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2008年12月

2008年12月30日 (火)

【コラム 池上鐘音】年末に思う

▼今年もあと1日。世間での仕事収めは26日だったようだが、本社にとっては全社挙げての恒例行事であるKEIRINグランプリを本場(ほんじょう)で観戦して、ようやく年末が訪れた▼戯言はさておき、本年も教育界にとって決して良い年とは言えなかった。朗報と言えば「教育再生会議」路線が名実共に終わったこと(?)と、ノーベル賞に日本人3人と日本出身者1人(米国籍)が一挙受賞したことくらいか。あと明るい話題を探せば、北京オリンピックでの日本選手の活躍。中でも自転車トラック男子ケイリン永井清史選手(日本競輪選手会岐阜支部、88期SS)の銅メダルは……いや、これもまた戯言であった▼残念というか、やっぱりと思わせたのは教育振興基本計画の策定である。財政当局の強力な抵抗と、時の政権の冷淡な対応に、不十分なままの内容を余儀なくされた。というより、教育予算増額の数値目標を盛り込むことなど最初から無理があった。残ったのは5年間の停滞と、「改正」教育基本法である▼禍根を残したといえば、全国学力テストの公開問題も、本年中に明らかになった。文部科学省が市町村教委や学校の成果を直接評価しようとする仕組みのはずが、よもや“外し”たはずの都道府県(≠教委)からしっぺ返しを食らうとは、思いもよらなかったろう▼来年のことを話すと鬼が笑うので新年社説に譲るが、とても明るい展望を述べることはできそうにない。ここ数年、某紙の匿名コラムで記してきた言葉(今年は順番が回ってこなかった)で結ぼう。――何よりもまず、ご健勝で。そして希望のある年を迎えられるよう、今は願ってやまない、と。

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2008年12月23日 (火)

高校新指導要領 「脱ゆとり」どころではない

 高校の新学習指導要領案が、ようやく公表された。新聞等では相変わらず「『ゆとり路線』から転換」といった調子の報道・解説ぶりが目立ち、一方で高校関係者には「そう大幅な変更はない」という見方が広がっている。しかし、肝心の学校現場がそう受けとめてしまったのでは、新教育課程に対応することはできまい。今のうちから教員個々人はもとより、学校を挙げての授業研究に取り組む必要がある。

 現場の教員にとって今回の改訂は、どうしても教科・科目の増減する内容や、長期休業中の授業実施などに目を奪われがちになろう。しかし、各教科とも例外なく実施を迫られるものがある。「言語活動」だ。文系教科はもとより、「自らの考えを数学的に表現し根拠を明らかにして説明したり、議論したりする」(数学)、「筋道を立てて練習や作戦について話し合う」(体育)、「体験活動を通して気付いたことなどを振り返り、まとめたり、発表し合ったりする」(特別活動)など、教科・領域を問わず批評、論述、討論といった学習活動が盛り込まれている。

 これは、教科の枠内にとどまらない。新指導要領の基となった中央教育審議会答申(2008年1月)では、「必要に応じて国語科の教師と連携」することを求めている。というのも、言語活動が各教科を貫く改善の視点であるだけでなく、「習得・活用・探究」という新教育課程のねらい自体を具現化する重要な活動と位置付けられているからだ。

 そうであるなら、単に国語の教員だけが他教科にかかわればいい、というものではないはずだ。場合によっては合科的な発想や、クロスカリキュラムの考え方も必要になってこよう。学校の教育活動全体を見渡した上で各教科の指導計画を立て、かつ教員同士が教科横断的な体制で臨んでいくことが、学校全体で生徒一人ひとりの思考力・判断力・表現力を育成していく上でも、いっそう求められる。

 だからこそ各高校では早急なカリキュラム研究に取り組まなければならないし、各教科の授業研究に取り組まなければならないはずだ。教育課程編成が、単に単位数の数合わせに終始していていいものか。どうやって生徒を育てていくかの、具体的な道筋を示すものでなければならないだろう。そうした視点は、とりわけ教科の専門性が強い高校に欠けていたのが実情だろう。

 「どうせ大学入試には関係ない」と言って軽く考える向きもあろう。しかし、それでは2006年末に全国を席巻した「未履修問題」と同根ではないか。そもそも、指導要領の改訂方針自体に不満を抱く向きさえあろう。しかしそれならば、どういう生徒を育てることを目指し、そのためのカリキュラムをどう編成するか、国の基準に対置し得る独自の考えがあるのか。有名大学の進学率を上げることだけが目標になってしまっては後期中等教育としての高校教育を自己否定することにほかならない、と言ってしまっては言い過ぎだろうか。

 おまけに当否は別として、数学と理科では他の教科より1年早い2012年度入学生から新指導要領による授業を行わなければならなくなる。小・中学校に比べてはるかに研究蓄積の少ない高校では、実施までの期間はあまりにも短い。

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2008年12月14日 (日)

国際学力調査 重要なのはここからだ

 2007年に実施された国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2007)の結果が先ごろ発表された。平均点に目立った変動がなく、順位には向上の兆しさえ見られたため、「生徒の学習到達度調査」(PISA)との同時期発表となった4年前(TIMSS2003)ほどの騒ぎとはなっていない。しかし新教育課程を視野に入れれば、気になる課題が数多くみられる。表面的な結果に惑わされず、学校現場の課題として、きちんとした分析と対応策が求められるだろう。

 今回は新規に18カ国・地域が参加したが、注目されるのはドイツやデンマーク、オーストリアくらいだ。そもそもPISAで好成績を上げるカナダは州単位の参加であるため、参加国数には算入されていない。そんな中でも日本の順位は中学校理科で前回の6位が3位に浮上し、統計上の誤差を考慮すれば実質2位だというから、上昇したのは確かだろう。もちろん各社の報道のように、ここから「学力低下に歯止め」を読み取ることも、「まだトップではない」と危機感をあおることも可能である。

 しかし、そうした点数や順位にとらわれること自体が、授業改善への道筋を危うくするものである。

 象徴的な調査問題があった。縦3cm、横7cmの長方形を示して「まわりの長さは、次のどれですか」という設問に、日本の小学校4年生の多くは「21cm」を選んだ。長方形を見たら面積の問題、と思い込む、テストに慣れ過ぎたゆえの間違いだ。これこそが、テスト至上主義というヒドゥン・カリキュラム(隠れたカリキュラム)の現れであろう。

 現下の日本は「学力向上」の大合唱が続き、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)がそれを後押ししている。しかし、「活用」に力を入れたところで、それが単なる「B問題」対策になってしまっては、何もならない。TIMSSは学校での学習成果を測るものであるが、社会に出てから活用できる能力を問うPISAで言えば、PISA型テストの点数が少し上がったところで、本当に「PISA型学力」が上がったことを保証するものではないだろう。

 やはり深刻に受け止めるべきは、学習意欲の低さである。小学生では「勉強が楽しい」とする回答が増加の兆しを見せたのに、中学生は依然として低率だ。勉強に対する自信が下位に位置していることも、文化的特質があるとはいえ大いに気になる。

 学校現場としては、「学力が下がっていないのだから、授業時数増などする必要はなかったのではないか」などと軽々に受けとめてはなるまい。学習と社会との結びつきや、考える力の育成に向けて、具体的な手立てを講じることが急務だ。そのための時間として、移行措置期間はあまりにも短い。

 行政側にも決して点数や順位に一喜一憂して、目指すべき姿や現場の困難に目をつぶらないよう望みたい。そもそも改訂で時数が増加されたのは、単なる内容増だけではなく、習得・活用・探究の多様な学習活動に対応するためでもある。そうした授業を実現するためには相当な積み重ねが必要であり、決して「織り込み済み」で済ませられるものではない。

 最近になって批判の矛先が向けられる「新学力観」にしても、指導要領の理念の誤りというより、教員一人ひとりに正確な理解が浸透せず、趣旨にふさわしい実践が広がらなかったための失敗であった、と言えなくもない。「ゆとり教育」をめぐる混迷も、そこに起因しているとさえ言えよう。もう、同じ轍(てつ)を踏んではならない。表面的な「学力」を伸ばすだけで、これからの国際社会に求められる「生きる力」が培われるとは限らないのである。

 

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2008年12月 7日 (日)

【コラム 池上鐘音】マニアックな検定問題

▼教科用図書検定審議会のワーキンググループは、検定終了後に小委員会も含めた議事概要を公開するなどの改善案をまとめた。本社は以前の社説で検定過程の徹底した透明化を主張したところであり、まずは前進と評価したい。さて、ここからがマニアの本領である。心配になったのは、教科書調査官の意見書だけでなく、氏名や略歴も公表するとしている点だ▼もちろん、それ自体は必ずしも悪いこととは言えない。検定意見が不透明性の一端を担ってきたことは、「F項パージ」問題(1956年)などの歴史が教えるところだ。ただ氏名や略歴はわざわざ公表を決めるまでもなく、今でも調べようと思えば調べられる。どうすればいいかは時節柄、控えておこう▼その教科書調査官であるが、恒常的な人材不足に悩まされていることは、あまり知られていない。何より世間の評判が悪いし、おまけに担当したからといって学問的な業績にはつながらないから、なり手がいない。なったとしても、退任後のポストがない。そのため文部科学省は何とかして天下り先の確保に奔走するのだが、昔のように大学側がそう諾々と受け入れる時勢ではない▼氏名とともに意見書が公表されるとなれば、それに恐れをなして今まで以上になり手が少なくなることが予想される。結果的に調査官の質の低下につながり、ますます怪しげな意見がつきはしないか、とまで心配するのは杞憂(きゆう)だろうか▼そもそも今回の見直しの契機となった高校日本史の沖縄戦記述問題は、先の社説でも指摘したように、調査官の質というより、同省自体の過剰反応が原因だ。そうした体質を払しょくせずに調査官の問題に帰するのは、かえって事態を複雑にするような気がしてならない。公表に反対するわけではないが、それだけで万事解決するものでも決してないのである。

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2008年12月 6日 (土)

麻生教育再生懇 本気でないならやるな

 麻生太郎首相は、9月以来休眠状態となっていた教育再生懇談会を再開させることを決めた。スポーツなど新規テーマに合わせ、メンバーも10人から15人に拡充するという。しかし、政権浮揚のため都合のよい政策をつまみ食いするだけなら、教育界にとって利は少ないばかりか、余計な仕事が増えるだけになる恐れすらある。本気で抜本的な教育改革に取り組むのでなければ、早々に最終報告をまとめて終了させるべきだ。

 本社は決して、教育に関する首相直属の審議機関が無用だと言っているのではない。教育振興基本計画の策定にかかわる経緯を見ても、従来の文教行政の手法に限界があることは明らかだ。

 功罪は別として、中曽根康弘内閣の臨時教育審議会(1984~1987)はつい最近まで、教育改革に具体的な影響力を保ってきた。教育改革国民会議(2000年)すら設置法を制定してまで審議の体制を整えたものではなく、結果的に教育基本法改正という“最大のつまみ食い”に終始したと考えれば、いまだ後の政権は臨教審を超えられなかったことになる。唯一超えたとするなら小泉純一郎内閣をおいておほかにないが、教育に関しては一片の会議も設けられず、政治決断で義務教育費国庫負担さえ引き下げられた。

 学力低下批判をはじめとして公教育に対する信頼感が低下する中、財務省や経済産業省などの勢いに押されてきたのが、小泉構造改革以来の流れだったろう。その結果、公教育にも規制緩和路線が進んだことで、教育現場はますます混迷を深めている。

 確かに首相主導の路線を転換するのは、後を継ぐ首相の仕事である。しかし、解散もできず自民党内の求心力も失われつつある内閣に、何ができるというのか。麻生首相は文教族だったはずなのだが、緊急経済対策すら迷走している状態では、教育政策の大きな決断など、とても期待できまい。

 文部科学省には、たとえつまみ食いであろうと多少の利が得られればよい、という向きもあろう。政府部内で孤立無援に近い中、首相は最強の味方だし、ましてや政務次官経験者である。しかしトップダウンに期待することは、安倍晋三政権下の教員免許更新制にみられるように、代償も大きくなる危険性がある。教育再生会議には、文科省もほとほと手を焼いたはずだ。

 現下の教育現場の困難性を突破するためには、小手先の改革で済むわけはない。中途半端な審議をするくらいなら、中教審の方がよほど信頼できる。

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