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2011年11月

2011年11月23日 (水)

大阪府民は「教育条例案」拒否の投票行動を

 大阪府知事・大阪市長のダブル選挙が27日に迫った。本社は東京所在であり、母体も関西とはゆかりがなく、もとより大阪全体の抱える課題について発言する立場にはない。しかし「教育基本条例案」は問題が多すぎる。「大阪維新の会」の候補を支持したいとしても、せめて同条例案だけは拒否するような投票行動を呼び掛けたい。

 公教育の現状、とりわけ公立学校に不満を持っている府民は多かろう。それゆえ現状打破の道筋を示した同条例案に期待する気持ちは分からなくもない。

 しかし同条例案にはそもそも制定自体が無効になる可能性があること具体的な内容にも問題が多いことは、さまざまに論じられているし本社も指摘した。教職員組合の方針や行動に疑問を感じている府民も少なくなかろうが、教組に批判的な論者でさえ条例原案による学校教育の「大混乱」を懸念しているほどである。「角を矯めて牛を殺す」の典型例だ。

 橋下徹前知事および維新の会の政治行動原理がどのようなものであるかは、彼らのブレーンである上山信一慶大教授の『大阪維新』(角川SSC新書)を読めばよく分かる。大阪維新は「みんなで走りながら考える。雪だるまのように転がりながら、大きくなっていく市民運動」なのだそうである。しかしたとえ原案に修正を加えていったとしても、橋下氏お得意のラグビーのようにいびつなボールが果たしてどんな方向に転がっていくのか。そもそも投げた方向が間違っていては大変だ。

 そもそも上山教授によると、橋下知事の手法は小泉純一郎元首相のような「シングル・イシュー・ポリティクス」(一つの問題に焦点を絞った政治運動)であり、大阪維新も「一見無謀な手法でも駆使してみる」闘争なのだという。教育を「サービス産業」と位置付けているのも小泉新自由主義改革と同じだ。しかし小泉改革が公教育に何をもたらしたか。プラス面があったかもしれないが、それを差し引いてもマイナス面が大き過ぎた。

 大阪維新は「明治維新にも匹敵する国のカタチの再編成」が目的であり、そのために「全国に先がけて大阪を変える」運動だという。もちろんその過程でまず大阪を成長させるという前提があるし、セーフティーネットの充実も掲げているとはいえ、成長の陰で切り捨てられていくものが多過ぎはしまいか。

 何より主な照準が大阪というより「全国」に合わされている。維新の会の説明でも、教育基本条例は「文部科学省を頂点とするピラミッド型の教育委員会制度を一から見直」す(ブリーフィングノート)ものだという。一体どこを向いているのか。

 それでもなお、「元気」な橋下前知事に期待する府民は多かろう。それは否定しない。ただし維新の会が少数派である大阪市議会では、9月末に提出された条例案が即日否決されている。教育基本条例に期待して橋下前知事に投票しても、成立するとは限らない。

 成立する可能性があるのは維新の会が絶対多数を占める府議会だが、府条例で統制できるのは府立学校だけである。「One大阪」を掲げながら、お膝元の大阪市立小・中学校が統制できなければ均衡を欠こう。

 維新の会候補をダブルで当選させても、条例案をめぐって教育界にますます混乱を及ぼすだけである。無理に通しても、教育は決して良くはならない。そのことを府民はよくよく考慮して、投票に臨んでもらいたい。維新の会が射程に入れる「全国」の国民も注視している。 

 

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2011年11月21日 (月)

【池上鐘音】「空白」の高校教育

▼オウム真理教事件で最後に死刑が確定した遠藤誠一被告が高校の先輩だったことは、数年前に知った。生年からすると被告の卒業と小子の入学には1年のブランクがあるが、在学中に過去の資料を読んだり話を聞いた限りでは同時代を生きたと言ってよい▼全国的に学生運動の余波も去り、「三無主義」が指摘されていた時期だった。とりわけ高等女学校を前身とする母校はライバル校と違い、制帽自由化でさっさと矛を収めていた。多くの生徒の関心事といえば、大学進学だけだった。同級生が入学直後、口々に「北大に行きたい。学部はどこでもいい」と言うのを聞いて、北大だけは決して行くまいと心に決めたものだ。もっとも卒業時には出願したとしても足切り必至の成績であったが▼そんな雰囲気の中で、生き方に悩む進学エリートが満たされない気持ちを強めていったとしても違和感はない。世代的にもそうだ。北海道高等学校「倫理」「現代社会」研究会が35年にわたって行っている意識調査を見ると、神や仏を「信じる」との回答は1975年に28%だったが、80年には45%に跳ね上がっている。遠藤被告はその間に高校生活を送った▼小子は高校で新聞局(北海道では部活でなく生徒会の外局が一般的)、大学で自治会という時代遅れの青春を送ったため、幸いにもカルトにはまる素養は持ち得なかった。それだけに塀の内外はどちらに転ぶかの差でしかないこともよく知っている。地下鉄サリン事件が起こったのは会社員時代だったが、卒業後間もなく出身大学にオウム系サークルがはびこったことは後で知った▼中教審では先ごろ、高校教育部会が発足した。高校教育を真正面に据えて議論するのは、ほぼ20年ぶりだ。この間、「政策的エアポケットだった」という研究者もいる。しかし義務教育と高等教育のはざまにあって、教育の内実が「空白」だったのはそれ以前から多くの高校に共通する事態ではなかったか▼進学実績の向上を第一の「成果目標」とする昨今の風潮が、そうした空白を助長するような気がしてならない。先の意識調査では2001年以降、神や仏を信じる率が微増傾向にある。信心が広がるのは歓迎すべきことだが、それには深い内省が不可欠だ。まさに「倫理」の出番なのだが。

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