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2009年10月

2009年10月17日 (土)

概算要求〈1〉 定数改善、足がかりにはなる

 鳩山新政権の発足からちょうど1カ月で、来年度概算要求が再提出された。急ピッチの再編成であったことに加え、子ども手当や高校実質無償化など民主党マニフェスト(政権公約)が最優先されたため、必ずしも全体の整合性が取れていないことは致し方なかろう。また結果的に総額95兆円超という空前の要求規模になったから、予算折衝での大幅査定も避けられまい。その中でも、ぜひ通してもらいたいものがある。文部科学省の、教職員定数改善だ。

 単年度5500人という改善規模は、数で言えば総選挙直前の8月28日に提出された概算要求と変わらない。一方、今月13、14の両日に行われた有識者懇談会では、校長会などから新しい定数改善計画(義務制第8次、高校第7次)の策定の要望が相次いでいた。今回、新計画にまで踏み込まなかったことに失望する向きもあろう。しかし、これは「児童及び生徒の減少に見合う数を上回る数の純減をさせる」という行政改革推進法(2006年6月)の縛りがあるためで、また致し方ない。

 それでも今回の再要求では、最初の要求と微妙に変わってところがある。改善内容に「理数教科の少人数指導」が加わった点だ。最初の要求では「主幹教諭によるマネジメント機能の強化」となっていた。たとえ同じ人数でも、今後を考えれば決定的に前進したと言える。

 振り返ってみればマイナスシーリング以降、新たな定数改善計画を立ち上げるには財政当局を納得させるだけの相当な“理屈づけ”が必要だった。義務制は第6次(1993~2000年度)以降、高校は第6次(2001~2005年度)以降、幻の「第8次」(2006年度概算要求)も含めて35人学級など学級定員の引き下げは盛り込めず、その代わりに持ち出されたのがチームティーチング(TT)や少人数・習熟度別など指導方法の改善だった。

 一方、児童・生徒をめぐる指導の困難さは、そうした部分的改善で対応できる範囲を超えて進行している。実態を見据えて大幅な定数改善に取り組まなければ、学校現場が持たない“危険水域”が迫っているとさえ言えよう。

 しかし近年、いわゆる「ゆとり教育」批判にさおさす形で「教員を増やしても教育効果が上がっていない」というキャンペーンが財政当局によって張られてきた。一面ではエビデンスベース(証拠に基づいた)という形を取りながら、財政再建ありきの“ためにする論議”であったことも否めまい。それに対して防戦側の文科省も経済協力開発機構(OECD)の国際比較データなどを持ち出しつつも有効な反論ができていたとは言い難く、昨年5月の社説で指摘したような「むなしい“空中戦”」が繰り広げられただけだった。

 確かに「主幹教諭」の増は改正学校教育法(2007年6月)に沿ったものであるし、学校マネジメントの改善という理屈づけも十分だった。「メリハリ」という形で処遇改善を図る狙いも、裏にはあった。しかし実際に起こっているのは東京都に顕著なように、主幹のなり手不足である。特別支援教育は別として、現場のニーズに必ずしも一致していないものから要求せざるを得ないところが、自民党長期政権下での限界だった。

 鳩山首相は川端文科相の任命時に、教員の質や数を充実させるよう指示している。今回のささやかな前進も、短い検討期間と行革推進法のくびきという中での、文科省の精いっぱいの対応であったと評することができる。要求ベースとはいえ再び指導改善が乗せられたことは、先日の社説でも触れた通り次期改善計画への足がかりになり得る。

 だからこそ年内の予算折衝では、このささやかな定数改善が認められることが最低限必要だ。もしそれすら実現できなければ、「コンクリートから人へ」を標ぼうする新政権が、何の実行力も戦略もないことを露呈することになるとすら言ってよい。それだけ重要な、ささやかな前進である。

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2009年10月10日 (土)

【池上鐘音】匿名と実名

▼実名報道が新聞の原則であることは百も承知しつつ、会社員時代から匿名コメントを多用してきた。役人のオフレコ発言や雑談のたぐいだけではない。建前が重視される教育界、特に教員は個人名で本音を公にすることを極端に嫌う。実名コメントに限っていては、実態を正しく伝えられないからだ▼そうすると逆に、実名コメントの引用にはいっそう慎重になる。引用された人が記事を読んだ時にどう思うかを常に意識せざるを得ない。一方で、あまりに配慮し過ぎると文章が分かりづらくなる。取材対象者と読者とのはざまで悩むのは、この稼業を続ける限りついて回ることだろうと覚悟している▼山口県光市母子殺害事件のルポルタージュ『〓〓君を殺して何になる』(〓〓は実際の名字)を読んだ。少年法を破ってまで実名表記に踏み切った本を、しかも出版差し止めの仮処分申請中に購入するのは迷ったが、やはり職務上、目を通しておくべきだろうと思ったからだ。発売当日の夕方、渋谷で回った書店のうち2軒には置いていなかったが、1軒には入り口横に単独で平積みされていた▼何より徒手空拳のフリーライター(現在は大学職員)が体を張って取材・執筆した成果であるから、それに対して事件取材に足がすくむような意気地なしの同業者が是非を論ずることは、厳に慎みたい。その上であえて言えば、ルポというより取材ノートか取材日記みたいだと思った。フリージャーナリスト奥野修司氏の「インタビューの結果を読者に放り投げている」(朝日新聞10月8日付)という評価には、素直にうなずける▼確かに週刊誌に報道された「不謹慎な手紙」(本文より)の背景を追ったくだりなど、なるほどと思うところがないわけではない。しかし、よほどこの事件に関心を持って情報を集めている人でもなければ、無理をして買うほどのものでもないような気がする▼本社記者は世間で言われていることより自分が取材などで見聞きし感じたことの方が絶対的に正しいという妙な確信を持っているのだが、その確信を読者にどういう形で伝えるかは全く別問題だ。この偽装新聞社によるブログにしても思いのたけを無分別にぶつけることは決してしないし、できないのが記者倫理であり習性でもある▼「十を聞いて一を書く」というのは記事執筆の基本中の基本であり、読者に何を伝えるかを熟慮して構成に頭を悩ませるのは本務だと思っている。もう一つの基本である「客観的な事実を提示して、読者の判断に任せる」というのも、その上でのことだ▼著者は実名表記の理由を「匿名報道が〓〓君の人格を理解することを妨げている」からだと書き、記者会見でもそう語っている。それが元少年や周辺に取材して得た著者の実感なのであろうから、取材していない者が安易に批判はすまい。しかし、そのために実名のみならず卒業アルバムの顔写真まで掲載するのは、少なくとも先行した週刊誌と同レベルではないか、という疑念はぬぐえない。

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