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2008年7月

2008年7月29日 (火)

教科書ページ倍増 福田政権の本気度が試される

 政府の教育再生懇談会は28日の会合で、国語や理科、英語の教科書のページを2倍増にするなど質・量を充実させることで合意した。提言自体は誠に結構で、文句のつけようがない。しかし、実際にはそう簡単にできることでもない。実現するかどうかは、福田政権が本気で教育を重視しているかどうかの試金石となりそうだ。

 教科書の厚さについては、これまでの学習指導要領改訂で一律にページ削減が求められたり、逆に補充・発展学習で一定のページ増が認められたりと、何かと世間の注目を集めてきた。しかし、大幅な拡充が現実に難しいことは、案外知られていないのではないか。

 言うまでもなく義務教育教科書は、児童・生徒に無償で給与されている。これにかかる予算は、2008年度で約395億円に上る。最近はあまり聞かれなくなったが、15年ほど前までは年末が近くなると、新聞に「教科書を有償化へ 大蔵省方針」といった見出しが、年中行事のように躍ったものだ。もちろん業界で言うアドバルーン(観測気球)記事であったわけだが、今の財務省も決して有償化をあきらめたわけではあるまい。

 もしページ数が倍増されれば、数百億円もの経費増が見込まれるという。その分の予算拡充は保証されるのか。29日には概算要求基準が閣議了解されたが、当然その点はつまびらかではない。

  そうでなくても教科書予算は、抑制される傾向にある。そもそも教科書の定価は1冊数百円という常識外れのものだが、それさえも実際にはほとんど据え置きと言っていい状態だ。教科書会社にとってはシェアさえ確保できれば安定した収入源となり得るが、逆に言えば、採択されなかった時のリスクは大きい。少子化で「読者」の市場が確実に縮小していく中で、コストのかかるビジュアル化などにも対応を迫られている。

 だから、本当に教科書予算が拡充されるなら、質的な充実にも大いに資することになろう。あくまで本当に拡充されるなら、である。ページ倍増分が、重点課題推進枠に入るのか。それとも、文部科学省予算の中でやりくりせよと言うのか。その扱いによって、福田政権が本気で教育を重視しているかどうかが、測れるというものだ。

 もっとも、先に初めて策定された教育振興基本計画が、ろくな数値目標を盛り込むことができなかったことから考えれば、そうそう期待はできまい。しかし、国内総生産(GDP)比の引き上げで数兆円、といった論議から比べれば、数百億円など小さいものである。それだけの数字も動かす決断ができないとしたらば、とても教育を重視しているとは言えまい。――もっとも、予算編成段階で政権が存続しているかどうか、それこそ保証の限りではないが。 

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2008年7月26日 (土)

「モンスターペアレント」?! 逆バッシングに乗じるな

 「モンスターペアレント」という言葉が、すっかり定着してしまったようである。雑誌等で面白おかしく取り上げられるだけでなく、テレビドラマの素材にまでなる時勢だ。ところで本社は、某社某メールマガジンの企画により、保護者のイチャモン(無理難題要求)研究の第一人者である小野田正利・大阪大学教授に、『親はモンスターじゃない!』 (学事出版)の刊行をきっかけにインタビューする機会を得、このほど配信された。記事は同社某誌のサイトからたどれるのでぜひご覧いただきたいのだが、屋上屋を重ねるのは承知で、ここでも論じたい。

 実を言えば、本社校閲部は学事出版『月刊高校教育』誌の校閲作業を孫受けしている関係から、小野田教授の連載「悲鳴をあげる学校―学校への苦情、要望、そしてイチャモン」の原稿を、いち早く拝読している。そして毎月、その主張に大いに共感しているものである。

 確かに近年、学校や教師に対する保護者からの要求が増え、悩まされていることは事実だ。それによって休職や退職に追い込まれた事例もあることは否定できない。しかし、だからといって保護者を「モンスター」扱いしてはいけない、というのが小野田教授の一貫したスタンスであり、本社もその主張を支持する。

 小野田教授は、保護者が無理難題要求をしてくるのにも「理由(わけ)」があると指摘する。例えば親子関係のまずさであり、時には職場のストレスであったりする。そのはけ口として不満をぶつけている場合がある。だから、まず保護者の主張に耳を傾け、そういう背景をくみ取り、理解することが第一だという。――これを読んで気がついた。子ども理解と同じではないか、と。

 もちろん、小野田教授は何でもかんでも保護者の要求を聞くべきだと言っているのではない。そのため要求を①学校が対応すべき「要望」②ある程度は対応すべき「苦情」③学校にはどうにもできない「無理難題要求(イチャモン)」――に分け、学校の組織的対応で事情を丁寧に聞き取りながら事実を正確に確認し、③の場合は学校で抱え込まずに関係機関との連携によって解決すべきだとさえ位置付けている。その要点は、小野田教授が作成に協力した大阪市教育委員会のマニュアル「要望・苦情等対応の手引き―保護者とのいい関係を築くために」にまとめられている。

 小野田教授によると、初期対応がまずい場合には、正当な要求である①が②に、さらには②が③になってしまう場合すらある。だから、保護者を「モンスター」と呼ぶような、最初から人格を否定する構えを取っていては、正確な事情を把握することすら難しくなるのだ。少なくとも保護者を心の中で「モンスターペアレント」ひいては「バカ親」などと呼んで留飲を下げていても、問題は一向に解決しない。 

 クレーマー、モンスターペイシェント……。世の中は「怪物」であふれている。もちろん、それには理由なしとはしない。「モンスターペアレント」という言葉によって、無理難題要求を突きつける親の存在が社会に認知されたことは、意味があったろう。小野田教授が「自子中心主義」と呼ぶような、わが子のことしか考えない保護者がいることも確かである。また、これも小野田教授の受け売りであるが、教員側に保護者を理解する「体力」がなくなっているのも事実だ。

 しかし、思い起こしてほしい。「ゆとり教育」批判で吹き荒れた、あの学校バッシングを。もちろん、それは今も続いている。世間が「親も悪い」と言い出したからといって、それで安心していては、結局は逆バッシングの風潮に乗じるだけではないか。

 本社は現行学習指導要領と完全学校週五日制のスタートからしばらく、時事通信社『内外教育』誌上で実践紹介の連載を担当していた。取材で印象深かったのは、平素より保護者が出入りし、良好な関係を保っていた学校では、指導要領の趣旨も理解され、保護者に何の不安も起こっていなかったことだ。逆に言えばそれがない学校では、世間の「ゆとり教育」批判や学校・教員バッシング(とりわけ公立バッシング)に容易に巻き込まれていった側面があったろう。

 いま必要なのは、学校と保護者が地道にお互いを理解し、協力できる関係を構築していく努力を続けていくことだ。もちろん、学校だけに任せるのではなく、行政の支援も欠かせない。「体力」回復のための多忙化解消も求められよう。しかし繰り返して言えば、最初から保護者を「モンスターペアレント」と規定し、心理的に対峙(たいじ)してしまっていては、解決の糸口を見いだすどころか、ますます学校不信を深めてしまうことになることは必定だろう。

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2008年7月19日 (土)

夏休みに思う 教員に研修の“自由”を

 全国の多くの小・中・高校では、きょうから夏休みが始まった。しかし教員にとっては、補習や部活動指導、事務等に追われ、必ずしもほっとできる環境にはないというのが現状だろう。そこで、あえて今、長期休業中に教員の自由な研修を保障することの必要性を訴えたい。

 長期休業中の勤務が息苦しくなった大きな原因が、2002年7月の文部科学省通知「夏季休業期間における公立学校の教育職員の勤務管理について」にあることは否めまい。自宅研修の扱いが厳しくなっただけでなく、いわゆる官製研修以外の研修に参加しにくくなったことも確かだ。これにより民間研究団体も壊滅的な打撃を受けている。

 一方、3月に告示された小・中学校の新学習指導要領では、さっそく来年度から一部教科も含めた移行措置が始まる。「習得、活用、探究」の授業改善に対応するには、これまで以上の研修・研究が不可欠になろうというのに、である。移行期間中は時数合わせに追われ、新指導要領の趣旨が十分にそしゃくされないまま本格実施に突入するとしたら、間違いなく今度の新教育課程は「失敗」するだろう。その度合いは、「総合的な学習の時間」を目玉とした現行教育課程の比ではない。

 長期休業は、日ごろの業務を離れ、落ち着いて一人ひとりの研修課題に向き合える貴重な機会である。というより、平日はとてもそんな余裕はない。その上で長期休業中まで縛ったたままでは、たとえ服務の適正化という面では必要であったとしても、実際にはますます教員の思考停止状態を深刻にするだけだ。

 文科省は5月に「学校の組織運営の在り方を踏まえた教職調整額の見直し等に関する検討会議」を設置し、給与や勤務の在り方の検討を始めたが、6月の「骨太の方針」と7月の「教育振興基本計画」閣議決定までの経緯を見れば、定数改善や給与改善の見通しは暗いと言わねばならない。ヒトも増やさず、カネも出せないのが現状ならば、せめて精神的な自由くらいは与えてもいいのではないか。もちろん、その必要性について国民・住民に十分な説明をする責任は生じようが。

 勤務管理を甘くすると服務規律が乱れるとか、自主研修といっても反文科省・反指導要領の民間団体を利するだけだ、などと懸念する向きもあろう。しかし、今はそんなことを言っていられる状況を既に過ぎているように思う。近年の教育改革一般に言えることであるが、角を矯めて牛を殺すような政策はそろそろ軌道修正すべきである。

 異論があるのは承知だが、検討会議でも課題に挙げているように、1年間の変形労働時間制の導入も考慮に値するのではないか。せめて昔のように夏休みくらいは自由に研修できるようにしないと、教員はますます疲弊するばかりであろう。

 

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2008年7月16日 (水)

【コラム 池上鐘音】固有

▼般若心経という有名なお経の中に、「色即是空」という、これまた有名なフレーズがある。ここで言う色とは、もちろんセクシーのことではない。「もの」、それも現代風に言えば「商品」から「原子」まで、と言ってよかろうか。抽象的な概念までをも含めてよかろう▼要するに諸行無常、固定したものなど何もない。だから執着することなんか止してしまえ――というわけである。これだけでも2500年前のお釈迦さんの考えは凄いものであるが、この後に「空即是色」と続くのだから、もっと凄い▼もう一つ凄いと言えば、日常語にもなっている「縁起」とは、何もミステリアスなものではない。原因(縁)があるから結果(起)がある、という、極めて科学的な思想である。色に執着するから、いろいろな煩悩も起こる▼なぜこんなことを書いたかというと、学習指導要領解説・社会編で、竹島を「固有の領土」と書くかどうかが焦点になったからである。確かに近代国家の要件として領土、領海、領空があることを教えるのは、基礎・基本として認めていい▼加熱する政治論議から一呼吸置いて、仏の教えに耳を傾けてみよう。もともと「固有」なんてものはないんだよ。確かに「固有の領土」の存在は国際社会に認められているけれど、「国家」という縁がなければ、「領土」という起もないんだよ、と。抹香臭い話を嫌う向きには、ジョン・レノンだってそう歌っているよね▼本社は北海道にゆかりがある。それじゃ「北方領土」はどうなるのかね、と問われる向きがあるかもしれない。そうしたら、こう答えよう。そもそも北海道は「アイヌ固有の領土」ですよ、と。

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2008年7月15日 (火)

「竹島」問題 政治論議より冷静な指導論を

 新しい中学校学習指導要領解説の社会編で焦点となっていた竹島の扱いは、「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」との表現で決着した。これについては日刊各紙等でさんざん報じられ、また論じられている。本来であれば本社は世間からあまり注目を集めないが学校現場にとって重要なテーマをほじくり返してマニアックに論じるところが持ち味であり、指導要領解説についてももっと検討するべき点はあるのだが、あえてこの問題を取り上げるのは、どうしても国際関係や国家論といった政治の立場から語られ過ぎて、肝心の教育論や指導論が二の次、三の次になる傾向が透けて見えるからである。

 さて当の記述に対する評価であるが、結果的にバランスの取れた妥当な表現になったのではないか。日本国の主張は主張として踏まえつつも、「相違」という形で韓国の主張にも着目させることを求めている。自民党などの一部には「固有の領土」と書かれなかったことに不満があるようだが、あえて言い切ってしまえば、それは政治の範疇(はんちゅう)である。

 そもそも中学校社会科は「広い視野に立って、社会に対する関心を高め、諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し、我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を培う」ことが目標である。国際社会で、自国の主張のみを振りかざして事足れりとする態度では不十分であろう。まさに、多面的・多角的な考察を踏まえ、広い視野を獲得してから、意見の違いは違いとして認識しつつ、解決に向かっていく姿勢を身につけさせることが、いっそう求められるのではないか。何より解説自身が、国土と歴史に対する愛情は「偏った理解の上に立つものではない」と指摘しているではないか。

 素人考えからの提案であるが、こうした領土問題を、課題探究のテーマとしてはどうだろうか。まさに地理、歴史、公民の各分野を総合して、国際社会に生きる日本人としての思考力・判断力・表現力を育成する格好の教材になると思うのだが、いかがだろう。

 本社は公教育が政治と無関係に存在できるとは思わないし、ましてや手垢のついた国民教育権論などに加担するつもりは毛頭ない。しかし、学習指導要領や教科書に何でもかんでも国家の立場を書いて教えればいいという一部の主張には、稚拙さを感じる。そもそも指導要領自体が大綱的基準であることを、ご存じないのだろうか。教科書が万能であると思っているのなら、教材論としては戦前の国定教科書以下のレベルである。そんな論議よりも、実際の教室を想定して、いかに生徒に考えさせる授業を展開できるかを研究するほうが先決だ。何より重要なのは、主体的に考える力を持った主権者の育成であろう。

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2008年7月10日 (木)

大学全入時代 入試対策より重要な“教育接続”

 中央教育審議会の大学分科会は8日、学士課程教育(学部教育)に関する答申案をまとめた。日程調整の関係から正式答申の目途は立っていないようだが、内容が大きく変わることはなさそうである。ここではもちろん大学の質の保証がテーマなのだが、「高大接続テスト(仮称)」が話題になったように、「高大接続」による質の向上ということも、その一つの重要な方策になっている。ところで本社はリクルート『キャリアガイダンス』誌に、大学全入時代の高大接続問題に関して記事を配信した。取材を通して痛感したのは、目先の入試対策では済まされない、深刻な事態である。このほど誌面化された(2008.7 No.22)のを機に、改めて論じてみたい。

 全入時代にあっては、既に一部の大学を除いて、入試が学生の質を担保するものとはならないことは、中教審でも指摘している通りだ。しかし、取材の過程では、もっと厳しい見方も聞いた。「大手企業は採用に当たって、大学名だけでなく、高校名を見ている」。つまり、同じ大学の出身者であっても企業から見れば、「使える」学生とそうでない学生が出身高校によって歴然としている、というわけだ。

 これは、どういうことだろうか。本社なりに推測しよう。大学教育では、論理的思考力や問題解決力、コミュニケーション能力、自己管理力などの育成が求められている。つまり中教審で言う「学士力」、経済産業省風に言えば「社会人基礎力」である。入学者にも当然、そうした大学教育に耐え得るだけの基礎が身についていなければならない。一部の者だけが大学に進学していた「エリート段階」や「マス段階」であれば、厳しい受験競争に勝ち抜いた者は自ずとそうした力も身につけていた。しかし全入時代には、そういう保証はなくなる。それでも手取り足取りの受験指導を受ければ難関大学に合格することはできるのだが、付け焼き刃の「入試学力」だけでは、既に社会で評価されない時代が来つつあるのだ。

 これを高校関係者に向けて乱暴に言うと、こうなろうか。多くの高校では今、進学実績を上げようとして苦慮している。必履修科目を未履修にさせてまでの、涙ぐましい受験シフトである。しかし、そうまでして難関大学に合格させたところで、あなたたちは社会で通用しない人間を育てているだけなんですよ、と。

 もちろん全部の高校が、というわけではない。普段の授業や教育活動を通してそうした能力の基礎を自然と培っているところは存在しているし、だからこそ企業はそういう高校名を見ているのだろう。しかし、「だからやっぱり私立中高一貫校だ」といった某学習塾のような主張は本社と相いれないし、公立伝統校の「文武両道」にしても本当の意味で伝統が継承されているか、若干の疑問はぬぐえない。新興の“2番手校”の方が良質の教育を行っている場合だってあろう。いずれにしても、受験対策一辺倒では何もならないことだけは確かである。

 では、どうすればいいか。だからこその「高大接続」である。キャリガイ誌で取材した複数の大学では高大連携を、大学側が入学者に求める能力を発信する機会として、積極的に位置付けていた。高校生の側もそれを理解して努力し、学習意欲を高めて入学するから、ミスマッチは起こらないし、入学後も一般入試を経ただけの学生以上に伸びるという。

 高大連携を単なる一過性のイベントに終わらせず、日常的な「教育接続」にまで高めることができれば、それによって高校、大学両方の質をも高めることができよう。大学側が学生確保に躍起となっている中で、その条件は整っている。そうであれば、どんな高校であっても活用次第ではチャンスが開かれているのではないか。

 もっと言えば、大学全入すなわち大学淘汰(とうた)の時代には、平等かつ公平な入試ばかりが大学進学の唯一のルートとは限らなくなる。私立大学で地方の高校の準系列化や一定の推薦枠設定などが広がっているのも、その一端だろう。大学と高校はもっと具体的な形で結び付きを深めていくのだろうし、大胆に推測すれば「何でもあり」の方向に進んでいくのだろう。それを「不公平だ」と非難できる時代では、もうなくなりつつあるのかもしれない。

 そうした時代を見据えて、高校側も将来的な教育の在り方を考えていく必要があろう。いつまでも「大学入試が変わらなければ高校教育も変えようがない」と嘆いていて済むとは、限らないのである。

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2008年7月 2日 (水)

振興計画閣議決定 結局は現状の固定化だ

 初の教育振興基本計画がようやく閣議決定された。本来は3月中だったはずが、中央教育審議会答申自体が1カ月遅れ、そこからさらに2カ月の迷走を経ての策定である。しかし結果的には、10年後、5年後の目指すべき姿に向けた計画というよりも、教育政策の現状を追認し、それを今後5年間固定化させるものでしかない、と断じざるを得ない。

 計画の意義や主な内容については、過去の社説で論じたので繰り返さない。答申後の折衝で焦点となった教育投資の数値目標盛り込みも実現せず、対国内総生産(GDP)比のくだりも、結局は中教審答申のままとなった。教育投資について「欧米主要国を上回る教育の内容の実現を図る必要がある」との一文は入ったものの、あくまで「内容」であり、イコール投資額を増やすという意味ではなかろう。

 逆に、後退した格好の部分も少なくない。「必要な教職員配置の措置」といった表現は、いずれも「教職員配置の適正化」に直されている。中教審と政府という立場の違いはあるにしても、定数増をけん制した言い換えであることは疑いない。のみならず、「人材確保法に基づく優遇措置を縮減する」という一文まで挿入される念の入れようである。「多様化・複雑化する教育問題」が「多様な教育課題」に替えられていることも、教育現場が必ずしも昔に比べて複雑=加配が必要という認識ばかりではないぞ、という財政当局の思惑が反映したものと見なせる。

 文科省側の「完敗」は最初から予想できた話だが、本社の予想が外れた部分もある。高等教育についてはもう少し色よい表現になるかと思ったが、修正部分を読む限りそうとは受け取れない。例外は私学だが、これは“お約束”のようなものだから勝利の部類には入るまい。

 策定された計画は、子どもの体力を1985年ごろの水準に回復させる、といったような細かい目標を別にすれば、目新しいものはほとんどない。要するに、最近の文教政策を総花的に並べて肉付けしただけである。文科省にとっては概算要求の根拠となる資料が増えた意義はあるのだろうが、財務省にとっては織り込み済みの話だから、影響力はほとんどなかろう。

 それでも、計画は計画である。閣議決定され、国会にも報告される意味は大きい。たとえ総花的であろうとも、少なくとも中期5年間は、この計画に従わざるを得ない。固定化されたとは、そういう意味だ。学校評価も進めなければならないし、教員評価も進めなければならないし、PISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の順位を上げる努力もしなければならない。何が変わるわけではないが、逆に言えばはしごが掛けられないまま、現場は少なくとも5年間、今の苦労を続けるしかない、ということでもある。

 結論は、これまでの主張を繰り返すばかりだ。これでは、何のための教育基本法改正だったのか、と。

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【社告】いつもご愛読ありがとうございます。社内事情により、またも更新が滞り大変申し訳ありません。振興計画が策定されたのを機に、「シリーズ 文教予算」(仮題)を始めたいと思っております。好事家の方はご期待ください。

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