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2016年5月

2016年5月11日 (水)

馳「ゆとり決別宣言」は間違いだ

 馳浩文部科学相が10日、「ゆとり教育との決別宣言」(教育の強靭化について)を発表した。次期学習指導要領を控え、学習内容の質と量の問題をしっかり説明するためだという。しかし、かえって世間にはびこる誤解を定着させるばかりか、教育課程行政はもとより文教行政全体にとっても悪影響をもたらす。あえて撤回を求めたい。

 もっとも、明らかにされたペーパーは「決別」という割に新味はない。ゆとりか詰め込みかの二項対立から脱却することは、現行指導要領の基となった2008年1月の中央教育審議会答申にも書いてある。「学習内容の削減を行うことはしない」と明記されている点も、昨年8月の中教審教育課程企画特別部会「論点整理」で「現行学習指導要領の各教科等との授業時数や指導内容を前提としつつ」とあるのと、意味はほとんど同じだろう。

 ただ、微妙かつ重大な違いがある。08年答申は「ゆとり」か「詰め込み」か、になっているのに対して、決別宣言では「ゆとり教育」か「詰め込み教育」か、となっているのだ。

 管見の限り文部科学省が公式文書で「ゆとり教育」という用語を使ったのは、これが初めてだ。広く政府全体で言えば、第1次安倍内閣下の教育再生会議が07年1月の第一次報告で「『ゆとり教育』を見直し」としたのが唯一ではなかったか。

 文科省はこれまで、自ら進める教育課程政策を「ゆとり教育」と呼んだことはなかった。少なくとも初等中等教育局担当者の認識はそうだったし、「実は文科省は、世の中で言われている『ゆとり教育』を放棄したわけでは全然ない」というOBの証言もある。ましてや「ゆとり教育」の誤りを認めて「脱ゆとり教育」に政策転換した、などというのはマスコミ報道が創り出した言説、ストーリーにすぎない。

 馳宣言の遠因になったとみられる4月の日本経済新聞コラムは、「新・ゆとり」という前川喜平・文部科学審議官の言を紹介している。「語弊を恐れずに言えば」(前川審議官)その通りだ。世間が「ゆとり教育からの転換」「脱ゆとり」などと呼んでいた教育課程政策は、「ゆとり教育」と呼ばれていた路線の本質に何の変更もなかった。単に学習内容の一部や授業時数を増やしただけで「方針転換だ」などと叫ぶのは、「ゆとり」の意味さえ理解できていないことの証左である。

 「ゆとり教育」も「脱ゆとり」もマスコミ用語なのだから、その限りで行政的には無視していい。だからこそ08年答申は、あえて二項対立からの脱却を打ち出したはずだ。それなのに馳大臣は、あえて自ら「ゆとり教育」のストーリーに乗り、決別の裏返しで「ゆとり教育」そのものを公的に認めてしまった。「全否定ではありませんよ」(閣議後会見)などと付け加えても、報道されるわけがない。

 「論点整理」が早々に学習内容を削減しないことを打ち出したのも、「ゆとり教育批判」の再燃を恐れたからだとみられる。担当者の気持ちは分からないでもない。しかし、それが逆に学校現場を窮地に陥らせることに思いは至らなかったのか。ましてや現場の「疑心暗鬼」に応えるという馳大臣の説明は、逆に不安と混乱を広げることになろう。

 馳大臣はもっと慎重で、物事を深く理解している人だと思っていた。しかし今さら「ゆとり教育」論のリングに上がるのは政治家のパフォーマンスとして喝采を浴びる計算だったかもしれないが、責任ある文科相の立場としては不適切だ。古傷を突いて鮮血を飛び散らせるのは、プロレスだけにしてほしい。

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