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2009年11月

2009年11月29日 (日)

政府事業仕分け “国民予算委”に発展させよ

 政府の行政刷新会議による「事業仕分け」が9日間の日程を終えた。本社がチェックしたのは文部科学省関係だけだが、おおむね前回の社説の評価を変える必要はなさそうだ。論議の仕方や評決結果にさまざまな課題が残ったのは確かだが、予算編成過程の一端だけでも国民にオープンにし、関心を高めた意義はいくら強調してもし過ぎることはない。

 鳩山首相も、今回限りにするはずだった事業仕分けを次年度以降も続ける判断に傾いたようである。昨年の「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」には否定的なムードが強かった自民党内からすら「面白い」という声も挙がっている。そうであるなら、たとえ次に政権が交代したとしても、ぜひ恒常化させたいものだ。ただし今までのような形では、「劇場型」のそしりは免れない。だからこそ、国民参加の予算審議会、あるいは“国民予算委員会”といったレベルにまで発展させるのである。

 今回の事業仕分けは、基本的には民間非営利団体(NPO)「構想日本」が提唱する手法にのっとったものである。しかし「民と官、地方と国の役割分担を具体的に考える場」(構想日本)であるべきはずなのに、「国」の無駄にばかり焦点化され過ぎた。地方が実行の役割を担うべき教育行政において、「実施は各自治体/民間の判断に任せる」(政府事業仕分けの評価シート)という評決があまりにも少なかったことが象徴的だ。

 前政権によるムダの排除を主なターゲットにしていたことが、その原因であろう。民主党マニフェスト実現の財源確保のために廃止や縮減が優先されたきらいがあったことも否定できまい。「人民裁判」とまでやゆされるようなパフォーマンスではなく、まさに官と民、国と地方の「かたち」を論議する冷静な場であってほしかった。そしてそれが、国会議員と民間有識者で構成される評価者の資質に左右されたことは、前回も指摘した。

 だからまず、評価者の人選を変える必要がある。地方自治体の事業仕分けでは、住民が評価者として参加したり、議論には加わらないが評価者として評決したりする例もある。まさに「国民目線」ではないか。応募者から選ぶのも一考の余地がある。もちろん選ばれた人が特別な思想信条を持っている場合もあろうし、組織的な応募合戦も容易に予想できるが、無作為で複数人を充てるなど工夫すればよい。

 場合によっては、業界団体や市民団体の代表も加えていいのではないか。省庁の説明は、どうしても国会答弁のくせが抜けていなかった。永田町を主舞台にした調整の結果を説明するための独特な「言語」は国会では通用しても、国民には理解できない。今後の官僚には国民目線のプレゼンテーション能力やディベート能力も求められるのだが、実態を分かりやすく説明できるのは、やはり現場に近い立場の人間をおいてほかにない。

 しかし、どのような人選をしても過不足は避けられない。だからこそ「議論」が必要だ。今回も「質疑・議論」として時間を取っていたはずだが、どうにも糾弾大会に終始してしまった感は否めない。議論の流れと評決結果がずれていたような項目も散見された。議員評価者の判断で多数意見を覆した例や、民間評価者が議員評価者の下した評決結果に疑義を差し挟んで却下された例も見られた。もう少し丁寧な形で、評価者チームとしての合意形成に努力する必要があったろう。司会役も議員評価者で良かったのか、検証する必要がある。

 仕分け項目と、各項目に掛ける時間も、もっと増やしていい。短い時間で仕分けるのが構想日本版事業仕分けのポイントではあろうが、中には多くくり過ぎる項目もあって、1時間ないし1時間半では焦点を絞ることすらできない。評決が下されても、何をどう見直せばいいのか見当もつかないような結果も少なくなかった。少数意見も含めて併記することも、あってよかろう。

 時間や手間暇を掛けるのは、それこそ無駄だという指摘もあるかもしれない。しかし民主主義のためのコストは、欠くべからざる経費である。これだけの国民的関心の高まりを見れば、もう少し拡充しても国民の「仕分け」には耐えられよう。

 今は新政権の国政運営が固まる、過渡期である。本来なら政権移行期を十分に取って、入念に準備されるべきものだったろう。だから多少の混乱も、初回だけなら許容できる。しかし、2回目は「面白い」だけで済ますわけにはいかない。「市民が主役」を標ぼうする民主党首班政権であればこそ、具体的な形での市民参加をぜひ進めてもらいたい。その上でこそ、政治決断が生きるはずだ。

 

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2009年11月25日 (水)

【池上鐘音】半分当て外れ

▼きょうは本来、前回社説を翻して政府事業仕分けに対する批判を大々的に打つつもりであった。義務教育費国庫負担金に大なたが振るわれるであろうと想定してのことだった。しかし、いい意味で当てが外れた。案外まともな論議だったのである▼もちろん、必要かつ十分な論議が尽くされたわけではない。冒頭に差配役の枝野幸男議員が「教員の質と数を充実させる」という民主党方針に沿った討論を要請した影響もあったろう。それでも民間有識者から「国の責任も考えながら地方自治を組み立てるいい時期だ」という感想が漏れたように、冷静な論議の取り掛かりとしては評価に値する。少なくとも小泉政権下での三位一体改革論議とは、雲泥の差だ▼それに比して全国学力テストは、ひどいものだった。あくまで本社の見立てだが、調査の目的や導入の経緯を論者がバラバラにとらえていたものだから、核心を突く論議にならなかったように思う。評価者の中で最も事情に詳しいはずの某校長経験者さえ、である。といっても世間の理解はそんなものだろうし、文部科学省の説明の仕方も悪かった。本質を把握できるのは、本ブログを熱心に読んでくれるような好事家くらいであろうか▼実は国立大学運営費交付金は、もっとひどかった。論者が勝手な論点で論じていたものだから、最後まで論点が絞れなかった。もっとも国立大学の役割から起こして論ずるには、たとえ1時間半に延長したとしても論じ尽くせるテーマではないのだが▼もちろん先に論じたように、そもそも事業仕分けとは一定の限界がある手法だ。その点を押さえた上で、結果を受け止める必要がある。少なくとも「一言で簡単にひっくり返る話ではない」(鳩山首相)ような本質的な論議ができるとは限らないことに、重ねて注意を促しておきたい。

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2009年11月12日 (木)

政府事業仕分け やはり「面白い試みだが」

 政府の行政刷新会議の「事業仕分け」が始まった。本社は昨年、当時の政権与党だった自民党の「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム(PT)」が行った「政策棚卸し」に関して「面白い試みだが」と題して論じたが、今回、文部科学省事業に関する第3ワーキンググループ(WG)の初日の論議を聞いていて、おおむね同じ感想を持った。「試み」としては「面白い」と一定の評価をしつつ、やはり「が」と留保は付けておきたい。

 まず、手法としては高く評価できよう。手法の提唱者である民間非営利団体(NPO)「構想日本」によると、事業仕分けは予算項目ごとに「外部の視点で」「公開の場において」「担当職員と論議して」事業が必要かどうか、必要ならば官・民、国・地方(都道府県、市町村)のどこがやるかを判断していく作業である。国の予算編成過程と言えばこれまで、国民からは密室と言っていい状態で行われてきた。それが今や、その一端とはいえインターネット中継で全国からアクセスできるのである。過去の経緯や関係団体のしがらみから離れて「そもそも」からメスを入れられることも、大きなメリットだろう。

 それだけに、限界もある。論議を聞いていて痛感したのだが、やはり評価者の資質に左右される面は否めない。

 確かに、事業の効果についてエビデンス(証拠)ベースで厳しく追及する議員・外部の評価者の姿勢には目が覚める思いがしたし、独立行政法人の宿泊事業などに対する指摘にはうなずけるものが少なくなかった。常に天下り人数や委託効果がただされるのも快活でさえあった。半面、余りに成果を求める性急な態度がどうしても鼻についてしまった。もちろん、それが正論であればむしろ歓迎されるべきである。しかし、例えばモデル事業や調査研究費を批判する際に「(文科官僚は)実態を知らない。現場に行けば分かることだ」と訳知り顔で切り捨てるのは、いかがなものだったろうか。

 小学校英語をめぐっては、中・高校を通じた英語教育そのものの問題にまで脱線していた。もちろん全体から個別事業を見直す視点は必要でないとは言わないが、ここはあくまで限られた時間内に「事業」ベースで「仕分け」る場であったろう。学習指導要領の在り方にまで踏み込んだり、「英語より国語」のような問題を蒸し返したりするような大所高所の論議に陥ったのは妥当だったろうか。

 事業ベースの限界は、各モデル事業をめぐる論議にも当てはまる。昨年の自民党PTのように本来、モデル事業そのものを認めるか認めないかが、国と地方・学校との関係そのものの在り方にかかわって問われなければならなかった。教育実践に関して国が予算を使って誘導すべきなのか、許されるならどの範囲までなのか、という根本的な方針が確定していないままで個別事業を論じていても、焦点がぼけた印象がぬぐえなかったのは残念である。

 説明する文科省側にも課題があった。まるで国会答弁のような弁明に終始していたのだ。構想日本でも、事業仕分けは「説明者(担当職員)のプレゼンによっても評価が変わる可能性」があると指摘している。あれでは「外部」の有識者はもとより、インターネットの向こうで見守る国民を納得させることはできまい。もう少し上手な説明をすればいいものを、染みついた体質はなかなか抜け切れないものだな……などと変な同情をしてしまう。

  しかし、ある意味で論議や判断の拙速さ、乱暴さが、良くも悪くも事業仕分けのポイントなのだろう。予算編成過程に緊張感をもたらし、要求側・査定側の双方に国民目線で説明責任を迫ることも、重要な作用と言える。

 それだけに、下された判断や削減額が一人歩きしてしまうのが心配だ。仕分け結果はあくまで「参考資料」であり、最終的にどう扱うかは「首長、議会の責任」(構想日本)である。そして何より、予算審議は国会の役目である。

 今回の判断を予算編成の有力な材料としつつ、限界をも認識して絶対視することなく、そのほかの事情も総合的に勘案しながら、あくまで政権としての主体的な意思決定を行ってほしい。「マニフェスト至上主義」の弊害が気になる今だからこそ、あえて注意を喚起しておきたい。

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2009年11月 7日 (土)

希望降任、新採退職… 「現場の危機」の現われだ

 文部科学省が毎年恒例の「公立学校教職員の人事行政の状況調査」の結果を発表した。2008年度は副校長・教頭からの希望降任が前年度比13人増の84人、主幹教諭からの希望降任が同62人増の89人、新採用(条件附採用)教員の依願退職者が11人増の304人となっている。「100万教職員」から見ればわずかな数字とはいえ、これらはあくまで氷山の一角であり、学校現場を覆う教職員の職場環境の危機ととらえるべきだ。改善に向けて、一刻も早い総合的な対応が求められる。

 もちろん副校長等の希望降任はここ数年、60~70人ほどで推移してきたし、今回の数値も約3万9000人の全体から見れば0.2%でしかない。しかし小・中学校で残業時間が月60時間超(文科省06年度教員勤務実態調査)にも上る現実から考えれば、この人数で踏みとどまっていること自体が奇跡に近い。

 主幹教諭からの希望降任数が増えているのは発令自体の増加(総数は2393人増の1万5301人)もあるが、全体の4割(36人)を東京都が占めているのが象徴的だ。都は国より5年も早く03年度から「主幹」(当時)を制度化してきたが、選考受験者の確保にすら悩んでいる。東京都に次いで発令者の多い神奈川県でも、ほぼ1%に当たる33人が希望降任している。

 これらの都県では、新しい学校マネジメントが徹底していないためとも評せよう。しかし、新採教員の依願退職はそうとは言えまい。

 新採の依願退職は05年度まで200人未満だったが、06年度281人、07年度293人、08年度304人と増加を続けている。採用者数自体も増えているので割合は3年連続で1.3%となっているから、条件附の「厳格な運用」には避けられない数値と言えなくもない。

 これについては、2006年に東京都新宿区立小学校の新任女性教諭が自殺した事例が象徴となろう。元来、教員志望者には真面目な者が多いが、その真面目さが自らを追い込んでしまうのだ。新採だろうとベテランであろうと教壇に立てば一人前の教員として見なされるのは昔もそうだったが、経験不足の若手教員をフォローし育てる余裕が今、教員集団にはない。

 そして、こうした事態はますます深刻化することが予想される。というのも現在、第2次ベビーブームに対応して大量採用された世代の大量退職が始まっている。全国で見れば、10年間でほぼ半数が入れ替わる計算だ。当然その大部分を、新採で補わなければならない。

 もちろん、大量退職・大量採用時代に備えて各都道府県教委では教員の育成システムや研修メニューを整備している。学校マネジメントの“機能強化”も、その一環と言えなくもない。しかし肝心の教職員集団に同僚性が失われたままでは、どれだけ体制整備を行ったところで、根本的な問題は解決しない。校内で若手教員を育成しようにも、管理職層が降任しようかと悩んでいる状態では仕方がなかろう。

 何より近年の学校・教員バッシングの中で、教員一人一人がますます孤立化している。時間的忙しさや肉体的疲労よりも、自らの仕事に自信が持てない精神的な消耗の方が、精神労働の最たる教育者には辛いのだ。

 問題の解決には、「これをすれば教育は良くなる」という特効薬はない。そもそも原因が複合的にからみ合い、その結果としての機能不全が世間から批判を浴びてますます信頼を落とすという悪循環を起こしているのだから、まずは「体力」を取り戻すための体質改善に、少しずつ取り組むしかあるまい。

 そのためにも、定数改善による教員の負担軽減は大前提である。世間でも成果主義には見直しの機運があるが、教育界においても行き過ぎた目標管理は改善されなければならない。何より教員が自ら研修していこうという余裕こそが、創造的な教育活動には不可欠だ。

 民主連立政権の教育政策はいまだ根幹が見えてこないが、教員の「質」を重視するのであれば、こうした構造的な問題を念頭に置いて教育行政を進めてほしい。教員免許制度の抜本改革にしても新採教員の置かれた厳しい状況を踏まえる必要があるし、民主党政策集にある「学校理事会」にしても肝心の学校組織が機能していなければ疲弊した建物に屋上屋を重ねるようなものである。新政権が「コンクリートより人」を標ぼうするのなら、その「人」自身の危機にこそ目を向けなければならない。 

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2009年11月 3日 (火)

概算要求〈2〉 抽出学テ 重くなる地方教委の責任

 再提出された2010年度文部科学省概算要求で、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が40%の抽出調査に切り替えられることが確定的になった。悉皆(しっかい)調査の見直しはかねて本社が主張してきたことであり、細部については異論がないわけではないが、まずは見直しを歓迎したい。地方教育委員会には、全国学テの位置付けが変わったことと、自らの責任が重くなったことを自覚的にとらえ、学力向上のための積極的な対応策を講じることが期待される。

 これまでの社説の繰り返しになるが、全国学テはそもそも義務教育費国庫負担制度維持の方便として、学校レベルでの教育の結果にまで国が検証の責任を負おうとして導入されたものである。しかし抽出調査への切り替えにより、そうした目的は果たせなくなる。

 詳細は予算成立後の新しい実施要領を待たなければならないが、抽出は学級単位になる見込みであるから、市区町村のみならず学校単位の比較は当然できなくなる。概算要求では抽出対象外でも学校の設置者(市区町村や学校法人など)が希望すれば利用できるようにするとしているが、あくまで問題の提供に限ったことであり、国はその採点や集計に関与しない。40%という抽出率により、せいぜい都道府県間のデータ比較ができるのみだ。

 もちろん、国が全国的な義務教育の改善を図るための資料にするという、全国学テの第一義的な目的は変わらない。国は抽出結果を詳細に検証することにより、教職員定数改善をはじめとする条件整備に向けて、大いに活用してもらいたい。

 さて、その上での地方教委や学校の役割である。

 都道府県教委にとっては、これまで通り他県との比較から自県の強みと弱みが明らかになる。しかし、悉皆調査のような市町村別のデータは存在しなくなるから、責任を各市町村教委に押し付けることはできない。自らの責任で、実態把握とその改善のための支援策を講じる努力が、今まで以上に必要である。

 市町村教委や学校も、抽出対象から外れたからといって無関心ではいられまい。少なくとも出題された問題から学習指導要領が求める「学力」のメッセージを読み取ろうと努力し、それを具体的な授業改善に生かす姿勢は、引き続き不可欠だ。これまではそうした姿勢が悉皆方式により半強制的に要請されてきたのだが、今後はすべて自らの責任になる。

 市区町村教委の責任の果たし方の一つとして、「希望利用方式」も積極的に検討されてよい。もちろん、採点は教委か学校が独自に行わなければならなくなる。本社は有料方式などとの併用で国が採点に関与しても構わないのではないかと考えるが、すべて設置者に任せることも一つの方策であろう。教育結果の検証と改善の責任が市区町村や学校にあることが、より鮮明になるからである。

 蛇足ながら付け加えれば、抽出調査への切り替えによって市区町村間・学校間や児童・生徒間の競争意識を期待することはできなくなるし、一部教委を苦しめてきた情報開示請求も無意味になる。いずれも学テの制度設計では想定外だったことであり、そうした問題の解決につながる点でも今回の見直しは歓迎されてよい。希望利用方式を選択すれば、概算要求資料によると調査実施責任者は「設置者」だとされるから依然として開示請求の対象にはなろうが、それも含めて責任を負う覚悟も必要だ。

 その上で、文科省は2011年度以降の調査について、学年や教科の拡大を積極的に検討してほしい。そもそも最終学年の国語と算数・数学に限った現在の出題は便宜的に設定されたものであり、国語や算数・数学の基礎・基本が他教科の学力とどう関連するかを探るのも、重要な課題であろう。概算要求上は500万円余りと会議費程度の計上ではあるが、大学等や都道府県教委との連携など、さまざまな手段があるのではないか。

 悉皆から抽出に切り替える意味は、単なる国のテストの見直しにとどまらない。教育の結果については、国ではなく、当事者である設置者や学校が直接責任を負う。国は、教育の当事者が責任を果たすための支援に徹する。それこそが、民主党が掲げる「教育の責任の明確化」(政策集)に合致するものになろう。

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