財政審建議 「過剰」なのはどちらか
財政制度等審議会は26日、2009年度予算編成に関する建議をまとめ、中川昭一財務・金融担当相に提出した。文教予算に関しても詳細なデータや事例を示しながら、厳しい態度で臨むよう求めている。それ自体は「エビデンスベースト」(根拠に基づいた)の論議として歓迎したい。しかしその中身たるや、注目すべき指摘はいくつかあるものの、全体として粗雑なものにとどまっていることが、残念でならない。
建議では教育予算について、国民の関心は投資額の多寡ではなく、学力や能力といった教育による「成果」にあるとする。それはその通りだろう。「教育予算額と子どもの学力には、必ずしも密接な関係はない」というのも、うなずける。対国内総生産(GDP)比についてもデータを挙げて「子ども1人あたりで見れば主要先進国と比べて遜色(そんしょく)はない」としているが、これはそもそも教育振興基本計画策定の折衝過程で文部科学省サイドが突然3.5%から5%への引き上げなどという乱暴な素案を持ち出したことに対する意趣返しであろうから、まずはおく。
では、予算が要らずに学力を上げるには、どうすればいいというのか。建議が例示するのは、「早寝・早起き・朝ごはん、テレビも消して家族団らん」に取り組む山口県山陽小野田市の例で、資料編の2ページを使って紹介する熱の入れようだ。確かに同市のような学力向上の取り組みによって、教科学力の「基礎」はすぐに伸びよう。しかし、その後の「応用」や、国語や算数・数学以外の教科についても、基礎学力さえ伸ばせば、何の手当てもなしに時代が求める能力が伸ばせる、という展望があってのことなのか。同市のプロジェクトは陰山英男・立命館大学教授を総合監修者としているが、その陰山教授を教育委員に任命した大阪府の橋下徹知事と発想のレベルが同じだ、と言ったら言い過ぎであろうか。
同様の論法は、指導力不足教員に関しても言える。公立小・中学校教員の0.1%に満たない認定数について、識者らのコメントを引き合いにしながら、まずは定員増より「質の確保」が先決だと断じている。もとより「問題教員」が1割前後いる、というのは、現場感覚としてよく聞かれることである。しかしそれが「排除」されるべき指導不適切教員なのか、研修等により改善を促す余地がある対象者なのかを、意図的にか無自覚的にか、混同している。
建議の文章を読んでいると、これまでの規制改革会議(旧総合規制改革会議、規制改革・民間開放推進会議)や教育再生会議と通底していることに気がつく。要するに、学力低下をはじめとした世間の公教育に対する不信感を後ろ盾に、小泉流規制改革路線と安倍流教育再生路線に便乗して、教育予算抑制を訴えているだけに過ぎない。
本社は、単に教育予算を増やせと主張しているのではない。教育現場の困難を直視し、その解決のための予算戦略を論議せよと言いたいのだ。財務省は財政を通して国家を担っていると自負しているはずだし、教育に関しても文科省に負けず劣らない見識を持っていると認識している。それだけに、財政規律の維持のためには何でも利用する、といった姿勢が残念でならないのだ。
建議の中に、象徴的な一文がある。教育予算全般について第一に掲げられた、「本年発生した教員採用関係の事件に対しては、教員の世界の閉鎖性とともに、教員の過剰な待遇が、その背景として指摘されている」というくだりだ。教員給与の問題点については、別に論じたい。しかし、こうも言いたくなる。「過剰」なのは建議の論拠なのではないか、と。
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