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2009年7月

2009年7月31日 (金)

私大地元回帰 今こそ「大学」教育の抜本改革を

 日本私立学校振興・共済事業団が発表した今年度の「私立大学・短期大学等入学志願動向」では、入学者に“地元回帰”の傾向が見られた。2カ年連続で定員割れとなった大学でも、改善の兆しが見えたところが増えている。経営難にあえぐ大学では、ほっと一息ついているところもあろう。しかし、定員割れ大学の割合は前年度より下がったとはいえ、依然として半数近い。そうした大学は経営体力のあるうちに、「大学」の枠にすらとらわれない抜本的な教育改革に着手すべきだ。

 今年度の大学進学率は近く発表される文部科学省の学校基本調査を待たねばならないが、前年度の49.1%を超えて半数に達することは確実だろう。短大や高専などを含めなくても、4年制だけで米国の社会学者マーチン・トロウの言う「ユニバーサル段階」が到来しつつある。

 「大学全入時代」が指摘されて久しい。しかし日本の大学は、1980年代の米国のように危機を克服しつつあるのか。そうではあるまい。今年度の地元回帰も、地方私大の教育力に期待が集まったというより、100年に1度と言われる世界同時不況で自宅外など遠方の大学に進学させる余裕がなくなった家庭が増加したことの表れだろう。

 日本ではいまだに、明治以来のイメージで「大学」をとらえていることが多いのではないか。AO入試が「学力不問」入試だと批判されるのは、その端的な例だろう。しかし本家米国のAOは、選抜試験ではない。日米の大学行政管理に詳しい諸星裕・桜美林大学大学院教授は、AOを入試方法ではなく「お見合い」だと指摘している(『消える大学 残る大学』集英社)。

 各大学が明確なミッション(役割、使命)に基づいて、志願者と入学を合意する。その代わり、受け入れた以上は責任を持って教育し、ミッションに掲げた通りの人材として社会に送り出す――。それが、日本より四半世紀前に全入時代を乗り越えた米国流だ。「高等教育を受けるに足る資質・能力」などという一般的なものは問われない。というより、そんなものは存在しないし測りようもない、というのが、プラグマチックな米国流の考え方だろう。

 日本における学力低下批判のきっかけは『分数ができない大学生』(西村和雄ほか著、東洋経済新報社)だったが、冷静に考えれば本末転倒だ。分数ができない学生を入学させた大学側の責任として、分数ができるようにし、かつ「大学」卒業者として社会に送り出さねばならないのだ。もちろん、そこで言う大卒者とは、その大学のミッションで示した卒業生像ということである。

 学閥人事が横行する日本の大学では、なかなか旧来の「大学」という固定観念から抜け切れない。しかし、全入時代にあっては、研究と教育の一体化という理想は望むべくもない。多くの大学には、思い切って教育に徹するくらいの覚悟が教員にも求められよう。それも、教育の相手は昔のような「大学生」ではない。もちろん、その前提としてカリキュラムの抜本改善も不可欠だ。

 それだけの大改革に臨む余力のある大学は、一息つけた今のうちに一刻も早く着手しなければならない。学ぶべき例は、既に国内にたくさんあるはずだ。そして、その体力も改革意欲もない大学は、失礼ながら早々に撤退を決断することが、社会的責任というものであろう。

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