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2021年10月

2021年10月17日 (日)

【池上鐘音】誤解をまき散らしたのは

▼毎週木曜日に発行される週刊誌の短信欄に、珍妙な記事が載っていた。あまり大砲を打たない方の雑誌だ。いわく「まだ続いていた『ゆとり教育』 次は“総合的な探究”だって」。いかにも同誌らしい▼記事は一応「ゆとり教育は公式な呼び名ではなく」などという「文科省担当記者」の解説を基にしているのだが、最初から見出しありきだから教育関係者にとって噴飯ものでしかない▼おまけに反ゆとり教育で鳴らした精神科医が「かつて、ゆとり教育を強行した文部官僚の後輩がいまも文科省に残っているのです」などと訳知り顔でコメントしているのには、あきれるばかりだ。年次の若い後輩が役所に残っているのは、当たり前だろうに▼それでも世間一般の認識は、こうした類いと五十歩百歩なのだろう。文科省は「ゆとり教育」の誤りを認めて「脱ゆとり教育」に改めたはずなのに、何をやっているのかと。文部科学相時代そんなイメージをまき散らした張本人が、ようやく引退を表明した▼中山成彬氏といえば精神科医氏や「ゆとり教育を強行した」らしい先輩氏と同じラサール―東大出で、元大蔵官僚という超エリートである。しかし大臣の時もその後の国会質問などを聞いても、この人からは見識のかけらも感じられなかった▼当時お国入りなどでの大臣発言をまともに信じれば、総合的な学習の時間はとっくに廃止されていたはずである。どっこい総合学習や総合探究は、新学習指導要領でますます重要性を帯びている▼麻生内閣で国土交通相に就任した時は、成田空港などをめぐる舌禍ですぐ辞任を余儀なくされた。その際、全国学力・学習状況調査(全国学調)についても都道府県と日教組の「強さ」との関係を調べる調査だとぶち上げて世間に波紋を広げた。これまた珍説でしかないのだが、世間には真面目に受け止める向きもあって本社も迷惑した▼本欄でも当時この人の問題発言を論じ引退も主張した。それから丸13年、よくも政治家を続けられたものだと逆に感心する。本来は去り行く人に罵声を浴びせるのはつつましくないが、この人に限っては二度と教育に関わる発言をしないでほしいと強く願う。

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2021年10月12日 (火)

【池上鐘音】踏み入れない余白のきれい事

▼11日のNHK連続テレビ小説『おかえりモネ』は、現地の気仙沼で見た。それまで見慣れなかった港の風景にも、急に親しみを覚えるから不思議だ。もっとも公共施設「創 ウマレル」 にコミュニティーFMはあったが、気象予報会社の支社は期限の2年を待たず撤退したようだった▼同ドラマをめぐっては、分かりにくい、暗いという批判もあるようだ。それは、脚本家の安達奈緒子氏と主演の清原果耶さんはじめ俳優陣の計算され尽くした繊細さに起因するものだろう。それが朝ドラにふさわしいかどうかは別として、 視聴者にも芳醇な余白を読む力と創造力が求められる。まるで優れた日々の教育実践を味わうように▼しかし現実の人間関係も、ドラマに負けず繊細なものではないか。たとえ親子きょうだい、無二の幼なじみであろうと口にできない言葉や葛藤を抱えていても不思議はない。ましてや震災のような、激烈な経験を経ていたとしたら▼2011年3月19日の朝日新聞朝刊「天声人語」に引用されたエミリー・ディキンソンの詩が、今も忘れられない。「失意の胸へは/だれも踏み入ってはならない/自身が悩み苦しんだという/よほどの特権を持たずしては―」(中島完訳)。10年後に整備された街をのうのうと観光する身には、主人公に妹が言うせりふ「お姉ちゃん、津波、見てないもんね」が自分の胸にも突き刺さる▼先週は、元小学校教師の母が抱えた震災時の苦悩が描かれた。これについても数年後のこのこ取材に入った身に、偉そうな論評をする資格はない。ただただ、困難な中で子どもたちに寄り添った先生方の凄さを思うばかりである▼もう一つ印象的なせりふに、主人公が幼なじみの一人と母の元教え子に相次いで言われた「きれい事にしか聞こえない」「きれい事っぽい」がある。しょせん業界紙出身で意気地のない教育専門ライターは、きれい事を書くしか能がない。かつそれが、たとえほんのわずかでも先生方の苦悩に報いることができるかもしれないという一縷(いちる)の望みを抱いている。

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2021年10月 4日 (月)

教師の人材確保策 これも期待薄の論議だ

 文部科学省が、中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会の審議まとめ案「『令和の日本型学校教育』を担う新たな教師の学びの姿の実現に向けて 」の意見募集を実施している(30日まで)。に論じた通り基本線は「最悪」なままだから多くの批判が集まることを期待したいし、財務省もぜひ概算要求の研修履歴管理システム調査研究費をゼロ査定としてほしい。

 今回論じたいのは、そのことではない。審議まとめ案の部会長一任を取り付けた9月27日の中教審特別委員会に示された事務局資料「優れた人材確保のための教師の採用等の基本的考え方」である。3月の諮問は「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」だから、やっと本丸の議論で第一歩を踏み出したというところだ。

 事務局資料では、教師の人材確保をめぐる現状と、それに対する「主な論点例」が示されている。例えば「学校現場における経験を重視した養成・入職モデル①」の論点例では「教職課程で学ぶ学生が、学習指導員等として学校現場を経験しながら、従事先の学校教職員や所属する大学の教職課程の担当教職員、同じ活動に参加する他の学生などからのフィードバックを受けつつ、理論と実践を往還した学びを深めることが有効と言えるのではないか」としている。単独で見れば結構なのだが、教職課程全体の見直しや実習先の学校での指導体制が整わなければ教員養成自体のブラック化を招きかねない。

 もっと問題なのは、「社会人等の登用を促進するための免許・採用の在り方(教師以外の学校関係職からの教職への転換)」の論点例だろう。「多様な人材を教職へ呼び込む観点から、教職課程を履修していない(在学途中に教職への志を持つようになった)現役学生も含めて、まず学習指導員等として学校現場に関わりを持つ職に採用された後、特別非常勤講師などで必要な知識経験を積み、それらの経験を加味して、免許状を取得し、教職に転換することも考えられるのではないか」としている。

 確かに多様な人材を登用する流れは、1月の答申を持ち出すまでもなく既定路線化されている。しかし、これは教員に憧れを抱く社会人や学生を無償ないしは薄謝の有償ボランティアとしてブラック職場に招き入れようとするものではないか。しかも安易に免許状を餌するのでは、教員の質の低下も心配になる。

 学校現場をブラック扱いとは、およそ教育専門ライターの書くことではないのは重々承知している。ただ、世間からそう呼ばれてもおかしくないほど現場実態は悪化しているのも事実だ。おまけに教員免許更新制の「発展的解消」に伴い研修が教員の「手かせ足かせ首かせ」(9月27日の特別部会での委員発言)になっては、現場がますます息苦しくなろう。

 もちろん現時点では「主な論点例」が示されただけだし、全体の制度設計いかんでは良案に化ける可能性がないわけではない。それでも更新制の先例を思うと、部分最適どころか部分最悪が重ねられて全体最悪に陥りかねないと危惧する。

 それよりも求められるのは、教職に自発性・創造性を取り戻させることではないか。中教審、というより文科省事務局の持って行き方に危うさを覚える。

 

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