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2018年11月23日 (金)

平成教育史・試論 教育課程〈上〉 「ゆとり教育」論を超えて

 天皇の代替わりが近づくにつれ、平成史を振り返ろうという企画が各紙で相次いでいる。教育に関しては、当然「ゆとり教育」が重要なキーワードの一つとなろう。ただ、これまでの報道ぶりを見ると、よくまとめているなと思う反面、隔靴搔痒(そうよう)の感も否めない。

 これに対して先輩記者・教育ジャーナリストである矢内忠氏の「平成の学校教育30年史」(時事通信社『内外教育』連載中)は平成の教育、中でも「ゆとり教育」研究の基本的文献となるべき論考だ。とりわけ学力低下論の影に経済産業省の存在があったこと(4月10日付)は、他にほとんど指摘されていない。

 その上で論じるのは蛇足以外の何物でもないのだが、かねて「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」という用語を使うべきではないという立場を取る本社としては、斜に構える本領を発揮して別の角度から未来志向の平成教育史を展望しておきたい。

 もっとも文部科学省は2016年5月の文部科学相メッセージで、それまで慎重に避けてきた「ゆとり教育」を行政用語として解禁してしまった。だから教育マスコミの端くれの端くれである本社も、本来は「ゆとり教育」をカギカッコ無しの用字用語として認めるべきなのだろう。それでもなお「ゆとり教育」は適切ではなく行政として撤回すべきだし、社会現象としてはともかく教育政策を分析する用語としても不適切である、という見解に変わりはない。

 そもそも先の文科相メッセージに、「ゆとり教育」の定義はない。「『ゆとり教育』か『詰め込み教育か』といった、二項対立的な議論には戻らない」と、否定的な文脈で使っているだけだ。08年1月の中央教育審議会答申で「『ゆとり』か『詰め込みか』」としていた文章に「教育」を付けただけだとも言えなくもない。

 確かに文部科学省担当者は口頭で、「『ゆとり教育』には戻らない」と明言することがある。それだけに文科省が「ゆとり教育」の過ちを認めて「脱ゆとり教育」にかじを切ったというストーリーは、いっそう確からしく耳に響く。

 しかし繰り返すようだが、「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」には今もって文科省にすら定義がない。そのため、使う人によって意味内容が違ってしまう。それでは議論がかみ合いようもないし、平成教育史から教訓を得ることもできない。

 その点、矢内氏が先の連載で銭谷眞美・元文部科学事務次官から「私は『ゆとりと充実』の指導要領の時から、教育の問題を考える際の基本構図はずっと変わらないと思っている」という発言を引き出したのは貴重だ。

 実は文科省は、方針転換などしていない。授業時数や授業内容の増減だけを言うなら方針転換と呼べるかもしれないが、学習・授業の質の改善という点では頑固なほど一貫している――というのが、本社の見方だ。

 しかし、そのこと自体が今回の改訂を受け止める現場に混乱をもたらし、ますます疲弊させるのではないか。そればかりか、世界的潮流を受けた未来志向の教育に一刻の猶予もないはずなのに、かえって禍根を残す結果を招くのではないかという危惧さえ抱いている。今後、改めて展開したい。

【過去の社説】
もうやめよう、「ゆとり教育」論議
高校新指導要領 「脱ゆとり」どころではない
高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな
馳「ゆとり決別宣言」は間違いだ

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