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2011年4月

2011年4月 6日 (水)

新年度に思う〈下〉 新課程への意識、いま一度検証を

 東日本大震災の被災地を除く全国各地で、入学式や始業式が相次いでいる。新年度は小学校で新教育課程が全面実施となり、中学校もあと1年に迫った。しかし、本当に大丈夫なのか。いま一度、検証が求められよう。

 ベネッセ教育研究開発センターの「第5回学習指導基本調査」によると、教員が「多くするよう心掛けている」授業として、知識・技能を「習得する学習」」が小、中学校とも8割近くを占めたのに対して、「活用する学習」は4割台。「探究的な学習」になると1~2割台しかない。

 言うまでもなく新学習指導要領では、「習得・活用・探究」の学習活動をバランス良く行うことが求められる。好意的に解釈すれば、学校現場は先のような数値のバランスで「確かな学力」が育つと思っているのかもしれない。しかし実際には、移行措置期間中の内容増への対応に追われて「活用」や「探究」への関心がおろそかになっていなかっただろうか。調査に携わった耳塚寛明お茶の水女子大学教授も、記者発表の席で「活用型や探究型の学習がやや軽視されているのではないか」との見方を示していた。

 「言うまでもなく」と書いたが、正しい理解が本当に浸透しているかも怪しい。一般の報道等に惑わされて、新指導要領がいわゆる「ゆとり教育」を見直したものだと本気で思っていないだろうか。「ゆとり」か「脱ゆとり」かといった二項対立で捉えている限り、新指導要領の趣旨は絶対に理解できない。もっとも研究者ですら「脱ゆとりの新指導要領」などと平然として使っていることが少なくないから、教員ばかりを責めることはできないのだが。

 調査によると、「探究的な学習」への不安が5割前後あるのに対して、「活用」への不安は2~3割にとどまっている。先に見たような“4割程度”の力の入れ具合で、活用力が十分育成できると思っているのだろうか。、確かに全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)のB問題対策は各地で進んでいるし、PISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の結果も回復傾向が見られた。しかし、安心していていいのか。そもそも全国学テにしてもPISAにしても、決して成績コンテストではない。あくまで実生活に「生きる」知識とすることが、最終目標だ。

 さらに不安なデータもある。教科の内容増に伴って「全体的に授業の進度を速める」とした教員が、小学校で半数を超えている。特に経験5年目以下の初任者層では10ポイントも高い。ベテラン層の7~8割が「ポイントを絞って教える」としたのとは対照的である。今後「ひしめく50代」の大量退職に伴って、新採用教員は大量に増えていく。しかも、手にする教科書のページ数は3割増だ。頭から最後まで順を追って、しかもスピードアップして授業を行っていては、文部科学省さえ懸念しているように「落ちこぼれ」が増えることもあり得ないことではない。

 こんな“細かい”ことにこだわっている場合ではないのかもしれない。被災地では、学校の再開にさえ大きな困難を抱えている。教科書にも文房具にも何不自由なく授業が行えること自体、文字通り有り難いことなのだろう。しかし新指導要領が「生きる力」の育成を目指すものならば、いま行おうとしている教育活動が本当に児童・生徒一人ひとりに「生き抜く力」の基礎を培うものとなり得るのか。東北はもとより日本全体の復興を思えば、改めてそのことを反省する必要があろう。

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2011年4月 1日 (金)

新年度に思う〈上〉 今こそ語ろう、「学校」の重要性

 先月起こった東日本大震災は、3週間が経過した今も全容が把握できないほどの甚大な被害をもたらした。阪神・淡路大震災や新潟県中越地震などと同様、多くの被災者がよりどころとしたのが学校施設だった。交通機関がストップした東京などでも、多くの学校が帰宅難民の休憩所となった。新年度を迎えるに当たり、地域に「学校」が存在することの重要性を、改めて保護者、住民とともに語り合いたい。

 ほとんどの人が高校まで進学する中、我々は長らく学校を空気のように捉えてきたのではないか。あるいは個人の通学体験から、百人百様の思いを抱いていよう。学園闘争や校内暴力・不登校・いじめなど不満がくするぶる一方で、それでも学校という存在に対する信頼感がかつては社会全体にあったように思う。

 潮目が変わったのは、21世紀に入る前後に沸き起こった学力低下論争だ。初めは大学生の学力問題だったものが、確たる証拠のないまま初等中等教育の問題にされてしまった。学校に対する潜在的な不満に火が付いてあっという間に燃え広がり、不信感や不満は今も大都市圏を中心にくすぶっている。子どもや孫を学校に通わせる人にとっては今やクレームの対象であり、学校に関わらない住民にとっては「迷惑施設」でさえある。

 そうした状況に拍車を掛けたのが、小泉政権下における構造改革・自由競争路線と、後を受けた安倍政権下の教育再生路線だったろう。規制緩和を進めたい観点から、不祥事などをきっかけに激しい公教育・学校バッシングが続いた。少子化が進んでいるのだから、無駄を省くために学校の統廃合を進めよ。教員を増やしても学力は上がっていないのだから、これ以上増やす必要はない――。こうした批判に学校現場はすっかり自信を無くし、多忙化とも相まって判断停止に陥っているようにさえ思える。

 しかし今回の震災では、一時600校を超える学校に被災者が避難した。震源地に近い宮城では県内小・中学校の4割が避難所となった。その立ち上げに尽力したのは、自らも被災した教職員だ。東北から関東にわたる広範囲な被災であったにもかかわらず対応できたのは、やはり一定の子どもがいるところ津々浦々に学校があったことが大きい。そもそも防災拠点の約6割が、学校施設だ。

 天災は全国どこでも無縁ではなく、明日は自分たちが被災者にならないとも限らない。だからこそ今回の震災に際して、これまで以上に全国の人たちが被災地と被災者に思いを寄せているのだろう。

 そうであるなら被災地支援の一方で、自分たちの足元も見つめ直したい。もし学校に避難せざるを得なくなった時、具体的にどうするか。避難所の設置責任者はあくまで自治体の防災担当者であって、教職員は支援・協力を行うに過ぎない。避難所としての利用はあくまで目的外使用であり、原則7日間以内というのが法令上の原則だ。長期化せざるを得ない場合も、避難住民による自治組織が実質的な運営を担うことが求められる。何より本来の目的である教育活動の再開のため、学校本来の機能を徐々に回復させなければならない。

 もちろん緊急時に、法令上の原則など通用しない。だからこそ、普段からの意思疎通が不可欠だろう。もし災害が起こったとき、教職員は、住民は、どう行動するか。どうやって避難所を運営し、明け渡していくか。過去の震災を教訓に学校側では防災計画やマニュアルを準備しているが、それも住民の協力なしには生かせない。

 学校の教育活動にとっても近年、「総合的な学習の時間」やキャリア教育を通して、地域との関係を深める必要性は高まってきた。新学習指導要領の下でも地域の協力なしには「習得・活用」・探究」の学習を深めることはできない。学校側にとっても、地域の側にとっても、お互いがなくてはならない存在なのだ。

 新年度は、学校と地域や保護者とのさまざまな会合が開かれる時期でもある。そうした機会を捉え、全国でお互いの関係を深める契機としたいものだ。

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