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2012年9月

2012年9月23日 (日)

「試験」偏重主義を捨て去る時だ

 1カ月前の旧聞で恐縮であるが、このたび本社配信記事が掲載されたということでお許し願いたい。名古屋大学であった日本教育学会第71回大会で、重要だと思える指摘が相次いだ。いずれも「試験」というものの機能に関する指摘である。

 一つは、大学入試だ。2日目午後に行われた公開シンポジウムの一つ「高校教育改革の現状と課題」で、登壇した福井県の高校教諭は「教科書や指導要領がどうなろうと、教師がどういう指導をしようとも、『出口』の時点が高校生の学びを引っ張ってしまう現実がある」と嘆いてみせた。高校の授業改善をしたくても、生徒の関心は結局ペーパーテスト偏重の大学入試で高得点を取ることにしか向かず、そのため高校での学びも深まらないというわけだ。

 ベネッセ教育研究開発センターの調査を見ても、今どきの高校生は進学校でさえ約6割が「勉強しようという気持ちがわかない」という。進路多様校の7割と、それほどかけ離れているわけではない。「いい大学に入りたいから」勉強する生徒は進学校で8割に上るが、「大学受験は、できるだけ楽に済ませたほうがよい」(全体の5割)という本音も見え隠れする。取材していても進学校の進路指導担当者から「生徒が上を目指さなくて困る」という嘆きが聞かれる。もはや大学入試自体が、学習の動機付けとなる時代ではない。

 同じ公開シンポジウムで佐々木隆生・北星学園大学教授は、入試の本質を「落第入試」だと喝破した。あくまで定員を上回る受験者を落とすものであって、競争倍率が低かったり、あるいは定員を下回ったとしたら、必然的に合格者のレベルは落ちる。入試を厳しくすれば質が上がると考えるのは、幻想にすぎない。だからこそ佐々木教授は高大接続のうち「選抜接続」ではなく「教育接続」の必要性を訴えているのだ。

 同様の指摘が、教員採用をめぐってもあった。3日目午前の一般研究発表で行われた、布村育子・埼玉学園大学准教授らの研究グループの発表である。教員採用は「選考」といいながら、その実は一般公務員と同じ競争試験になっている。第二次ベビーブーム採用教員の大量退職時代を迎えて、競争率の下がる採用試験では受験者の質低下が避けられないばかりか、その受験者は試験に通る勉強にしか関心がないという。これでは、いくら養成改革をしたところで資質向上の効果は薄まる。養成課程教育を実質的に左右する採用システムの改革という視点も失ってはならない、というのが同グループの問題提起だ。

 我々は戦後長らく、公正で公平な試験が正しいと信じてきた。それによって優秀な人材が見いだせると確信してきた。しかし、それも人口増加時代の話である。人口減少時代には、さまざまな価値の転換が迫られる。教育分野は、その一歩先を進んでいるのだと受け止めるべきだろう。

 試験の前後の教育接続を考え、それを助けるような試験でなければならない。2つの発表は、そうしたことを示唆していよう。

 考えてみれば、当たり前のことである。試験は試験のためにあるのではない。その段階での受験者の能力を評価し、次につなげることが主眼のはずだ。選抜試験で必要とされる能力がないと判定されるのなら、落とされることも致し方ない。しかし、だとしたら定員割れを覚悟してでも落とすべきだろう。ましてや、差がつかない受験者を難問・奇問で落とすなど論外だ。

 試験で測れる能力の限界も、忘れてはいけない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)も、事前にあれだけ「測れるのは学力の一部」と口酸っぱく強調されてきたというのに、結果が発表されれば点数や順位に関係者の目が血走る。テストというものの魔力であろう。ましてや試験となればそれ自体が目的となってしまい、誰も疑うことはない。テストで測れない能力は、たとえ公正・公平な手法でなくても大胆に取り入れて判定すべきだ。

 教育を論じるとき、我々はつい「常識」という固定観念で考えてしまう。しかし世間に流布する常識が、常に正しいとは限らない。本社説もそう考えてしばしば暴論のような主張を掲げているのだが、教育学にもそんな常識を打ち破り、研究のための研究ではない、教育界に貢献する研究成果を提示するよう期待したい。 

【参考=本社配信記事】

・「大学入試が阻む高校の授業改善―日本教育学会第71回大会(上)」内外教育2012年9月14日付

・「採用試験が養成を『骨抜き』に―日本教育学会第71回大会(中)」同2012年9月18日付

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2012年9月13日 (木)

安倍元首相 もう「教育再生」の幻想はごめんだ

 安倍晋三元首相が自民党総裁選への立候補を表明した。決選投票にさえ進めないと目される野党の党首候補を取り立てて論じる意義はないかもしれないが、小泉―安倍内閣下で進められた現場無視の教育改革に危機感を覚えて本ブログの立ち上げを構想し、最初の社説に「『教育界』に遺恨を残した教育再生会議」を掲げた本社としては、看過できない。

 安倍元首相は総裁選公約で、「安倍晋三6つの全力!」の一つに「日本の誇り 憲法改正・教育再生に全力」を挙げている。憲法改正は本社の守備範囲を超えているから是非は論じるまい。検証したいのは「教育再生」のみである。

 安倍元首相が教育再生で何をやり残したのか知らないし、公約には「改正教育基本法の理念の本格実現」だの「基礎学力の向上、高等教育の国際化」だの抽象的な文言が並ぶだけで、具体的に何をしたいのか分からない。「教育委員会制度や教科書検定・採択制度の見直し」「教員組合活動の適正化」は分かりやす過ぎで論じるにも値しない。

 ただ首相当時の教育再生会議が、教員・公教育バッシングを原動力に思いつきと既定路線を乱雑に並べただけのお粗末なものだったことを思い出そう。最近までたびたび言及されてきた中曽根康弘内閣の臨時教育審議会とは、比べものにならない。

 教育政策に関する安倍内閣の成果といえば、教育基本法や学校教育法の改正と学習指導要領改訂の方針決定、教員免許更新制の導入といったところであろうか。教基法や学教法については論点が多岐にわたるため、おいておく。指導要領に関しては、教育再生会議報告が政府公式文書として初めて「ゆとり教育」なる言葉を使い、今に至るまでの混乱を招いた。

 「ダメ教師には辞めて頂く」を旗印にした免許更新制の構想も、当時の伊吹文明文部科学相が防波堤となって中央教育審議会で「不適格教員の排除」を目的とするものではないと明記され、首相自身も国会でそう答弁書を読んでいたはずだ。どこまで法案を理解していたのかは分からない。事によると既に病状が悪化し、判断力が欠如していたのかもしれない。現在、第2グループまで更新が済んでいるが、選択はともかく必修は不評だ。何より免許が更新されて「自信を持って教壇に立つことができた」「保護者の信頼を得られた」という教員を、寡聞にして知らない。

 いじめ問題への対応も挙げるべきなのかもしれないが、対策が功を奏したのなら昨今のいじめ問題は起こっていないはずだ。現場の怠慢だ、自分たちが指示した通りにやらなかったから悪いのだ、とでも言うつもりか。実効性のない政策は政策と呼べないし、精神論は薬にもならない。

 いずれにしても、この人の「教育再生」路線には戦略も何もない。あるのは戦後教育への頭でっかちな偏見だけだ。右にせよ左にせよ、イデオロギーで是非を論じても現場の困難を打開する政策にはなり得ない。

 橋下徹大阪市長率いる「日本維新の会」とのつなぎ役を期待する向きもあろうが、橋下市長の方が上手だろう。おだてられ、利用されるだけだ。それでも憲法改正に道筋をつけられるならいいとでもお考えかもしれないが、新自由主義的な思いつきで大阪府市のみならず国の教育政策に茶々を入れられては迷惑だ。

 今は知識基盤社会に対応した人材育成に総力を挙げてまい進すべき時期である。いささか冷静さを欠いているとお叱りを受けることを承知で申し上げるが、安倍元首相は健康に留意して自重すべきだ。そうでないと、教育界に再び無用の混乱を招くことにしかならない。 

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2012年9月 2日 (日)

高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ

 本来なら1面トップ級になってもいいはずなのに、扱いが小さいか全く触れていない新聞さえあるのは一体どういうことか。平野博文・文部科学相が8月28日、中央教育審議会に諮問した「高大接続」のことである。長らく受験競争を中心に動いてきた日本の教育の実態が、一変してしまうかもしれないというのに。

 諮問事項は「大学入学者選抜の改善をはじめとする高等学校教育と大学教育の円滑な接続と連携の強化のための方策について」。同日の総会で「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」が答申されることに連動したものである。同時に「高大接続特別部会」の設置も決まった。

 諮問理由説明では留意点の一つとして「大学入試センター試験の在り方を含めた大学入学者選抜方法の改善方策」とあるので、過去最大のトラブルを受けたセンター試験の改革が主眼であるとの見方でもしているのだろうか。しかし今回の諮問は、そんな小手先の改革を求めているのではない。「高等学校教育、大学入学者選抜、大学教育の在り方を一体としてとらえ」るという部分こそが重要だ。「本来、大学入学者選抜も教育の一プロセス」だとすら言い切っている。課題となるのは、断じて「入試接続」ではない。高校と大学の「教育接続」である。

 ささいな変化にも注目しよう。2日後に開かれた中教審初等中等教育分科会で「質的転換」答申について説明した文部科学省の合田哲雄高等教育政策室長が、2008年12月の答申「学士課程教育の構築に向けて」(学士課程答申)を、同年1月の学習指導要領改訂答申が打ち出した言語力や思考力の育成を「さらに大学段階で伸ばすという観点から」汎用的能力や学士力を提言したものだと位置付けたことだ。

 改めて学士課程答申を読んでみると、実はその点が明示されていたわけではない。これまで初中教育と高等教育が協調して教育内容の改善を図ったということも、少なくとも表向きは聞いたことがない。知識基盤社会への対応という共通認識があったことは確かだが、全く別個に議論して同一方向にたどり着いたという方が実際のところだったろう。

 初中教育と高等教育が連携して改革を行わなければならないという認識が出てきたのは、実は最近のことだ。大学分科会の審議過程では大学生はもとより高校段階から学習時間が減少していることがデータから問題視されていたが、昨年発足していた初等中等教育分科会高等学校教育部会の委員4人が大学分科会と大学教育部会の合同会議に呼ばれたのは今年6月19日。それから、あれよあれよと高大接続の諮問につながった印象がある。

 もちろん下地として、6月5日に発表された「大学改革実行プラン」で示された大胆な入試改革の「転換」方針があった。伏線として、4月のセンター試験検証委員会報告を挙げてもよかろう。しかし何より、現行の大学「入試」を続けていては時代に対応した人材を育成できないという危機感があることを見逃してはならない。

 今回の「質的転換」答申は、個々の教員が自分の専門を基にした講義を受講した「単位積み上げ方式」で自動的に卒業認定する現状を改め、学士課程プログラム全体で学士力を育成することを求めている。極論すれば、専門教育は手段であって目的ではない。学問「を」学ぶのではなく、学問「で」社会で活躍できる力を身につけさせることを目指すものだ。

 同じことが、初等中等教育にも言える。現在の各教科の枠組みは相当する学問体系を基本としており、そうした「ミニ学問」の基礎を学べば全体として社会や大学に通用する力を身につけることができるだろう、という前提があった。しかし今や知識・技能の習得だけでは情報化の進む知識基盤社会に対応できないことが指摘されている。だからこその「PISA型学力」であり、新指導要領が求める言語力や思考力・判断力・表現力など「活用」の力だ。

 つまり初中・高等教育とも、社会で活躍できる「コンピテンシー(能力)」の育成がゴールとなる。その意味で、文科省が先に初中教育と大学教育を連続したものとして説明した「小さな変化」の意義は大きい。

 戦後の教育は、その理念に関わらず「いい大学へ、いい高校へ」という受験競争によって突き動かされてきた。そのため受験競争の緩和が、時々の教育改革の課題とさえなってきた。しかし少子化で実質的な「大学全入時代」が到来している今、ペーパーテストで1点を争う受験競争を続けていては弊害の方が大きい。そうした認識からの「高大接続」であり「大学入学者選抜」改革だ。受験競争が無になれば、受験対策にまい進してきた学校も転換を余儀なくされる。

  「どうせ無理だろう」と高をくくってはいけない。「第四の教育改革」が始まらざるを得ないと、本気で思っている。

 

【過去の社説】

大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない

「終焉」した大学入試に対応が急務だ

大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から

高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜

【関連本社配信記事】

教えて!「中教審に高大接続の新部会」

入試に依存した高校教育は衰退する―「高大接続テスト」提唱者・佐々木隆生氏に聞く―

いずれはセンター試験の存廃も課題に!?

1点刻みの「入試」は不要に? 全入時代の大学入学

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