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2013年8月

2013年8月31日 (土)

「古い教科書観」のままでいいのか

 教科書採択作業が、9月16日の需要数報告期限に向けて大詰めを迎えている。今年度の採択をめぐっては一部都県の教育委員会が、高校から希望のあった実教出版の高校日本史にあった記述を問題視して別の教科書に変更させたり、条件付きで認めたりするなどの問題が浮上している。ここでは、あえて個々の是非は論じない。問いたいのは、教科書観そのものである。

 教科書に書いてあることに、間違いがあってはならない。間違ったっことが書いてあったら、子どもたちが間違ったことを覚えてしまう――。いまだにそういう「常識」にとらわれている人は多いのではないか。もちろん客観的事実を正しく記述する努力をするのは当然である。かつては誤字・脱字まで細かく検定していた時代もあった。

 しかし「雪国はつらつ条例」を「雪国はつらいよ条例」と誤記した教科書があったのが10年以上も前だったように、今や教科書も間違い得る存在である。ましてや事実の評価をめぐる記述であればあるほど、「正しさ」は揺らいで当然だ。

 近年の検定では政府の公式見解に沿った通りの記述を厳格に求める向きもあるようだが、これとてあくまで「一つの見解」であろう。公式見解しか知らず絶対視していては別の見解を持った他国の若者と対話のしようもなく、グローバル時代に逆行すると言ったら言い過ぎであろうか。

 そして何より問題なのは、いまだに教科書を「覚える」対象として捉えていることだ。もちろん基礎的・基本的な知識・理解に関しては一定の覚え込みも必要だろうし、そのことまでは否定しない。

 しかし、これからは知識の量よりも、知識を活用して正解のない課題を発見し、解決しようとする力がいっそう問われてくる。改正学校教育法や新学習指導要領でも思考力・判断力・表現力等の育成が重視されていることは言うまでもない。ましてや「21世紀型能力」の提言にみられるように資質・能力の育成をベースに教育課程改革を行っていこうという時代に、古い教科書観のままで対応できるのか。

 現政権にも、端々に古い教科書観が見え隠れする。「偏向した記述」をなくすため各教科書共通に記載すべき事項を文部科学相が具体的に定めると公約したり、道徳の「教科化」でも検定教科書を求めたりといった調子である。いまだに「修身」時代のイメージが抜けないのかと、いぶかりたくなる。

 教科書が「主たる教材」(教科書発行法)であることも否定するつもりはない。しかし「主」であるということは、必ずその通りに教えなければならないということを意味しない。ましてや今後、教科書のデジタル化が浮上してくればテキストそのものが相対化されていこう。あふれる情報の中から必要な知識を取り出し、判断する力が問われているというのに、教科書の記述を1行たりとも信じて疑わない子どもを想定していては、先が思いやられる。 

 教科書「を」教えるのではなく教科書「で」教える、とは教育界に古くからある言葉だが、知的基盤社会の時代にこそ重要性を増す警句だろう。使用する教科書を希望する学校側も、採択権を持つ教委も、そうした時代にふさわしい授業が展開できる可能性を秘めた教科書を選定すべきだ。

 さまつな表現ぶりしか目に入らない文字通りの素人さんの言うことに、真面目に耳を傾けている場合ではない。事は高度な専門性が要求される話なのだ。

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