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2013年2月

2013年2月 9日 (土)

全国学テ 公表の是非より尋ねるべきこと

 大阪府泉佐野市の千代松大耕市長が全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の学校別結果を公表する方針を表明していた問題で、下村博文文部科学相は2014年度以降の調査について関係者の意見も聴きながら公表できるようにするか検討すると表明した。

 それまで文部科学省は教育委員会に対して学校別や市町村別の結果を非公表とすることに文書確約を求めていただけでなく、泉佐野市の参加を認めない構えさえ見せていた。そうした姿勢から比べると、大きな方向転換である。

 しかしこれは単に公表を認めるかどうかという細かな修正にとどまらず、全国学テそのものの性格にかかわる重大な変更の可能性をはらむ問題だ。慎重な対応を求めたい。

 全国学テの創設を提言した05年10月の中央教育審議会「義務教育の構造改革」答申では、「学校間の序列化や過度な競争等につながらないよう十分な配慮が必要」としていた。市町村別や学校別の順位を出さないことは、制度設計前からの大方針だった。

 下村文科相が言うように「保護者や地域住民に対して説明責任を果たす」というなら、現行通り市町村が公立学校全体の、学校が自校の結果を公表することを認めるだけで十分だ。それ以上の情報公開を行うのであれば「結果」だけでなく、そうなった個別の事情も含めて「説明」するのでなければ公正さを欠こう。とりわけ個別学校の事情を公表するのは弊害が大きいことは、以前に指摘したので繰り返さない。

 市町村が個別学校の事情を改善したいのならば、内部での把握にとどめて粛々とてこ入れ策を講じればいいだけの話である。校内の事情なら、保護者らに直接説明すべきものであろう。わざわざ結果だけを公表する必要はない。

 一番の問題は、結果の公表を求める首長たちが、それによって学校の尻をたたこうとしていることだ。その裏には、学校現場に対する不信感があることは疑いない。

 もし首長の意見を聴くというのなら、ぜひ尋ねてもらいたいことがある。結果を受けて成績不振の自治体や学校にどれだけ予算面や人事面で配慮をしたか、である。発表せずに内部でこっそり行っている自治体があれば、それはそれで結構なことだ。ただ、そんな話は噂ですら寡聞にして聞かない。聞こえてくるのは、現場を責め立てるがなり声ばかりだ。

 文科省の専門家会議でも、全国学テの結果を格差解消のためのデータとすべきことに繰り返し期待が表明されている。全国学テの結果は、やはり成績不振の自治体や学校を支援するためにこそ活用すべきだ。

 千代松市長によると、7日に面会した文科省の布村幸彦初等中等教育局長は「市長の考えを形にできるような検討をしていきたい」と語ったという。順位を出すための「模試」にするのだったら、国営で行う必要などない。「貴重な予算を使って教育改善のために実施している」(下村文科相)のであればこそ、根本的な方向性を誤ってはならない。 


【全国学力テスト関連社説 バックナンバー】

全国学力テストは任意参加に(2008年2月20日) 

全国学テ再論 結果の公表は“消極的”に(2008年3月15日) 

全国学テ開示問題 だから任意参加にすべきだ(2008年8月18日)

全国学テ公表問題 そもそもデータに限界がある(2008年9月13日)

全国学力テスト 公立「全校参加」を惜しむ(2009年3月25日)

全国学力テスト 成績不振校から支援を(2009年4月21日)

新政権に望む〈3〉 全国学テは「抽出」より「任意」に(2009年9月17日)

概算要求〈2〉 抽出学テ 重くなる地方教委の責任(2009年11月3日)

全国学テ 参加率の高低は本質ではない(2010年3月 6日)

全国学テ中間まとめ案 総括になっていない(2010年7月26日)

全国学テ 市民性育てる理科教育を(2012年8月13日)

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【池上鐘音】不愉快な正義感

▼かつて在籍した専門紙は週刊ということもあって基本的に事件モノは追わないのが編集方針であったが、例外的にいじめ自殺事件の取材に投入されたことがある。その時の記者会見でフリーの在京リポーターが校長らを「業務上過失致死だ」と大声で詰問した光景が、今も忘れられない▼テレビ局側にしてみれば、最初から視聴者に成り代わって学校側の無責任さを責め立てる「絵」を撮る腹だったのだろう。しかし真相を追求すべき場がぶち壊しになってしまい、地元記者からも「ワイドショーが来てから学校側の対応がおかしくなった」という嘆きが漏れていた。20年近くたった今でもそのリポーターが映ると、当時の不愉快な感情がよみがえって即刻チャンネルを替えている▼なぜそのようなことを書いたかというと、先ごろ同じような取材を受けたからである。電話の主は隣県の教育問題に関して自らの疑問にこだわり、執拗(しつよう)に同じ質問を繰り返してくる。どういう手合いかは存じないが、行政に批判的な態度を取ることがメディアの正義だと信じて疑わない口調が2回目の質問で直観できた。しかし、こちらは行政当事者でも何でもない▼本社説は「根拠のない、無責任な論評はしない」ということを社是・編集方針の一つに据えている。まず正確な事実を確認することは取材者にとって欠くべからざる要件であり、事象を批判するにしても事実に基づいた説得力のある提言を目指しているつもりである▼これもまた専門紙時代、大手通信社で論説副委員長まで務めたOBから「記者は怒りを持つべきだ」と教えられた。当時は意味がよく分からなかったのだが、最近になって思うようになった。あくまで第三者の立場にある記者は、公憤を活動原理にすべきであると。ブログを立ち上げたのも、当時の小泉構造改革や安倍教育再生路線に対して何も発言しないのは逆に無責任だと考えたからだ▼だからこうした個人的な経験を書き連ねているのも、私憤からではないことをご理解いただきたい。教育問題は誰でも口が出せるだけに、無責任な言動はかえって混乱を広げる。有権者や聴取者におもねるばかりでは、責任や影響力のある立場にふさわしい人間とは認めたくない。

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2013年2月 1日 (金)

【池上鐘音】『鈴木先生』の希望

▼漫画版『鈴木先生』(武富健治作)を読んだのは、目当ての競輪漫画が『漫画アクション』誌(双葉社刊)に移った2009年3月からだった。ちょうど「@生徒会選挙!!」編が始まった号で、平成の時代にあって生徒会活動や演劇指導など古典的とも言える教育法が全面展開されていることに驚かされたものだ▼だから生徒の性行問題や教師のセクハラといった現代のリアルな問題を扱っていることはテレビ版『鈴木先生』(テレビ東京、2011年4~6月)で初めて知り、慌てて単行本を買いに走った。主役の長谷川博己の黒縁眼鏡姿が知己の編集者に似ていたため、理想的な女子生徒・小川蘇美に対する鈴木先生の妄想シーンが映るたび「やめろ、やめるんだF井先生~!」と妙な感情移入をしながら視聴していた▼原作物を映画化する場合、2時間ほどの尺に収めるためには大胆な構成も加えなければならない。そのため『映画 鈴木先生』(河合勇人監督)で、肝心の「鈴木式演劇指導」がすっぽり抜け落ちたのは残念だった。しかし子どもにせよ大人にせよ「普通」の人が追い込まれる今の社会に対して教育に希望を託すというメッセージは、しっかり伝わったように思う▼フランスの詩人アラゴンの「教えるとは希望を語ること」は教育関係者もよく引用する言葉であるが、必ずしも教育に希望が内在しているわけではない。教育にしか希望を託せない、というのが現実であろう。それも鈴木先生のように日々の極めて古典的な指導の積み重ねと時々の綿密に計算された発問によってこそ子どもの成長が促されるものであることを、世間にも理解してもらいたい▼消耗し、あらぬ妄想を抱えながらも踏みとどまって全身全霊で「先生」を演じながら希望を語ろうとする姿まで描かれているところに『鈴木先生』の真骨頂がある。必要なのは、そんな教師を応援することだ。ダメだのクソだのと罵倒して学校現場の尻をたたいたところで教育は良くなるどころか、逆効果しか招かない。

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