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2019年8月

2019年8月15日 (木)

終戦記念日に 「自由」の危機まん延を憂う

 今月初めに予定していた公開シンポジウムの取材を、前日になって編集部と相談の上で取りやめた。主催者側から、あくまで事前の原稿チェックを求められたからだ。

 取材先から原稿確認を求められることは、しばしばある。掲載媒体によっては応じることもよくあるが、それはあくまで発注先の編集部判断である。今回は新聞協会加盟社の発行する題字を背負っていたため、報道の自由を守るためには検閲につながる一切の要求を容認することはできなかった。

 問題なのは、今回の主催者が某国立大学の研究センターだったことだ。学問の自由を守るべき大学の一部門が、報道の自由に鈍感だということを看過すべきではない。

 あえて難癖を付けたのは、いま自由と平和に対する危機がまん延しているように思えるからだ。某政治家の「戦争しないとどうしようもなくないですか」を持ち出すまでもなく、今や過去の敗戦に想像力も至らず、戦前・戦中に自由が制限されてきた歴史さえ顧みない世代が社会の中心を担ってきている。

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由・その後」の一件にみられる通り、表現の自由そのものを問うた企画に対してさえ表現の自由の乱用だと疑義が向けられた。それだけでなく、「市民の血税で日本人の心を踏みにじっていいのか」と某首長が言ったり、「日本人に対するヘイト(憎悪)」などと主張する報道機関さえあったりするしまつである。

 危機というのは、個別具体の自由が制限されることの積み重ねだけではない。その制限を許容する雰囲気が広く世間に醸成されていることだ。学問の自由に敏感であるはずの大学、しかも教育学系の研究センターでの鈍感さも、その一端と言えよう。

 公金を支出する以上は表現の自由も制限されてよいという論理を許容するなら、国の助成を受ける以上は国の方針に反する研究もできないという批判に応じざるを得なくなる。ただでさえ研究者個人の自由な研究ができにくい環境が進行する中で、自由への鈍感さが自らの首を絞めかねないということに想像すら至らないとしたら背筋が寒くなる。

 もっとも先の研究センターにしても、本社古巣の業界紙のように事前チェックにほいほいと応じるメディアがあってこその勘違いであろう。それも、報道の自由が戦後も徹底されなかった証左とみることもできよう。その上で、業界紙基準を一般紙にも強いて平然としている無自覚さにこそ戦慄せざるを得ない。

 安倍首相がひた走る「お試し改憲」も、それが蟻の一穴となって次々と市民的自由に制限が加えられる改悪が繰り返されかねない。実は今、それを受け入れる土壌が着々とできつつあるのではないか。

  今こそ唯一の希望である教育で、自ら考え自主的に判断し主体的に行動できる市民を育成しなければならない。しかし教員養成大学には教員免許更新講習以来、国の方針を無批判に前提とする教育・研究が常態化してきている。それが現場をますます苦しめる結果となりかねないのに、である。その上に大学教員の養成を掲げる最高学府が学問の自由にさえ鈍感になってしまったとしたら、絶望感しか抱けない。

 

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