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2022年1月

2022年1月31日 (月)

受難の第2回共通テスト 改めて「高大接続改革」論議を

 今回で2回目となる、大学入学共通テストの全日程が終わった。新型コロナウイルス感染症のオミクロン株拡大に加え当日のトンガ津波による交通機関の乱れは、基本的に一発勝負である共通試験の脆弱性を改めて突き付けた。これらに比べれば大阪府内会場でのスマートフォン(スマホ)を使った問題流出や東京大学本郷地区会場での死傷事件は、あくまで個別の事案として管理体制を別にすれば試験制度自体を揺るがせることはないだろう。

 原則的立場から重箱の隅をつつくのが真骨頂の本社としては、いずれもが同根の課題に思えてならない。道半ばの「高大接続改革」のことだ。

 共通テストは導入直前に、目玉とされた記述式問題の導入と英語民間試験の活用が頓挫した。文部科学省は二つの会議を設けて経緯を検証するとともに「大学入試のあり方」の原則を再確認したが、それが高大接続改革の理念からいって妥当なものか疑問が残る。

 確かに受験生によるスマホ流出や高2による死傷は、個人の問題ではある。カンニングや受験のプレッシャーは、昔もあった。それを制度のせいにするのはお門違い、と割り切るのはたやすい。問題は、18歳人口減で実質的な大学全入時代を迎える中、いまだに「少しでもいい大学」への志向が一部の高校生などに強まっていることだ。

 本試験の一部科目で平均点が極端に低くなったことに加え追・再試験の受験者が増えたことも、いずれは共通テストの「公平性」の問題が再燃しかねないだろう。ただし一斉試験を続ける限り、避けられない問題でもある。

 そもそも高大接続改革は、大学教育の行く末に関係者が危機感を抱いたことから始まった。大学教育を変えるためには、学生を送る側である高校教育にも変わってもらわなければならない。その高校関係者は「大学入試が変わらないと、高校教育は変われない」と言う。ならば大学入学者選抜と三位一体で改革しよう――というのが、高大接続改革の理念だ。決して「大学入試改革」に矮小化してはならない。

 もっとも共通テストの目玉改革をめぐる世間の反応や文科省会議の議論を聞いていても、国民の関心は結局テストによる「入試」にしかないことに暗澹たる思いがしている。これからの時代に求められるのがDX(デジタルトランスフォーメーション=デジタルによる変革)なのか何なのかは差し置くとしても、資質・能力のごく一部を測定するものでしかないペーパーテストに過度の依存をしたままの「入試」体制でいいのか。

 反面、大学と高校の現場で「教育」改革は進んでいる。高校教育の改革を後押しした背景に「大学入試改革」があったことは間違いないが、「総合的な学習の時間」をサボタージュし続けてきた進学校なども「総合的な探究の時間」に本気で取り組み始めたのは事実だ。

 高校での探究活動を含めた「学習」を受け止めて、大学での「学修」を通して社会に有為な人材を送り出す。それこそが高大接続改革の肝だったはずだ。そうした中、偏差値偏重という旧態依然の進路意識しか持てない者の問題を深刻に考えるべきだろう。もはや社会に出れば大学名など通用しないのに、である。

 高校では4月から、学年進行で新学習指導要領が始まる。共通テストをはじめとした「大学入試改革」は新課程の2025年度入試に第2段階を迎えるが、裏を返せば本格的な「大学入学者選抜改革」はそれまで先送りされることになる。コロナ禍で世界経済も社会システムも大きく揺らいでいる時、そんな悠長なことを言っていていいのか。

 既に「次の改訂」の必要性も指摘される昨今である。今こそ改めて、本気で高大接続改革を論議すべきだ。大学入学者選抜改革をめぐっては本社がかねて主張している通り10年の「高大接続テスト」構想に立ち戻るのが、いくら考えてもベストにしか思えない。

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