発言を反映したのかもしれないが、要するに新たな「改革」案に至らなかったことを意味しよう。

 会合では教師の一人当たり持ち授業時数を制限すべきだとの意見も、たびたび出されていた。素案では次章「学校の指導・運営体制の充実」で「持ち授業時数が多い場合にはその軽減が必要である」としながらも、小学校での教科担任制拡大の効果が持ち時数の減少に表れていると指摘。中学年でも推進する教職員定数改善の必要性を訴え、既定路線の追認にとどめた。

 それより問題なのは「持ち授業時数のみで教師の勤務負担を測ることは十分ではない」「校長等の管理職によるマネジメントの裁量を縛ることになる可能性も危惧される」と言い切ってしまったことだ。学級数に「乗ずる数」の引き上げによって持ち時数を減少させることにも、「必ずしも増加した教員定数が持ち授業時数の減少のために用いられない可能性がある」と言及した。本格的な定数改善の検討を待つべきだという現実的な判断を割り引いても、後々に禍根を残す表現と言わざるを得ない。

 いわゆる勤務間インターバルは、19年答申に向けた「学校における働き方改革特別部会」の部会長だった小川正人・東京大学名誉教授が推奨していた。しかし素案は「『勤務間インターバル』の取組を学校においても進めることには大きな意義がある」と、まるで人ごとだ。早出遅出勤務やフレックスタイム制度、テレワークの導入促進も同様である。

 戦略や兵站(へいたん)を考慮せず泥沼化した戦中の発想と何ら変わることはない、と言ったら心外かもしれない。しかし会合の開始と同時に公開された素案の説明を聞きながら、陰から「まだまだ士気が足りない。総員、突撃して玉砕せよ」という声が聞こえたような気がした。

 

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2024年4月20日 (土)

「教師確保」素案〈上〉 定数改善に禍根残さぬか

 19日の中央教育審議会初等中等教育分科会「質の高い教師の確保特別部会」第12回会合で、審議まとめの素案が示された。これほど開催前から注目された案文も近年、珍しい。

 教員給与特別措置法(給特法)の廃止が打ち出されなかったことを批判する向きもあるが、教職調整額の増と「学校の働き方改革」は全くの別問題だ。むしろ半世紀もの間、調整額の支給率引き上げが放置されていた方がおかしかった。

 素案には、支給率を「少なくとも10%以上とすることが必要」との指摘が盛り込まれた。確かに特別部会では引き上げるべきだとの意見が相次いでいたが、具体的数値が検討された記憶はない。もちろん、それによって財源がどのくらい必要かのデータも示されていない。

 何のことはない、昨年5月に自民党「令和の教育人材確保に関する特命委員会」(萩生田特命委)が出した提言と同じだ。時間外在校等時間を将来的に月 20 時間程度となることを目指すというところまで一緒である。人材確保法による給与改善後に優遇分が7%だった水準を確保するため、という根拠が示されたことだけが目新しい。

 仮に支給率を10%に引き上げるとすると、4%の2.5倍に相当する。4%の根拠は1966年の教員勤務実態調査で時間外在校等時間が約8時間だったことだが、8時間の2.5倍は20時間になる。萩生田特命委も中教審特別部会も出どころは文科省だと考えれば、当然だろう。 

 では、幾ら必要になるのか。参考になるのは、前回の「学校における働き方改革特別部会」第8回会合(2017年11月)であった文部科学省事務局の説明だ。当時の財務課長は委員の質問に「しっかりした試算を出しているわけではない」と断りながらも、調整額1%分の国庫負担分は約120億円で4%だと500億円弱になるとの数値を披露した。

 この数値が今もほぼ変わらないとしたら、10%に引き上げるには国費で約720億円の追加費用が必要になる。国庫負担率は3分の1だから、3分の2の地方負担分は約1440億円だ。なるほど国と地方を合わせて9000億円を軽く超えるとされた7年前に比べれば、はるかに現実的な数字である。

 それでも財源捻出が厳しいことに変わりはないが、文科省は引き続き「骨太の方針」に強気の文言が盛り込めると見込んでいるのだろうか。確かに萩生田光一・特命委員長は安倍派の裏金問題で党から処分されたとはいえ、党役職停止1年で都連会長は続投可能だそうだから他の派閥幹部に比べ「失脚」はしていない。

 素案には、教職員定数改善に期待する文言が端々にたくし込まれている。しかし支給率の引き下げが、本格的な改善論議に支障を来すとしたら問題だ。調整額は本給に組み込まれるから、退職金にも反映され将来的な財政負担につながることも指摘しておこう。

 本社はかねて、処遇改善の余裕があるなら定数改善に回すことを主張してきた。もちろん処遇改善も定数改善も両方勝ち取れる見込みが文科省にあるのなら、結構な話である。不思議なのは特別部会の中で「限られたリソース(財源)をどう配分するか」といった意識が表明されていたのに、素案には反映されず委員から異論すら出されなかったことだ。わずかに教育研究家の妹尾昌俊委員が時間外20時間程度を目指すことに「反対」を表明し、連合副会長の金子晃浩委員も早急に20時間とするためのロードマップを示す必要性を指摘したことが救いだ。 

 

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2024年4月 5日 (金)

【雪下鐘音】40年と桜

▼4日、東京で満開が発表された。この10年で最も遅いという。横浜はまだだが、けっこう咲いていた。鎌倉もそうだった▼40年前のこの日は、開花の兆しもなかった。といっても花見の習慣もない道産子にとっては数日後の入寮オリエンテーションで、やっと先輩が見つけた一枝差しを前にしてもピンと来なかった。満開の段葛が赤いぼんぼりに照らされて血塗られたように見え、恐怖さえ覚えた▼開花が待ち遠しくなったのは、いつからだったろう。乾燥した厳しい冬を重ねたせいか、あるいは薄桃色の花がこんもりする様が雪のように見えてきたせいか▼本社のある池上界隈は、東京より横浜の開花状況に近い。とはいえ今年は、不思議な状態にある。御会式桜(十月桜)は花をつけたままだし、例年ソメイヨシノと入れ替わる枝垂桜は靖国で開花が宣言された頃ようやく見ごろを迎え満開発表に前後して散り始めた▼この40年で世はバブルから「失われた30年」が続き、気候温暖化も著しい。ソ連崩壊の直後から冷戦の代理戦闘地で虐殺が相次いでいると聞いてはいたが、さすがに民族・宗教対立のエスカレートはショックだった。国内では小泉構造改革と「アベ政治」、国外では米トランプ大統領の登場から大使館襲撃に至って民主主義さえ混迷を深めている▼教育界は臨教審を経て学習指導要領も4回改訂され、年内には次期の改訂諮問が見込まれている。しかし文部科学省はかつて歩き回った文部省とは様相が変わり、今や出入りどころか局課の移動すら難しい。諸会合も新型コロナが5類に移行したというのに、対面傍聴が解禁される兆しはない▼京都の桜は、どうだろう。変わらないのは築111年目を迎えた京都大学吉田寮だ。1985年当時でさえ、関東大震災の3年後に再建された我らが寮より頑丈そうだった▼鎌倉で隠れた桜の名所はどこかと聞かれたら、迷わず清泉小学校の路地と答える。しかし一番は、もはや鉄扉越しから眺めるしかない第二の故郷への通用路である。

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2024年3月30日 (土)

教職員の高度専門職化 まずは学習評価と特別支援から

 2月12日の社説「改訂諮問の年に③ 『学習評価』の根源的な捉え直しを」について、本社と同じブログランキングサイト「にほんブログ村」教育論・教育問題に参加する“しょう”さんが24日、「渡辺敦司『学習評価』の捉えなおし について」と題して取り上げてくれた。

 社説は多くの教師に学習評価の専門性が薄いことを批判したものだったが、実は現場の総スカンを食うかと内心ヒヤヒヤしていた。それが日ごろから社会問題に粘り強い思考を展開していて敬服する高校教員、しかも内地留学で学習評価を学んだという文字通りの専門家に高評していただいたのは、ありがたい。もちろん、学術的厳密性に欠ける部分は容赦いただいた上であろうが。

 “しょう”さんが引用する中内敏夫の「評価もまた教育でなければならない」というのは、重要な指摘だ。「指導と評価の一体化」が叫ばれながら、結局は評価も指導改善のための手段と受け止める向きが強いのではないか。そうではなく、まさに一体のものとして日々の教育活動に生かされなければなるまい。

 実はもう一つ、胸をなで下ろしたことがあった。「わが国で唯一の教育評価に関する専門誌」(編集部)である『指導と評価』が、3月号から学習評価の全体像を解説する特集を始めたのだ(不定期)。巻頭言で編集委員の鈴木秀幸・教育評価総合研究所代表理事は、学習評価が実務上の困難に直面している原因の一部は「学習評価の基礎知識の不足によると思われる」と指摘。一取材者の偏見ではないことが確認できた。

 折しも中央教育審議会では、「質の高い教師の確保」策が議論されている。世間でも「定額働かせ放題」の教職給与特別法(給特法)を廃止するか否かが注目されているが、特別部会ではむしろ高度専門職にふさわしい処遇の在り方として検討されていた。教職に就いた大学院修了生の奨学金を返還免除の対象にする方針が教員養成部会で固まりつつあることを受けて、盛山正仁文部科学相も実現に前向きな姿勢を示している。

 これも現場の反発を承知で申し上げれば、現在の教職が本当に高度専門職と呼べるかどうか若干の疑問を抱かざるを得ない。もし本気で医師や弁護士などと同等の専門職にしたいのなら、いつまでも自主的な「研究と修養」(教育基本法・教育公務員特例法)に任せていてはいけない。かつて民主党政権下で検討された養成課程の修士レベル化だけでなく、“しょう”さんが体験したような内地留学を本格的に「再開」させるべきだ。かつて学部卒の返還免除はもとより、一部とはいえ無償・有給で大学院に行ける機会があったことも教職の魅力だったことを若い世代は知らないだろう。

 何より学習評価は、そもそも専門職として必要な「基礎知識の不足」状態が放置されている。一刻も早く、全教員の研修体制を確立すべきだ。

 もう一つ放置されていることがある。特別支援教育だ。「特殊教育」から移行して20年近くになるというのに、いまだに現場は発達障害を含む困難を抱えた児童生徒の指導に自信を持てないでいる。技術もそうだが、そもそも「基礎知識の不足」が放置されたままだからだろう。

 『教育と医学』3・4月号は「発達障害のグレーゾーンの子どもたち――その理解と支援」を特集しており、青木省三・川崎医科大学名誉教授は発達障害が「ある」「なし」で分けられないばかりか「人は皆、グレーゾーン」だと喝破している。筆者も、日ごろのモヤモヤが晴れる思いがした。そうである以上は発達障害の診断を求めがちな現場の傾向は改めるべきだし、ましてや昨今よく報じられているように児童生徒に暴言を浴びせたり暴力を働いたりするのは論外だ。

 いずれにしても教職を本気で高度専門職にしたいのなら、「高度」専門職として育成する道筋と具体的施策を提示しなければならない。研修を充実させるにしても、勤務の余裕が不可欠なのは言うまでもない。しかも多忙化で教材研究ばかりか授業準備さえ十分にできない状態が続けば、教職の魅力をアピールすることなど恥ずかしくてできないはずだ。

 

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2024年3月24日 (日)

【内側追抜】続・党内処分

某首相「俺が政界引退して息子に地盤を譲ると言ったら、党内も世間も納得するかな」

某側近「……」

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2024年3月18日 (月)

【内側追抜】党内処分

「上に甘くて下に厳しい組織であってはならない。下の処分を甘くするには、上の処分を厳しくはできない」
   ――某幹事長

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2024年2月12日 (月)

改訂諮問の年に③ 「学習評価」の根源的な捉え直しを

 学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。

 今では古い話になるが、現行学習指導要領の改訂を提言した中央教育審議会の2016年12月答申でさえ「(関心・意欲・態度の評価が)挙手の回数やノートの取り方など、性格や行動面の傾向が一時的に表出された場面を捉える評価であるような誤解が払拭し切れていないのではないか」と指摘していた。小中学校で観点別評価が導入されてから指導要領も変わっているのに、である。

 教員の多忙化が深刻化しているが、その端緒は「ゆとり教育批判」に対応した学力向上対策に加えて観点別評価の厳密な「規準・基準」づくりの作業だった印象がある。それだけ緻密な作業をして、本当に子どもを伸ばし授業を改善することにつながっているのか。評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。

 中教審側にも、若干の責任があろう。答申後に発足した教育課程部会の学習評価ワーキンググループ(WG)では、4観点から3観点に整理された評価を巡って「『CCA』や『AAC』といったばらつきのあるものとなった場合には、児童生徒の実態や教師の授業の在り方などそのばらつきの原因を検討し、必要に応じて、児童生徒への支援を行い、児童生徒の学習や教師の指導の改善を図るなど速やかな対応が求められる」とした。自明と言えば自明なことではあるものの、現場に対して厳密な評価規準・基準による評価を更に求めるメッセージになりかねないことに注意が払われていない。

 その点で注目されるのは第12期中教審の正委員で教育課程部会長や義務教育ワーキンググループ(WG)主査などを務める奈須正裕・上智大学教授が、1月にあったオンライン講演会で「小学校でCを出す時はエビデンスが要るが、CでなければBでいい。Bよりも明らかに上なら、Aでいい。厳密にするより、もっと伸びやかに評価を行ってしてほしい」と述べていたことだ。信頼すべきであり培うべきは、そんなアバウトな評価を適切に行える教師の力量である。

 「指導要録に載せるのだから、緻密な評価は当然だ」という反論が当然返ってこよう。しかしGIGA時代だというのに、指導要録の様式例だけに頼った評価に任せたままでいいのか。というより要録自体が、時代の進展に合ったものなのか。そもそも、記載時点での「値踏み」にすぎない。評価された直後から、子どもは変わっていくはずである。評価データをポートフォリオ化して、必要な時に必要な情報を取り出せるようにしておけばよい。

 「内申書や調査書の原簿にもなるのだから、厳密な評価は当然だ」という反論も当然あろう。しかし大学さえ希望者全入時代を迎え、高校は既に定員割れが続出している時代である。1点刻み・一発勝負のテスト自体も問われる必要があるし、ましてや「平素の学習を重視する」という美名の下に在学中の評定平均値をいつまでも絶対視していていいのか。そもそも上級学校は、下の学校から送られた要録を生かして指導を行っているのか。

 むしろ子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在である。自己調整能力を付けるのも、生涯にわたってエージェンシー(変革を起こすために目標を設定し、振り返りながら責任ある行動をとる能力)を発揮しウェルビーイング(個人的にも社会的にも人々が心身ともに幸福な状態)を図るためだろう。

 そのための形成的評価と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。次期改訂では、そんな根源的捉え直しも一度は行う必要があろう。

 世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。

 

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