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2009年5月

2009年5月31日 (日)

「格差解消」テコに公教育の信頼回復を

 教育政策をめぐってこの間、さまざまな動きがあった。文部科学省の「教育安心社会の実現に関する懇談会」発足(25日)、政府の教育再生懇談会第4次報告(28日)、文科省関係だけでも1兆3174億円という巨額な補正予算の成立(29日)などである。本社はそのいちいちに批判的な論評を加えようとも考えたが、ふと思い直した。いずれも教育格差の解消策が、まがりなりにも含まれているからである。むしろ格差解消策に教育界を挙げて取り組むことこそが、失墜してしまった公教育の信頼を回復する糸口になるのではないか。

 100年に一度と言われる世界同時不況の下で、教育格差の解消が喫緊の課題であることは論をまたない。もとより公教育は、発達した社会にあって国民・市民の幸福追求に不可欠なものである。今の状況は、憲法で保障されている「教育を受ける権利」の危機であると言ってもいい。「選択と集中」を言うならば、何をおいても権利保障を最優先すべきだろう。

 失墜した信頼と言っても、その中には理由のあること、理不尽なことが両方含まれている。相次ぐ教職員の不祥事はもちろん前者に入るが、学力低下批判は後者の部類に入ろう。総体としては過剰なほどの教員バッシング、教育界バッシングが行われたが故の、信頼失墜である。

 だからこそ国民・市民に急速な不安が広がっている時に、社会のセーフティーネットとしての公教育がその役割を発揮することは、安心をもたらす第一歩になるだろう。公教育に対する不信感の多くがいわれのないものであるならば、逆に改めて公教育の底力と存在感を示すことこそが、信頼回復への近道になるのではないか。

 これは何も、経済的に困難な家庭の教育費負担を軽減するだけにとどまるまい。いま受けている学校の教育で、将来的にも安心できる学力保障が行われることが第一である。教育現場でも、学力向上はもとより生徒指導面など、すべての子どもの成長を保障する教育実践に、いっそう意を用いるべきだ。

 もはやテストの成績や進学実績を伸ばすことに、きゅうきゅうとしている場合ではない。それぐらいの危機感と緊急性を持って取り組めば、成果主義に走らなくても信頼は徐々に回復してくると信じたい。 

 もちろんここで言う公教育には、公の支配下にある私立学校の教育も含まれることは言うまでもない。学校バッシングが狭い意味での「公立学校教育」バッシングに利用された向きもあるが、公教育の一端を担うものとして私学の役割と責任は重い。個別の学校法人は受け入れた児童・生徒を安易に放り出さないような努力を尽くすべきだし、行政もそのための支援に力を入れるべきだろう。

 その上であえて苦言を呈せば、いま国レベルで主張されている「教育安心社会の実現」が単なる教育費の焼け太りを目指すものであっては、それこそ信頼は得られない。本社は原則論としての教育費の増額に異論を唱えるものではないが、目下の財政難にあっては限界があることも認めなければなるまい。何が喫緊の課題で、そのためにはどこに集中的な投資を行うべきかを考えることこそが政策であり、政治というものであろう。

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2009年5月20日 (水)

キャリア教育 改訂の“目玉級”のはずが

 本来は改訂の目玉になっていいはずなのに、一部関係者を除けば驚くほど注目されていない――。高校で学習指導要領上はじめて明記された「キャリア教育」のことである。

 高校をめぐる状況については、先ごろ発行されたリクルート『キャリアガイダンス』5月号(No.26)の本社配信記事を参照されたい。しかし、小・中学校も決して例外ではない。そもそも改訂の基となった2008年1月の中央教育審議会答申にも、教科横断的な改善事項として情報教育、環境教育などと並んで、キャリア教育の充実が挙げられている。

 小・中学校の新指導要領にはキャリア教育という文言こそないものの、告示に当たっての文部科学事務次官通知(2008年3月)では「キャリア教育などを通じ、学習意欲を向上するとともに、学習習慣の確立を図るものとしたこと」と説明されている。高校の改訂通知(2009年3月)でも、まったく同じ文章だ。その上、2008年7月に策定された初の教育振興基本計画にも「小学校段階からのキャリア教育を推進する」と明記された。

 これを、「また文科省が○○教育を押しつけてきた」ととらえていいのだろうか。先の次官通知でも、学習意欲の向上や学習習慣の確立を図るための方策の一つとして、キャリア教育を位置付けている。

 その重要性を分かりやすく解説しているのが、国立教育政策研究所(国研)の生徒指導研究センターが3月に発行した「小学校におけるキャリア教育推進のために」と題するパンフレットだ。小学校での目標はもとより、低・中・高学年の各発達段階での課題や指導要領との関連、各教科・領域での教育活動例などが、カラーのイラスト付きでコンパクトにまとめられている。中、高校版も今年度中に順次発行される予定だ。

 パンフレットでは、各教科・領域の教育活動の中に組み入れられているキャリア教育の「断片」を、道徳の時間や学級活動、「総合的な学習の時間」を使って振り返ったり、つなげていったりすることが必要だとしている。各教科・領域をキャリア教育の「視点」で見直すことが不可欠になってくるのだ。

 これも、国研の勝手な解釈ではない。中教審答申を読んだ方は、各教科・領域で実社会・実生活との関連を図り、活用できるようにすることを強調していたのに気付いただろうか。あまつさえ増加させる教育内容は、「反復(スパイラル)することが効果的な知識・技能」と並んで「社会的な自立等の観点から子どもたちに指導することが必要な知識・技能」等に限って加える、としているではないか。前回の改訂で削った内容を復活させた、という単純な話ではない。指導要領の根幹にかかわる問題だとすら言っていい。

 新指導要領の改訂趣旨を「脱ゆとり教育」などととらえていては、こうした重要性はまったく見えてこないだろう。最近の授業研究では「活用」ばやりだが、活用型の授業が単に全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)のB問題で高得点を上げることを目指すものであっていいのか。そもそも、学力低下批判の根拠となった経済協力開発機構(OECD)の「生徒の学習到達度調査」(PISA)自体が、社会で活用できる能力を測ろうとしているものである。

 指導要領があくまで各学校が編成する教育課程の「基準」だととらえるならば、 その軽重も各学校の裁量範囲だ、ととらえることもできなくはないだろう。しかし世界同時不況に象徴される不透明な時代に、いつまでも大学全入時代以前の、知識注入型の教育を続けていていいのか。今は移行措置に向けて手いっぱいなのが現状だろうが、本格実施に向けて、キャリア教育を核とする新課程研究が急務である。

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2009年5月 2日 (土)

最高裁の「体罰」判決 現場の参考にはならない 

 最高裁第3小法廷は4月28日、2002年に熊本県本渡市(現天草市)の市立小学校で男性臨時教員から体罰を受けて心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したとして男児側が市に賠償を求めた訴訟の上告審で、教員の行為を体罰と認定した1、2審判決を破棄し、請求を棄却する逆転判決を言い渡した。体罰に関して最高裁が判断を示すのは民事訴訟で初ということで注目され、新聞各紙もさまざまなトーンで報道・論評している。しかし残念ながらこの判決は、体罰問題に限って言えば、指導に悩む教育現場の具体的な参考になるような判例になるとは言えそうにない。

 訴えの基となったのは、お互いに面識のなかった教員と児童とが、しかも別の教員が別の児童を指導中という、たまたま遭遇した場面での行き違いから起こった行為である。しかも主な争点は、慎重167㌢の教員が同130㌢の児童の胸元をつかんで壁に押し上げて叱責(しっせき)した行為が体罰に当たるかどうかという、極めて具体的な行為をめぐるものだ。

 もちろん、どのような行為が体罰に当たるかどうかというのは、それこそ現場が目を皿のようにして知りたい判例だ。しかし、判決は「その目的、態様、継続時間等から判断して…許される教育的指導の範囲を逸脱するものではな」い、としているに過ぎない。

 文部科学省は2007年2月の初等中等局長通知で、懲戒行為が体罰に当たるかどうかは「当該児童生徒の年齢、健康、心身の発達状況、当該行為が行われた場所的及び時間的環境、懲戒の態様等の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある」としている。今回の判決は、これを超える判断基準を示してはいない。

 学校現場は今、昔に比べて対応が難しい児童・生徒の指導に悩んでいる。一方で、若手教員の増加や多忙化によるストレス増大により、きめ細かな指導を行う余裕がなくなりつつある現状も存在する。保護者対応も含め、体罰問題はますます具体的かつ日常的な悩みの種になってこよう。「拡大解釈許されず」「毅然たる指導こそ必要」といった論評をしたところで、現場には何も響かないだろう。

 判決で一つ、気になることがある。原告側の対応に関して、「長期にわたって…本件行為について極めて激しい抗議行動を続けた」とあるくだりがそれだ。実はこれが、本件のみならず体罰問題の本質にかかわるような気がする。

 下級審判決を参照しても、事案の発覚当初から、あるいはそれ以前から、学校と保護者の関係が良好なものではなかったことが推測できる。もちろん判決文からすべてを判断することはできないし、ましてや保護者をいわゆる「モンスターペアレント」呼ばわりすることは、厳に慎まなければならない。保護者を「モンスター」と規定する風潮自体が学校と保護者との良好な関係づくりを阻むものであることは、以前の社説でも論じたところである。

 「体罰を加えることはできない」というのは、学校教育法に定められた絶対条件だ。しかし、個々の指導場面においては、教員と児童・生徒の間に信頼関係が成立していなければ、効果はない。また、学校側と保護者側とに信頼関係が成立していなければ、いかなる厳しい指導も行いにくく、かえって指導を萎縮させてしまうことにもなりかねない。

 結局は本社説も、「日頃から教員等、児童生徒、保護者間での信頼関係を築いておくことが大切」という、文科省通知から一歩も出ず、従って現場には何の参考にもならない主張に落ちそうである。しかし、たとえ最高裁であれ、一片の判決から体罰問題自体を云々できるような単純な状況に学校現場はない、ということを言いたかっただけのことである。

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