« 2021年1月 | トップページ | 2021年3月 »

2021年2月

2021年2月19日 (金)

主権者教育と憲法改正 常軌を逸した座長発言

 どんなに偉い政治評論家かは知らないが公の場、しかも文部科学省の会議での発言として許されるものだろうか。19日に開催された主権者教育推進会議での、座長を務める篠原文也氏の発言である。

 篠原座長は「個人的意見」と断りながらも、早期からの主権者教育を行った上で、それでも若者の投票率が上がらない時は、憲法を変えてでも投票の義務化を打ち出すことも将来的な検討課題になる、というようなことを打ち出したい意向を表明した。

 実は同趣旨の発言は前回会合でもあって、ああまたこの人の与太話が始まったな、それに付き合わされる文科省事務局も大変だな…と同情していた。しかし今回、総務省に「主な投票義務制採用国」の資料を提出させて再度の発言をするに及んでは看過できない。

 もっとも同時に出された最終報告案には、そうしたことに一切触れてはいない。それはそうだろう。座長本人も「ここで投票を義務化すると打ち出すのではなく」と前置きした上で、先の発言を繰り返した。

 篠原氏は中央教育審議会委員などとして、事あるごとに高校以前からの主権者教育を主張してきた。それも「家庭教育のコラボ」という、意味があるのかないのか不明な主張とセットでである。それに対して誰も表向き異論を差し挟まないものだから、本人の中では既定路線になっているのだろう。事実、最終報告案には「家庭・地域における主権者教育の充実について」の項目がしっかり設けられている。

 結果的に当たり障りのない提言するに落ち着くにしても、少なくとも座長個人が主権者教育と憲法改正を結び付けたがっていることは明らかだ。それも権利としての投票を義務化という、憲法の理念を根本から揺るがしかねない話を持ち出してのことである。それを教育政策、しかも主権者教育の充実というマニアックな課題を検討する有識者会議でするという軽さを、与太話では済まされない。

 そもそもこの人は、誰にねじ込んだのかは知らないが2009年から10年間の長きにわたって第6~9期の中教審委員に居座り、何の意図があるのかは知らないが19年からの第10期でも初等中等教育分科会の臨時委員として学校教育に関して要所ににらみを利かせた発言をしている。どれほど偉いのかは知らないが、事務局も腫れ物に触るような政治家級の扱いである。

 何につけても家庭教育とのコラボだの教科書はデジタルが進んでも紙が基本だのと言っている分には、まだいい。しかし今回は、常軌を逸していると断じざるを得ない。

 そもそも現在検討されている最終報告案は、投票行為が主権者教育の「出口」としての側面を有するとし、これと対比させる形で主権者教育の「入口」は社会の動きに関心を持つことにあると位置付けている。これでは、主権者教育を「投票教育」に矮小化するだけではないか。せっかく「はじめに」で経済協力開発機構(OECD)の「エージェンシー」(変革を起こすために目標を設定し、振り返りながら責任ある行動をとる能力)に触れているのに、である。

 ましてや「投票教育」の成否で憲法改正も将来的な検討課題になるとは、とことん発想が逆転している。というより、成人年齢引き下げの転倒した議論を象徴するものだと言ってもよかろう。教育界が、そんな与太話に付き合う義理も暇もない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0)

2021年2月 7日 (日)

中教審初中答申 時期逸した「文学」の言葉

 本社は昨年8月の社説で、中央教育審議会の答申骨子案を「『虎ノ門文学』の最高傑作になりそうな予感がする」と書いた。その後すぐ安倍晋三首相が退陣するとは思ってもみなかったし、ましてや後を襲った「鉄壁の」菅義偉首相の支持率が乱高下することなど想像すらできなかった。

 第10期の任期に合わせるという「お尻」が切られる中でも大幅改定して緊急出版したものの、刊行のタイミングが時流とズレてしまった――1月26日の答申を評するなら、こうなろうか。

 そもそも「文学」に例えたのも、盤石と思われた安倍政権の下では「イソップの言葉」(レーニン)でしか語れないと思ったからだ。だからこそ「官邸の力が強く、政権に忖度(そんたく)しなければならない中にあって明治以来の三流官庁としての矜持(きょうじ)をよく保ったものだ」と評価した。

 象徴的な出来事があった。答申のサブタイトルにも使われた「個別最適」な学びをめぐって、経済産業省の浅野大介・サービス政策課長(教育産業室長)が「最近は自律調整型の学びと言い換えるようにしている」(昨年12月の「超教育協会」オンラインシンポジウム)というのだ。

 「個別最適化学習」の始まりは18年6月、文部科学省の「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告と、経産省「『未来の教室』とEdTech研究会」第1次提言だった。というより経産省主導の色合いが濃かったことは、GIGAスクール構想も含めたその後の経緯を見れば明らかだ。

 もともと個別最適化学習の「学習」は、昨年10月の中教審教育課程部会で溝上慎一・桐蔭横浜大学長が発表した通り人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことである。つまりは「教育の言葉」ではない。そこまで明らかにされながらも中教審、というより文科省事務局は一部委員の懸念を聞き置き「個別最適」で通した。しかもイソップの言葉を捨て去ってもよさそうな時期に、である。

 言い訳はある。「個別最適な学び」とは、「『個に応じた指導』(指導の個別化と学習の個性化)を学習者の視点から整理した概念」だというのだ。だったら、なおさら教育の言葉で「指導の個別化と学習の個性化」と言えばいい。

 考えてみれば「令和の日本型学校教育」という扇の要のような総論がなかったら、総花的な答申に終始せざるを得なかったろう。1人1台端末にしても小学校35人学級にしても棚ぼたのように実現したもので、中教審での論議とは何の関係もなかった。すべては新型コロナウイルス感染症という奇禍が、奇貨に転じたものだ。

 間もなく発足する第11期中教審では、教員の養成・採用・研修が初等中等教育の中心テーマに浮上しそうな雰囲気である。元々は第9期の「働き方改革」答申の延長戦として初中教育の「包括諮問」がなされたはずだったが、これに対しても無力だったことが露呈してしまった。「教育」の論議をどう取り戻すか、今後の重い課題だろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0)

« 2021年1月 | トップページ | 2021年3月 »