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2009年9月

2009年9月25日 (金)

新政権に望む〈5〉 新定数計画で“非常勤プア”も解消を

 民主党はマニフェスト(政権公約)に「教員を増員」することを盛り込んで総選挙に勝利し、川端達夫文部科学相は就任時に鳩山由紀夫首相から「教員の資質や数を充実する」という指示を受けている。常識的に考えれば、新しい公立学校教職員定数改善計画の策定が不可欠だ。新政権の目玉政策として、ぜひ取り組んでもらいたい。その上で、近年増えている定数内非常勤講師の解消にもつなげることを、併せて主張する。

 義務制第8次の改善計画は2006年度の予算折衝を経て幻に終わり、その後は行政改革推進法のくびきにより概算要求にすら盛り込めず、毎年度の改善自体も部分的なものにとどまっていた。総選挙直前に提出された来年度概算要求でも5500人のうち喫緊の特別支援教育分(1966人)を除けば、大部分は主幹教諭(2500人)である。学校マネジメントの改革にはなっても、あえて言えば直接的な指導改善につながる保証はない。

 財務省などは、この間の定数改善が教育の質の向上につながらなかったことを盛んに主張し、文部科学省と「エビデンス」(証拠)をめぐって空中戦を繰り広げてきた。しかし、それも財政再建・人件費抑制という前政権下での既定路線を背景にしてのことだろう。

 何よりマニフェストに予算の「全面組み換え」を掲げた鳩山政権である。当面は子ども手当や高校実質無償化の実現が最優先されるのであろうが、来年度が無理でも、せめて小学校で新学習指導要領の本格実施が始まる2011年度には新定数改善計画をスタートさせるべく、その足がかりだけでもつけてもらいたいものだ。

 さて、その上での非常勤講師問題である。

 文部科学省は2004年度、義務教育費国庫負担制度(義務教)に「総額裁量制」を導入した。これにより都道府県が独自にやりくりして教職員数を増やすことができるようになり、少人数指導などのニーズにもより対応しやすくなったことは確かである。

 そもそも総額裁量制は義務教の廃止・都道府県への財源移管を目論む地方分権派の機先を制するものであったが、結果として給与水準の引き下げばかりでなく、定数の一部を非常勤講師で充当することを促進した面があることも否めない。「総額」が抑制される中での「きめ細かな指導」は、そうした定数内非常勤に支えられてきたと言っても過言ではなかろう。

 もともと教職員の世界は産休代替をはじめ非常勤を必要とする構造にあったが、総額裁量性が更なる非常勤の需要を生み出した。しかも、正規教員数や給与水準の抑制とセットで、である。地域的な偏りがあるとはいえ、複数の学校を掛け持ちし、コマ当たりの給与も抑えられ、苦しい生活を余儀なくされている非常勤は少なくない。近年では世相に倣って「非常勤ワーキングプア」などとも呼ばれている。

 曲がりなりにも念願の教職に携わることはできても、生活は豊かにならず、勉強時間もままならないため毎年の採用試験にも落ち続ける――。昔からあった構図ではあるが、それが政策から構造的に、しかも大量に生み出されていることが問題なのだ。

 雇用問題も、鳩山連立内閣の大きな課題の一つである。そうであるならば“非常勤プア”の解消もまた、教育と雇用にまたがる戦略的な政策課題になり得るはずだ。

 教員定数の問題は、「質」の問題にも実はストレートに跳ね返ってくる。非常勤が増えても校務は任せられないから、正規教員の多忙化はますます進むし、ベテランは非常勤どころか若手教員の面倒すら見る余裕はない。一方、数の上では非常勤を含めた教員需要が増大しているから、そもそもの適性に欠ける「問題教員」が入り込む危険性もまた高まる。非常勤は採用試験に落ち続け、将来への希望を見いだせない――。正規・非正規を問わない昨今の教員不祥事は、そうした教職をめぐる環境と無関係ではないと思うのだが、いかがであろうか。

 教育の質は、安倍「教育再生」路線のように教職員の尻をたたいたところで高まるものではない。個々の問題教員への対応と、全体の質を上げる政策を混同することは、厳に慎まなければならない。いま疲弊し切った学校現場に必要なのは、主体的に教育に取り組む時間的・精神的なゆとりである。それを誘導する政策は、定数改善をおいてほかはない。

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2009年9月23日 (水)

【池上鐘音】ダムに沈むはずだった温泉

▼以前、群馬の学校を取材した折、近くの川原湯温泉に泊まったことがある。値段が手ごろだったこと、砂風呂に引かれたこともあるが、何といっても決め手はキャッチフレーズの「ダムに沈む温泉」だった▼いつになるか分からない移転に施設改善にも二の足を踏む旅館の客室は、お世辞にも快適とは言えなかった。しかし住民の絶ち難い郷愁と、それを振り切ってまで新境地に向かおうとする悲痛な決意とが切々と感じられて、お湯とともに心地良く過ごせたことを思い出す▼源頼朝ゆかりと伝えられる温泉街の周辺では景勝地や寺社にも癒やされたが、あちこちに場違いな“壁”や水深表示があるのは異様でもあった。もうこの光景を見ることはないのか、いや沈む前にもう一度来たいものだ、と思いながら帰路に就いたものだった▼その川原湯温泉が揺れている。前原誠司国土交通相が民主党のマニフェスト通り、八ツ場(やんば)ダムの建設中止方針を表明したからだ。しかし激烈な反対運動を通して引き裂かれた地元が下したダムとの共存という苦渋の選択を、すぐに翻せるわけもない。反発は当然であろう▼成田空港拡張反対を「ゴネ得」と言い放って就任直後に辞任した大臣と比べるのは大変失礼だが、事はそれだけ微妙な住民感情に触れる問題である。もう少し上手なやり方はなかったのかと悔やまれる。そうすれば、対話の道は開けたはずだったろうに▼ただ、これを新政権ゆえの拙速と言って責めるだけというのも、また酷な話だろう。私たちは今、自民党政権下で長く続いた「土建行政」とでも言うべきものに対峙しているのだ。ダム問題の困難さは、政治転換の困難さの象徴でもある▼「教育費が橋や道路に化ける」というのは予算不足に泣かされてきた教育界の常とう句であるが、当事者も「橋や道路」に泣かされ続けてきたのだ。結論がどちらに落ち着くにせよ、公共の名の下に生活を犠牲にした人々のことを忘れてはいけない。

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2009年9月19日 (土)

新政権に望む〈4〉 更新制の「6年制」一体論議を歓迎する

 川端達夫文部科学相は記者会見で、教員免許更新制の在り方を、民主党がマニフェスト(政権公約)に掲げた教員養成課程の6年制(修士)化などと一体で論議していく意向を示している。教職の基礎資格を一気に6年制にするかどうかは別として、理念、現実の両面から、これら教員免許制度の問題を一体化させて論議しようとする姿勢を歓迎したい。

 まず、理念の面である。言うまでもなく教員の資質向上は、養成・採用・研修の各段階を一体のものととらえて論議されなければならない。更新制の目的が「自信と誇りを持って教壇に立ち、社会の尊厳と信頼を得ること」(文部科学省説明資料)であるならば、なおさらのことだ。その上で更新制そのものを廃止すべきことは、総選挙直前の社説でも主張した。

 更新講習のレベルは、規定通り受講していれば修了が認定される程度とされている。そうであるならば、内容的には現職研修の中で吸収できる性質のものだろう。無理を押して更新制を導入した安倍「教育再生」路線のくびきが無くなった今、免許制度内だけの論議に限る必要はない。

 そもそも現行更新制が導入された時、その前の更新制論議で代わりに義務化された10年経験者研修との整合性は、今後の課題とされて未解決のままだ。養成と研修という制度の違いに固執していてはいけない。教員のライフステージ一貫で資質向上を目指すべきものならば、各段階の役割分担によって効率化を図ることもまた「戦略」であろう。

 そして、現実の面である。更新制自体は、既に始まってしまった。今年4月から授与される免許状には10年間の有効期限が付いてしまうし、既に前年度の予備講習で1万2千人以上の現職教員が必修講習を受講し、本講習でも5月段階で5万1千人以上が必修の申し込みをしている。途中で制度を単に廃止するだけなら受講が無駄になってしまうし、有料で受講した者からすれば「受講料を返せ」と言いたくなるのも道理だ。

 だからこそ、「6年制」との一体論議が必要になる。

 そもそも現職教員の専修免許状(修士レベル)取得を奨励することは、1988年の同免許状創設以来の課題だった。更新講習の修了分を、そのまま上級免許取得のための単位として読み替えるのである。趣旨の面で整合性は図れないかもしれないが、緊急措置としては許されよう。

 近年、都道府県教委などは財政事情から、内地留学の定員枠を削減する傾向にある。2001年度から大学院修学休業制度が導入されてはいるが、休業期間中は当然無給のため今年度の休業者数は全国で200人余りにとどまっている。そもそも山積する校務を尻目に休業するのは、気が引けるものだ。

 一方で大学側は教職大学院の充実などで学校現場に密着した教育・研究に力を入れているから、運用次第では校内研究と連動させた実践研究が可能であり、教員個人にも現場にもメリットをもたらす。川端文科相就任時に渡された鳩山由紀夫首相の「指示書」では教員の「資質」だけでなく「数」も充実するとされているのだから、当然あるであろう教職員定数改善計画にはぜひ研修定数も盛り込んでほしい。

 ただし先にも述べたように、基礎資格を6年にすべきかどうかは別問題である。確かにフィンランドの例などを引き合いにして「教員免許を修士レベルに」と主張することは、耳に心地良い。しかし、首都圏などで教員不足が続く中では現実的でないし、学生側にとっても6年間の学費を掛けてなお採用される見通しが立たなければ悲惨だ。何より開放制原則にかかわる、やっかいな論議を再燃させかねない。

 そこで求められるのが、「養成・採用・研修の一体化」である。例えば1種免許状取得(学部レベル)段階で仮採用にして教職大学院と連動した養成=実践研修を行い、専修免許状取得のあかつきには即戦力として本採用にする、といったアイデアはどうだろう。あまりにも幼稚な発想かもしれないが、さまざまな可能性を探る価値はある。

 解散がなければ、4年間は民主首班政権が続く。その期間で十分、養成・採用・研修の総合的な検討ができよう。少なくとも更新制が導入された時のような拙速さと、現行制度を維持すれば10年以上にわたって続く弊害に比べれば、ずっと有意義かつ実効性あるものになることは疑いない。

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2009年9月17日 (木)

新政権に望む〈3〉 全国学テは「抽出」より「任意」に

 鳩山連立内閣が正式に発足し、川端達夫民主党副代表が文部科学相に就任した。新大臣はこれまで文教行政とのかかわりは薄かったようだが、首相官邸での就任会見を見る限り状況を正確に把握しているようであり、期待したい。さて、その会見では記者の質問に答えて、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)を従来の同党方針通り、現段階では抽出調査にすべきだとの考えを示している。ここで本社も従来通り、悉皆(しっかい)や抽出ではなく、やはり「任意参加」にすべきことを改めて訴えたい。

 川端文科相が指摘した通り、全国学力テストの本来の目的は「全国的な教育水準の確保」にある。ただし、その経緯や裏の意図がどこにあったのかは昨年2月の社説以来再三指摘してきたので、繰り返さない。自治体の参加問題や情報開示問題を通して弊害が無視できなくなっていることも、論じた通りである。

 しかし全国学テ自体を毎年継続することは、学校現場にとって大きな意義があることも確かだ。

 その一つが、具体的なテスト結果に基づいて授業改善を図るサイクルが根付きつつあることだ。今春の調査結果を見ると、質問紙調査では3年間の数値がほとんど変わらない項目が多かった一方で、全国学テの「結果を分析し、具体的な教育指導の改善に活用した学校」は、小学校で前年度比4.8ポイント増の92.7%、中学校でも5.8ポイント増の87.3%にまで広がった。これに「指導計画等に反映させた」「学校全体で活用した」などを加えた計5項目すべてで活用を図った学校は、それぞれ13.5ポイント増の50.1%、12.7ポイント増の40.8%と、目覚しい伸びを見せている。PDCAサイクルにより学力向上を図ろうという機運が盛り上がっているのは、全国学テが当初から意図したところであり、またそれ自身は結構なことである。

 また、全国学テにはもう一つ、国にとっても重要な側面がある。学習指導要領が求める学力や授業の在り方を、テスト問題という具体的な形を通して学校現場に示せることだ。例えば小学校国語B(活用)では、話し合いをしている様子を題材にして、話し合う力そのものを測ろうとしている。もちろんそれをペーパーテストで測定し切れるかどうかは別としても、とかく誤解されがちな指導要領の趣旨を正しく伝えたいという意気込みは、各問題からくみ取れる気がする。

 ただ、だからといって、それを悉皆という形で半強制すべきかどうかは別問題である。自治体ぐるみの参加による弊害が大きいことも、再三にわたって論じてきた。そもそも悉皆調査をうたうならば、公立の100%参加を強く求めながら私立の実施率が半数を割るまでに低下した状況をなぜ野放しにしているのか、説明がつかないであろう。

 国としても状況が把握でき、自治体や学校にとっても有益な方法。それが「任意参加」である。

 曲がりなりにも過去3回の実施により、全国的なテストは学校現場にもおおむね定着した。結果の活用についても、悉皆のため嫌々実施している学校もないことはないだろうが、やはり全国的な状況を基に授業改善ができること自体は現場にとってもメリットだ。何より日々の授業で子どもが「分かった」という実感が持てれば、授業改善にも力が入るのが現場教員というものである。たとえ任意に切り替えたとしても、相当数の学校が引き続き参加することは疑いない。

 その上で全国的、あるいは都道府県レベルのデータのための担保が欲しいのならば、抽出方式と組み合わせてもいい。抽出プラス任意で参加校が増えれば、統計的にはともかく世間の信頼度は増すだろう。

 その際には以前にも提案したように、有料化を検討してはどうだろうか。もちろん国も応分の負担をして安価な料金を設定することは、国が考えた指導要領の趣旨を正しく伝えるための投資として許されよう。そうすれば国の財政支出を抑えつつ、川端文科相も言及したような実施教科の拡大なども現実味を帯びてくる。

 そしてこれが一番大事なことだが、結果の活用はあくまで「任意」ということである。地方分権の時代、さらには政官癒着を問題視する民主党政権であればこそ、何でもかんでも国に責任を持たせるべきではない。国は国として、基準の設定や条件整備という、果たすべき責任を果たせばよい。教育の成果に直接責任を持つのは、あくまで個々の自治体や学校であるべきだ。授業改善のためにどのような手法を活用するかも、その自治体や学校の責任で「任意」に選択すればいい。有料化すれば、そうした責任の所在の意味合いも込められよう。

 国会の勢力図も変わった。本来なら個々の自治体や学校の責任で処理すべき問題を、無分別に国会で追及すれば役割を果たしたつもりになるような議員も、それに快哉(かいさい)を叫ぶような国民の姿勢も、政権交代を機会に見直したい。それこそが「55年体制」の下で、教育界に官僚主導による上意下達の無責任体質を生み出す源泉になってきたのである。全国学テの見直しは、その是正のための第一歩だ――と言ったら、過剰な期待であろうか。

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2009年9月10日 (木)

新政権に望む〈2〉 教育政策にも「国家戦略」を

 民主党は16日に発足する連立新政権で、「国家戦略局」を首相官邸に設けて政治主導を実現したい方針である。その具体的な姿はいまだ見えないが、縦割り省庁からの積み上げ・寄せ集め型の政策決定過程を大きく転換するものになろう。そこでは教育政策も、まさに国家の重要な「戦略」として位置付けることを強く期待したい。 

 国家百年の大計とも言われる教育行政には、継続性や安定性も必要だとされる。それはそれで、もちろん大事なことだ。しかし近年の状況を見ると、財政難も相まって、行き詰まりの度合いがますます増しているような気がしてならない。

 多様化・複雑化する子どもの実態に対して、教育現場はなかなか有効な手立てを打ち出せないどころか、教職員定数の抑制、予算削減、過剰な経営・勤務管理、学校・教員バッシングなどにより身動きが取れなくなっている、というのが現実の姿ではないか。小泉構造改革路線や安倍教育再生路線がそれに拍車を掛けたことは、言うまでもない。

 教育振興基本計画は、本来ならばそうした行き詰まりを打破する契機になるはずだった。しかし昨年初めて策定された実際の計画は、既定路線を総花的に羅列しただけにとどまった。教育基本法の改正と引き換えにしてまで教育予算の大幅増を狙った文部科学省の「戦略」が失敗したことも、以前の社説で指摘した。

 経済協力開発機構(OECD)が先日刊行した「図表でみる教育2009」は2007年までのデータに基づいたものだが、日本向け発表資料では、人的資本への投資が少ない日本が経済回復に寄与できるかどうかに疑問をにじませている。加盟諸国に比べても公財政教育支出が低迷し、私費負担、とりわけ家計負担に依存してきた現状は、まさに戦略なき国の教育政策が招いたものだろう。

 そのような中での政権交代は、大きなチャンスと言っていい。少なくとも民主党は総選挙前に発表した政策集INDEX2009の中で、公財政教育支出を先進国平均のGDP比5.0%にまで引き上げることを目標にするとしている。「図表でみる教育2009」によると日本は2006年段階で3.3%にまで縮小しているから、振興計画策定時のデータ(3.5%)よりもハードルは高くなっている。しかし、だからこそ戦略的な政策がいっそう求められると言えるだろう。

 これは、決して業界エゴで主張しているのではない。OECD教育局の宮本晃司アナリストはOECD東京センターのホームページにアップしたビデオメッセージの中で、高等教育の需要伸長には日本でも低めに低めに抑えられている公財政支出の充実が期待されること、コストパフォーマンスの高い日本の教育の背景にあるのは教員の質の高さであることを指摘している。国際的な経済危機を乗り越える観点からも、日本が高等教育を中心に教育予算を投入し、かつ初等中等教育が持っている「強み」を今後とも維持し、発展させることが求められているのだ。「予算に見合った学力向上がなされていない」と言って予算削減を主張する従来の財務省方針とは、対極にあるものであろう。まさに「成長戦略」としての教育投資が不可欠になっている。

 さらに言えば、これは必ずしも「文部科学省予算」の拡大だけを主張するものでもない。諸外国では当たり前になっているように、教育を経済対策や雇用対策、福祉対策、少子化対策としても位置付け、戦略化する。その上で各省庁に資源を配分し、効果的な政策を打つ――。それこそが、新設される国家戦略局に求められる機能であろう。 

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2009年9月 8日 (火)

新政権に望む〈1〉 現場の実態踏まえた教育論議を

 総選挙は民主党の圧勝に終わった。主要人事は固まりつつあるとはいえ、新政権がどのような形になるのか、依然として不透明だ。まして文教政策を進める陣容となれば、16日の組閣以降の話だろう。そこで、現段階で総論的な注文を付けておきたい。まずは、教育現場の実態を踏まえた政策論議をすることである。 これは何も一部で主張されるように、民主党の支持団体である日教組に「牛耳られる」ことを懸念してのことではない。

 同党が獲得した308議席のうち、新顔議員が143人と半数近くを占めている。国民の負託を受けた選良にこう言うのは大変失礼だが、その中には政治の“素人”も少なくない。その上、参院109人を加えた両院議員400人余りのうち約100人が政府に配置されるというのだから、党や国会の文教関係メンバーにも残りの“素人”が大量に加わることになる。 「政治家主導」で文部科学省に送り込まれる大臣以下の議員にしても、自民党政権下でそうだったように主要官庁が決まった後での配置になろうから、必ずしも文教行政に明るい者ばかりとは限るまい。

 そうなると、小泉構造改革路線や安倍教育再生路線以上に「外からの教育改革」が迫られる危険性がある――と言ったら、心配のし過ぎであろうか。よく言われる通り、学校教育は誰もが受けてきた国民の関心事であるから、たとえ素人でも一家言を持ちうる。しかし個人的な「教育」論と、国の教育「政策」論とは、自ずと違いがあって然るべきだ。合議制教育委員会におけるレイマン(素人)・コントロールとも立場が異なることは、言うまでもない。

 そうした素人がゼロベースで教育「政策」を論じようとした時、目先の派手な改革メニューに飛びつく恐れが、ないとは言えまい。そうした意味で、民主党マニフェストにある「学校理事会」や「教育監査委員会」は、具体的なイメージがわかないだけに不安が残る。

 それもこれも、選挙期間中から指摘されていたように、民主党に筋の通った教育政策論が見えないためである。もちろん結党から13年間ずっと野党だった“若い”政党のことであるから、致し方ない面はあるかもしれない。だからこそ、これだけ国民の支持を得た責任政党として、じっくりと地に足の着いた教育政策論議を展開してもらいたい。

 新顔議員に勉強してもらうのは当然として、いわゆる日政連議員などの役割も少なくない。それは何も、支持団体の意向を押し通せということではない。日教組本部にしても文科省との協調路線に転換して以降、必ずしも有効な「参加・提言・改革」が展開できているとは言い難い。現場の実態に立脚しつつ、その上で責任ある国の教育政策の立案に資するよう、真の意味で役割を発揮すべき時だ。

 教育界もそうした状況を踏まえ、若い新政権と具体的に論議し、合意を形成していく姿勢が必要だろう。少なくとも、政党の枠組みと組み合わせだけが変わった細川連立政権の時と今回とは、訳が違う。教育界の体質も、「55年体制」からの脱却が模索されなければならない。 

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