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2010年4月

2010年4月12日 (月)

学校評価 現場の英知で再検討を

 文部科学省の調査研究協力者会議が先月末、第三者評価の在り方に関する報告をまとめた。同省は早ければ5月中にも学校評価ガイドラインを改定する方針である。「監査機関」的な色彩が後退したことは歓迎すべきであろう。しかし、他律的な学校評価が学校現場の多忙化に拍車を掛けている現状は放置されたままだ。潮目が変わったのを契機に、学校評価そのものにも再検討が求められる。

 報告は、第三者評価の実施者を「学校とその設置者」と位置付け、実施するかどうかを実施者の判断に委ねた。カッコ書きで「法令上、実施義務や実施の努力義務を課すものではない」という注釈すら付けている。実施体制の例示では専門家を中心とした特別な評価チームだけでなく、学校関係者評価の中に専門家を加える方式や、複数の学校による相互評価も容認した。

 報告の示した判断は、極めて現実的と言ってよかろう。協力者会議委員の議論のたまものではあるが、そもそも当初の構想自体に無理があったと言わなければなるまい。

 振り返れば第三者評価の構想が浮上したのは、規制緩和・自由競争を掲げる小泉純一郎政権の構造改革路線の下で、義務教育費国庫負担制度の廃止が論議された時であった。高まる学力低下批判と公立学校不信の中、文科省は同制度堅持のための理論武装と、教育の質を保証する新たなシステムづくりが必要になった。そうして打ち出されたのが、いわゆる「義務教育の構造改革」答申(2005年10月、中央教育審議会)の「インプット―プロセス―アウトカム」論だ。

 そこでは、教育の目標設定とその実現のための基盤整備(インプット)だけでなく、教育の結果(アウトカム)の検証をも「国の責任」に位置付けた。その検証の手法の一つが中山成彬文科相(当時)が言い出した全国学力テストであり、もう一つが「第三者機関による全国的な外部評価の仕組み」だった。

 当時の文科省が第三者評価のモデルとして頭に描いていたのは、英国イングランドの「教育・児童サービス・技能水準局」(Ofsted)だった。これを念頭に「学校評価の推進に関する調査研究協力者会議」は第1次報告(07年8月)は「チェックリスト型監査」を、政府の「教育再生会議」も第3次報告(同12月)で数値化による「成果指標」を求めた。実際にも06年から3年間、全国の小・中学校での試行を交えた実践研究が行われている。

 しかし今回の報告からは、協力者会議の発足時に示された検討事項にあった「評価機関」という表現が消えた。「監査的な要素も盛り込みつつ」評価を行うという提案も、「監査的な評価」より学校運営改善のための体制や妥当性のチェックに重点が置かれることになった。

 報告に先立つ昨秋の政権交代に伴い、第三者評価検討の関連予算も概算要求段階から削除されている。今回の報告は「日本版Ofsted構想」が事実上破綻(はたん)したことを象徴するものと言えよう。公立学校・教育委員会バッシングを後ろ盾にした「教育再生」路線の下で「評価のための評価」に屋上屋を重ねることになりかねない危険性もあったことから比べれば、まずは安心だ。

 しかし02年の同省令による努力義務化以来、学校評価が本当の意味で体系的に整理されたとは言い難い。報告が指摘するように学校評価が「それ自体が目的ではない」のであるならば、評価の過程がそのまま指導や学校運営の改善につながるような「指導と評価の一体」をここでも目指すべきだ。

 本社は学校評価自体を、また第三者評価をも否定するものではない。外部の専門家による指摘や指導は、むしろ多くの学校が求めているところである。学校関係者評価にしても、保護者や地域住民を「当事者」として巻き込むというコンセプトには大いに賛同したい。だからこそ今一度地に足をつけ、無理なく、かつ評価活動がそのまま教育活動の具体的な改善に反映するような新たな発想によるシステムを、現場の英知を集めて模索したいものだ。

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2010年4月 7日 (水)

新年度に思う 「過密教育」が心配だ

 全国の多くの学校で入学式や始業式が行われ、新年度が本格的にスタートした。本来ならば咲き誇る桜のように希望に満ち溢れているべき季節なのだが、先々のことを思うと、どうにも気が晴れない。

 2011年度から使用される小学校教科書の検定結果が先ごろ発表された。教科書は一面で、学校現場に対して学習指導要領の趣旨を極めて具体的に表現するものでもある。ページ数は全体で25%増になったという。理科は37%増にも上る。

 大手マスコミの報道ぶりは「脱ゆとり」「ゆとり決別」などと肯定的なトーンで一致し、記事中や社説で「詰め込み教育」回帰の懸念や、分厚い教科書を使いこなす教師の指導力の必要性を指摘するにとどめている。しかし現場にとっては、もっと深刻ではないのか。「過密教育」とでも呼ぶべき危機である。

 なぜ「過密」なのか。確かに新指導要領では削減された内容が一部復活するが、教科書のページ数ほど内容が増えるわけではない。それよりも増えるのは「活動」だ。「習得、活用、探究」「言語活動」「体験」をキーワードに、さまざまな形態の学習活動がこれまで以上に求められることになる。一方、増える標準授業時間数は週1時間だけである。もちろん指導要領は授業時数を想定して内容を構成しているはずであるが、本当に全国の教室で現実的に標準時数内に収まり切るのか。

 何より新教育課程に対応した授業をじっくり検討する余裕が、多くの教師にはない。現行下でさえ多忙化や長時間過密労働が指摘される昨今である。「子どもと向き合う時間の確保」というキャッチフレーズは教育界の内外に共通して受け入れられた感もあるが、じっくり向き合い、指導の成果を上げるためにも、十分な教材研究や児童・生徒理解が不可欠になる。その余裕もないまま、分厚い教科書に対応しなければならない。時間的、精神的の両方の「過密」さでだ。

 授業だけではない。指導要領が変われば当然、学習評価も変わる。文部科学省は中央教育審議会報告を受けて、指導要録の参考様式を含めた通知を今月中にも出す予定である。「活用」の評価ではこれまで以上に一人ひとりの状況を丁寧に見取ることが求められようし、通知の後に国立教育政策研究所から示される評価規準も、おそらく詳細なものになろう。

 思い返せば今につながる多忙化の発端は、1989年改訂の指導要領の下で関心・意欲・態度をはじめとする観点別評価が導入されたことだったように感じる。それが98~99年改訂時の、いわゆる「ゆとり教育」批判と学力向上への対応、そして評価規準に対応した評価基準の作成と、ほとんど判断停止に陥ったとさえ言っていいほど現場は忙殺された。それと並行して覆いかぶさってきたのが、厳格な勤務管理や教員評価制度、保護者・地域住民対応、果ては学校・教員バッシングである。精神的な過密さは、極まっていると言っていい。

 民主連立政権は、教職員定数の大幅な改善方針を打ち出している。確かに朗報ではある。一校当たりの教員数が増えれば、それだけ一人に掛かる校務分掌の負担は軽減されよう。しかし、たとえ学級定員が引き下げられようとも、クラスで授業を行うことには変わりない。その授業自体が、今まで以上に過密にならざるを得ないのである。

 加えて、現在は第2次ベビーブームに対応して採用された「ひしめく」世代の大量退職期に突入している。この10年で半分近くの教員が入れ替わる都道府県もあるほどだ。逆に、この間の少子化による採用抑制で、中堅層は薄い。ベテラン層は従来の経験がますます通用しない新教育課程への対応に手一杯だ。大量の新任教員たちは校内で十分な指導やサポートを受けられないまま、複雑化する子どもたちに相対しなければならない。これで本当に新教育課程の実が上がるのかも心配だが、そもそも学校現場が「持つ」のか、恐怖さえ覚える。

 心配のし過ぎかもしれない。もっと希望を語らなければ、現場はますます辛くなるだけかもしれない。しかし政権交代を果たしても一向に光明が見えてこない気がするのは、気のせいなのだろうか。

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