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2008年4月

2008年4月27日 (日)

【コラム 池上鐘音】執念の調査

▼ある意味、すごい調査である。文部科学省が21日に発表した、「学校図書館の現状に関する調査」「学校図書館図書関係予算措置状況調べ」のことだ。何がすごいかと言って、都道府県はもとより市町村ごとの状況が、こと細かに記載されている。学校図書館にそろえる本の冊数の基準となる「学校図書館図書標準」の達成率を25%刻みで分け、それぞれ何校あるかまで載せているのだから恐れ入る▼統計調査を発表して地方の尻をたたく、というのは、文科省がよくやる手法だ。典型的なものは、かつての日の丸・君が代実施状況調査であった。法制化以前、実施率の低い自治体には大いに効果を発揮した。しかし、これも都道府県・指定都市レベルどまりである。調査が法的に定められた「指定統計」でもないもので、ここまで公表するというのは異例中の異例と言っていい▼子どもにとって本との出会いの場である学校図書館の重要性を否定する人はなかろう。加えて「新しい学力観」や「総合的な学習の時間」の導入を契機に「調べ学習」の重要性は高まっているし、新学習指導要領が求める「活用」および「言語力」を育成するためには、国語の力だけでなく統計や図も含めたデータを読み取り、表現する力が不可欠になる。豊富な図書資料なしには実現しない学習であることも確かである▼しかし、それだけでは文科省の“執念”を説明できない。調査結果にも現れていることであるが、必要な財政措置をしているのに、それがさっぱり各自治体で予算化していない、といういら立ちが、そこには込められている。実際、図書標準の達成率は小・中学校で4割ほどにとどまる。これでは世界トップレベルの学力を目指すことなどできない、とでも言いたげである――といったら、深読みし過ぎであろうか▼学校図書館に関しては「図書整備5か年計画」により、2002~06年度で総額約650億円が計上された。07~11年度には約1000億円に拡充される見通しである。財政事情の厳しい中、これだけ国で措置しているのだから地方もしっかりやってくれなきゃ困る、という言外の主張は、分からなくもない▼しかし、これはあくまで地方財政措置である。自治体に一括して渡される地方交付税は、補助金のように使途が決められているわけではない。必要ないと判断したら予算化しなくても責められることはないはずだ。教育以外の地方自治関係者の中には、顔をしかめる向きも少なくなかろう▼教育財政に関して、文科省は防戦一方だ。義務教育費国庫負担は国の負担率が引き下げられ、増額への起死回生策だったはずの教育振興基本計画は当初からつまづきを見せている。そんな不満のうっ積が八つ当たりとなって地方に向けられた調査だ、というのは、さすがに言い過ぎか▼もっとも、何でも地方任せにすることに対する危機感は、ゆえなしとはしない。教育界では地方交付税が教育以外の費目に使われることの例えとして「橋や道路に化ける」という言葉がよく使われるが、今月16日に東京で開かれた道路特定財源の暫定税率復活を求める総決起大会では、ある首長が「このままでは福祉や教育にしわ寄せが来ざるを得ない」といった趣旨の発言をしていた▼教育問題はどうしても「べき論」や精神論で語られがちだが、公教育はあくまで政策問題として語られるべきものだ。当然、そこには財政の重点化も含めた戦略がなければならないのだが、そうした土壌が国にも地方にも欠けている。そうした意味でもいろいろ考えさせられる調査ではあるのだが、あまりにもマニアックな読み方であることは認めておこう。

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2008年4月19日 (土)

振興計画答申 文科省の戦略は失敗した

 これにはもう、失望感しか抱けない。中央教育審議会が18日、渡海紀三朗文部科学相に提出した、教育振興基本計画の答申である。これが来月に閣議決定されれば、今後10年ないし5年の教育財政のあり方を、逆に縛ってしまうことになる。教育基本法を改正してまで狙った予算の拡充という文科省の戦略は、明らかに失敗したと断じざるを得ない。

 答申文を読んでいくと、これがいったい何の答申なのかという疑問すらわいてくる。これまでの諸施策および検討中だった課題について、総花的に並べただけと言っても過言ではない。

 個別の課題について目指す姿の一々はもっともでも、新規の具体的な数値目標はと言えば、▽成人の週1回以上のスポーツ実施率を50%とする▽世界最高水準の卓越した教育研究拠点150程度を重点的に支援する▽養護教諭未配置校へスクールヘルスリーダーを週1回程度派遣する▽認定こども園を早期に2000件以上とする▽小学校のスクールガイドリーダーを5校に1人程度の割合で配置する――といった程度である。

 答申素案(本頁3月4日付社説参照)よりも、後退した印象さえある。幼児教育を受ける割合を9割に引き上げることや、国公私立を通じた大学コンソーシアムを200件程度するとあった文言は、答申で消えた。「必要な教職員定数を措置する」との表現は残ったものの、「教職に対する強い情熱、教育の専門家としての確かな力量及び総合的な人間力を備えた教員の確保を図り、社会から信頼を得られる学校をつくる」は丸々削除されている。定数増へのけん制であることは明らかだ。教員給与にかかわって「優れた教員を確保するための優遇措置の維持」「人材確保法による優遇措置の基本を維持」とあった素案の表現も、もちろん残っていない。「意欲と能力のある者」が経済的理由により断念することなく教育を受けられるよう条件を整備するという部分では、「意欲」が抜け落ちた。

 象徴的なのは、教育が「未来への先行投資」であるとした文言が削除されたことだ。このキャッチフレーズが初めて登場したのは、細川連立政権下での1994年度文部省(当時)概算要求資料の中だったと記憶している。以後、自民党が与党に復帰しても変わらず使われ続けてきたから、文科省、さらには与野党を超えた文教族の一貫した主張であったとみて間違いはない。ここには、何とかして教育予算拡充の行き詰まりを打破したい、という思いが込められていた。そんな理念すら、取り下げを余儀なくされたのである。

 それに代わるようにして入ったのが、「歳出・歳入一体改革と整合性を取り、効率化を徹底し、まためり張りを付けながら、真に必要な投資を行うこととする」との一文である。教育予算の抑制にお墨付きを与えたようなものだ。経済協力開発機構(OECD)諸国平均よりも低い日本の公財政教育支出のGDP比すら、「単純な指摘はできない」と事実上片付けられている。もっと言えば、「欧米主要国と比べて遜色(そんしょく)のない教育水準を確保」するとの物言いは、「欧米先進諸国の開発した科学技術を上手に活用するというこれまでの手法はもはや許され」ないとして国際モデルなき時代への挑戦を宣言した1996年の中教審答申からいっても、大きな後退である。

 確かに、教育改革国民会議で振興計画策定のアイデアを打ち出した2000年の段階では、まだ希望もあったろう。森喜朗氏の後を受けて就任した小泉純一郎首相があれほどまでに規制緩和・構造改革路線を進めるとは、思いもよらなかった。加えて、「ゆとり教育」批判による公教育の信頼失墜である。そんな中で、義務教育費国庫負担は中教審が負担率2分の1の堅持を答申したにもかかわらず、政治判断であっさりと3分の1に引き下げられた。この時点で敗北は決まっていたのであり、それにもかかわらず、ずるずると教基法改正まで望みをつないでしまった。当時の国民会議担当室長であった銭谷真実氏が現在の文部科学事務次官であることは、めぐり合わせの皮肉としか言いようがない。

 計画が来月に閣議決定されるたところで、高等教育など一部に拡充が認められるだけで、初等中等教育にはほとんどメリットがあるまい。むしろ学校現場の苦悩をいっそう深めさせる恐れさえある。もう振興計画に期待することなどやめ、新しい戦略を練ることを考えるべきである。

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2008年4月17日 (木)

【コラム 池上鐘音】学習塾の無定見

 ▼今朝の某新聞の記事を見て、のけぞってしまった。某大手学習塾が某鉄道会社の車内広告で「秋田に学べ。」というポスターを出したとある。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で全国一となり、「日本のフィンランド」(?)と称された、あの秋田に学べというのである▼のけぞったのは、そんな秋田の公教育を学習塾が賞賛したからではない。その某学習塾が数日前、本社管内に配られる某新聞にチラシを入れていたからである。いわく、「円周率『およそ3』から、場合によっては『3.14』へ。―変遷する公教育に振り回されない確かな基礎学力を某(編注=チラシには塾の固有名詞)で築きましょう。」▼本頁を来訪してくれるような好事家、もとい賢明な読者ならお分かりとは思うが、世間で「ゆとり教育」と批判される現行指導要領と、これまた世間では「脱ゆとり教育」と評される新指導要領は、実は連続している。3.14が3になった、というのは別の某大手学習塾のプロパガンダであったことも、先刻ご承知であろう▼今さらそれを持ち出してきたことに対してものけぞったのであるが、その上で「秋田に学べ。」である。いったい、新指導要領をどう理解しているのか。一般紙の報道レベルで「脱ゆとり」だと本気で思っているのか、それとも、あえて矛盾を承知で、事情に詳しくない保護者向けにプロパガンダを重ねているのか▼むろん、民間企業のすることである。かの円周率が3になったと言い張った別の某大手学習塾も、公立中高一貫校が商売になると見るやかつての激烈な公立学校批判を引っ込め、あまつさえ正しい意味での「ゆとり」路線を支持し、事業化すらしているのである。むろんそれは、中学受験に役立つ、という現実的な判断によるものではあるが▼機を見るに敏であるべき民間企業であるから、別に営業方針を変えるのは構わない。しかし、社会的責任も問われる時勢である。世間のすう勢が「ゆとり教育」たたき、公立学校批判にあるからといって、何を言っても許されるのか。これでは、「百年の計」などとのん気なことを本気で言わねばならぬ教育界にとっては、不公平だろう▼そんな偉そうなことを言うお前は立派な定見を持っているのか、とおしかりを受けそうであるが、しょせん本社は教育マスコミの世界でも「すき間産業」である。くだんの某塾とはお近づきの機会すらないだろうし、別の某塾からはとっくに切られている。ただし、これが私憤によるものでもないことも、零細すき間産業の矜持(きょうじ)として申し上げておこう。

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2008年4月16日 (水)

教研集会 会場確保の“騒ぎ”に終止符を

 日教組教研集会の会場使用が拒まれた問題で、東京都港区がプリンスホテルを口頭で厳重注意し、ホテル側は始末書を提出した。賠償請求などは係争中であるが、結果的に全体集会を中止に追い込んだ同ホテルの判断は許されるものではなく、処分の軽重にかかわらず猛省を求めたい。その上で、公立ホールも含めて、集会の自由を第一に尊重する風潮を社会で醸成する機会としたいものである。

 日教組に限らず近年、教職員組合の教研集会や定期大会をめぐっては、会場の確保が困難になっている。右翼などの抗議活動による周辺の混乱を恐れて、会場側がナーバスになるからだ。予約された会場の使用が拒否され、組合側が仮処分を申請してようやく開催のめどがつく、という事態も、恒例行事のようになってきた。そうした経緯を踏まえた上で今回は民間ホテルの利用という異例のケースを選択したのだろうし、だからこそ最悪の結果を招いたとも言える。

 確かに民間であれば、営業方針により予約を断る、という判断は許されよう。しかし、いったん取った予約を取り消すというのは、信頼を売りとするホテル業としても、あってはならないことだろう。それとも、組合が暴力団のような迷惑団体だとでも公言するつもりなのか。

 ただ今回の件で、集会の自由は守られるべきだということが明らかになったのは、あまりいい表現ではないが不幸中の幸いと言えるかもしれない。民間ですらこうなのだから、公立の会館ではもっとそうである。そもそも、1000人規模の集会場というのは限られている。集会の自由を守るための混乱は民主主義のコストと考え、政治性を廃して純粋に法令に則った対応を取るべきだ。何より、会場確保や使用で騒ぎとなるような事態には、終止符を打ちたい。

 教組の集会に行くと、ホール外には案内ひとつなく、会場使用のボードには「花と緑の会」といったたぐいの不思議な名前が書き込まれていたりする。集会者が名前すら表に出せないようで、健全な民主主義社会と言えるのか。こうした主張は論じるまでもないとも思ったが、最近とみに教育に対する世間の空気が不穏になっているだけに、あえて苦言を呈した次第である。

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2008年4月12日 (土)

【コラム 池上鐘音】魔性の報道

▼横浜市の中学校で、通知表に「計算力を向上させ魔性(ましょう)」などの記載ミスがあったというニュースが、一部で流れた。通信社が後追いしたので、地方紙はもとよりスポーツ新聞でも大きく扱われたようである。しかし、記事を読んでいろいろと考えさせられてしまった▼ネットの世界に遊ぶ人なら分かる通り、元々はたわいもない誤変換である。別段、生徒を「魔性」呼ばわりしようとした意図などあるまい。本来なら保護者側も笑って、あるいは引きつりつつも大人の対応で許すような問題だ、と言っては甘いだろうか▼最初の報道には父親のコメントが載っているから、おそらくは当事者からの情報提供が発端だったのだろう。そうした「タレコミ」が起こるにはそれなりの背景があったのかもしれないが、それを取り上げる新聞社、後追いする通信社の判断は、また別のところにあっていいはずだ。単にタレコミがあったから取材して、確認が取れたから報道した、というだけでは見識が問われよう▼教員の中にも「通知表は本来、手書きで記載すべきだ」と顔をしかめる向きがあろうが、学校現場の多忙化が進む中で、事務の省力化は大きな課題である。とりわけ煩雑な児童・生徒の評価で、データ処理システムを組んでいる学校は少なくない。報道によると「元データ」が間違っていたというが、すんでのところで指導要録が…などと言うのは、やめておこう▼そういう意味で学校現場の状況をうかがうには格好の記事であるとも言えるのだが、見出しが見出しであるだけに、結局は学校バッシングにさおさしただけ、という空しい気持ちはぬぐえない。問題は、手書きで書きたくても書く暇がない現場の状況であるはずなのだが。

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2008年4月 7日 (月)

学校選択制は教委主導の選択肢づくりで

 多くの児童・生徒にとっては、実質的な新年度の始まりである。学校選択制を実施している一部の自治体では、学区域内ではない学校に通い始めた子も少なくなかろう。ところで、選ばれる学校の特色づくりは各校の自主性に任されることが多い。本社は逆に、教委主導で多様な学校の選択メニューを用意することを求めたい。

 多くの自治体が特色づくりを学校に任せてきたのには、それなりの事情があったことも理解できなくはない。確かに公立学校にマンネリ化や横並び意識が強かったことも否めない。是非は別として、組合対策や統廃合を進めたい意図もあったろう。しかし、だからといって、その形をいつまでも続けていればいいとも思えない。

 特色づくりといっても、学校の条件や地域の事情、配置された教員などによって自ずと制約がある。その上、いくら学校側が特色を打ち出そうとも、選択する家庭の側が学力テストの点数など単一の基準でしか選ばなければ、何にもならない。「あそこの学校は荒れているみたいだ」といったような風評が立てば、それがたとえ根拠のないものでも選択行動に如実に現れてしまうのは、よく指摘されることだ。

 しかし本社は、学校選択制そのものに反対する立場も取らない。児童・生徒が多様化している以上、公立学校といえども多様化する必要があると思うからだ。

 こう主張するのは、実は以前取材した中学校のことが念頭にあるからである。その学校は選択制により、廃校の危機にさらされるほど生徒数が激減した。しかし、そうした小規模校だからこそ、安心して学べる生徒も少なくないのだという。おまけに校長をはじめとした教職員集団が意欲的で、学力向上のための授業改善はもとより、国レベルの教育改革についても熱心に勉強していた。

 部活動に熱心な学校、習熟度別学習に取り組む学校、逆に集団学習を大切にする学校、少人数で安心して学べる学校――。場合によっては「元気な子」を意識的に集める学校があってもいい。多様な選択メニューを用意し、住民・保護者に提供していくのは、まさに教委の役割だろう。

 少なくとも、努力をすべて各校に任せ、自然淘汰に委ねるような自由競争路線を続けていては、学校現場が疲弊するばかりである。それよりも、特色の旗の下に意欲的な教員を募り、一丸となって個性的な学校づくりをするよう促した方が、よほど管理職も含めた教員のモチベーションも上がると思うのだが、いかがであろうか。

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