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2012年1月

2012年1月27日 (金)

「日の丸・君が代」 今こそ不毛な対立の終息を

 卒業式の本格的な準備時期に入った。折しも最高裁では、国旗・国歌の扱いに関する職務命令違反に処分基準が示された。来月には「予防訴訟」の最高裁判決で教職員側敗訴が確定する見通しとなった。これを画期として教育行政側も教職員側も、戦後以来の「日の丸・君が代」をめぐる長い不毛な対立を終息させるべきだ。

 最高裁判決を受けて、東京都教委は国旗掲揚と国歌斉唱の適正な実施を通知した。大阪府教委は松井一郎知事の意向を踏まえて起立斉唱を徹底させる職務命令を府立学校長に出し、橋下徹大阪市長は大阪府と同様の国旗国歌条例案を提案する方針を表明した。これらの教委でも判決を受けて違反の際の処分基準は変えざるを得ないだろうが、起立斉唱はむしろ徹底させる構えだ。

 主張したいことは4年前の社説と変わらない。日の丸・君が代の扱いだけを取り上げて焦点化させること自体が、学校現場にとって不毛だということだ。現下の学校教育の課題はそれだけではないし、国旗・国歌問題を解決しなければ全てが前に進まないという時代でもない。

 確かに今回の判決で、職務命令の適法性は認められた。最高裁が指摘するように不起立等の行為は式典の秩序や雰囲気を一定程度損ない、参列する生徒への影響を伴う。ましてや式典で掲揚を妨害するのは論外である。

 しかし一方で判決は、不起立等の行為自体は「積極的な妨害等の作為ではなく、物理的に式次第の遂行を妨げるものではない」と指摘している。不起立等が「個人の歴史観ないし世界観等に起因するものである」とも認めている。国旗国歌法制定の経緯や国会附帯決議を考え併せても、妥当な指摘だ。

 学習指導要領の目標は、学校の教育活動全体で達成されていれば問題はない。実施に当たって教職員が分担して行うことも当然だ。政治的・運動論的理由は別にして、何も日の丸・君が代だけを取り出して全教職員に職務命令で徹底を強要する“指導上”の合理的理由はないはずだ。指導要領違反を言うのなら、むしろ活用・探究の授業を実施する職務命令も出したらいかがとは思うのだが、おそらくそんな発想は出てくるまい。 

 卒業式・入学式に引き寄せて言えば、クラス担任やピアノ伴奏者など列席が当然視される教職員には一定の行動が求められよう。しかし不起立は別として、一人ひとりが歌っているかどうかをチェックしたり、ましてや音量を測ったりすることまでする必要があろうか。指導要領が求めるのは式典での国旗掲揚・国歌斉唱の“実施”までである。教育効果を考えても、第一に評価すべきは教職員ではなく児童・生徒の態度の方だろう。

 反対する側にも注文を付けたい。教職員の思想・信条の自由は尊重されるべきだが、それを表現する場は式典ではあり得ない。ましてや組織的に行動することは、日の丸・君が代に抵抗を感じない若手教職員が増加する中では反発を招くだけである。起立斉唱をしたくない場合には式典に列席しない役割分担を求める等、それこそ交渉事項に属することではないか。

 他の社説のまねをするわけではないが、やはり判決に付された旧労働省出身の櫻井龍子裁判官の補足意見で締めよう。引用が長くなるが、関係者は一言一句をかみしめてほしい。

 「今後いたずらに不起立と懲戒処分の繰り返しが行われていく事態が教育の現場の在り方として容認されるものではないことを強調しておかなければならない。教育の現場においてこのような紛争が繰り返される状態を一日も早く解消し、これまでにも増して自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり、全ての関係者によってそのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要があるものというべきである」

 

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2012年1月21日 (土)

「秋入学」を機能別分化の契機に

 東京大学の懇談会が、秋季入学への全面移行を提言する中間まとめを公表した。秋季入学を主導する濱田純一総長は5年後を目途に検討を進めたい意向を示している。いわゆる秋入学に関しては「社会全体」で考えるべきだとの論調も目立ち始めており、中間まとめでも各界の幅広い理解と協力を求めている。しかし、これには多少の違和感を禁じ得ない。むしろ大学側が自らの責任で、率先して進めるべきと考えるからだ。

 東大が秋入学を進めるのは、国際的な大学間競争とグローバル人材養成への対応のためだ。学生を「よりグローバルに、よりタフに」育成するために、学部段階でも国内外の出入りをしやすくしたり、全員に国際的な学習体験をさせることはもとより、合格から入学まで半年の「ギャップターム」を利用して、大学受験で染み付いた点数至上主義の受動的な学びをリセットし、体験活動などを通して主体的・能動的な学びに転換させるという、高大接続の視点もあるのだという。

 結構なことだ。受験エリートの頂点たる東大が率先して大学教育上の是正に乗り出し、旧帝国大やトップ私大などにも呼び掛けて共同歩調を呼び掛けてもいる。大学教育全体、さらには大学受験全体に対するインパクトは大きかろう。

 だからこそ、これを「全体」の問題として論議してはならない。

 これまで大学教育改革や入試改善をめぐっては大学という一本化された「制度」を前提として、抽象的な建前論として論じられることが多かった。しかし進学率の上昇に伴って大衆化と多様化は進み、700校を超える大学すべてを同じ「大学」としてくくることは現実的に不可能になっている。いわゆるユニバーサル段階にあっては期待される役割に応じて大胆な特色化を図ることが不可欠であり、2005年の中央教育審議会「将来像答申」で機能別分化が提言されたのもそうした認識があってのことだが、5年を過ぎた今に至るまで中教審大学分科会では機能別分化の促進策をめぐって延々と議論が続いている。個別大学で大胆な「機能」特化を打ち出した例も、寡聞にして知らない。

 そんな中での東大の英断は、評価してもし過ぎることはない。創設以来、旧文部省と一体となった「護送船団方式」の先頭を走ってきた大学が、本当の意味で独自の路線を進もうとするのだ。もちろん単騎では無謀だし力も十分発揮できないから、ラインを組むことも必要だろう。機能を同じくする大学とコンソーシアムを形成することがあっていい。

 しかし、それはあくまで個別大学の判断だ。とりわけ東大は、中間まとめの中でも自らを「研究大学」「総合研究大学」と位置付けている。だから秋入学を導入するのであって、他の機能を目指す大学が必ずしも同調する必要はない。

 例えば教員養成系大学・学部は、高校以下の学校に合わせて引き続き春入学とするのが合理的だろう。もともと日本の高等教育機関が秋入学から春入学に改めたのも、高等師範学校が率先したからだという。もっとも秋入学にして卒業後のギャップタームを初任者研修に充てるアイデアもないではないと思うのだが、それは別の話だからおいておく。

 国立でも地方大学は、近隣私大などと連動して地域人材を供給するために卒業時期を一緒にすることが当然だし、求められよう。つまりは学年の始期の選択によって、国際的な「研究大学」を目指すのか、「地域貢献」大学を目指すのか、旗幟(きし)鮮明にすることが迫られるのだ。

 秋入学を選択する大学も、公共投資など政府への支援を求めるだけでは今までと同じだ。自ら国際競争に身を投じる覚悟があるのなら、それによって高まる競争力で独自の研究・教育資金を集める気概が欲しい。もちろん国家戦略としてどう教育投資を充実させるかは別問題だし、実際に秋入学を導入する大学が増えれば日本学生支援機構の奨学金をギャップターム中にも支給対象とするなどの対応も必要になってこよう。しかし大学側としても、卒業生などからの寄付による独自の給付奨学金で賄うくらいのことは打ち出すべきではないか。

 東大がこれまで「市民的エリート」(東大憲章)を生み出してきたことは歴史的事実だろうし、今後もそれを目指すことも大いに結構だ。ただし独自判断に踏み切る以上、そのリスクも負わなければなるまい。現実的には考えにくいことだが、ギャップタームを嫌って受験生や企業から多少の敬遠をされることも織り込まなければなるまい。それにも増して大学のアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)などが明確になり、目指す人材育成が容易になるのだから。 もちろん、「ミニ東大」にも言えることである。

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2012年1月 1日 (日)

【社告】新年ごあいさつ

中央・地方とも教育界に混迷が予測される中、今年も本ブログをよろしくお願いいたします。

    「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」代表社員 渡辺敦司

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