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2017年1月

2017年1月 3日 (火)

新指導要領(1) 壮大な未完の「転換」

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会の答申が、昨年12月21日にまとまった。諮問から2年余り、前段の「育成すべき資質・能力」検討会を含めれば4年にわたる大掛かりな改訂である。文部科学省事務局の膨大かつ緻密な作業と粘り腰には、中教審委員ならずとも労をねぎらいたい思いがする。当初から注目してきた通り、総論には大賛成だ。しかし3月に小中学校の告示を控えた今、無念さと懸念が募る。

 次期指導要領は、これまでの「延長」なのか、「転換」なのか。当の文科省は、転換という言葉を嫌っているらしい。確かに指導要領の「構造化」は前回2008年改訂以来の課題だったし、1998年改訂から掲げた「生きる力」、ないしは臨時教育審議会答申を受けた89年改訂の「自己教育力」―あえて「新学力観」は留保しておこう―を継承したものであることも確かだ。

 そもそも「生きる力」とは、どうすれば育成できるのか。今までの指導要領ではその点が必ずしも明確ではなく、その解釈も実践も学校現場に任されていた。その脇の甘さは「新学力観」時代からのネックであり、それゆえに、いわゆる「ゆとり教育批判」にも足元をすくわれた。

 だからこそ本社は、「資質・能力」シフトを掲げた今回の改訂に大きな期待を掛けていた。これによって、ようやく21世紀型の教育に向かって具体的なスキル育成に乗り出せるとともに、08年の中教審答申で指摘されていた「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立から脱するだけでなく、二項対立そのものを無化できると考えたからだ。そのように位置付けてこそ、90年代の「受験競争の緩和」にとどまらない「(狭い)学力」偏重も是正できたろう。

 とりわけ資質・能力検討会が切り開いてくれた「21世紀型」の地平は、過去と未来の指導要領に現実的な結節点を見せてくれたように思った。コンピテンシー(資質・能力)の深い学びにはコンテンツ(学習内容)や教科ならではの学びが不可欠だというのも、その範囲内で大いに同意できる。多少強引と思えなくもないトップダウン式の審議会運営も、大転換のための必要悪としてなら黙認できた。

 しかし今回それを逆手に取って学習内容の削減を「一切」行わないという方針を、さほどの議論もなく既定路線として誘導したのは問題だ。今でさえ次期指導要領の理念が現行時数でこなし切れるのか、現場からは懸念が出ている。

  文科省事務局は、よほど「ゆとり教育批判」の再燃を恐れているらしい。「脱ゆとり教育宣言」が極めて永田町・霞が関ムラ内のお家事情で発せられたとはいえ、文科省自身が二項対立に捕われていることの査証にしかならない。

 そもそも現行の学習内容を、無条件に認めたままでいいのか。各教科では、極論すれば「親学問」のミニ版を改訂のたびごとに足したり引いたりしてきたにすぎない。無藤隆・中教審教育課程部会長は扱いに「メリハリ」を付けることを提唱しているが、次期指導要領にも明記されるのか、少なくとも答申上の保証はない。

 残念だったのは、14年6月で実質上打ち切られた高等学校教育部会の「審議まとめ」で提唱された「市民性」(シチズンシップ)の論議が一向に深まらなかったことだ。「コア」は高校教育にとどまるべきものではない。教育が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法1条)の育成を期すというなら、市民(シチズン)としての判断に資する知識とは何かが本格的に検討されなければならなかった。アカデミーに進むための知識は、あくまでオプションだ。

 今回の改訂は、文科省による机上プランでしかない。それも八方美人的な政策判断をさんざん重ねた上に、だ。「カリキュラム・マネジメント」の美名の下、全ての課題解決を押し付けられる学校現場はたまったものではない。

  今こそ教育現場と研究者の総力を挙げて次期指導要領を実践的に検証し、改革提言を行うべき時だ。それも自主編成だの教育の条理だのという時代遅れではない、エビデンスに基づいた未来志向と社会連帯の教育課程論議を、である。今すぐ着手してこそ、やっと2030年改訂での「転換」が展望できよう。少なくとも今回は、さまざまな点で「未完」と言うべきである。

 

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