« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月

2008年3月29日 (土)

指導要領告示 “パブコメ改訂”のルール化を

 小・中学校の指導要領が28日、官報で告示された。これに関してマスコミでは、道徳教育の目標に愛国心規定が盛り込まれたことや、音楽で君が代を「歌えるよう」指導すると追加されたことが、大きく取り上げられた。「異例」の修正だと指摘した記事もあるが、これについては、きちんと背景を押さえた上で論じなければなるまい。

 別に文部科学省を擁護する義理はないのだが、「良識の範囲内」を旨とする本社としては、以下の2点について批判は当たらないと考える。まず、「異例」であるということ。確かに、これまで一度公表された指導要領案が大幅に修正されることはなかった。しかし今回の改訂が、今までとまったく違っていることがある。2005年6月の改正行政手続法に基づいて、「パブリックコメント」(意見公募)に付されたことだ。しかも、指導要領案の基となった中央教育審議会答申まで、案の段階で任意の意見公募に委ねる念の入れようだった。だから、関係団体の意見しか聴かなかった従来の改訂と比較して「異例」であることは、当然と言えば当然である。

 2番目が、愛国心規定についてである。総則の中で道徳教育について「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し」という表現を入れたのは、指摘するまでもなく、改正教育基本法そのままの文言を盛り込んだということである。しかも、「郷土や国を愛する心をもつ」ということは、既に現行指導要領でも第3章・道徳の内容項目に掲げられている。確かに表現上は「強化」であるが、「教基法に書いてあることを入れただけだ。そもそも書いてなくても、学校は法令に従う必要があるのだから同じことだ」と言われれば、内容的にはそれほど目くじらを立てる修正とは言いづらい(なお、教基法の改正条項が妥当であったかどうかについては、「良識の範囲」を超えるのでここでは論じない)。

 その上でなお問題があるとすれば、やはり2点ある。第1は、やはり小学校音楽で君が代を「歌えるよう」指導すると修正したことだ。もちろん、これも従来から「国歌『君が代』は、いずれの学年においても指導することと」とある。指導するんだから歌えないように指導することなどありゃあしない、指導するなら歌えるようにすることを目標にするのは当然でしょうに、という説明はあり得る。しかもこの間、国旗・国歌法(1999年8月)まで制定されているのだから、重大な修正ではない、と言えなくはない。

 しかし、それによって想定される影響についてはどうか。いくら文科省が「大綱的基準」と抗弁しようが、変更された指導要領の一言一句をしんしゃくして深読みするのが、教育界の常である。問題にならない県では何の問題もなかろうが、日の丸・君が代の実施が焦点化されている都道府県では、この変更点をもって「『歌えるように』しなければならないのだから、卒業式や入学式でも大きな声で歌えるようにしなければならない」と言い出す人たちが出てきても、おかしくない。

 本社は既に過去の社説で、日の丸・君が代に関する不毛な対立を廃するよう主張したところである(日の丸・君が代の国旗・国歌としての妥当性についても「良識の範囲内」により論じない)。この修正が、一部都道府県での不毛な対立に油を注ぐのではないかと憂慮するものである。

 もっとも、そうした指摘を声高にすることが本社の論旨ではない。考えなければならないのは、そうした影響を与えかねない重大な修正が今後とも文科省の行政判断に任されていいのかどうか、ということである。

 もちろん、法的には何の問題もない。学習指導要領は文部科学省令である学校教育法施行規則に基づくものであり、しかも今回はパブコメで一般の意見を聴いた上で告示している。その上、法律上は必要のない中教審答申にまで意見聴取をしたのだから、非の打ちどころはない、はずである。

 ただ、今回の修正での第2の問題点は、「意見を出せば、指導要領が変わる」という印象を、一部に与えてしまったことだ。今回は組合系のみならず、「日本教育再生機構」のような団体も“組織的”な意見送付を呼び掛けた。もちろん多い意見の通りに修正されるなどということは実際にあり得ないことではあるが、今後の改訂で“意見合戦”のような事態が起こらないとも限らない。

 パブコメ後の成案をどう決めるのか、単に文科省に委ねるのではなく、やはり一度、中教審なり有識者なりの判断を仰ぐべきではないか。といっても、従来から旧教育審議会答申を受けてどういう指導要領にするかは、旧文部省に“白紙委任”されてきた。もっとも審議会有力者の了承は得てのことではあるが、それでも最終的な判断は文科省が行うことは、今も変わっていない。

 いずれにしてもパブコメ施行後の指導要領改訂は今回が初めてであり、それが告示までの経緯をめぐる評価の混乱につながったことは確かだ。今回に関しては仕方ないにしても、行政の透明化がいっそう求められる昨今である。そうでなくても指導要領改訂は、国民的関心事でもある。告示までの決定をも透明化するようなルールづくりを、改めて求めたい。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月25日 (火)

PTAの「廃止」 学校支える機動的組織に再編を

 東京都杉並区和田中学校が来年度からPTA組織を、同中が独自に設置している「地域本部」に編入することを決めた。多くの学校のPTAには役員のなり手がいないなど、さまざまな問題を抱えていることも確かだ。この提起を受けて、それぞれの地域で学校を取り巻くすべての組織を見直すことが必要ではないだろうか。

 「よのなか科」をはじめとする和田中の取り組みの多くは藤原和博校長のキャラクターもあって、とりわけ教育界の外から大きな注目を浴びている。しかし本社は、メニューの多様さや実践の広がり、深さなどを別にすれば、類似の実践やその萌芽は他の学校にも見つけられるものであり、決して民間人校長だからできることでも、突出したものでもない、とみている。ただし、PTAの「廃止」に関しては別だ。藤原校長自身がホームページに「改革の最終章」「誰もできなかった」と書いているように、教員出身者にはとても踏み切れないことだろう。

 言うまでもなくPTAとは「親と教師の会」(Parent-Teacher Association)であり、保護者と教員が共同で学校の運営を担うための組織である。しかし実際には「親の会」であり、Tはと言えば管理職、それも教頭が「事務局」の名目で矢面に立つことが多い。たとえ親の会だとしても、活動の活発さには温度差がある。会長だけは地方議員など地元名士の男性で、副会長以下の役員はお母さん方で押し付け合う、というPTAも少なくなかろう。

 もちろん、本社はPTAの果たす役割を過小評価するものではないし、地区や全国のPTA協議会というヨコの連携も否定すべきではないと考える。しかし、肝心の単Pが学校運営に資するよう機能していなかったら、何の意味もない。

 一方で、学校を取り巻く組織や人材は多様化している。学校週五日制の進展や学力向上対策を機に、学校支援ボランティアの組織化は今や普通のことになった。「おやじの会」設置も広がりを見せている。地域運営協議会はもとより、学校評議員会やネットデイ、「総合的な学習の時間」に協力する人々などを含めてもよかろう。もちろん、伝統的な社会教育関係機関も忘れてはならない。問題は、それらがバラバラなものとして存在していることである。これでは渉外事務が増えるばかりであろう。

 藤原校長の文章の表題には、「慣性の法則から抜けられないPTAのみなさんへ、和田中より愛を込めて」とある。PTAを含めた学校関係者には手厳しいアピールであるが、これに関しては確かに拝聴すべきではないか。

 折しも新年度から文部科学省の「学校支援地域本部」モデル事業も始まる。何も、和田中のまねをしろと主張するものではない。各学校や地域の実態に応じて、多様なあり方があっていい。しかも、その先進例やアイデアは、和田中に限らず、他の学校の中にも芽生えているはずだ。英知を集めて、学校を機動的に支える組織に再編成する契機とすべきではなかろうか。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月22日 (土)

深刻な母親の「教育不安」をどう解消するか

 ベネッセ教育研究開発センターが21日、「子育て生活基本調査」の結果を発表した。そこでは、子どもの教育に対する小・中学生の母親の不安が増大していることが浮き彫りになっている。一方で、しつけや生活習慣をつけさせることの方は、おろそかになりがちだという。今も続く理不尽な「学力低下」批判が、不安をあおっている側面はありはしないか。抽象論よりも、子どもが通う学校の具体的な状況について、率直な対話ができる環境整備を進めたい。

 調査は2007年9月に行われたもので、今回が3回目。第1回(1998年12月)がちょうど学習指導要領が告示された月、第2回(2002年9月)がその本格実施が始まった直後であり、母親が現行教育課程とそれに基づく学校の状況をどう受け止めたかが如実に現れる調査となっている。

 現行指導要領をめぐる学力論争は、これまで本社が何度も疑問を投げかけてきた「『ゆとり教育』批判」にみられるように、とりわけ公立学校に対する不安を助長してきた。その結果が、学習塾の興隆と中学受験の過熱化だ。加えて一部自治体では学校選択制の導入で、公立中に通わせる場合でも小学生の親は「進学」のことを考えざるを得なくなる。小泉純一郎政権の下で進められた規制緩和と民活路線は、公教育面で大きく成功したと言ってよかろう。

 しかし、それが何を生んだか。調査から読み取れるのは、世間からあおられた不安に振り回されて、母親が子どもの教育に対する関与を強めている姿である。しかも、調査を担当した樋田大二郎・青山学院大学教授によると、本当はスポーツ系や芸術系の習い事が子どもの成長にとって有益だと考える「深層意識の知恵」を持ちながら、「表面で(学力向上に)流されている」という。

 記者発表でもう一つ見過ごせないと思ったのは、「親子中心主義・友だち世代子育て」(山岡テイ・情報教育研究所長)という指摘である。母親自身が高学歴化していることもあって、近年続々と創刊されている家庭向け教育情報雑誌などの情報は、よく集めている。ただし集めた情報を交換するのは、近所や同じ学校の保護者というよりも、学生時代や職場の友人が多いという。自由記述では、「自分が情報源」とまで書いている母親が少なくなかったという。

 そうした「狭い」情報が、肝心の足元である自分の子どもの状態や、子どもの通う学校の状況を見誤らせてはいまいか。しつけがおろそかになっているという調査結果はその一端を表しているし、あまり使いたくない言葉だが最近問題になっている「クレーマー」の多くも、根拠がないことではないにせよ、学校に対する正確な情報が不足していることに起因する面があろう。

 学年が上がるごとに学校への満足度が下がっているという調査結果に関連して、「いいじゃないか。学校への関心が高まっているということだ」という小学校長の声を、樋田教授が紹介していた。それでは、あまりにも自虐的ではないか。しかし、クレームでなければ無関心、という保護者と学校の冷めた関係を、よく表した感想とも言える。

 保護者の学校参加を進めている学校では、案外、学力に対する不安も払しょくされるものである。問題は、教育不安をあおられている保護者と、その保護者からのクレームにおびえる学校との対話や交流を、どう進めるかである。そうした条件を整えることなしに、いくら制度をいじったところで公教育不信は解消しない。ましてや、いくら「ゆとり教育」批判を続けたところで、何の助けにもならない。

 なお発表された調査結果では、回答者のほとんどを占める母親(6770人)についてだけ分析されている。300人ほどいたという父親の意識については、データが入手できた段階で改めて論じたい。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月19日 (水)

【コラム 池上鐘音(いけがみじゃんのね)】2人の仏さん

▼ここ1カ月ほど、仏さんをめぐる2件のニュースが世間を騒がせている。一つは奈良の平城遷都キャラクター、もう一つは運慶工房作と目される大日如来座像の米国での競売である▼キャラクターの方は「気持ち悪い」「仏様に角を生やすのは失礼だ」など散々な評価があり、反対署名運動すら起こったという。しかし愛称募集もまた1万件を超したのだから、相当な人気もあるようだ▼片や大日座像の方は結局、日本人に落札されて海外流出が防がれ、多くの「国民」はほっと胸をなでおろしているところだろう。そんな中で「なぜ海外で競売されるのか」「文化財指定せず、文化庁は何をしていたのか」などとの批判も聞かれる▼2つの仏さんを結ぶキーワードは、「神仏習合」と「廃仏毀釈(きしゃく)」だ。奈良公園の鹿は春日大社の祭神の使いであり、奈良公園と言えば元は興福寺の寺域だった。奈良は大仏建立に八幡神が協力しに来た神仏習合の発祥地であり、「寺に鹿がいるから仏さんに角を生やした」という安直な話ではないのである▼大日如来座像は、栃木県足利市の廃寺にあった可能性が高いという。そこは今、八幡神社であるという。八幡宮はいち早く神仏習合を推進しながら、鎌倉に代表されるように、率先して神宮寺を破却した神社でもある▼こうした日本の歴史や宗教の本質に無理解なまま、「気持ち悪い」とか「何で流出させるんだ」などという批判が起こることに、憂慮せざるを得ない。そういう状況下で安易に歴史教育や宗教教育、道徳教育が論じられるのには首をかしげるし、本質を見ないという点では不毛な「ゆとり教育」論議と同じ、と言ったら、付会に過ぎようか▼どうやら子どもより大人に「体験」を通した学びが必要なようである。奈良を歩けば、今でも路傍に残る廃墟の跡に疑問を持たねばなるまい。しかし、関東在住の方々は、そう遠くまで行く必要はない。千葉・松戸競輪場に行けば、キャラクターの作者・籔内佐斗司氏の作品が気軽に鑑賞できる。入場料100円で仏の叡智が体感でき、しかもレースまで楽しめる……いや、これは明らかに付会である。

【社告】ネタ枯れ対策として、肩のこらない(?)コラム「池上鐘音(いけがみじゃんのね)」を始めます。どうぞご贔屓に。あるいは、無視してください。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月15日 (土)

全国学テ再論 結果の公表は“消極的”に

 文部科学省は3月12日、今年4月に行われる全国学力・学習状況調査(全国学力テスト、全国学テ)の参加学校数を発表した。昨年に引き続き国公立で参加しないのは愛知県犬山市の市立小・中学校だけで、私立は8.8ポイント減の53.1%である。一方、国の全国学テではないが、埼玉県鳩ヶ谷市が全市一斉に参加する業者テストで小学校2校が一部児童を集計から除外していたという報道もあり、学力テスト一般の問題を考える上でも無視できない。ここでは全国学テの実施が継続されることを前提に、参加する自治体が学校ごとのデータを公表することには慎重であるべきことを訴えたい。

 本社は先に、犬山市の不参加決定を受けて全国学テを任意参加にするよう主張したところであり(2月20日付)、その中でテストの実施意図が義務教育費国庫負担問題に端を発した国による義務教育の「質」への関与であることも指摘した。主な関心は公立学校の教育にあるのだから、私学の参加率がいくら下がったところで当の文科省自身も問題視すらしまい。

  一部には全国学テの問題点として、国による児童・生徒一人ひとりのデータ管理が可能になることを指摘する向きもある。しかし、先のような経緯で制度設計がなされた以上、そうした批判は当たるまい。国としては全国的なデータが得られること、そして何より、国が「質の保証」に関与していることさえ示せれば、目的は達成されるわけである。さらに、国レベルの政策を除けば、結果に基づく具体的な学校の改善は、設置者、とりわけ公立学校の設置者である市区町村の責任だと明確化するのが、全国学テの狙いでもある。

 ところで、全国学テに関してもう一つ、よく指摘される問題点がある。一律参加にすることで参加自治体や学校間の競争をあおる、というものだ。実際、1956~66年度の実施時には過度の競争激化が中止の大きな要因だったことは否定できない。文科省もその反省を踏まえて、実施要領で、市町村ごとや学校ごとの一覧データを公表しないよう、都道府県や市町村の教委に求めている。しかし、学テといえども行政の収集する情報であるから、情報公開請求されれば拒みづらい。ひとたび一律参加のテストが行われれば競争をあおることは、鳩ヶ谷市の例を見ても明らかだ。

 しかし、そうした問題点は、制度設計上の宿命とも言える。行政の透明性が求められる時代、市民から公開請求があれば、公開するしかなかろう。しかし、その上であえて、「請求があるまでは極力公表しない」という態度を貫いてもらいたい。

 一覧データが原則非公表とされているにもかかわらず、実際には市民が学校間を比較する材料として使っているのが、各地の実態である。特に学校選択制を実施している自治体はそうであろうし、だからこそ鳩ヶ谷市のような問題も起こった。学校選択制の問題は別に論じたいが、ただでさえ市民が勝手にデータを集めて比較するのであるから、自治体がわざわざ加担する必要はあるまい。

 それよりも、自治体全体でどう対策を取るか、また、各学校での改善をどう支援するかを考えるべきである。もし一覧データを情報公開するとしても、結果の分析とその対策までセットにして公開するくらいの慎重さが欲しい。

 少なくとも制度設計の趣旨から言って、市民から求められるまでは積極的に公表する必要のないデータであり、そのことに自治体は確信を持っていただきたい。それでも起こる困難さへの恨み節は文科省に、というよりも、文科省が抗し切れなかった小泉流構造改革路線に向けるべきである。 

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年3月 9日 (日)

新教育課程 「リテラシー」の要請にどう応えるか

 国立教育政策研究所(国研)は8、9の両日、東京都渋谷区の国連大学で教育改革シンポジウム「学校教育における科学的リテラシーの現状と今後の育成方策」(ブリティッシュ・カウンシル共催)を開催した。招かれた米、英、加、フィンランド各国のカリキュラム専門家に共通していたのは、21世紀に生きる市民が物事を意思決定する際に不可欠となるのが「科学的リテラシー(活用能力)」である、という問題意識であった。先に示された学習指導要領の改訂案は「学力向上」や「ゆとり教育」といった文脈で是非が論じられがちだが、こうした世界的動向に位置付けなければ新教育課程の狙いをつかめない、という一面があることも見逃していはいけないだろう。

 シンポに関して言えば、リテラシー重視の必要性が叫ばれたことは当然と言えば当然だ。国研をはじめ登壇した各国の専門家は経済協力開発機構(OECD)が実施する「生徒の学習到達度調査」(PISA)にかかわった者が多く、フィンランドは言うまでもなくPISAのトップクラス国として日本でも注目されている。そういう国の関係者を集めたのだから結論は分かり切っている、と意地の悪い言い方はできなくもない。

 しかし、日本ではほかならぬPISAでの順位低下を「学力低下」の根拠として大騒ぎしているのだ。ならばPISAで好成績を上げるためには何が必要かを考え、その方策を考えるのが当然の帰結だろう。心ある学校関係者はともかく、世間でそれに気づいている人はまだ多くあるまい。

 印象的だったのは、各国の専門家が科学教育において学習内容(Science Explanation=科学的説明)と科学的リテラシー(Ideas about Science=科学の考え方)を分けて考え、とりわけリテラシー学習を重視していることだった。もちろん両者は不可分の関係にあるし、リテラシー学習のためには科学の基礎知識が不可欠であることも、一様に認めている。しかし、リテラシーを育成するためには基礎知識を学ぶのとは別の学習が必要であることも、共通して指摘していたのだ。

 こう書くと難しく感じられるが、英ヨーク大のロビン・ミラー教授(PISA2006科学的リテラシー国際専門委員)が分かりやすい説明をしていた。いわく、科学的知識の「生産者」(科学者)はごく一部の人だけであるのに対して、我々はみな科学的知識や情報の「消費者」である。だから科学教育では、生徒を将来の「より賢い消費者」にすることを目的とすべきである。ここで肝心なことは、「みな」の中には生産者=科学者も含まれているのだよ、と。

 新指導要領案に即して言えば、こうなろうか。科学的知識の「習得」が必要であることは疑いようもないが、習得ばかりに力を入れていても、科学的な見方や考え方でもって実生活の課題に主体的に判断できる態度は育たない。「活用」や「探究」の学習活動にも、きちんと学習時間を割かなければいけない――。要するに、改訂の狙いと国際的動向は一致している、ということだ。改訂を提言した中央教育審議会(実際には「文部科学省」とほぼ同義)自身が国際的動向を意識していたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。

 シンポでも浮き彫りになったことだが、科学的リテラシーの育成を日本で目指す場合、障害になることが2点ある。小学校教員が科学教育自体を苦手としていること、中・高校の教員は逆に物・化・生・地の専門性にこだわり過ぎていることだ。読者のお叱りを覚悟で単純化すれば、日本の戦後教育では楽観的に過ぎるほど学問と教育の調和が想定されていた。理科で言えば、科学の系統性は理科教育でも重視されなければならない、という考え方だ。そうした楽観性に改めて「リテラシー」という点から疑問が投げかけられている、と言ってよかろう。

 こう書きつつも、学校現場からは、じゃあリテラシー育成のためのカリキュラムづくりや授業づくりをどうやってやればいいの、授業研究や教材研究をしたくても余裕なんかないよ、という訴えが聞こえてきそうである。事実そうだろう。多忙化解消や教員定数増の必要性を指摘する声も、フロアから多く挙がった。真の意味で国際動向にも合致した新教育課程を実行するためには相当の条件整備が不可欠であることは、論をまたない。

 しかし条件整備がないからといって、最初から「無理だ」「できない」と言える状況でもなかろう。削減された学習内容が復活されたことを喜んで系統性や専門性のみを重視した旧来型の理科授業に戻したところで、すぐに児童・生徒が意欲的に理科学習に取り組めるわけではない。いっそう理科離れや知識の剥落(はくらく)を招き、いつまでたっても自律的な意思決定のできる市民など育てられないではないか。

 もちろんPISAが測定しようとしているようなリテラシーが本当に必要かどうか、議論もあろう。言うまでもなくPISAはOECDが経済発展のための政策立案の指標として開発しようとしているものだし、本社としても実は経済至上主義やグローバリズムに疑問がないわけではない。しかし、少なくともこうは指摘できる。PISAの順位の上下をもって「学力」の高低を論じるのは、いかにも科学的リテラシーとしての「科学的証拠を用いて説明する能力」に反していやしませんか、と。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年3月 4日 (火)

振興計画答申素案 文科省の“悲願”がこれか

 案文を読んで、やはり、と思いつつも、複雑な気分になった。2月29日の中央教育審議会・教育振興基本計画特別部会に示された、答申素案である。振興計画は、教育予算の頭打ち状態を打開するための文部科学省の“悲願”である。「教育投資の方向」はもとより具体的な数値目標はペンディングのままだが、案文の行間からは現段階での限界がほの見える。教育基本法まで改正した代償がこれかと思うと、先行きに暗たんたる気持ちを抱かざるを得ない。

 振興計画は、改正教基法17条に定められた、国が目指す教育の姿を実現するのための総合的・基本的な計画である。答申素案でも10年先を見通した教育の姿と5年間に取り組むべき施策を示すとしており、4つの基本的方向と9つの重点事項を挙げている。

 案文には、「教育立国」を宣言するとか、「世界トップクラスの学力水準を確保する」といった文言は踊っている。それらに異存がありようはない。しかし具体的な中身になると、抽象的・総花的である印象はぬぐえない。重点項目の第一である「確かな学力の保証」にしても、その中身が「新学習指導要領の実施」と「学力調査による検証」では、単なる既定路線を掲げたに過ぎまい。肝心の「教員が子ども一人一人に向き合える環境づくり」では、養成・採用・研修と教員免許更新制を挙げた後に「必要な教職員定数を措置する」「学校現場の負担軽減を支援する」とするばかりである。

 見るべきものがないわけではない。世界的に卓越した教育研究拠点(COE)の150程度の整備や「留学生30万人計画」、道徳教育の教材の国庫補助制度創設など、具体的提言も一部ある。しかし、現段階で財政当局と合意の見通しがある部分だけ盛り込んで、後は今後の折衝に含みを持たせた表現にとどめているのは明らかだ。

 そうした事情は、分からないでもない。振興計画は閣議決定に付されるのだから、実現の見通しもない計画案をぶち上げたところで、何の意味もない。しかし、だからこそ落胆せざるを得ないのだ。

 思い起こせば、振興計画というアイデアの登場と検討経緯は奇妙なものだった。正式に提言されたのは2000年12月の教育改革国民会議最終報告だったが、その段階から「17の提案」の16番目に振興計画策定、17番目に教育基本法改正という順番だった。2001年11月に中教審に諮問された時も諮問事項の第1は「教育振興基本計画の策定について」、第2が「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」であり、審議も当初は振興計画の議論を先行させて、その中から新しい教基法の課題を浮かび上がらせる、という手法を取った。2003年3月の答申では教基法に振興計画を盛り込むべきだとしながらも、それ以外も含めた具体的な条文の書きぶりについては事務方である文科省に委ねた。条文には愛国心条項も含めて与党協議が必要だった、という事情はあるものの、教基法改正に長らく慎重だった文科省が姿勢を一転させた最大の狙いが振興計画の策定にあったことは、こうした経緯からも明らかだ。

 もちろん、答申までにはまだ検討や調整の余地があろう。計画策定時期も当初予定の2007年度中からは遅らせるようである。しかし、限りある時間内でどれだけ巻き返しが図れるのか。最初の計画は“踏み出し”にとどめるとして、5年後、10年後に期待せよというのか。

 振興計画に起死回生を賭けた文科省の思いは、理解できなくもない。現段階でここまでしか示せない苦しさも分かる。しかし、あえて言えば、だからこそ残念な思いが募るのだ。

にほんブログ村 教育ブログへ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »