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2024年2月

2024年2月12日 (月)

改訂諮問の年に③ 「学習評価」の根源的な捉え直しを

 学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。

 今では古い話になるが、現行学習指導要領の改訂を提言した中央教育審議会の2016年12月答申でさえ「(関心・意欲・態度の評価が)挙手の回数やノートの取り方など、性格や行動面の傾向が一時的に表出された場面を捉える評価であるような誤解が払拭し切れていないのではないか」と指摘していた。小中学校で観点別評価が導入されてから指導要領も変わっているのに、である。

 教員の多忙化が深刻化しているが、その端緒は「ゆとり教育批判」に対応した学力向上対策に加えて観点別評価の厳密な「規準・基準」づくりの作業だった印象がある。それだけ緻密な作業をして、本当に子どもを伸ばし授業を改善することにつながっているのか。評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。

 中教審側にも、若干の責任があろう。答申後に発足した教育課程部会の学習評価ワーキンググループ(WG)では、4観点から3観点に整理された評価を巡って「『CCA』や『AAC』といったばらつきのあるものとなった場合には、児童生徒の実態や教師の授業の在り方などそのばらつきの原因を検討し、必要に応じて、児童生徒への支援を行い、児童生徒の学習や教師の指導の改善を図るなど速やかな対応が求められる」とした。自明と言えば自明なことではあるものの、現場に対して厳密な評価規準・基準による評価を更に求めるメッセージになりかねないことに注意が払われていない。

 その点で注目されるのは第12期中教審の正委員で教育課程部会長や義務教育ワーキンググループ(WG)主査などを務める奈須正裕・上智大学教授が、1月にあったオンライン講演会で「小学校でCを出す時はエビデンスが要るが、CでなければBでいい。Bよりも明らかに上なら、Aでいい。厳密にするより、もっと伸びやかに評価を行ってしてほしい」と述べていたことだ。信頼すべきであり培うべきは、そんなアバウトな評価を適切に行える教師の力量である。

 「指導要録に載せるのだから、緻密な評価は当然だ」という反論が当然返ってこよう。しかしGIGA時代だというのに、指導要録の様式例だけに頼った評価に任せたままでいいのか。というより要録自体が、時代の進展に合ったものなのか。そもそも、記載時点での「値踏み」にすぎない。評価された直後から、子どもは変わっていくはずである。評価データをポートフォリオ化して、必要な時に必要な情報を取り出せるようにしておけばよい。

 「内申書や調査書の原簿にもなるのだから、厳密な評価は当然だ」という反論も当然あろう。しかし大学さえ希望者全入時代を迎え、高校は既に定員割れが続出している時代である。1点刻み・一発勝負のテスト自体も問われる必要があるし、ましてや「平素の学習を重視する」という美名の下に在学中の評定平均値をいつまでも絶対視していていいのか。そもそも上級学校は、下の学校から送られた要録を生かして指導を行っているのか。

 むしろ子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在である。自己調整能力を付けるのも、生涯にわたってエージェンシー(変革を起こすために目標を設定し、振り返りながら責任ある行動をとる能力)を発揮しウェルビーイング(個人的にも社会的にも人々が心身ともに幸福な状態)を図るためだろう。

 そのための形成的評価と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。次期改訂では、そんな根源的捉え直しも一度は行う必要があろう。

 世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。

 

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2024年2月 8日 (木)

改訂諮問の年に② 「資質・能力ファースト」の学校づくり目指せ

 現行学習指導要領は、資質・能力(コンピテンシー)ベースにかじを切ったとされる。次期改訂では、いよいよ学習内容(コンテンツ)に切り込むことが不可避になる。これを機に、教育課程はもとより学校づくりの全般にわたって「資質・能力ファースト」を徹底すべきだ。

 最近の流行の一つに「ルールメイキング(校則検討)」がある。経済産業省の「未来の教室」事業による提唱の影響が大きい。しかし行き過ぎた校則を児童生徒自身で見直すということ自体、古くて新しい課題である。

 よくよく考えれば、校則は何のためにあるのか。伝統的には学校の教育活動の前提となる、校内や教室の秩序維持だろう。「特別権力関係論」が幅を利かせた時代もあった。しかし学校は徹頭徹尾、社会に出るための「資質・能力」を伸ばす場だと捉えるなら非主体的なルールに従うのが当然というヒドゥン(隠された)カリキュラムこそ排除しなければならない。共同体のルールをどう考え、どう対処するかも集団を通した貴重な学びの機会だ。ルールメイキングを特出しして独立した教育活動にすること自体が無駄だし、「〇〇(マルマル)教育」を一つ増やすだけになる。

 資質・能力の育成に関係ないルールなど、それこそ校長の判断でさっさと廃止すればいい。服装だの持ち物だのも、一律のルールを設けるより個々人で判断して自己調整する力を育成することに注力すべきではないか。授業自体が面白ければ、スマホやゲームにうつつを抜かす暇もなくなろう。何より社会で認められている自由を、社会に出る力を培うべき学校で無条件に制限すべきでない。学校の教育活動は学習指導と生徒(生活)指導の両輪で成り立っているとされるが、そうした二元論さえ乗り越える必要があるのではないか。

 理想論に過ぎるだろうか。あるいは「発達段階を考慮すべきだ」とか、「保護者や地域の存在も考えるべきだ」という反論が返ってこよう。しかし発達段階に応じて育成すべきなのが資質・能力だろうし、学校関係者も含めて子どもに社会で生きていく力を培うことこそ公教育の役割ではないか。

 そうなれば当然、資質・能力の育成に関係ない、あるいは重複するような教育活動は大胆に整理・統合する必要がある。その前に、その学校ではどういう資質・能力を育成することを目指すのかを明確にし、そこから効果的な教育活動をマネジメントすべきだ。ましてや学校の働き方改革のために授業時数や行事を精選しようとすることなど、本末転倒と言うべきだろう。

 個々の学校で育成すべき資質・能力も、シンプルにすべきではないか。参考になるのが、国際バカロレア(IB)だ。「IBの学習者像」は①探究する人②知識のある人③考える人④コミュニケーションができる人⑤信念をもつ人⑥心を開く人⑦思いやりのある人⑧挑戦する人⑨バランスのとれた人⑩振り返りができる人――という、とてもシンプルで指導者側にも学習者側にも徹底しやすい。何より、あらゆる教育活動に配分しやすい。教育活動全体で10の学習者像を育てられれば、それでよしという考え方でもある。

 現行指導要領は、コンテンツをそのままにしてコンピテンシーベースに「転換」した。しかし、それがどれだけ現場に意識されているだろうか。資質・能力の三つの柱を教科一律に展開したことも、むしろ「コンピテンシー・オーバーロード」を招く結果となっていないか。

 「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」(天笠=奈須検討会)は、いまだに取りまとめの形らしい形を見せていない。しかし改訂スケジュールを考えると、3月に論点整理を行うことは動かないだろう。その時に出てきたものは、必ずや含意の多いもになるはずだ。その一言一句に注意して、現場としても今後の公教育と学校の在り方を主体的に考える契機とすべきだろう。そのモデルは、既に中教審の学校教育特別部会「義務教育の在り方ワーキンググループ」(奈須WG)中間まとめが示している。

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