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2011年8月

2011年8月27日 (土)

大阪・教育基本条例案 学校目標の「単純化」も心配だ

 橋下徹大阪府知事が率いる地域政党「大阪維新の会」が、同府や大阪市、堺市の各議会に「教育基本条例案」を提出するという。それ以外の市町村にも、同様の対応を呼び掛けている。教育の政治介入を強めることについては、今後もさんざん論じられることであろう。ここでは少し違った角度から問題点を指摘したい。

 条例案概要では「政治の教育への関与」として、首長が公立学校の実現すべき目標を定めるとしている。それを受けて教育委員会が指針を作成し、各学校の校長がその実現のために学校目標を定めるという。

 そうなると、何が起きるか。条文では事前に首長と教委の協議を行うことにするようだが、最終的には首長の関心事が重視されることになる。あるいは選挙公約がストレートに反映されることになろう。いずれの場合でも一般住民にとって耳触りのいい、理解しやすい目標になることは必定だ。

 もちろん、それは自体は必ずしも悪いことではない。現行の教育委員会制度にしてもレイマン(素人)コントロールを基本としている。しかし、公教育はそう単純なものではない。学習指導要領も含めた諸法令に基づくことは言うまでもなく、個々の学校の事情から課題や目標の重点についても当然違いが出てくるはずだ。

 分かりやすいのは、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)への対応だ。市町村別や学校別の成績を公表せよ、というのが橋下知事の持論である。しかし全国学テは国語と算数・数学という一部教科の、しかもペーパーテストで測れる学力に限られる。たとえ理科などの教科が追加されようと、「主要」教科以外の軽視も避けられない。何より新指導要領が求める学力観、さらには「生きる力」はどうなるのか。

 もう一つの分かりやすい例は、進学率向上だろう。これにはむしろ、公立高校現場は歓迎するかもしれない。しかし、そもそも上級学校への進学が「高等学校教育の目的」なのか――こう言えば高校関係者は言葉に詰まるだろうが、一般の人は何の疑問も持たないだろう。実際にも数値目標を掲げて進学率を上げている進学校は少なくないのだが、合格させるだけで良しとしていないか、本当に進学先で通用する学力を育成しているのか、問い直されなければならない。

 外から見て分かりやすい、あるいは一般受けしやすい目標のために個々の子どもたちの課題がおろそかになってしまっては、学力そのものも危うくなる。学習面にしても子どもの生活面と密接に関連したものであり、教室での学びも単なるその場限りの知識の伝授ではなく学校生活全体の一部として存在する、という複雑なものであることは教育関係者なら誰でも分かることだが、そうした理解さえほとんどの「素人」首長にはない。

 もちろん、教委が首長との関係を深める必要性を否定するつもりはない。むしろ予算面も含め、大いに連携を深めてほしい。教育関係者以上に教育に対する高い識見を持つ首長の存在も知っている。しかし条例で定めることになれば、時々の首長の意向一つで各学校の教育活動さえ左右されることになる。それはレイマンコントロールというより、「衆愚教育行政」ではないか。慎重な対応を求めたいが、これも数の「民主主義」で通してしまうのであろうか。

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2011年8月 7日 (日)

「実効性」ない学校評価ならやめてしまえ

 文部科学省の「学校評価の在り方に関するワーキンググループ(WG)」が発足した。学校評価の「実効性」を高めるための論議を行うのだという。

 はしたない見出しをつけてしまって恐縮であるが、本社は決して学校評価そのものを否定するものではない。学校教育は意図的・計画的な営みであるのだから、実施後に計画を評価し、改善することは当然だろう。ただ、ここで課題になっている「学校評価」は一般名詞ではない。2002年に努力義務化、2007年に実施義務化された、法令上の学校評価のことだ。

 その義務化された学校評価が、実際には多くの学校に徒労感や無力感しかもたらしていないことは、WGの初会合で委員から指摘された通りだ。事務局が示した論点例の第一に「学校現場において、学校評価は実際にどのように受け止められ、活用されているか」を掲げているのも、現実には学校評価が「実効性」あるものになっていないという認識の裏返しである。

 そもそも学校評価が、文科省ガイドラインでの定義が示すように「児童生徒がより良い教育活動等を享受できるよう学校運営の改善と発展を目指」すものだとしたら、それによって確かに改善や発展が行われるものでなくてはならない。逆に言えば、いつまで経っても改善や発展がみられない場合は、学校評価そのものに問題があるということである。ましてやそれが徒労感や無力感しか生み出さず、現場の多忙化に拍車を掛けているだけだとすれば、やらない方がいい。

 それでも学校評価が「義務」化されたのは、先の定義の後に続く「教育の水準の向上と保証を図ること」や、保護者等に対して「学校が適切に説明責任を果たす」「相互の連携協力の促進が図られる」ことに力点が置かれたためである。

 初会合の配布資料でも示されている通り、学校評価の位置付けは微妙に「変遷」している。1996年7月の中央教育審議会答申で提言された時は、「地域に開かれた学校」という文脈においてであった。それが曲折を経て学校評議員制度に結実していくのであるが、2000年12月の教育改革国民会議提言では「説明責任」という新たな文脈が加わった。

 資料には挙げられていないが、91年から大学で行われてきた「自己点検・評価」の手法を初等中等教育にも導入しようという発想も、文科省にはあったろう。私立小学校の設置を促進しようと制定された小・中学校設置基準の中に「自己評価」という形で学校評価が盛り込まれたのも、その反映だ。

 もう一つの大きな画期は、小泉構造改革だった。公立学校にも規制緩和・自由競争が求められ、学校選択制の資料とするために学校評価が求められたのだ。文科省も自由化論者の攻勢に抗し切れず、むしろ攻勢によって高まった公教育不信に対する「信頼回復」の手法として、学校評価の強化にひた走る。06年3月に初のガイドラインが作成され、自己評価だけでなく外部評価の実施も打ち出された。

 08年1月のガイドライン改訂では、学校評価を「自己評価」「学校関係者評価」「第三者評価」に整理し直し、英国イングランドの教育水準監査院(OFSTED)のような機関の設立を目指して大がかりな実践研究さえ行った。

  ただ10年7月の改訂では、第三者評価の実施義務どころか努力義務さえも打ち出せず、学校同士の相互評価までもが第三者評価のメニューとして認められた。先の実践研究が、想定通りの成果を上げられなかったことの表れでもある。

 そして直後の政権交代である。鈴木寛副大臣は自身が大学助教授時代にかかわったコミュニティ・スクールに執心し、文科省としては学校選択制を積極的に広げない方針さえ名言した。これによって、日本版OFSTED構想は頓挫したと言っていい。

 しかし学校評価そのものの扱いは、民主党政権の下でも曖昧なままである。その象徴が、今回のWGであろう。

 是非とも徹底した議論を望みたいのだが、予定された6~7回程度の会合で本当にできるのか。初会合を聴いた限り、不安が残る。WGの親会議である「学校運営の改善の在り方に関する調査研究協力者会議」がコミュニティ・スクールに関して極めて不十分な提言しかまとめられなかったことは、先の社説で批判した通りである。

 

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