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2010年7月

2010年7月26日 (月)

全国学テ中間まとめ案 総括になっていない

 文部科学省の「全国的な学力調査の在り方等の検討に関する専門家会議」が23日、中間まとめ案を大筋で了承した。しかし、そこで示された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)に対する過去4回の評価は、きわめて不十分な総括だと評せざるを得ない。

 中間まとめ案は、全国学テが国の行政調査としての役割を超えて地方や学校に貢献してきたことを評価し、実施要領で定められた調査目的を「今後も極めて重要」だと結論付けている。

 しかし本社が再三指摘してきた通り、全国学テは位置付けが不透明なまま制度設計がなされた。

 中教審の「義務教育の構造改革」答申(2005年10月)では、個々の学校の「アウトカム」(教育の結果)を国の責任で検証し、質を保証するシステムとして提言されている。これが義務教育費国庫負担制度(義務教)維持のための理論武装として打ち出されたことは答申全体から見れば分かることだが、その後の「政治判断」で国庫負担率が2分の1から3分の1に引き下げられても、インプット(国による目標設定とその実現のための基盤整備)―プロセス(市区町村や学校による実施過程)―アウトカムの分担論はそのままだった。不透明さは、そこに原因がある。

 政権交代後に全国学テは悉皆(しっかい)調査から抽出調査・希望利用方式に変更されたが、全校を調査するのでなければ「アウトカム」に国が責任を持つことなど本来できないはずだ。しかし、中間まとめは「調査のねらいとしてきた政策効果が十分発揮され、積極的な取り組みが全国で展開されている」として現行方式の継続を支持している。

 そもそも05年答申に対しても、「『義務教育の機会均等とその水準の維持向上』という基本的な理念を実現する方策の一つとして、全国的な学力調査の必要性が提言された」ものだという。明らかに答申全体の文脈から切り離した、近視眼的な解釈である。

 本社がこれほどしつこく全国学テの位置付けを論じているのは、それが国と地方・学校の権限と役割分担にかかわるからだ。

 地方分権の時代に、教育の実施とその結果に対して誰が責任を持つのか。教育現場の裁量はどこまで認められるのか。もっと言えば、国の役割と範囲はどこまでか。この戦後以来の問題に05年中教審答申は一つの解答を出したのだが、今やそれ自体が「定説」になったのかどうかさえ不明確なままだ。

 その根源を問うことなしに実施頻度や追加教科を検討することはできないし、いくら都道府県や市区町村の意向を聞いても意味はない。義務教論議ともかかわることであり、最終報告に向けて中教審には見識の高い論議を求めたい。

 

【全国学力テスト関連社説 バックナンバー】

全国学力テストは任意参加に(2008年2月20日 )

全国学テ再論 結果の公表は“消極的”に(2008年3月15日)

全国学テ開示問題 だから任意参加にすべきだ(2008年8月18日)

全国学テ公表問題 そもそもデータに限界がある(2008年9月13日)

全国学力テスト 公立「全校参加」を惜しむ(2009年3月25日)

全国学力テスト 成績不振校から支援を(2009年4月21日)

新政権に望む〈3〉 全国学テは「抽出」より「任意」に(2009年9月17日)

概算要求〈2〉 抽出学テ 重くなる地方教委の責任2009年11月 3日

全国学テ 参加率の高低は本質ではない(2010年3月 6日)

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2010年7月25日 (日)

【社告】お悔やみ

 評論家の森毅さんのご逝去に、哀悼の意を表します。

 取材の機会は得ませんでしたが、「学校を笑え。管理を笑え。ファシズムを笑え」(『教育武芸帳』)は浪人時代の心の支えでした。

    「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」社員一同(代表社員・渡辺敦司)

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2010年7月17日 (土)

定数増 今から「弊害」への備えを

 前回の社説ではかねてからの社論に反して、教職員定数改善を求めた中央教育審議会の提言に苦言を呈した。今回も定数増にけちを付けるような主張をお許しいただきたい。一般にはあまり知られていないが教育界では急がれている問題への対策を、さらに困難にする可能性があるからだ。教員年齢構成の偏りのことである。

 世間では「団塊世代の大量退職」などと言われるが、教員の世界は第2次ベビーブームに対応して大量採用が行われたため、10年遅れで「ひしめく50代」の本格的な大量退職時代がやって来る。文部科学省の2009年度調査から算出すると、公立小・中学校教員のうちピークの51歳より上は34%、46歳以上を加えると52%、41歳以上では66%となる。つまり、あと10年で3分の1、15年で2分の1、20年で3分の2が入れ替わる計算だ。しかもこれは、全国の数値である。高度経済成長期に人口が集中した大都市圏ではもっと深刻で、10年で半数が入れ替わるとさえ言われている。

 1990年代は児童・生徒減に対応する形で、新規採用が極端に抑制された。2000年代に入ってから少人数指導への対応などで多少持ち直したものの、年齢構成は50代以上の38%に対して、40代は31%、30代は20%と偏りは隠せない。

 純粋に年齢構成の是正を考えるなら第7次定数改善計画(01~05年度)の時に大幅な定数増を図っておくべきだったが、時期が悪すぎた。財政的には国も地方も公務員数の削減が、政治的には構造改革が迫られていた。同計画では児童・生徒数の減少に伴う「自然減」分が改善に回されただけで、要するにプラスマイナスゼロだった。その間、義務教育国庫負担制度の存在さえ危うくなるほどで、第8次計画の策定も幻に終わってしまった。

 その結果いま学校現場で起こっていることは、管理職になれない者も含めたベテラン層のモチベーション低下、極端に薄い中堅層の多忙化、そして若手教員の孤立化とマニュアル頼みの傾向である。主幹・指導教諭の新設と組織マネジメントの確立、優秀教員の表彰制度と優遇策、“教師塾”などの設置を含めた教員研修の強化、再雇用教員による新任教員のメンター(指導員)制などは、いずれもそうした課題への対応を背景にしている。

 定数改善に伴って今後、教員が大量採用されても、それを育成すべき中堅・ベテラン層に余裕も意欲もないとしたら、過去のノウハウや経験が継承されないまま手探りで教室に臨まなければならない。しかもそこで相対するのは、明らかに昔よりも対応が難しい子どもたちである。

 もちろん、そうした状況に備えて教職大学院をはじめとした教員養成課程の改革、教委独自の教師養成塾などの対応は進んでいる。しかし本格的な定数改善がすぐに始まるとなれば、今まで以上に取り組みを加速化させねばならない。

 そして、もっと深刻な問題がある。教員の質の低下だ。教員採用をめぐっては地方と大都市圏で極端な倍率の開きがあるが、今や低倍率の首都圏では採用試験対策にさえ意欲が低い者でも容易に受験できる状況にある。採用側も、量を確保するためには多少疑問の残る者でも採用せざるを得ない。30代や40代の“新人”も今まで以上に増えることだろう。どんなに厳密な採用選考を行っても「問題教員」が紛れる可能性があることは経験が教えるところだが、今後ますますそのリスクが高まることは避けられない。昨今の教員不祥事などを見ると、問題の噴出は既に始まっているとさえ思えるふしがある。

 教員バッシングをするのは簡単だ。ただ、精神論だけで解決できるほど問題は単純ではない。教員という存在に崇高さを要求することよりも、今いる教員、さらには教員予備軍の質をどう高め、組織的な学校の力をどう上げるかの具体策が、今まで以上に求められる。

 それでも定数改善が急がれる状況にあることは、中教審の提言通りだ。その上で今後、必然的に起こり得る弊害への備えを十分に行っていく必要があるのだということを、あえて強調しておきたい。

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2010年7月13日 (火)

定数改善 あえて「禍根」を指摘する

 中央教育審議会の初等中等教育分科会が、40人学級の標準引き下げと新たな教職員定数改善計画の策定を提言した。定数増はかねてから本社の主張することころであり、提言事項にもおおむね同意できる。本来ならもろ手を挙げて賛成し応援したいところだが、あえて苦言を呈しておきたい。提言文をよく読むと、後に禍根を残しかねない論理構成になっているからだ。

 定数改善の理由の第一には、新学習指導要領への対応が挙げられている。その理由自体に異論はない。しかし、同種の主張は提言文にもある通り2008年の中教審答申でも行っていたものであり、それに対して財務省は「現場は織り込み済みのはずだ」として文部科学省の要求を突っぱねた経緯がある。これを打ち破るほどの新たな主張は、まったくない。

 生徒指導面の課題への対応、学級経営の確立、子どもと向き合う時間の確保についても、その指摘には文句の付けようはない。しかし、定数を増やせば諸課題が解決に向かう、という根拠は、ほとんど示されていない。

 学校現場の苦労と困難さを考えれば、こうした指摘が難癖以外の何物でもないことは承知の上である。それなのになぜ、このような難癖を付けるのか。提言文が「エビデンス・ベース」(証拠に基づいた)の論議から、いまだ程遠いと感じるからだ。

 2000年代前半、学力低下批判と学校・教員バッシングの嵐の中で、小泉構造改革路線を背景に義務教育費国庫負担制度(義務教)の存廃が論議された。文科省・教育関係者と総務省・地方団体が激しく対立する中で、苅谷剛彦東大大学院教授(当時)が主張したのが、教育政策論におけるエビデンス・ベースの必要性だった。学力低下といっても、そもそも学力を経年で比較する公式データさえなかった。教育政策は情緒的にではなく、客観的な根拠を基に論議すべきだ――。そうした主張は、義務教論議を超えて教育界に一定の影響を与えたはずだ。

 提言文には、ヒアリングやアンケート、各種調査やデータが「根拠」として挙げられている。しかし、肝心の学級定員の引き下げにしても、何人にすればこれだけ教育効果が上がる、といった実証データはない。

 そもそも提言文は「引き下げ」を求めているだけで、何人にすべきだとは書いていない。実質的には、文科省に丸投げしている。もっと言えば、文科省と財務省の予算折衝に委ねている。それでは、以前と何も変わらないではないか。双方が自分に都合のよいエビデンスを持ち出して、主張は平行線のままになりかねない。

 もっとも政治的には、それでも構わない気もする。義務教だって中教審答申などまったく関係なく、教育に無関心だった当時の小泉純一郎首相の政治判断で負担率が引き下げられた。マニフェスト(政権公約)に「教員の質と数を充実させる」と盛り込んで政権交代を果たした民主党政権下は、千載一遇のチャンスだろう。まして消費税論議で大敗した参院選の直後である。今ならまだ有権者・保護者も同意してくれるだろう。来年度予算を逃したら、機会はしばらく来ないかもしれない。なりふり構わず改善計画をスタートさせなければならないことは、重々承知している。

 それだけに、もし来年度予算がだめだったら、どうするのか。政治的混迷と国際的な財政再建圧力が強まれば、ますます機会を逸してしまいかねない。それを打ち破るほどの論理を構築できなかったことを、残念に思うのだ。

 自分に都合のいいデータや事実をもっともらしく並べて読み手の情に訴えるというのは、本社を含めたマスコミのよくやる手法である。だから本来、今回の中教審提言を批判するなど矛盾することはなはだしいのは自覚している。それでも将来のことを考えて、あえて指摘した次第である。

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2010年7月10日 (土)

参院選公約〈2〉 問われるべきは問われたか

 土曜日授業の再開や新科目「公共」の設置(自民党)、公立学校給食の無償化(公明党)、東大民営化(みんなの党)、六三三三制の見直しや教科指導の民間委託(日本創新党)――。各党の参院マニフェスト(選挙公約)等には、目を引く項目が並ぶ。しかし、それらが個別政策の羅列にとどまっていることは前回の社説でも批判した。文字通りの「目玉」政策を実施すれば劇的に学校が改善されるほど、現場の問題は単純ではない。解決の糸口を付けるためにどのような戦略を描くかが、教育政策に今こそ求められよう。

 では、そうした戦略を各党は問うているのか。残念ながら、好意的に解釈すれば幾つかの政党に戦略らしきものが垣間見える程度である。

 自民党は、「ゆとり教育の反省を生かしながら教育再生を進める」「人間力を高める」などにより「世界トップレベルの『教育立国』をめざ」すとして、「全国学力調査、教員免許更新制度の復活」を打ち出している。幼稚園無償化も含めて、要するに昨夏の衆院選マニフェストと基本的には変わらない。「守るべきものは守」るのが保守本流として「いちばん」だと言いたいのかもしれないが、前政権担当政党にしては現政権への対抗軸として弱いという印象がぬぐえない。

 新党改革は、学力低下の原因が「ゆとり教育」にあるとして、「詰め込み教育」を提唱している。ここで言う詰め込み教育とは子どもの学習進度に合わせて現場で柔軟に学習内容を決めることができる教育だとして、子どもの要求に合わせてどんどん学習できる中高一貫教育制度の導入を進めていくのだという。しかし、それでは「できない」子の底上げはどうするのか。

 そもそも「ゆとり教育」だの「脱ゆとり教育」だのといった用語で教育政策を語ること自体が無意味であることは、本社が繰り返し訴えてきた。同党にとどまらず、選挙区候補者でいわゆる「ゆとり教育」の見直しを訴えている者は、例外なく教育政策の素人だと見ていい。その点、当時の政権与党だった自民党は「ゆとり教育の反省」とうまい表現を用いているが、そのニュアンスを候補者、はては現職議員もどれだけ理解していることか。

 みんなの党は「教育は現場の市町村、学校現場に任せることを基本」とする一方で、「教育の最終的な責務は国にある」として抜本強化するのだという。渡辺喜美代表が飛び出した自民党の姿勢に近いと見なせなくもないが、「地域主権」を掲げる割には不徹底ないしは矛盾していると感じないのだろうか。

 たちあがれ日本は、全国学力テストの再開とその結果の公開、教員免許更新制の強化とともに、「専門機関による学校監査」の実施を掲げている。これは、ある意味で自民党より自民党らしい。「信賞必罰」を教員給与のみならず学校評価にまで徹底して改善を強制するということなら一つの戦略になり得るだろうが、本社としては組合対策を超えて現場を萎縮させる弊害を生むものとして疑問を呈しておきたい。

 そして何より問題なのは、民主党が何も問うていないことだ。

 鈴木寛文部科学副大臣は先月開かれた日本学習社会学会で講演し、私立を含めたすべての小・中学校にコミュニティ・スクール化を促したい考えとともに、学校選択制は設置者の判断に任せて文科省としては推進しない姿勢を明らかにした。「新しい公共」の中に教育を位置付ける、民主党政権らしい教育政策と言えばそうである。自民党政権下、というより小泉構造改革路線の下で進められてきた規制緩和・自由競争政策への強烈な対抗軸とも評せる。しかしそのような方針は、今回の民主党マニフェストからはうかがえない。民主党があえて問わないのか、それとも教育行政の戦略的な全体像が鈴木副大臣の頭の中だけにしかないのか。

 考えてみれば、戦略的な教育政策なり、文科省の行政運営方針なりが国政選挙の争点にされたことは、今までなかったのではないか。もちろん中央教育審議会に代表される有識者の英知を集めたボトムアップ式の政策立案が教育の中立性や安定性を確保するという建前はあろう。しかし自民党長期政権の中で、実際には政権与党の意向がより反映しやすい構造になっていたことは否めまい。ましてや、いわゆる「ゆとり教育」の実施とその見直しにせよ、教員免許更新制をはじめとする学校批判をテコにした外部からの改革にせよ、具体的に有権者に問うて導入された政策とは決して言えない。

 いずれにしても問われるべきものが問われなければ、選挙戦に対抗軸が見いだせず、有権者も学校現場の改善に有効だと思える教育政策を選択することは、いつまでもできないのではないか。投票日が明日に迫ってしまった今、その後の政権選択選挙に向けて、各党には戦略的な教育政策の立案と、それを国民に問う姿勢を、ぜひ求めたい。

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2010年7月 3日 (土)

参院選公約〈1〉 教育政策論争の空洞化を嘆く

 参院選の投票が1週間後に迫った。政権選択選挙ではないものの、昨年夏の衆院選で政権交代を果たした民主連立政権の中間評価をも示す重要な選挙である。しかし教育政策に限って言えば、必ずしも論点はかみ合っていない。一部の党を除いて総花的であったり、全体的な戦略がないまま個別政策の羅列に終始したりしている印象が、どうしてもぬぐえない。

 新政権の目玉政策を問うという点では、半額支給にとどまっている子ども手当について、ほとんどの党が是非に言及している。しかし、衆院選で同じバラマキ批判の多かった高校無償化については、主要政党のマニフェスト(政権公約)等を見る限り、かねてから継続や充実を打ち出していた与党などを別にすれば、明解に撤回方針を打ち出したのは「たちあがれ日本」1党だけ。ほかは旧与党の公明党が「無償化法の成立」を前提にしていることを明記したのが目立つくらいだ。

 もちろん、高校無償化が保守系野党も含め多くの党に支持されたということであれば、歓迎したい。マニフェスト等に言及がないのも選挙戦術上、与党の政策を表向き評価したくないということなら、理解できなくもない。

 しかし、私学を含む高校無償化措置は2010年度予算で3933億円を計上し、文教関係予算を1割押し上げたほどの事業である。一律支給はより所得の高い層に恩恵があり、低所得者層にはメリットが少ないことも、昨夏の論戦になったはずだ。そうした批判は、どこへ行ったのか。

 多くの党は、高校生も含めた奨学金の充実などを打ち出している。それはそれで結構なことだし、現下の経済状況と学力格差拡大の懸念を考えれば喫緊の課題でもある。ただ、これだけ消費税をめぐる論議がかまびすしい中では、果たして財源は考慮しているのかといぶかってしまう。

 そして何より、与党も含めて無償化後の高校の将来像が示されていないことを、残念に思う。高校無償化は財政的にも高校教育を「準義務化」するものだと思うのだが、その点はあいまいにされたままだ。

 教育については誰しも一家言を持ち、有権者にもアピールしやすい。それだけに、どうしても抽象論や精神論に陥りがちだ。しかし我々がいま選ぼうとしているのは法律と予算をつくる国会議員であり、しかも「良識の府」である参議院の議員である。「マニフェスト選挙」による政権交代を経ても相変わらず言いっ放しの公約合戦では、虚しさを感じざるを得ない。

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