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2011年8月 7日 (日)

「実効性」ない学校評価ならやめてしまえ

 文部科学省の「学校評価の在り方に関するワーキンググループ(WG)」が発足した。学校評価の「実効性」を高めるための論議を行うのだという。

 はしたない見出しをつけてしまって恐縮であるが、本社は決して学校評価そのものを否定するものではない。学校教育は意図的・計画的な営みであるのだから、実施後に計画を評価し、改善することは当然だろう。ただ、ここで課題になっている「学校評価」は一般名詞ではない。2002年に努力義務化、2007年に実施義務化された、法令上の学校評価のことだ。

 その義務化された学校評価が、実際には多くの学校に徒労感や無力感しかもたらしていないことは、WGの初会合で委員から指摘された通りだ。事務局が示した論点例の第一に「学校現場において、学校評価は実際にどのように受け止められ、活用されているか」を掲げているのも、現実には学校評価が「実効性」あるものになっていないという認識の裏返しである。

 そもそも学校評価が、文科省ガイドラインでの定義が示すように「児童生徒がより良い教育活動等を享受できるよう学校運営の改善と発展を目指」すものだとしたら、それによって確かに改善や発展が行われるものでなくてはならない。逆に言えば、いつまで経っても改善や発展がみられない場合は、学校評価そのものに問題があるということである。ましてやそれが徒労感や無力感しか生み出さず、現場の多忙化に拍車を掛けているだけだとすれば、やらない方がいい。

 それでも学校評価が「義務」化されたのは、先の定義の後に続く「教育の水準の向上と保証を図ること」や、保護者等に対して「学校が適切に説明責任を果たす」「相互の連携協力の促進が図られる」ことに力点が置かれたためである。

 初会合の配布資料でも示されている通り、学校評価の位置付けは微妙に「変遷」している。1996年7月の中央教育審議会答申で提言された時は、「地域に開かれた学校」という文脈においてであった。それが曲折を経て学校評議員制度に結実していくのであるが、2000年12月の教育改革国民会議提言では「説明責任」という新たな文脈が加わった。

 資料には挙げられていないが、91年から大学で行われてきた「自己点検・評価」の手法を初等中等教育にも導入しようという発想も、文科省にはあったろう。私立小学校の設置を促進しようと制定された小・中学校設置基準の中に「自己評価」という形で学校評価が盛り込まれたのも、その反映だ。

 もう一つの大きな画期は、小泉構造改革だった。公立学校にも規制緩和・自由競争が求められ、学校選択制の資料とするために学校評価が求められたのだ。文科省も自由化論者の攻勢に抗し切れず、むしろ攻勢によって高まった公教育不信に対する「信頼回復」の手法として、学校評価の強化にひた走る。06年3月に初のガイドラインが作成され、自己評価だけでなく外部評価の実施も打ち出された。

 08年1月のガイドライン改訂では、学校評価を「自己評価」「学校関係者評価」「第三者評価」に整理し直し、英国イングランドの教育水準監査院(OFSTED)のような機関の設立を目指して大がかりな実践研究さえ行った。

  ただ10年7月の改訂では、第三者評価の実施義務どころか努力義務さえも打ち出せず、学校同士の相互評価までもが第三者評価のメニューとして認められた。先の実践研究が、想定通りの成果を上げられなかったことの表れでもある。

 そして直後の政権交代である。鈴木寛副大臣は自身が大学助教授時代にかかわったコミュニティ・スクールに執心し、文科省としては学校選択制を積極的に広げない方針さえ名言した。これによって、日本版OFSTED構想は頓挫したと言っていい。

 しかし学校評価そのものの扱いは、民主党政権の下でも曖昧なままである。その象徴が、今回のWGであろう。

 是非とも徹底した議論を望みたいのだが、予定された6~7回程度の会合で本当にできるのか。初会合を聴いた限り、不安が残る。WGの親会議である「学校運営の改善の在り方に関する調査研究協力者会議」がコミュニティ・スクールに関して極めて不十分な提言しかまとめられなかったことは、先の社説で批判した通りである。

 

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コメント

初めまして
都内在住、公立中学から一人の子ども(20歳)は都立高校に、一人は私立(15歳)に進学しています。
学校選択制度を取っている区なので、深く考えもせずに二人、別々の中学に入れました。
上の子ではなかったことが、下の子ではいろいろとあり、現在の制度を深く考えるきっかけになりました。

現在区の教育審議会の委員をしておりますが、そこで副座長を務める大学の教授が、「学校は地域に閉ざされている」と断言されたことに驚きました。
長女の中学は私も卒業生、保護者のほとんどがOB,OGで、学校を支える気持ちも強くあり、いい形で学校との関係を築いていました。
学校が荒れたときにも校長と保護者が何度も話し合いを重ね、立ち直ったという実績もあります。
が、積極的に情報開示をする学校は「荒れている」とみられ、選ばれないのです。

そのほかにも、深く検証されることもなかったさまざまな思い込みにより、教育改革がなされたのではないでしょうか。
本文で述べられている、「公教育への不信感」からきた「規制緩和、自由競争」、これらは本当に必要だったのでしょうか。

そして現在、公立中学では、学力が正当に評価されることなく、90点以上取っていても「態度が悪い」という理由でオール3をつけられる子、60点台でも「5」がつく子など、めちゃくちゃな内申がつけられています。
これによって困るのは、公立高校ではないでしょうか。
学力が抜きんでいている子は、内申が低くても西、日比谷などトップ校に進めます。が、内申がものをいう中堅校では、そうはいかない。
公立中学での内申が「34」「37」程度の子たちが、東大に合格しています。
中学での内申評価は、あてにならない。

また、公立学校が多様化する個性に対応するなどという必要があるのでしょうか。
公立の義務教育は単純、簡素でいい。
むしろ余計なことをしないから、公立が好き、なのです。

文科省も、選択制度は積極的に広げないのですね。
区では、「一度取り入れた制度は、簡単にはやめられない」と言っています。
学校群制度のことを連想しました。

今現場で起きているさまざまな矛盾、混乱が「教育再生会議」の結果だとしたら、きちんと検証する必要があります。

投稿: マーシー | 2011年11月 5日 (土) 23時55分

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