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2019年4月

2019年4月28日 (日)

【池上鐘音】アートの共犯者

▼連休初日の27日、東京・上野では『クリムト展』や『国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅』展でさえ待ち時間なしで入れたのに、西新宿では16時半の段階で100人以上がたった1枚の絵を見るために20分待ちの行列を作っていた。都が第一本庁舎2階で開催した『バンクシー作品らしきネズミの絵』だ▼同絵をめぐっては都が本物かどうかバンクシーに連絡を取ったものの、反応がないという。それでも公開に踏み切った都の判断には賛否両論あるようだが、真贋(がん)は関係ないと本社は考える▼所有者や管理者に断りもなくストリートにスプレーやマーカーなどを使って表現されるグラフィティは多くの場合、犯罪行為だ。一種の暴力とさえ言える。しかしその犯罪的・暴力的行為が、時に市民や所有者にさえ歓迎される。そんなアートの力を如実に示したのがバンクシーだ▼バンクシーと言えば昨年10月のオークションでシュレッダーを内蔵した『愛はごみ箱の中に』で大いに話題となったが、イスラエル西岸地区の分離壁に描いたシリーズでも知られる。小さな暴力が大きな暴力を告発する、アートの真骨頂と言えるだろう▼芸術は鑑賞されてはじめて成立する。とりわけ現代アートには、鑑賞者の積極的な関与を促す作品も多い。そうであるなら違法作品を保存した段階で都はアートの共犯者となったのだし、公開した段階でアートの主宰者に昇格したと言えるのではないか▼もちろん行列に並び、あまつさえSNSに写真をアップして嬉々としている人々も共犯者だ。文章で表現している本社も例外ではない。「本物だったらいいね」などとほざいている日本人は、チコちゃんに叱られるよりバンクシーに冷笑されるかもしれない。

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2019年4月22日 (月)

初中教育諮問〈1〉 “つまみ食い”にはするな

 柴山昌彦文部科学相が4月17日、中央教育審議会に「新しい時代の初等中等教育の在り方について」を諮問した。まずは“包括諮問”にこぎつけたことを評価しておこう。

 今回の諮問は、1月に答申のあった「学校の働き方改革」論議の延長戦という側面も持つ。小学校への教科担任制導入も、答申の「今後更に検討を要する事項」に入っていた。

 本社は当時、働き方改革答申の是非を論じなかった。本職の記事配信に忙しかった事情もあるが、評価を保留したというのが正直なところだった。教職員定数の改善など抜本策が打ち出されない限り、答申の提言が絵に描いた餅にしかならないことは目に見えている。しかし文科省が現段階での限界を自覚した上で、次の諮問に期待をつないだのだとしたら別だと考えた。

 通級と日本語指導の加配定数を10年掛けて基礎定数化する“なんちゃって改善計画”を除けば、本格的な教職員定数改善計画は前次終了以降10年以上も策定されていない。答申に従えば次の勤務実態調査まで3年以上も学校現場に業務削減の無理を強いることになるが、状況の打開策を検討するにはそのくらいの時間を要することも致し方ない。

 だからこそ、今回の包括諮問を“つまみ食い”してはならない。諮問理由には、検討事項として25項目が挙げられている。働き方改革答申はもちろんだが、それ以外も既視感が拭えない項目が多い。要するに一見、教育再生実行会議をはじめ政府の提言・検討案や過去の省内提言を寄せ集めたようなものばかりだからだ。

 もちろん、それを有機的に組み合わせることで新たな展開が期待できるものもある。小学校の教科担任制がそうだろう。あえて「義務教育9年間を見通した」という一文を指導体制にも教職員配置・免許制度にも付けているのは、単なる枕詞であるはずがない。

 もっと言えば「義務教育9年間」は、教科担任制の導入などを踏まえた「教育課程の在り方」にも係ってこよう。「義務教育、とりわけ小学校において、基礎的読解力などの基盤的な学力の確実な定着に向けた方策」という検討項目も匂う。9年間をどう区切り、そのための指導体制と教職員配置、さらには小・中に分かれている免許はどうあるべきかまで展望しているに違いない。

 その上で、あえて指摘しよう。そんな“つまみ食い”では駄目なのだと。

 本社は先に、「次期」学習指導要領ではコンピテンシー・ベースへの「転換」を図るべきだと主張した。標準時数を大幅に上回る授業時数の削減を求めた文科省の姿勢も批判した。そうしたことも含めての「教育課程の在り方」の抜本的見直しでなければならない。基盤的学力が必要だからといって学習内容の「習得」を強いること自体をも再検討する必要がある。

 唯一手放しで評価するとすれば、「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方」を独立した柱に掲げたことだろうか。これも単に外国人労働者の増加に対応した政府方針の忖度(そんたく)にとどめず、内なるグローバル化、市民性の育成による国内融和に貢献するものとして大いに議論を深めてもらいたい。

 もう一つの柱である高校教育の在り方にみられる通り、実行会議などの下請けでは栄えある中教審の名が泣く。17日の自由討議もメモを取る気が失せるほど低レベルだったが、発言を控えた委員、これから始まる初等中等教育分科会の臨時委員も含め奮起を促したい。個別の論点に関しては、折に触れて論じよう。

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2019年4月 9日 (火)

授業時数見直し 矛盾した行政のツケを回すな

 新学期が始まっている。文部科学省は昨年度末に2018年度教育課程編成・実施状況調査の結果を公表するとともに、標準授業時数を大幅に上回る学校の年間授業計画を見直すよう都道府県教委などに通知した。

 矛盾した指導行政のツケを、これ以上学校現場に負わせるのか。ぜひとも姿勢を改めてもらいたい。

 そもそも現場で標準を大幅に超える授業時数が横行した淵源(えんげん)は、1998年告示の「平成元年改訂」学習指導要領が「ゆとり教育」だと批判されたことを受けて文科省が突然「指導要領は最低基準だ」と言い出したことにある。それまでは標準はあくまでも「標準」であって、結果的に下回ったとしても誰も問題にしなかった。それが、学力向上の要請とも相まって現場は授業時数の確保に追われた。

 一方で文科省は08~09年告示の指導要領で学習内容を増やたばかりか、17~18年告示の新指導要領では「学習内容の削減を行うことは適当ではない」(16年12月の中教審答申)と宣言しつつ小学校英語分の標準時数を増やし、プログラミング教育や統計教育など実質的な学習内容の増加を図った。ただでさえアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)には授業時数が必要なのに、である。

 これまで過労死ラインを超えてまで標準を越える授業を実施し、教科書を終えるので精いっぱいの指導要領をこなしながら学力を向上させてきたのは、外ならぬ学校現場だ。文科省も、それは分かっていよう。

 確かに「学校の働き方改革」をめぐる今年1月の中教審答申では「指導体制を整えないまま標準授業時数を大きく上回った授業時数を実施することは教師の負担増加に直結するものであることから、このような教育課程の編成・実施は行うべきではない」と言っている。しかし、この文章自体が文科省事務局の主導でまとめられたものだ。しかも、「指導体制を整えない」責任は誰にあるのか。

 もちろん現下の財政事情で、簡単に教職員定数の改善が図れないことは理解できなくもない。単年度改善の努力を重ねていることも分かっている。しかし、加配定数の基礎定数化をもって「16年ぶりの教職員定数改善計画が策定できた」などというごまかしは言ってほしくない。

 本来は今回の改訂で、標準時数や学習内容の「扱い」も抜本的に改めるべきであった。それをしないばかりか、コンテンツ(学習内容)ベースからコンピテンシー(資質・能力)ベースに転換したのかどうかさえ、あえて曖昧にしている。指導要領自体が無理と矛盾を重ねていることに、もっと自覚的であるべきだろう。

 政府部内のさまざまな矛盾する要請に必死で応えようとしている文科省の苦しい立場も、十分理解しているつもりだ。だからこそ行政的な割り切りで通知を流すようなことは、してほしくない。

 

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