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2008年8月

2008年8月22日 (金)

首相補佐官交代 「教育再生」路線の払しょくを

 1日の内閣改造で宙に浮いていた山谷えり子首相補佐官(教育再生担当)の処遇について、渡海紀三朗前文部科学相に交代させる人事が22日、ようやく発表された。山谷氏と言えば、ある意味で安倍晋三前首相の「お友達内閣」の象徴的存在だった。これを機に、本格的な「教育再生」路線の払しょくに取り掛かるべきである。

 振り返るまでもなく、安倍流教育改革が関係者に与えたダメージはあまりにも大きかったと言わなければならない。前首相は「ダメ教師には辞めていただく」(『美しい国へ』文春新書)と、最初から現状に否定的な姿勢で教育「再生」に臨んだ。その主導で設置した教育再生会議(2006年10月~2008年2月)は、文科省から教職員組合に至るまでを「教育界」とひとまとめにして批判。公教育が「機能不全」に陥っているとまで決めつけ、いわゆる「ゆとり教育」をはじめとした世間の学校不信、公教育不信をあおる形で、自ら進めようとする「改革」を迫った。

 「徳育」の教科化と検定教科書使用、バウチャー的な予算配分など、実現が抑えられたものもあるが、教育三法をはじめとして規定路線になってしまったものも少なくない。とりわけ教員免許更新制は今夏に予備講習が始まったが、2011年3月の最初の修了確認期限までにどれほどの混乱が生じるかは、予断を許さない。

 文科省もこの間、行き過ぎた改革要求に抵抗しつつも、可能な限り安倍前首相の意向を踏まえた政策を立案してきた。新学習指導要領の各所にも、ストレートではないにせよ、その影響が色濃く反映していることは否めまい。

 教育再生会議の後継組織である教育再生懇談会には「再生」の言葉が残ったものの、中央教育審議会委員やその経験者が過半数を占めるなど、似て非なるものと言っていい。担当者である首相補佐官の交代により、安倍前首相の影響は一掃されたと言っていいだろう。「大学全入時代」など同じようなテーマを扱っているように見えても、動機はまったく違うのである。

 既に実行段階に入ってしまったものは、今後、施行の過程で修正を図ったり、思い切って見直しをしたりする必要がある。免許更新制の例で言えば、まずは10年経験者研修と一体化させた改善が急務だし、それを通して、10数年かけてでも廃止に向かうべきである。新教育課程の実施に関しても、現場の裁量で「教育再生」流の解釈から脱却すべきだ。

 しかし、そうした制度や運用の見直しを別にしても、教育再生路線が残した傷跡は深いと言わざるを得ない。そのツケを払わされるのもまた、傷つけられた側だ。教育界はいまだ未曾有(みぞう)の逆風の中で事に当たらねばならないことを、よくよく覚悟しておかなければならない。

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2008年8月18日 (月)

全国学テ開示問題 だから任意参加にすべきだ

 鳥取県教委は先週、臨時教育委員会を開き、改めて全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の市町村別・学校別データを開示しないことを決めた。地方紙記者の異議申し立てを受けた県情報公開審議会が一部を除き開示するよう答申し、中永宏樹教育長が開示を主張したにもかかわらずの、非開示決定である。しかし、こうした混乱が起きるのも、同県の問題というより、全国学テの制度設計に伴う必然である。本社が2月20日付社説で主張した通り、全国学テは任意参加に切り替えることを早急に検討すべきである。

 そもそも情報公開をめぐって問題が浮上する可能性は、実施前に一部団体やマスコミから指摘されていた。大阪府枚方市教委が独自に実施する学力テストについて、高裁まで争った末に非公開決定が取り消された事例があったからだ。鳥取県でも裁判に持ち込まれれば、果たして勝訴できるか、おぼつかないと言わざるを得ない。

 国が実施したテスト結果について、都道府県レベルで開示の是非が争われる。こうしたいびつな構造になったのも、全国学テそのもののいびつさに原因がある。

 確かに全国学テ構想の発端は、当時の中山成彬文部科学相が2004年の就任当初に「教育について競争意識を高める」ため教育課程状況調査の結果を都道府県・市町村別に公表する意向を表明したことにある。世間には、いまだにこの文脈で全国学テの意義をとらえている向きもある。

 実際の全国学テは、中央教育審議会の慎重な審議を経て「指導方法の改善に向けた手がかりを得ることが可能となり、子どもたちの学習に還元できる」(2005年10月答申)ものへと位置付けが変質した。中山発言とはうらはらに「学校間の序列化や過度な競争等につながらないような十分な配慮が必要」(同)とされたのは、もちろん1960年代の「学テ闘争」の苦い教訓があったからである。

 もう一つ注意しなければならないのは、全国学テを提言したのが、いわゆる「義務教育の構造改革」答申であったことだ。

 言うまでもなく同答申の最大の狙いは、義務教育費国庫負担制度(義務教)を堅持することにあった。規制緩和・構造改革路線の中にあっても、引き続き国が義務教育に対して応分の責任を持つべきことを主張するために持ち出した論理が、「インプット」(目標設定とその実現のための基盤整備)→「プロセス」(実施過程)→「アウトカム」(教育の結果)という、教育システムへの転換だった。プロセスを市区町村や学校に委ねつつも、アウトカムを国の責任で検証し、教育の質を保証する。そのための具体的な手法が、全国学テであったのだ。

 しかし周知のように、義務教の国庫負担率は政治決断により2分の1から3分の1に引き下げられた。本来なら中教審=文部科学省は「3分の1教育分権」の在り方を再度審議しなければならなかったのに、教育の質保証システムはそのまま残った。全国学テのいびつさは、ここに起因する。

 全国学テの実施に当たって文科省は、個々の市町村名や学校名を明らかにした公表を行わないよう、都道府県教委などに通知している。しかし、通知はあくまで指導・助言の一環であり、しかも国による指導・助言は99年の地方分権一括法により「行うものとする」から「行うことができる」(改正地方教育行政法48条)に変わっている。法的拘束力を持たないことは明らかだ。

 このままでは第二、第三の開示問題が起こりかねない。そして、法廷闘争に持ち込まれて開示判決でも出れば、たとえ確定前でも全国に与える影響は甚大である。

 本社は既に主張したように、全国的な学力テストの意義を否定するものではない。ただしそれは、自治体や学校の主体的な参加により、それぞれの指導改善や教育条件整備に生かすために活用されるべきだ。あえて国の「責任」とまで位置付ける必要はなく、インプットの達成が不十分な責任は市民や保護者に対して直接取るべきものである。

 一連の論議で気になるのは、結果の公開が子どもや学校の競争意識をあおるかどうか、という点に矮小(わいしょう)化されることである。それでは、今の社会の中で「競争も必要」という主張に力を与えかねない。あくまで教育論、指導論として、先手を打つべきである。

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2008年8月16日 (土)

【社告】

北京五輪自転車トラック代表・永井清史選手(日本競輪選手会、岐阜88期S1)の男子ケイリン銅メダル獲得をお祝い申し上げます。

 「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」社員一同(社員代表・渡辺敦司)

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2008年8月 9日 (土)

不登校 「保護者の意識」で片付けるな

 文部科学省が7日発表した2008年度学校基本調査および2007年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」の不登校分(いずれも速報値)によると、小・中学生の不登校が2年連続で増加し、約12万9千人となった。ところで今回の発表に関して、気になったことがある。増加の理由について、報道の多くで「無理に登校させることはないと考える保護者の増加が一因」といった文科省の見方を紹介し、またそれに対して「安易な欠席容認はやめよ」といった論陣を張る新聞さえ見受けられることだ。

 文科省が保護者の意識を一因に挙げたのは、今回初めて行った都道府県教委への聞き取りで「欠席を安易に容認したり、『嫌がるものを無理に学校に行かせることはない』などと考えたりするなど、保護者の意識の変化が影響している」との回答が65%に上ったことが根拠になっている。確かに2006年10月以降、いじめ自殺をめぐる問題が相次いだことをきっかけに「自殺される前に休ませよう」と思い直す保護者が少なからずいたことも事実であろう。

 ただ、それを主要因と受け止めたり、あまつさえ昨今の「モンスターペアレント」批判とからめて保護者の問題に帰するような風潮を誘発したりするとしたら、かえって不登校対策を混乱させることになりはしないか。

 もとより不登校の要因や背景はその子によってさまざまであり、対応もまた一律ではない。たとえ保護者が「無理に登校させない」と言ったとしても、子どもの状況にはさまざまなパターンがあることもまた、言うまでもない。

 とりわけ不登校の背景には、学校の問題のみならず、親子関係も含めた発達の課題があることも少なくない。本来、そこまで踏み込んだ上で対応を見極める必要があるのに、「保護者の意識の変化」で片付けてしまうとしたら、要因を探る手立てさえもシャットアウトしてしまうことになる。まさに、以前の社説で主張した「モンスターペアレント」規定と同じことだ。

 ここで改めて、調査に目を向けてみよう。不登校となったきっかけと考えられる状況(複数回答)として、「親子関係をめぐる問題」が11.1%、「家庭の生活環境の急激な変化」が6.1%、「家庭内の不和」も4.8%ある。たとえ学校の問題が主要因だったとしても、家庭の支えや見守りがあれば深刻な状況に陥らないケースがあることも考えれば、家庭の在り方は、実は過小評価できないのではないか。

 同じ調査項目で、気になる点がもう一つある。「いじめを除く友人関係をめぐる問題」が18.4%を占めていることだ。「いじめ」と合わせると21.9%になり、5人に1人は友人とのトラブルが一因にあることになる。

 もちろん調査自体が学校側の見方による回答という限界は、重々承知している。しかし、今時の子どもの多くが人間関係づくりに難を抱えていることは、認められてよいだろう。どこかで意図的にコミュニケーション能力を育成しなければならないし、場合によっては公教育だけでなくフリースクールやサポート校だって考慮されてよい。

 そのためにも、家庭との連携がいっそう欠かせなくなる。明らかに学校や教師の対応に起因するケースは別として、学校と家庭が一緒になって、子どもの自立に向けた支援に取り組むことが求められよう。それこそが、数の増減をうんぬんすることよりも重要なことだ。 

 もちろん先の文科省の見方にしても、それがすべてではないことは推測できる。記事はおそらく記者発表の席でのコメントを断片的に伝えたものだろうし、記事にするにはそうせざるを得ない事情も、末端ながら報道に携わってきた者としてはよく分かる。だからこそ読者には“読解力”を利かせて、慎重な受け止めをしてほしい。

 かつて1992年に「登校拒否はどの子にも起こる」という見解が旧文部省から示されて以来、「登校刺激はしていけない」といった風潮が学校現場に広がり、2003年の協力者会議報告と文科省通知で修正が迫られた、という経緯があった。今回もそういう一面的な対応が起こらないよう願うばかりである。杞憂(きゆう)であればよいのだが。 

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2008年8月 7日 (木)

「政策棚卸し」 面白い試みだが

 自民党の「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム(PT)」は4、5の両日、東京都内で文部科学省の32事業に関する「政策棚卸し」を実施し、全国学習・学力状況調査(全国学力テスト)を「今のままなら不要」と判定するなどの評価を行った。全省庁の事業を点検する第一弾ということだが、文教予算に限ってみても非常に面白い試みだし、個別の判定についても納得できる部分は少なくない。ただし、厳しく言えば、野放しで歓迎できるわけではない。今後、評価の充実とともに、「永田町」の在り方も含めた政策決定過程をも検証してほしいと願うからだ。

 政策棚卸しは、民間非営利のシンクタンク「構想日本」(加藤秀樹代表)が提唱している「事業仕分け」の手法によるもので、今回の作業にも構想日本が協力したという。国や自治体の行政事業について、外部評価者も加えて公開の場で議論し、そもそも事業が必要かどうか、必要ならば民間も含めてどこがやるべきかを仕分ける、という趣向だ。

 まず試みとしては、高く評価できる。これほど大胆に個別の事業にメスを入れることができる手法は、今までになかったろう。マスコミのみならず一般にも「出入り自由」で公開して是非を論議する、というのも痛快だ。本来、そうした検証を担うべき取材・報道側としても、タコツボ業界の中で概算・予算やその執行を追いかけるばかりだったと、大いに反省するものである。

 中身についても、よくぞここまで、と思う部分は少なくない。全国学テの見直しについては本社も以前、主張したところであるし、「心のノート」に国費を投入する成果が不明確だという指摘にも、なるほどとうなずける。さまざまなモデル事業について「成果を測る物差しがない」というのも、確かにそういう批判をされてしかるべき側面があったことを認めなければならないだろう。

 細かい不満を挙げれば、きりはない。モデル事業に関しても今回、「(文科省が)学校や自治体がやっていること、やろうとしていることを把握せず、新しい事業をモデル事業として押しつけ、そのモデル事業を評価するものさしもなく、事業終了後の展開をどうするのかという考えもない」(主査の河野太郎衆院議員のホームページ)という理由で、一律に「不要」判定したという。しかし、学力向上フロンティアスクールのように、モデル事業には研究奨励的な意味合いも持ち、実際に周囲の学校に好影響を与えたものもあるからだ。もちろん、それを国が実施する必要があるのか、政策としていつまで継続するべきなのかは十分検証されなければならないが、だからこそ全否定するのは総計に過ぎよう。幼稚園就園奨励費に関する判定に歯切れの悪さを感じるのは、邪推だろうか。

 しかし、若干の違和感を感じる最大の原因は、これが自民党のPTとして実施されたことである。各省庁の政策評価は不可欠だし、それを与党が行うことは当然だし不可欠でもあろうが、ともすれば自らの「責任」を棚に上げていやしないか、との感想をぬぐえないからである。

 ほとんどの文教政策は、直接的には文科省が立案し、予算要求や立法提案を行うが、そこに至るまでの過程には与党から有形無形の「圧力」が存在していることも、否定できまい。文科省はそうした意向もそんたくしながら、学校現場など関係各方面にとってもバランスが取れる形で政策立案を行ってきた。「心のノート」などは、その典型であろう。そして言うまでもなく、それを承認してきたのは、ほかならぬ与党も含めた国会なのである。教員免許更新制は「結論なし」だったが、これこそ政治主導で導入した制度ではないか。

 もちろん、国会審議の限界を補完する検証作業の意義を否定するものでは決してない。初回という限界もあったろう。だからこそ今後、自らの足元も含めて大いに検証を広げ、かつ深めてほしい。それによって真に必要な事業の仕分けができるばかりでなく、国として行うべき文教政策は何かが、本質的に論議できると思うからだ。今後に期待しつつ、また自戒をも込めつつ、あえて苦言を呈した次第である。

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2008年8月 2日 (土)

【コラム 池上鐘音】内閣改造に思う

▼福田改造内閣が発足したが、閣僚名簿を見て、少し残念に思った。いや、メンバーに不満があるわけではない。文教行政のことだけを考えれば、むしろ逆である。残念というのは、この改造があと3カ月早ければ、と悔やまれるからだ▼新文部科学相の鈴木恒夫氏は、文部政務次官、衆院文教委員長などを歴任した典型的な文教族。教育基本法改正の与党検討会メンバーにもなったエキスパートで、かつ新自由クラブ出身のハト派でもある。既に今期限りの引退を表明しているが、今回の起用には「花道」以上の意味合いがあろう▼いや、文科相人事そのものは、実は重要ではない。そもそも文科相ポストは重要閣僚と位置付けられておらず、文教族か否かにかかわらず大概は初入閣に充てられることが多い。肝要なのは、周囲の陣容である▼財務相に就任したのは、伊吹文明前自民党幹事長。旧大蔵省出身の派閥会長ながら、安倍晋三内閣で文部科学相を務めるまでに衆院文教委員長を経験するなど文教行政には元から明るかった。文科相時代、文科官僚は大臣説明に難渋したようだが、安倍首相肝いりの教育再生会議に激しく抵抗し、中教審中心主義を貫いたのもまた伊吹大臣であった▼経済財政相が与謝野馨・元文相というのも朗報であろう。規制改革も担当するというから、経済財政諮問会議、規制改革会議という、小泉純一郎政権下で文教行政批判の先兵となった両会議にも、抑制が利こうというものだ。これに、閣外の政調会長として文教族の重鎮、保利耕輔元文相が就任したことも加えてよかろう▼これだけの陣容であれば、1カ月前に閣議決定された教育進行基本計画は少し違ったものになったろう。国内総生産(GDP)比5%というのはいくら何でも非常識な数値ではあるが、教職員定数や高等教育などは、もっと色よい表現が許されたのではないか▼不十分ながらも振興計画が策定されてしまった以上、今後5年間の文教予算は単年度勝負を続けるしかない。だからこそこの好機を逃しては、残り4年間もますます望みが薄くなる。経験豊富な閣僚の面々にも、リーダーシップ発揮を期待したいものだ。むろん文教行政に限った話であるし、あくまで内閣が年末まで持つことが前提ではあるが。

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