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2008年9月

2008年9月29日 (月)

【コラム 池上鐘音】廃仏棄釈の亡霊

▼以前、取材で宮崎県北地方の山間部を歩いたことがある。たまたま通りがかった小さな寺に入ったら、門の傍らに小さなほこらがあった。観音様だ。しかし、待てよ。寺名の肩には「浄土真宗」とある。確かに観音は弥陀の脇侍ではあるが、まず真宗ではまつらない。そこで気がついた。ははあ、廃仏棄釈で別の寺から“避難”して来られたのだなと▼廃仏棄釈は幕末から明治初期にかけて、実力行使で寺院を破却し、僧侶を還俗させた仏教排斥運動である。全国的には1868(慶応4)年の神仏判然令によるが、それ以前から水戸藩や薩摩藩などで先べんがつけられていた。必ずしも「行政」によるものではなく、御一新を旗印にした狂信的な国学徒も多かったようだ▼しかし、そもそも「神道」自体が仏教伝来に触発されて徐々に体系化されていったものであり、1200年もの長きにわたった神仏習合・神仏同座こそが、むしろこの「くに」の伝統的な宗教だった。哲学者の梅原猛氏は、廃仏棄釈を「仏殺し」であるとともに「神殺し」でもあったと喝破している▼九州における廃仏棄釈の拠点は薩摩であるが、その影響下にあった現在の宮崎・大分両県内でも、激しい排仏が行われた。伊満福寺(宮崎市)では住持の僧が山上から蹴落とされ、神仏習合の発祥地・国東の富貴寺(大分県豊後高田市)では僧侶が皆殺しに遭って土に埋められたという(佐伯恵達『廃仏毀釈百年』改訂版、鉱脈社)▼なぜこんな話を持ち出したかというと、中山成彬氏(衆院宮崎1区)が放言により国土交通相を辞任した後も、引き続き「日教組解体」を主張しているのを見聞したからである。あまつさえ辞任翌朝にTBSの番組に出演して心情を説明することを「神の手に導かれた」とまで言っている▼中山氏の出身地である県南西部の小林市は旧薩摩藩。仰ぎ見る霧島・高千穂峰(高原町)は明治初期、文部省(当時)の「調査」によって県北部の高千穂町とともに記紀神話の天孫降臨比定地に挙げられ、青銅製の天之逆鉾さえ置かれた▼過去の放言も含めて、その基となった歴史認識は、そうした環境を考えれば合点がいく。とすると日教組を「ぶっ壊す」というのは、現代の廃仏棄釈を担っているおつもりなのかもしれない。かなり根は深そうであり、だとすれば対話も検証も難しいかもしれない、とさえ思えるのである。

【訂正】当初アップ記事中、「中山氏が生まれ、地盤としている県南西部の小林市」は誤りでした。小選挙区制で小林市は宮崎3区になっています。お詫びして訂正します。

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2008年9月26日 (金)

麻生新内閣 看過できない2大臣発言 

 麻生太郎新内閣が発足し、報道各社による新閣僚の就任インタビューも行われている。その中で、教育行政をめぐって看過できない発言があった。1人は塩谷立文部科学相、もう1人は元文科相の中山成彬国土交通相である。

 塩谷文科相は道徳教育について、「『だめなものはだめ』というような強制的なところがないと、道徳は追いつかない。それを国がやるべきだ」という趣旨の発言をしている。これは、安倍政権下での教育再生会議が展開しようとした「徳目主義」に連なるものであろう。

 こうした徳目主義は、戦前の教育勅語を復活させたいという心情を背景に、多くの保守政治家らの底流にある考え方だと言える。教育勅語まで持ち出さなくても、道徳の退廃を嘆く向きには非常に分かりやすい「改革」提言であり、選挙民にも訴えやすい。

 確かに新学習指導要領では、再生会議の提言も反映させる形で「基本的な生活習慣、社会生活上のきまりを身に付け、善悪を判断し、人間としてしてはならないことをしないようにする」(総則)といった文言が加わっている。しかし、これによって指導要領の規定する道徳教育が徳目主義に転換したわけではない。あくまで目標は「道徳性を養う」ことであり、道徳の時間は「道徳的実践力を育成する」ことに変わりはないのである。

 一政治家の主張として、徳目主義を訴えることは別に構わない。しかし、事は文科相としての発言である。折しも来年度から新指導要領の移行措置に入ろうという時期に、指導要領の解釈そのものに誤解を与えかねない発言をすることは、たとえ就任インタビューといっても不穏当ではないか。しかも単なる初入閣組の“素人”ではなく、副大臣まで経験したエキスパートである。確信犯と目されても仕方がない。今後、慎重な発言を求めたいところである。

 これに対して中山国交相は、所管行政について述べたわけではないから、目くじらを立てるべきものではないかもしれない。しかも即日、発言自体を撤回している。しかし、この人は文科相時代にも「ゆとり教育」や学校週5日制の見直しに言及するなど、自由奔放な発言と誤ったメッセージで学校現場を混乱に陥れた“前科”がある。

 今回の、全国学力テストに関する発言もそうだ。実際の「全国学力・学習状況調査」は、中央教育審議会や専門家検討会議の審議を経て制度設計されている。必ずしも当時の中山文科相がぶち上げたような「競争」のための試験では、決してない。それを“日教組対策”という自身の意図で説明しただけでなく、「テストの役目は終わった」とまで決めつけている。功績を大げさに吹聴するのは政治家の常ではあるが、今でも文科相のつもりなのか。それとも、文教政策を左右する大物だとでも自認しているのか。発言とその後の経緯を見聞して、可能性は低かったとはいえこの人が文科相に再任されなくて本当に良かったと、妙な安心をしているところである。

 もちろん注意しておかなければならないのは、これらが報道各社の取材によるものであるということだ。そのため当然、発言内容は断片的な報道によってしか知ることができない限界がある。全体的な文脈が分からないから、上記のような批判は当を得ていない恐れもなしとはしない。しかし、それは一般読者・視聴者なら、なおさらである。国務大臣として間違ったメッセージを発しないためにも、よくよく自戒すべきである。

 麻生内閣には5人の文相・文科相経験者が入閣しているが、その配置を見ると、鳩山邦夫元文相が地方行政にかかわる総務相であるぐらいで、ほとんど文教行政にプラスに働く布陣とは思えない。麻生首相自身にしてからが政務次官を経験した文教族ということになっているが、この人が建設的な文教政策を語ったのを寡聞にして存じない。巷間(こうかん)言われているように「お友達」を集めた結果、経験者が多く寄り集まったというだけであろう。

 良識の範囲内を旨とする本社がなぜここまで新内閣の閣僚の針小な発言に棒大な反応を示すかというと、総選挙が近く想定されているからである。特に民主党との政権交代を賭けた激烈な選挙戦は必至であり、選挙民の耳に心地よい訴えが飛び交う時期でもある。

 とりわけ教育は誰にでも語ることができ、同意も得やすい課題ではあるが、個人の自由気ままな教育論と、公教育政策論とは、決定的に違う。「言い特」もまた政治家の常であるが、放言や「思いつき」が既定路線になっては学校現場はたまらないし、ただでさえバッシングにさらされる学校や教員のモチベーションをさらに減退させることにもなりかねない。そこは、もう一方の政権交代合戦を繰り広げるであろう民主党にも、まさに責任政党として自制を求めたいところである。

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2008年9月23日 (火)

全入時代の大学 大胆な「機能分化」に取り組め

 鈴木恒夫文部科学相は先ごろ、「中長期的な大学教育の在り方について」を中央教育審議会に諮問した。審議事項の一つに「人口減少期における我が国の大学の全体像」が挙がっており、これまでの設置認可行政を転換させる可能性もにじませている。大学側も審議の動向や答申を待つばかりでなく、学生の質の多様化に対応した大胆な「機能分化」に、今から真剣に取り組むべきである。

 諮問でまず確認しておきたいのは、「中長期的な」という限定が付いていることだ。役所の用語で「中長期的」とは、短期的でない、すなわち目前の課題にはしないということであり、場合によっては捨て置きたい課題に意図的に使われる場合すらある。ただし今回の場合は明らかに、それだけ時間を掛けて関係者の合意を図っていきたい、という意味を含ませている。諮問理由でも、先に策定された教育振興基本計画に盛り込まれた文言を諮問の根拠としているから、計画期間の2012年度までに一定の方向性が出せればいい、という構えであると読み取れる。

 その上で、なぜ今この時期に諮問が行われたかを考える必要がある。中教審では既に「学士課程教育」の審議が進んでいて、内容的には3月の大学分科会制度・教育部会の「審議のまとめ」と大きな変更はなく、後は親審議会のセッティングを待つだけ、と言われていたが、なぜか答申の日取りにめどが付かないままであった。それが、「中長期」の諮問が先に行われたとすれば合点がいく。「審議のまとめ」は現在の大学教育の規模を「過大とは言えない」と明言し、さらなる大学設置の拡大すら容認する姿勢を示していたからだ。

 今後どのような方向で議論が進んでいくかは、大学分科会でのフリートーキングや、その下に設置される部会等の動向を見ないと、何とも言えない。また、すぐに方向性を明らかにできるものでもないだろう。しかし、中教審への諮問一般がそうであるように、諮問理由説明を子細に眺めれば、課題は自ずと浮き上がってくる。

 審議事項は①社会や学生からの多様なニーズに対応する大学制度及びその教育の在り方について②グローバル化の進展の中での大学教育の在り方について③人口減少期における大学の全体像について――の3本である。これらを一体的に解決するような大学政策を求めているのだ。しかし、大学進学率が50%を超える「ユニバーサル段階」において、国際的な競争力とも両立する質の保証ということは、相当な困難が伴う。

 まず考えられるのが、設置認可行政の転換である。これまでは2002年8月の中教審答申に基づき、「事前規制」による原則抑制から「事後チェック」による自由化の方針が取られてきた。そのため同年度をピークに18歳人口の減少が続いているにもかかわらず、大学の数は80校近くも増えている。一部大学では“経営破たん”も現実のものとなりつつある。

 これについては既に「審議のまとめ」で「大学間の連携・協同」を打ち出すことで、市場原理一辺倒による「自然淘汰(とうた)」を避けるという事実上の大学政策の軌道修正が図られていた。しかし、それはあくまで設置後の話であって、認可については触れていなかった。今回の諮問理由説明で、③にからめて「人口減少期における状況、充足率の状況等を踏まえた我が国の大学の全体像」の検討を求めたということは、明らかに設置認可時の「自由参入」に歯止めを掛けたい意向が含まれていよう。

 しかし、それは過剰な「入り」を抑制するだけであって、減少する18歳人口に見合った大学数の削減につながるものではない。そこで注目されるのが、後に続く「大学の機能別分化の促進と大学間のネットワークの構築」という一文だ。

 機能別分化は2005年1月の答申「我が国の高等教育の将来像」(将来像答申)で提言されたもので、各大学が▽世界的研究・教育拠点▽高度専門職業人養成▽幅広い職業人養成▽総合的教養教育▽特定の専門的分野の教育・研究▽地域の生涯学習機会の拠点▽社会貢献機能――といった機能を適宜選択し、大学自体の性質を多様化させることを目指したものだった。

 しかし、個別大学がこうした機能別分化を積極的に打ち出したという話は、寡聞にして知らない。実際には従来の偏差値輪切りのランク付けの延長線上で「世界に通用する大学」「面倒見のいい大学」といったキャッチフレーズを付し、大学や学生の現状に沿って力点の置き方を変えているだけであろう。

 各大学は、もっと大胆に機能別分化を鮮明に打ち出すべきである。かつての「大学」のイメージが既に維持できないことは、関係者なら心情でよく分かっていることだ。それを「学力低下」批判で逃げているようでは、教育でも何でもないし、現実的でもない。世界に通用する研究者育成をしたいなら、入学定員や学生数の削減をも恐れずに、入学者選抜や単位認定を厳格化をすればいい。地域で生き残りを図りたければ「学力不問」でどんどん学生を受け入れ、代わりに社会で通用するような力を付けさせるべく、古い「高等教育」の概念にとらわれない教育を展開すればよかろう。逆にそれを大学の「売り」にして、新たな学生発掘に打って出るのである。

 しかし、それでも現在の765校がそのまま維持できるとは、とても思えない。実際にも私大の半数近くは定員割れを起こしている。諮問理由説明にも「全国レベルと地域レベルのそれぞれの人材育成需要に対応した大学政策の在り方」とある。むしろ各大学が先手を打って「連携・協同」、ありていに言えば再編・統合を検討することが不可避だ。そうでなければ、破たんで放り出される学生を不幸にするだけだろう。

 「中長期的」といっても、残された時間は決して長いとは言えない。大学関係者の真剣な対応を求めたいし、中教審=文科省も鮮明な形で大学政策の転換を打ち出すことが不可欠である。

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2008年9月19日 (金)

【コラム 池上鐘音】学力と政治

▼日政連議員は別として、昔から国政の世界では「教育はカネ(票)にならない」と言われてきた。唯一の例外は私学であるが、教職員定数の改善など損得抜きの強い信念がなければ、とても熱心に取り組めるものではない。地方政治も同じような構図だったろう▼そんな潮目が変わったのは、現行学習指導要領改訂時に起こった学力低下批判をめぐっての対応だ。文科省が突然「指導要領は最低基準」と言い出し、発展学習も「地方の自主性」に任されてしまった。そんな状況に対して一部首長がやむにやまれぬ形で打ち出した学力向上施策が、またたく間に全国的な広がりを見せた。教育がカネになる時代であることが分かったからである▼もちろん、それ以前から規制緩和・地方分権の流れはあったし、教育委員会のあり方の見直しも課題となっていた。しかし、国と地方とを問わず教育行政不信を高めたのは、まぎれもなく学力低下批判であった。安倍晋三前首相の「教育再生」路線が、それに追い討ちをかけた。大分県の教員汚職事件も相まって、「教育界」の閉鎖性は今、集中砲火の格好の対象である▼大阪府の橋下徹知事は17日の定例記者会見で、全国学力テスト結果の市町村データを公開すべき理由として「政治家の感覚」を挙げた。断片的な報道では「くそ教育委員会」など過激な発言ばかりが注目を集めるが、会見記録をよく読むと、整合性には疑問があるものの、ゼロベースで問題を突破しようとする「政治家」の姿勢には舌を巻かざるを得ない▼土地勘がない地域のことを評するのは本来差し控えるべきではあるが、そうした素人としての姿勢こそが大阪で受けているのだろう。また、それだけ公務員や専門職への不満が高まっていることの証左でもある。政治の世界だって透明性が求められる時代だ。行政としても説明責任を果たし、市民の合意を得ながら政策決定をしていかなければならないことは、誰しも認めざるを得まい▼9月末で任期満了となる同府教育委員の後任として、関西在住の元教員2人の名前が挙がっている。2人とも本社は過去に仕事上かかわりがあったし、人間的にも信頼できる人たちであることは重々認識しているのだが、「2人とも“落ち研”なのに、大丈夫か」と思ってしまうのは、やはり古い業界紙体質が抜けないせいであろうか▼なお今回のコラムは一部業界用語の注釈や背景説明をあえて省いているので、分からない読者には何のことかも分からないであろうことをおわびしておく。これこそが古い政治の見方であることも、重々承知の上である。

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2008年9月13日 (土)

全国学テ公表問題 そもそもデータに限界がある

 全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の市町村別データを公開すべきかどうかで、あいかわらず各地がかまびすしい。本社は既に2月20日付の社説以来、全国学テの問題を再三再四にわたって論じてきたし、結果の公表問題についても3月15日付の所論で尽きているように思う。よって今さら取り上げることもあるまいと思っていたが、あまりにも単純な論議が横行していることには警鐘を鳴らさなければなるまい。そこで今回は、公開派が求めているペーパーテストの成績そのものが比較データとして限界があることを指摘したい。

 まず、よくよく考えてみよう。全国学テの実施教科は国語と算数・数学の2教科でしかない。「主要教科」である社会、理科、中学校では英語すら出題されていないのである。まず、そこに限界を感じる必要があろう。

 次に、対象学年が小学校6年生と中学校3年生でしかないことだ。「最終学年における到達度を把握するため」(2006年4月の専門家検討会議報告書)と位置付けられているが、学年指定に当たって「まずは」という副詞が付いているように、最終学年だからといって妥当性があるとは限らない。実施時期についても、到達度を測るには3月や2月といった年度の終わりに行うべきはずだが、評価に基づく学習改善に生かすという建前論から「年度の早い時期」(同)になったまでである。

 測定する「学力」の中身も問題である。報告書も、「全国的な学力調査により測定できるのは学力の特定の一部分である」と注意を促している。そもそも問題は両教科とも「知識」「活用」に分けて出題されているが、今やその妥当性への疑問もあまり聞かれない。「ゆとり教育」や新学力観を声高に批判する人は、「活用」重視の問題をもっと掘り下げるべきだと思うのだがいかがだろう。

 最後に、これはあまり指摘したくないのだが、実は現場にとって現実的な問題である。テストには、特別支援学級の在籍者のうち「当該教科の目標及び内容等に準じて指導を受けている児童生徒」や、通級学級に在籍する子なども対象になっている。こうした児童・生徒が含まれたデータであることは、当事者の学校であれば了解済みだ。しかし平均点を出してしまえば、学校・学級の中に埋没してしまう。かといって、そういう子が何人含まれている、ということを明らかにはしにくいし、ボーダーの子のことを考えれば、またできるものでもない。1960年代の全国学力テストでは「できない子」を欠席させるなどの問題が指摘されたが、せっかく「特殊教育」から「特別支援教育」への転換で対象者を広げたというのに、逆に水面下で深刻な差別を助長させる恐れさえある、と言ったら言い過ぎであろうか。

 日本人のテスト信仰は根強い。ペーパーテストならば、客観的で平等な能力比較ができると思ってしまう。だから「公表して何が悪い」という主張に、簡単に賛同してしまうのも無理はない。教育関係者にとっては常識である「評価と評定は違う」ということも、まず一般の人には理解されまい。ましてやテストの意味においてすら、である。

 それでは、解決策は何か。8月18日付社説でも論じたように、公開するなと文科省が指導したところで訴訟が起こされれば開示は避けられない。やはり、全国学テは任意参加にすべきである。

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2008年9月12日 (金)

【社告】

 愛知県一宮市の一宮競輪場で11日に行われた第51回オールスター競輪初日第7レースの落車事故で逝去された内田慶選手(栃木87期S1)に、謹んで哀悼の意を表します。

 「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」社員一同(代表社員・渡辺敦司)

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2008年9月10日 (水)

【コラム 池上鐘音】学テ結果活用の変

▼さすがに、これは文部科学省にとっても想定外だったに違いない。大阪府の橋下徹知事が、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果を自主的に公表しない市町村には予算をつけない、と言い出したことだ▼だいたい全国学テは、その結果を各学校の指導改善はもとより「義務教育の機会均等や一定以上の教育水準を確保」(2006年4月の専門家検討会議報告)するのに生かすことを狙いとしていた。要するに、不十分なところには手厚い支援をせよということである。それが、まさか予算を減らす脅しに使われようとは、さすがに思いもよらなかった▼もっとも当の橋下知事自身、若干トーンダウンしているようなので今後の推移を見守りたい。ただ、知事が5日の記者会見で「市町村教委が府教委の要請を無視できるのなら、府教委は(小・中学校行政に)一切関与しませんよ」と発言しているのは、なかなか本質をとらえたキレ方だと妙に感心した▼思い起こせば全国学テが提唱された「義務教育改革答申」(2005年10月)では、市町村や学校の「アウトカム」(教育の結果)を国の責任で検証すべきことが打ち出された。これは、国が市町村や学校を指導・助言しようとする時には必ず都道府県を通して行うという従来の教育行政の在り方を、大きく転換するものであった▼同答申の焦点だった義務教育費国庫負担制度(義務教)をめぐっては、全額国庫負担論まで持ち出した文科省と、全額地方移管を主張した全国知事会がするどく対立した。その意趣返しとして、義務教育システムにおける“都道府県外し”を画策した向きがあることは否めない。「今後求められる分権改革の重点は、都道府県から市区町村への分権」という答申の文言に、その意図がにじむ▼都道府県が市町村の結果を公表できないという制度設計は、まさに文科省による都道府県外しの一環と言える。大阪府のみならず鳥取、秋田と各県知事が相次いでいら立ちを見せるのも、ゆえなきことではない▼どちらにしても、義務教「3分の1」時代の教育分権の在り方は、都道府県と市町村のみならず、国と都道府県の関係も含めて未整理のままだ。今回の「変」も、そうした論議不足が生み出した混乱と言えなくもない。事は結果を公表するかしないかの問題にとどまらないのである。

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2008年9月 6日 (土)

学校支援地域本部 教員の負担「軽減」にはならない

 文部科学省の新規事業として今年度、「学校支援地域本部」がスタートした。全市町村に地域ボランティアによる「学校の応援団」を広げようというもので、既に495市町村、1520本部の設置が決まったという。8月末から9月始めにかけて、全国6カ所で「キックオフ!研究協議会」も開催された。地域ぐるみで学校教育を支援する仕組みづくりという点では、文句のつけようがない。気になるのは、それが教員の負担を「軽減」するものとして喧伝(けんでん)されていることだ。

 学校支援地域本部は、杉並区立和田中学校の「学校支援本部」をモデルにしたと言われる。しかし、事業の狙いや設計は微妙に違っている。文科省の説明によると、事業の目的は、①教育のさらなる拡充(教員や大人が子どもと向き合う時間を拡充)②生涯学習社会の実現(自らの学習成果を子育てに生かす場を拡充)③地域の教育力の向上(地域の活性化)――により「学校・家庭・地域が一体となって地域ぐるみで子どもを育てる体制を整えること」にある。

 現在の学校教育を進める上で、地域との連携が不可欠になっていることは論をまたない。近年、生活科や「総合的な学習の時間」、キャリア教育など、地域住民や外部機関などとの連携なしには学習そのものが成り立たない活動が増えている。学習内容と実社会とを結び付けることは、新学習指導要領も求めるところである。既に地域連携自体が学校や教員の本来業務になっている、とすら言っていいだろう。

 そうした活動や組織づくりは従来、各学校の創意工夫と教員個人の努力で、ゼロから積み上げられてきた。しかし、熱心な管理職や教員が異動してしまえば雲散霧消しかねないほど、はかないものである。学校支援地域本部事業は、それを継続的なシステムとして構築することを目指している。

 また、学校にとって地域の教育力が、てこ入れをしなければ維持できないくらいに低下していることも、また認めなければならないだろう。そのために総額50億円の国費を投入しようというのだから、それ自体は悪いことではない。

 学校や教員の役割は、耐え難いほどに肥大化している。もちろん、その中には時代の要請から避けられないものもあるだろう。地域連携も、その一つだ。だからこそ地域にも応分の負担をしてもらうシステムとして、地域本部のような仕組みが求められるだろう。しかし、「連携」業務そのものがゼロになるわけではないことに、注意する必要がある。

 最大の問題は、それが教職員定数改善を阻む口実として利用されている向きがあることだ。「教員は忙しい」というけれど、まだまだ無駄は見直せるんじゃないか。業務に関しても、一部を外部に担ってもらうことで負担軽減はまだまだ図れるだろう。教員の数を増やせというなら、徹底的に無駄を省くことが先決だ――と。それが、財務省などの論理である。

 もちろん文科省も、それを織り込んで事業を予算化したのだろう。そうであれば3年間の事業終了時に、本当に教員の負担軽減につながったのか、「子どもと向き合う時間」が増えたのか、徹底的に検証してほしい。ちょうど教育振興基本計画の「次の」5年間に向けて、格好の素材を提供するものになろう。

 研究協議会の関東甲信越会場(東京)では千葉県野田市教委の「地域教育プラットフォーム事業」が事例として紹介されていた。しかし、その中核事業「サタデースクール」は、文科省が指導要領を突然「最低基準」だと言い出したことで自治体間の教育格差に危機感を抱いた根本崇市長の主導で全国に先駆けて開始したものであることに、思いを致さざるを得ない(時事通信社『内外教育』2002年7月30日付本社配信連載参照)。事業のモデルと目された和田中にしても、「できる子」対策を多忙な教員に担わせるのは酷だとして、支援本部主催による学習塾との連携講座「夜スペ」を始めたのである。

 改めて事業の位置づけを確認してみると、あくまで予算は生涯学習振興局に計上されており、所管も社会教育課である。初等中等教育局の予算説明資料には、再掲として「事務の外部化」とある。よもや初中局が生涯局に予算と責任を外部化しただけ、という意味ではあるまいが。

 

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2008年9月 3日 (水)

【コラム 池上鐘音】基本調査の怪

▼2008年度学校基本調査で、奇妙な現象が起こった。大学・短大への進学状況について、浪人の入学者数(8万9227人)が志願者数(8万9063人)を上回ったのだ(時事通信社『内外教育』9月2日付本社配信記事参照)▼調べてみると、どうやらこれまで通信制高校の志願者数(1576人)を加えていなかったことが主な原因らしい。確かに浪人が30万人に迫った1990年代前半ならば、統計上無視できた数である。しかし高校卒業者の2人に1人が現役で進学する時代には、そうも言えなくなってきた▼さらに言えば、従来は定時制に比べても“日陰”の存在であった通信制高校自体の台頭もあろう。近年ではサポート校が株式会社立高校を設立する時代である。そうしたサポート校では大学進学も一つの売り物であるから、18歳人口減少期にあっても通信制高校からの志願者は今後とも増えることが予想される▼今年の基本調査では、全志願者(約74万4千人)が全入学者(68万4千人)を約6万人上回り、「大学全入時代」がまだまだ先の話であることが浮き彫りになったが、100%になれば全入状態であることを示す「収容率」(入学者/志願者)は前年度比1.5ポイント増の92.0%であった。しかし通信制高校の現役(8693人)と浪人を加えれば、志願者数は約75万4千人、収容率は88.2%と、全入時代はさらに遠のく▼さらに調べてみると、面白いことも分かった。短大は既に収容率が100%を超えているのだ。文部科学省によると、大学・短大を通して調べた入学者数には、高校で新たに卒業証明書を取得しなかったり、大学・短大卒業後に再入学したりする者も含まれるというから、高校を通して把握する志願者数と食い違いが生じることは避けられない。事実、専門学校では既に入学者数で約8000人の“誤差”がある▼そう考えていくと今後、高等教育進学には現役・浪人だけではとらえ切れない、さまざまなルートが拡大されていく、ということなのだろう。むろん生涯学習社会の実現という観点からは、悪いことではない。ただし、統計を取る者、統計を基に記事を書く者にとっては、大慌てである。

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【訂正】当初アップ記事中、「全入学者(68万4千人)を約10万人上回り」となっていましたが、正しくは「~約6万人~」です。お詫びして訂正します。

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