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2010年11月

2010年11月27日 (土)

【池上鐘音】大学全入の“現実”

▼25日付の社説では、大学全入時代の入学者選抜(「入試」ではない)について書いた。論拠を補強する意味でも、併せて読んでほしい近刊がある。『高大接続の“現実”』(朝比奈なを著、学事出版)である▼著者は首都圏の元公立高校教諭で、現在は進路アドバイザー、フリーライターとして執筆や講演を行う傍ら、大学で初年次教育担当の非常勤講師もしている。とりわけ高校の「教育困難校」の実態に詳しく、『月刊高校教育』誌に「進路指導室の椅子」(2008年4月~2010年3月)を連載していた▼全入時代とは、困難校の生徒も大学に入れる時代ということでもある。高校時代は板書を丸写ししていただけだから、大学の講義を聴き取ってノートにまとめることなどできない。リポートはおろか、文章を書くルールさえ知らない。物事を考える経験が乏しいばかりか、銀行や郵便局に行ったことがない、路線図が読めないなど「生活のための知恵」を身に付ける体験すら薄いのだという▼そんな者を大学に入れるな、というのは空論である。実際、多くの大学が入学定員を確保するため、なりふり構わず学生を受け入れているではないか。高校はもっとしっかり教育せよ、というのも現実を知らない者の主張である。困難校の教師が生徒を何とか卒業させようとギリギリの努力を続けていることは、朝比奈氏が具体的に活写している。そもそも学力や体験の不足は、家庭の格差に起因していることも少なくない▼「知識基盤社会」に対応するための人材育成が本当に求められるというのなら、そうした生徒・学生であっても一定の知的レベルに引き上げてやらなければならない。高校側と大学側が責任を押し付け合っている場合ではない。お互いが連携して、最終的には社会に有意な人材として送り出すのが教育責任というものであろう▼朝比奈氏はフリーとなった今も、そうした意味での「高大接続」を身をもって実践している。そしてそれは、教育困難校と非有名大学だけの問題ではなかろう。9月に行われた大学入試センター主催のセミナー「大学入試を考える~競争選抜から全入化の時代へ」が思い起こされる▼繁桝算男客員教授は、試験の合否だけではその大学のアドミッション・ポリシー(入学者受け入れ方針)に比して「望ましくない学生」も入ってくることが避けられないことを指摘した。入試時点の知的学力だけではなく、入学後に伸びる可能性や、大局的発想・勧請の抑制・やる気なども含めた「社会的スキル」も含めてのことである▼現在、中堅以上の高校では目標管理や生き残りのため、大学進学実績を何とか上げようと躍起になっている風潮がある。伝統的な進学校も例外ではない。しかし受験対策に終始するあまり、生徒を「望ましくない学生」にしてはいまいか。全入時代は、上位大学にも昔に比べれば入りやすくなる時代である▼朝比奈氏の著書には、高校、大学の双方の関係者が気付いていながら目をそむけている“現実”が描かれている。そうした現実を直視することなしに「入試」で学力を担保する方策にきゅうきゅうとしていては、本当の意味で高大接続の論議はできないのではないか。進学校や上位大学もそこから自らの教訓を読み取れないようでは、未来はない。

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2010年11月25日 (木)

高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜

 おそらく文部科学省のホームページを毎日チェックしている人でも、多くが見過ごしているのではないか。「高大接続テスト(仮称)」をめぐって北海道大学に委託した「高等学校段階の学力を客観的に把握・活用できる新たな仕組みに関する調査研究」の報告書が、ひっそりとアップされている。テスト創設の必要性を訴えながらも、結論的には高校・大学関係者による今後の検討に委ねている。国も含めて、具体化への機運はいまだ見られない。しかし報告書の指摘は、もっと深刻に受け止められてしかるべきだ。

 報告書は高大接続テストについて「学習指導要領の改訂に振り回されない出題教科・科目設定が望ましい」「1点刻みの素点評価から離れることが必要」「目標準拠型の達成度テストであることが求められる」など注目される提言を行い、創設されれば「学力入試の在り方、さらにセンター試験の在り方も検討が必要となる」とまで言及しながらも、一方では大学入試センター試験の存続も前提とし、「高校卒業資格試験や悉皆テストとして位置付けられるべきではない」「テストですべてが解決するわけではない」などと歯切れが悪い。関係団体代表が集まって利害を調整した結果の文言であるから、仕方ない面はあろう。

 だが、そこに示された問題意識は重大だ。既に実質的な「大学全入時代」に突入する中、関係者がこぞって目をそむけている現実を直視した上で、覚悟の提言を行っていると見るべきだろう。

 中央教育審議会のワーキンググループで提言されて以来、高大接続テストが実態として「学力不問入試」になっている推薦・AO入試の学力担保策だと受け止められているふしがある。だが、そうではない。どのような「入試」を行おうと大学教育を受けるのに求められる「学力」が担保されないところに、全入問題の根深さがある。

 報告書が指摘するように、高校教育から大学教育への接続は戦後一貫して「選抜性の高い大学入試」を通してなされてきた。それも定員に対する受験者数が過剰だったからこそ、機能してきたことだ。そこでは中堅以下の大学でも序列化と偏差値輪切りによって、ある程度の学生層の均一化を図ることができ、教育上の対応もしやすかった。

 報告書の指摘を待つまでもなく、そうした選抜機能はいまや低下している。たとえ上位・有名大学であっても18歳人口減に比例した大幅な定員削減でも行わない限り、競争選抜によって優秀な学生を確保することはできない。たとえ入試科目数を増やしたところで、生き残りに必死な高校側が徹底した受験対策をするだけである。出題からはみ出た部分にこそ大学教育に不可欠な学習意欲・関心、調査・リポート力、コミュニケーション能力などが存在するのだが、そうした能力がやせ細ったまま受験校から大学に進学していくという皮肉な結果を招きつつある。受け入れ後の教育が昔に比べて困難になるのは、必然と言っていい。

 中堅以下の大学は、もっと深刻である。学生数を確保するためには、逆に入試科目を減らすなど入り口を軟化させなければ文字通り存続が危うくなる。ますます全入状態に近づき、学生の質はいっそう多様化する。上位大学以上に手厚い教育が必要になることは言うまでもない。

 報告書は、高大接続テストを「教育ツール」と「選抜ツール」の2側面を持つものだと位置付けている。多くは選抜ツールの側面ばかりに目が向いているだろうが、むしろ「選抜ツールではない教育ツール」の側面に着目すべきだろう。学力の低い者を落とすためにではなく、低くても受け入れざるを得ない学生を教育するためのツールとしてだ。

 奇異に聞こえるかもしれないが、全入時代の「入学者選抜」は、「入学試験」だけでは自校にふさわしい学生を確保できない。受験学力だけではない、多様な物差しが不可欠になる。高大接続テストも、そうした文脈の中で提言されたものである。そこを見誤ってはいけない。

 たとえ高大接続テストが実現しなかったとしても、それに替わる「選抜」方法を一刻も早く見つけなければならない。報告書がテストの具体化について「可能な限り準備期間を短縮することが望ましい」と指摘しているのは、そうした問題意識が背景にあると読むべきだ。知的基盤社会に対応した高度な人材を養成する必要性に迫られる中、悠長に構えてはいられない。

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