教科書検定は徹底した透明化を
文部科学省の教科用図書検定審議会(検定審)は29日、総会を開き、検定手続きや検定基準の見直しの検討を始めた。沖縄戦集団自決をめぐる昨年の高校日本史検定が地元の反発を招き、改めて訂正申請させた上で承認するという混乱を受けてのことだ。出席した渡海紀三朗文科相は「透明性」と同時に引き続き「静ひつな環境」も守るよう求めたが、本社はむしろ21世紀型の検定として、徹底した透明性を求めたい。
言うまでもなく教科書は「教科の主たる教材」(教科書発行法)として学校での使用が義務付けられており、多くの大人にとっても子ども時代のノスタルジーから思い入れは強かろう。その一方で、「うれうべき教科書問題」(1955年)以来、半世紀以上にわたって政治的な関心を集め続けていることも確かだ。とりわけ検定には、検定意見(かつては修正意見・改善意見)の不透明さや恣意性の問題がつきまとい、検定の合憲性と国の裁量権をめぐって3次32年にわたる家永教科書裁判がたたかわれたこともあった。
不透明な検定過程を明らかにするため、かつては文部省記者クラブの加盟社記者が総出で申請本と合格後の見本本を読み比べて修正理由を同省にただし、教科書課長が記者レクで何時間もかけて延々と回答する、ということをやっていたそうだ(伝聞形なのは、本社がかつて所属していたような専門紙・業界紙は一切クラブに加盟できなかったからである)。そんな中から「侵略・進出」の誤報問題(82年)も起こった。
2000年からは検定意見が教科書会社に対して文書で通知されるようになり、修正意見とともに検定前後の変更箇所まで同省ホームページにアップされている。「密室」とまで言われたかつての検定過程から比べれば、雲泥の差ではある。
しかし、多くの同省審議会が記者などに公開されるようになっても検定審は原則非公開を貫き、部会や小委員会は議事概要すら作成されない。ホームページで「審議会情報」を見ても、大学設置・学校法人審議会と並んで何が議論されているのかさっぱり分からない審議会の代表例である。
そうした過去の悪弊を引きずってしまったために起こったのが、昨年の沖縄戦問題であろう。そもそも未決の公判を根拠に検定意見をつけること自体、明らかに当時の安倍政権の意向に過剰反応した文科省サイドの勇み足であった。これについては、かつて文部省キャリアとして長く家永裁判を担当した菱村幸彦・国立教育政策研究所名誉所員ですら「沖縄戦の関連訴訟の判決前に、なぜ文科省が検定意見を付けたのか釈然としない点もある」(『内外教育』2007年12月7日付4面)と指摘しているほどだ。その検定意見を十分な審議もせず通してしまった検定審自体にも、体制的不備があったと言わざるを得まい。
今は情報公開・説明責任が叫ばれている時代である。国民的関心事である教科書だからこそ、思い切って検定過程をオープンにすべきではないか。それによって検定意見や審議過程にも、いっそうの緊張感と良識ある検討が迫られよう。マスコミなどを巻き込んだ混乱を懸念する向きもあろうが、逐一公開すればかえって落ち着いた報道がなされることは、多くの審議会を見れば明らかだ。政治的な介入への懸念ということで言えば、密室の方がいっそう懸念は大きかろう。
もとより教科書検定問題は、単に審議会の問題だけではなく、採択や供給、無償制度、準拠する学習指導要領、教科書調査官の人材確保・人事等々、教科書制度全体の中でさまざまな問題が複雑にからみ合っている問題である。その一つ一つについては今後、機会をとらえて論じていきたい。しかし、その存在があまりにも国民的関心事であるために、過剰なほどの扱いを受けてきたことも、また指摘せざるを得ない。そもそも一言一句に至るまで「正しさ」を求めることが、「知識基盤社会」(1月の中教審答申)における教科書のあり方として正しいのだろうか。社会に出れば、むしろ正解のない事態を解決しなければならないことの方がよっぽど多いのに。
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