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2009年2月

2009年2月17日 (火)

総合学習 「習得・活用・探究」研究の核に

 13日、文部科学省主催の「総合的な学習の時間フェスタ2009~だから“総合”はやめられない!」が同省講堂で開催された。定員550人(うち教育委員会割り当て150人)を超える申し込みがあったというから、まだそれだけ「やめられない」教員がいるのだということを示した格好となった。

 しかし全体としては現行指導要領の改訂時に比べ、明らかに総合学習に対する熱は冷めている。言うまでもなく、学力向上路線への傾斜のためだ。時間数が削減されたり、行事代替が認められたりしたことも拍車を掛けていよう。シンポジウムの質疑でフロアから挙がった「いま全国では『確かな学力』や『基礎・基本』の研究発表だらけだ」との指摘が、現状を如実に表している。フェスタに集まるような教員も、校内で孤立してはいまいかと心配になる。

 しかし、本当にそれでいいのか。今回の改訂では、「習得・活用・探究」の学習活動をバランスよく行うことが求められている。総合学習は主に探究の部分を担うものとされるが、だからといって各教科では、教科内の「習得」「活用」だけをやっていればいいのか。これらの基盤となる言語活動は全教科・領域で実施することになっているし、全体計画とカリキュラム編成では当然、相互を関連づける必要が出てくる。各教科の指導にしても、ほかの教科や「総合」へとつなげる意識が不可欠になるはずだ。

 逆に、総合学習を授業研究の核に据えた方がよほど効率的に新教育課程に対応できるような気がする。「活用」に関しても各教科に応用できる豊富な実践例があるだろうし、そうした研究を通して教科間の連携も自然と図れよう。

 力を入れて指導すれば、手応えは得られる。フェスタで発表した広島県三次市立塩町中学校の女子生徒は、「総合学習はバラバラな知識をつなげる時間。教科を勉強していても、『これ総合学習につながらないかな』と意識するようになった」と発言していた。まさに、新指導要領の目指す生徒像だ。

 もちろん、それが容易にできるとは思わない。横浜市立大岡小学校の発表に関連してフロアから東北地方の教員が、同小を視察した同僚の研究主任の話として「すごい勉強になったが、とても真似できない」という声を紹介していたが、それだけ研究と指導の蓄積が必要ということだろう。学校現場の負担軽減も含め、実践研究に打ち込めるだけの条件整備が切に望まれる。

 「生きる力」の育成には基礎・基本も不可欠だということは、文科省や学者の弁というより、「総合」の実践を通して学校現場が明らかにしてきたことではないか。教科の「習得・活用」や学習意欲の向上には総合学習が有効だということも、これまでの実践例が示していよう。総合学習を通して進路が明確になったという鹿児島県立鹿本高校の女子生徒は「受験勉強にも気合が入るようになった」と語っている。

 シンポジウムに登壇した前経済同友会代表幹事の北城恪太郎・日本IBM最高顧問も、「先生方には自信を持っていただきたい」と繰り返し呼び掛けていた。これからの社会に生きる子どもたちにとって不可欠な学習なのだという確信を持って、今後も現場実践の力を見せつけていただきたいものだ。

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2009年2月12日 (木)

〔開設1周年記念③=止〕政府審議会 「第四の教育改革」へ準備を

 ブログ開設記念シリーズの最終回ということで、いささか大風呂敷を広げることをお許しいただきたい。今年は「第三の教育改革」を標ぼうした臨時教育審議会の発足から25年目に当たる。一方で昨今の教育改革はどこに軸足を置くかさえ混迷しており、教育現場の苦悩はいっそう深まっている。ここは腰を据えて政府を挙げた「第四の教育改革」の審議に着手すべく、準備を始める時だ。

 1987年の最終答申以来10年以上、教育界は「臨教審路線」に基づいた改革を行ってきた。具体化が一気に進まなかったところが明治維新(第一)や敗戦後(第二)と違って“平時の教育改革”であるゆえんだが、数々の曲折や批判を抱えつつも、それだけ「21世紀」への展望に耐え得る答申だった、ということの証しでもあるだろう。

 旧学習指導要領(89年改訂)も現行指導要領(98~99年改訂)も、「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」という点で、明らかに臨教審路線を基調としている。しかし、「〔生きる力〕と〔ゆとり〕」を掲げた現行指導要領が実施直前になって学力低下批判にさらされてから、風向きは変わる。

 この間、教育界は依然として臨教審路線に沿いながらも、ちょうど小泉純一郎政権(2001~2006年)の構造改革路線に基づく新自由主義的な規制緩和・自由競争の圧力が強まり、文部科学省もそれに抗し切れなくなって「“守勢”の教育改革」(『内外教育』2006年6月27日付ラウンジ欄N氏)に終始した。その究極の姿が、安倍晋三政権(2006~2007年)に始まる「教育再生」路線であったろう。

 安倍政権が破たんした後も、教育再生会議は「懇談会」に衣替えしてだらだらと継続している。審議が「つまみ食い」では教育界の利益どころか害にさえなりかねないことは、以前の社説で指摘した。福田康夫政権(2007~2008年)以来の検討は今月9日の第三次報告で終息したが、麻生太郎現政権(2008年~)は新たなテーマの検討を指示し、新メンバーも加えて今後も会を続ける方針だ。

 こうした「再生」会議・懇談会などに比べれば、文科相の諮問機関である中央教育審議会の方が、まだ着実な審議をしてきたと言える。もちろん教育改革国民会議(2000年)以来の“守勢”であっても、ギリギリのところで教育界が飲める妥協点を探ろうとしてきた姿勢は評価できよう。

 その中教審も、10日でちょうど第5期の発足となった。これも新年社説で指摘した通り、教育界の“地殻変動”に向けた審議が今後、本格化しよう。それはそれで着実に進めてもらいたいが、教育界内部での検討にとどまっても実効性がないことは、2005年の義務教育費国庫負担制度の存廃論議を見ても明らかだ。ましてや死に体の麻生再生懇に頼ったところで、第三次報告が提言した高等教育に対する公的支援の在り方の「検討」すら期待できまい。

 もう小手先の部分改革や、軸足の定まらない改革では、公教育の混迷を解決することはできないし、ましてや現下の世界同時不況から抜け出して新時代に向かう展望などかなわない。今こそ政府を挙げた総合的で抜本的な審議が求められる時はない。

 国立教育政策研究所名誉所員の市川昭午氏は『月刊高校教育』(学事出版)3月号のインタビューで、臨教審答申や中教審の「四六答申」(1971年「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」)を、3~4年もの時間を掛けた丁寧な審議によって内容の濃いものになったと評価している。臨教審答申すら「選挙の日程に合わせて出させた」(市川氏)ものであったとしても、四半世紀先までの基調となり得た提言と、思いつき・つまみ食いの提言とでは、天と地ほどの差があることは明らかだ。

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2009年2月 7日 (土)

〔開設1周年記念②〕教員の処遇 評価より自由を

 本社も参加するブログランキング「にほんブログ村 教育ブログ」に、「教育の窓・ある退職校長の想い」という人気ブログがある。教育関係者でない方、とりわけ公教育に不信を持っている方は、ぜひご覧いただきたい。教員がどれだけの「想い」を持って、複雑で密度の濃い授業を行っているのか、あるいは行おうとしているのかが、分かっていただけると思う。単なる「メソッド」や「技術」で語り尽くせるものでは、決してない。

 もちろん、このブログの主宰者であるtoshi先生は、相当な指導力を持った方だろう。「こんな先生はごく一部だ」と思われるかもしれない。しかし、こうした授業や指導を理想とし、多忙な中でも授業研究や研修に励んで、日々の授業に当たろうとしているのが、間違いなく日本の公教育の「強み」だ。

 ところが、現在進められている教育改革は結果的に、そうした強みに向かう士気を低下させるものばかりになっている。

 これには、必ずしも文部科学省ばかりを責められない面がある。とりわけ小泉構造改革の下で教育政策にも規制緩和・自由競争路線が迫られてきており、文科省もそれに抗することができなくなっている。そうした改革を後押ししてきたのが世間に根強い学力低下批判や公立学校不信であり、その究極の姿である安倍「教育再生」路線が破たんした後も、改革メニューだけは残されてしまった。

 もちろん学校選択制や教員評価、学力調査など、それぞれの必要性や意図があって進められてきた面があるのは確かだし、本社も個々の改革を全否定するものではない。しかし、それらが教員にもたらしたマイナス面もまた、深刻なほど学校現場を侵食しているように思えてならないのだ。

 一つの典型例が、教員給与体系の見直しである。そもそもは国にも地方にもカネがないから、公立学校教員の給与水準を下げたいという単純な話のはずである。それを、今の教員は民間や一般公務員のみならず諸外国と比べても給与が高すぎるとか、職務が大変であるということはないとか様々な難癖をつけて、引き下げを行おうとしている。それによって「あなたたちは全くダメなんだよ」という負のメッセージを現場に送っているに等しいにもかかわらず、である。

 では低下した士気が、教員評価や処遇のメリハリの導入で、果たして高揚するか。決してそんなことはあるまい。

 100万教職員すべてがそうだとは言わないが、教職を目指した人は大なり小なり、いい教育をしたい、子どもの成長にかかわりたい、という思いを持った人のはずだ。職務に見合った処遇を求めることはあっても、手厚い処遇のために教職を続けているという人は、“世間”の常識に反して少数である。

 もちろん「いい教育」をめぐって、世間とのズレはあろう。だからといって教員バッシングをすれば、教育はよくなるのか。むしろ次々と降り重なる教育改革と学校批判の中で日々の職務を淡々とこなすしかなく、判断停止に陥っているのが、多くの教員の現状だと言っていい。

 いま学校教育、とりわけ公立学校に必要なのは、教員に自由を与えることだ。それによって、日々の教育に創造性が生まれる。現場を覆っている閉そく感を何とかしなければ、日本の公教育の強みさえもがダメになってしまう。

 そのためなら教職員定数増を抑制することもやむを得ないし、給与水準を下げることさえも仕方がない、とさえ考える。「今はカネがないから、我慢してちょうだいね」と言えばいいだけの話である。

 その代わり、現場教員の精神的な負担だけは、絶対に軽くしなければならない。そうでなければ教職に対する士気も情熱も低下して、日々接している子どもに悪影響が及ぶのは必至だ。いや、昨今の教員をめぐる事件や不祥事を見ていると、既に事態は深刻なのかもしれない。

 日本の公教育の強みは戦後、教員も子どもの家庭も貧しく、劣悪な処遇と教育環境の中、十分な研修機会も与えられないままに、ストーブを囲んで、あるいは酒を飲みながら子どもや授業を語り、日々の実践を積み重ねる中でつくり上げられてきたものだろう。toshi先生の授業も、間違いなくその延長線上に位置するものだと拝察する。そうした強みを失うことこそが、日本の教育の危機である。

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2009年2月 1日 (日)

〔開設1周年記念①〕公立学校 “家庭格差”の安全網に

 先ごろ発表された初の「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」(全国体力テスト)の結果で、気になるデータがあった。朝食、睡眠時間、テレビ・ゲームの視聴といった生活習慣と、体力には相関関係があるというのだ。

 中学生になると運動時間に明確な二極化が見られること、運動時間と体力に相関関係があることは当然と言えば当然だが、運動の基礎となる体力を支えるはずの生活習慣にそもそもの格差があったとしたら、子どもの体力・運動能力にもその格差が現れることになる。

 なぜこの点にこだわるかと言えば、近年、生活習慣と学力の関連性が指摘されているからだ。

 大阪府の橋下徹知事は1月21日の記者会見で、「普通は勉強ができなかったら体育ができるか、体育ができれば勉強できないか、どっちかだ」と、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と全国体力テストの両方の成績が振るわなかった大阪府下の現状を厳しく批判した。しかし、そうした昔ながらの単純な“常識”では済まされそうにない。

 生活習慣は当然、家庭教育、ないしは家庭の在りようにかかわってくる問題である。しかし現下の深刻な経済危機により、家庭の基盤そのものが揺らいでいる。

 家庭環境の格差によって、生活習慣にも格差が生じ、それが学力のみならず、体力・運動能力にも格差を生じさせるとすれば、どうなるか。教育の機会均等に重大な影響を及ぼすばかりか、ひいては将来の国力にも不安要因を増大させることになる。

 もちろん、これは教育政策のみで解決できるものではない。まずは雇用不安の解消をはじめとした、家庭の経済格差を縮小させるような施策が求められる。

 その上で、公立学校がこうした“格差”家庭にとって最低限の安全弁となっていることも、改めて認識しなければなるまい。低所得層の家庭では、学校給食が子どもの最低限の栄養バランスを支えているとの指摘さえ聞かれる。近年の給食費滞納問題でその機会すら奪われてしまっては、さらに深刻な事態を生じさせる恐れすらあろう。

 今こそ学校教育が子どもの成長・発達にとって、最低限のセーフティーネットとなる必要がある。言うまでもなく、学力や体力・運動能力の向上策を講じることは当然だ。その上で、家庭との連携・協力や、その支援にもいっそう力を入れることが求められよう。これは設置者を問わずすべての学校の役割であるが、とりわけ公立学校に期待される機能だろう。

 そのためには、教員の尻をたたくだけではなく、予算面、勤務面等で手厚い支援を行うことはもとより、地域・家庭で学校を支え、一致協力して子どもを育てる態勢を構築していくことが不可欠になる。

 行政には、中央・地方とも財政が厳しい中でも、学校教育に特段の配慮をすることを求めたい。本社はただ教育業界マスコミの末端として、予算を増やせと主張するものではない。先に指摘したように、国家戦略としても喫緊の課題であると考えるからだ。

 保護者や住民も、公立学校バッシングなどしている場合ではなかろう。公立学校教育に不安や不満があるとすれば、単なる批判や公立回避の前に、まず地域の学校をどうしたら良くできるか、真剣に考える時だ。

 国に対しても、家庭支援について、経済施策のみならず教育施策をも充実させるべきことを強調したい。改正教育基本法10条1項に保護者の第一義的責任を規定したからといって、家庭の教育力が向上するものではない。同2項にある「必要な施策」の具体化こそが、教育格差の解消に有効な作用を及ぼすものになろう。

 公教育を塾などと同列の教育サービスととらえる昨今の風潮は、いっそう格差の拡大を助長するものになるのではないかと危ぶむ。とりわけ公立学校教育は、ますます格差社会の防波堤としての機能が求められようし、そのための支援策をこそ行政、地域に望みたい。

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【社告】1周年御礼

本ブログは開設1周年を迎えました。

今後とも宜しくお願い申し上げます。

また1月は事情により更新が滞りましたことをお詫び致します。

    「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」社員一同(代表社員・渡辺敦司)

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