「試験」偏重主義を捨て去る時だ
1カ月前の旧聞で恐縮であるが、このたび本社配信記事が掲載されたということでお許し願いたい。名古屋大学であった日本教育学会第71回大会で、重要だと思える指摘が相次いだ。いずれも「試験」というものの機能に関する指摘である。
一つは、大学入試だ。2日目午後に行われた公開シンポジウムの一つ「高校教育改革の現状と課題」で、登壇した福井県の高校教諭は「教科書や指導要領がどうなろうと、教師がどういう指導をしようとも、『出口』の時点が高校生の学びを引っ張ってしまう現実がある」と嘆いてみせた。高校の授業改善をしたくても、生徒の関心は結局ペーパーテスト偏重の大学入試で高得点を取ることにしか向かず、そのため高校での学びも深まらないというわけだ。
ベネッセ教育研究開発センターの調査を見ても、今どきの高校生は進学校でさえ約6割が「勉強しようという気持ちがわかない」という。進路多様校の7割と、それほどかけ離れているわけではない。「いい大学に入りたいから」勉強する生徒は進学校で8割に上るが、「大学受験は、できるだけ楽に済ませたほうがよい」(全体の5割)という本音も見え隠れする。取材していても進学校の進路指導担当者から「生徒が上を目指さなくて困る」という嘆きが聞かれる。もはや大学入試自体が、学習の動機付けとなる時代ではない。
同じ公開シンポジウムで佐々木隆生・北星学園大学教授は、入試の本質を「落第入試」だと喝破した。あくまで定員を上回る受験者を落とすものであって、競争倍率が低かったり、あるいは定員を下回ったとしたら、必然的に合格者のレベルは落ちる。入試を厳しくすれば質が上がると考えるのは、幻想にすぎない。だからこそ佐々木教授は高大接続のうち「選抜接続」ではなく「教育接続」の必要性を訴えているのだ。
同様の指摘が、教員採用をめぐってもあった。3日目午前の一般研究発表で行われた、布村育子・埼玉学園大学准教授らの研究グループの発表である。教員採用は「選考」といいながら、その実は一般公務員と同じ競争試験になっている。第二次ベビーブーム採用教員の大量退職時代を迎えて、競争率の下がる採用試験では受験者の質低下が避けられないばかりか、その受験者は試験に通る勉強にしか関心がないという。これでは、いくら養成改革をしたところで資質向上の効果は薄まる。養成課程教育を実質的に左右する採用システムの改革という視点も失ってはならない、というのが同グループの問題提起だ。
我々は戦後長らく、公正で公平な試験が正しいと信じてきた。それによって優秀な人材が見いだせると確信してきた。しかし、それも人口増加時代の話である。人口減少時代には、さまざまな価値の転換が迫られる。教育分野は、その一歩先を進んでいるのだと受け止めるべきだろう。
試験の前後の教育接続を考え、それを助けるような試験でなければならない。2つの発表は、そうしたことを示唆していよう。
考えてみれば、当たり前のことである。試験は試験のためにあるのではない。その段階での受験者の能力を評価し、次につなげることが主眼のはずだ。選抜試験で必要とされる能力がないと判定されるのなら、落とされることも致し方ない。しかし、だとしたら定員割れを覚悟してでも落とすべきだろう。ましてや、差がつかない受験者を難問・奇問で落とすなど論外だ。
試験で測れる能力の限界も、忘れてはいけない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)も、事前にあれだけ「測れるのは学力の一部」と口酸っぱく強調されてきたというのに、結果が発表されれば点数や順位に関係者の目が血走る。テストというものの魔力であろう。ましてや試験となればそれ自体が目的となってしまい、誰も疑うことはない。テストで測れない能力は、たとえ公正・公平な手法でなくても大胆に取り入れて判定すべきだ。
教育を論じるとき、我々はつい「常識」という固定観念で考えてしまう。しかし世間に流布する常識が、常に正しいとは限らない。本社説もそう考えてしばしば暴論のような主張を掲げているのだが、教育学にもそんな常識を打ち破り、研究のための研究ではない、教育界に貢献する研究成果を提示するよう期待したい。
【参考=本社配信記事】
・「大学入試が阻む高校の授業改善―日本教育学会第71回大会(上)」内外教育2012年9月14日付
・「採用試験が養成を『骨抜き』に―日本教育学会第71回大会(中)」同2012年9月18日付
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