« 「終焉」した大学入試に対応が急務だ | トップページ | 日本の教育、やはり「間違っていなかった」 »

2012年3月31日 (土)

高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな

 新学習指導要領に基づく高校教科書の検定結果が先ごろ公表されたが、報道では相変わらず「脱ゆとり」という位置付けが目立つ。ご丁寧にも新聞の1面で「ゆとり教育」の用語解説を載せた社すらあった。しかし本社がたびたび指摘するように、この間の教育政策の変遷を「ゆとり教育」とその転換と捉えたのでは本質を何一つ理解できない。ましてやそれが学校現場に悪影響を及ぼしかねないとしたら、黙っていられない。とりわけ高校関係者は、そうした報道ぶりに惑わされることなく改訂趣旨を正しく理解した上で、どのような授業改善が求められているかを冷静に受け止めるべきである。

 しつこいようだが、確認しておこう。確かに「ゆとり」は文部省(当時)が付けた改訂のキャッチフレーズの一部分だが、「ゆとり教育」とはあくまでマスコミの造語である。 しかも1998年に前指導要領の改訂案が発表された時に、「詰め込み教育」から脱却するキーワードとして肯定的に使ったものだった。それが「分数のできない大学生」問題や大手学習塾による「円周率が3になる」といった“誤報”で新指導要領への不信が世間に広がると、大手のみならず多くのマスコミは手のひらを返したように「ゆとり教育」批判を始めた。これに恐れをなした文部科学省も「ゆとり」という言葉を使うのをやめてしまった。

 もちろん、分かりにくさの責任の一端は文科省にもある。一番の淵源は当時、学力向上路線への転換を図った遠山敦子文科相―小野元之事務次官のラインと、伝統的な教育課程行政を堅持したい初等中等教育局との温度差である。そのため初中局担当者が教育関係者に向けた説明も奥歯にものが挟まったような言いぶりで、お世辞にも上手とは言えなかった。しかしそこからが文科官僚の真骨頂で、外からは「ゆとり教育」批判に抗し切れずに方針転換したように見せながら、改訂趣旨の基本線は守り通したのだ。あまつさえ改正学校教育法にその理念を法制化することにさえ成功した。

 本社はそのような文科省の姿勢を、結果的には必ずしも否定しない。いわれなき「ゆとり教育」批判を交わし、21世紀に求められる能力の育成を目指す方向性を堅持したと評価するからだ。

 ただ寺脇研氏らの個人プレーを除いてはマスコミ報道に対して堂々とした論戦を挑まなかっただけに、文科省が方針転換をしたのか、しなかったのかさえ不透明なままになってしまったのは残念だ。そうした中でマスコミが「脱ゆとり」報道を続けては、世間のみならず教育関係者すら文科省が一時「ゆとり教育」なる方針を掲げ、その方針の誤りを認めて方針転換を行ったと誤解するのも無理はない。

 確かに今回の改訂では、中教審で議論を主導した梶田叡一教育課程部会長も方針転換を強調した。しかし梶田氏が主な批判の対象としたのは前々回改訂(1989年)の「新しい学力観」であり、必ずしも「ゆとり教育」ではなかったことに注意する必要がある。事実、中教審答申は前回過程時に「ゆとり」とセットだったキャッチフレーズ「生きる力」の継承を堂々とうたっているではないか。

 「ゆとり教育」をどう定義するかにもよるのだが、それが単なる内容削減・授業時数減を意味するのなら確かに「転換」であろう。実際、今回の改訂では削減された内容が一部復活し、小・中学校では標準授業時数も増やされている。しかし前回改訂の本質は、いわば知識の「量」から学習の「質」へと重心を移したことだったろう。今から思えばPISAの「リテラシー」や新指導要領の「活用」「探究」を先取りするものであった。

 これも文科省の巧妙さによるのだが、2007年度から始まった全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)では各教科で「習得」と「活用」の2種類を出題した。この「活用」を「応用」問題のことだと勘違いした世間は、自然かつ好意的に受け入れた。本当ならこれを「ゆとり教育」の残滓として批判すべきはずなのに、である。

 このような分かりにくさも、すべて「ゆとり教育」か「脱ゆとり」かで教育課程改革の流れを理解しようとするからである。経済協力開発機構(OECD)が提唱するような未来志向の学力をどう育成するかという観点で把握しようとした方がよほど正確で、かつ建設的である。

 もちろん高校も例外ではない。新課程においては内容増だけでなく、思考力・判断力・表現力等を育成する言語活動の充実が各教科・領域等で求められる。そうした点に目を向けず、狭い意味での「学力向上」に執心できると思ったら大きな間違いを犯す。ましてや「ゆとり教育」の転換で中学生の学力が向上すると期待していては、大変なことになろう。新指導要領では、義務教育段階の学習内容の「学び直し」も高校に期待されている。高校入学者の質の変化について、前回あるいは前々回の改訂時以上に戸惑うことも十分予想される。

 高校でも新指導要領の全面実施まで、あと1年に迫った。一刻も早く改訂趣旨を受けた授業研究に着手すべきである。そうでなくても多くの高校現場は「総合的な学習の時間」の低調さにみられるように、指導要領に正面から向き合ってこなかったきらいがある。2006年に発覚した必履修科目の未履修問題などは論外である。「脱ゆとり」報道を真に受けて、いっそう受験指導に力を入れていいのだと意気込んでいるとしたら勘違いも甚だしい。本音と建前は教育界の常ではあるが、建前を理想論として本気で語るのもまた教育界の特質ではないか。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

|

« 「終焉」した大学入試に対応が急務だ | トップページ | 日本の教育、やはり「間違っていなかった」 »

社説」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/506419/54353440

この記事へのトラックバック一覧です: 高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな:

« 「終焉」した大学入試に対応が急務だ | トップページ | 日本の教育、やはり「間違っていなかった」 »