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2024年5月

2024年5月19日 (日)

中教審 次の改訂諮問は「指導体制」も一体で

  中央教育審議会の初等中等教育分科会「質の高い教師の確保特別部会」が13日、長々としたタイトルの「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について(審議のまとめ)」を正式決定した。

 終業から始業までに一定時間以上の継続した休息時間を確保する「勤務間インターバル」について素案では「大きな意義がある」とするにとどめていたが、成案では「11時間を目安」として「進めることが必要である」と踏み込んだ。ほぼゼロ回答だった「学校の働き方改革」に、やっと新たな柱が一つ加わった格好になる。

 しかし国の制度改革は必要とせず、導入の判断は人事権を有する教育委員会や学校に委ねられる。しかも11時間という数値は、前回論議で「学校における働き方改革特別部会」の部会長を務めていた小川正人・東京大学名誉教授が「時間外在校等時間月100時間を容認することになる」と指摘して12~13時間に設定することを提言していたものである(『教職研修』5月号特集1)。

 もっと問題なのは、素案と比較して「学校現場においても、学校の判断により実行できる改善の取組を重ねる」(第2章=教師を取り巻く環境整備の基本的な考え方)とか「教育委員会には、従来型の指導・助言にとどまらず、現場との対話を通じ、課題解決に向けた学校の取組を支援する伴走者としての役割が期待されていることも踏まえる必要がある」「教師が自ら時間管理意識を高めつつ、より裁量性を持って業務をマネジメントできるよう、校長等の管理職がリーダーシップを持って取組を進めることが重要である」(第3章=学校における働き方改革の更なる加速化)といったように、現場に更なる改善を求める修文を行っていることだ。これ以上、何を努力しろというのだろう。

 一方で審議まとめには「『乗ずる数』の改善については、他の定数改善施策との関係にも留意しつつ、検討を深めることが望ましいと考えられる」(第4章=学校の指導・運営体制の充実)といったように、もって回った表現ながら本格的な定数改善の検討に期待する文言が端々にある。極め付きは「1人1台の学習者用 ICT 端末の整備といった学習環境の変化や、生成AIの普及といった今後の社会の変化等を踏まえた新たな学びの在り方については、今後、学習指導要領の改訂に向けた議論が進められることとなるが、この議論と連動して、それを支える学校の指導・運営体制の構築については改めて検討していく必要がある」(同)という一文だ。

 要するに働き方改革にも資する定数改善論議は、次期指導要領の改訂とセットにならざるを得ないということだ。これは一面で仕方のないことだろう。

 改めて思い起こしたいのが、総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」(2022年6月決定)で示された、小学校35人教室の多様性を示すポンチ絵(概念図)だ。分かりやすいとCSTI議員に好評だっただけでなく、文部科学省も一部改変して中教審等の参考資料に使っている。

 定数は、1学級に担任1人を基本に「乗ずる数」を設定するなどして算定してきた。しかし1学級1担任制は「中くらい」のレベルに合わせて一斉授業を行い、適応できない子は「お客さん」扱いしてきた時代に通用したものでしかない。「個別最適な学びと協働的な学び」が指導の個別化と学習の個性化を言い換えたものだとするなら、チーム・ティーチング(TT)が欠かせないのは必定だ。発達や不登校、外国ルーツ、社会経済的背景(SES)といった幅広い特性や関心に対応し、誰一人取り残さない教育を本気で実現しようとするなら最低2人を張り付けることが不可欠だろう。つまり「学級数×2担任に乗除する数」という発想が必要ではないか。

 いずれにしても次期指導要領では、発想を抜本的に転換した定数の在り方が求められる。それでこそ合田哲雄・文化庁次長の持論である「サプライサイドの学校組織法」から「デマンドサイドに合わせた教育課程プログラム」への発想の転換にかなうのではないか。前回14年11月の改訂諮問で審議要請した事項の筆頭は「教育目標・内容と学習・指導方法、学習評価の在り方を一体として捉えた」指導要領等の基本的な考え方だったが、次期改訂諮問ではこれに「指導体制」も加えるべきである。 

 

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2024年5月 5日 (日)

「教師確保」素案〈下〉 抜本的改革は「魅力」喪失の現状認識から

 中央教育審議会に「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について」を諮問するのに先立ち、論点整理を担うため文部科学省に設置された会議体の名称は「質の高い教師の確保のための教職の魅力向上に向けた環境の在り方等に関する調査研究会」だった。議論の場が中教審に移っても、しばしば委員から「教職は本来、魅力ある仕事だ」「もっと教職の魅力をアピールすべきだ」といった発言が聞かれた。

 背景には教員採用試験の倍率低下による質の低下への懸念と、構造的に「教職浪人」を当てにしてきた臨時講師人材の枯渇による「教師不足」があった。魅力向上策を打ち出せば、そうした問題も解消されるはずだとの楽観的な認識があるように思えてならない。

 もう、はっきり言ってしまおう。今の教職には、かつてあったような魅力は失われている――。そうした認識から出発することなしには、本当の意味での魅力向上策など期待できない。

 中教審でもう一つ、委員から繰り返された発言がある。教職が「高度専門職」だ、ということである。本来、今回の審議まとめ素案もそうした観点からまとめられたはずだった。しかし、これも「現状では、教職は高度専門職ではない」という認識から出発すべきである。

 言うまでもなく、戦後の教員養成は開放制の原則を取ってきた。たとえ教員養成学部であっても、教員免許の取得が必ずしも教師としての優秀性を証明するものではない。運転免許証と同様、あくまで教壇に立つ資格を得るというだけだ。

 だからこそ教育公務員特例法で「研究と修養」が努力義務化され、改正教育基本法にまで規定された。つまり教職は、高度専門職に向かって絶えず学び続ける存在ということだろう。それは、教育の目的である人格の完成に似ている。

 「教職課程でしっかり教えるべきだ」――これも教育課題を議論する時、しばしば聞かれる言葉である。しかし、それが教職課程のカリキュラム・オーバーロードをもたらしてきた認識をしっかり持つべきだ。教職課程コアカリキュラムを策定したからといって、解決できる問題ではない。それどころか、ますます教職離れをもたらすだけだろう。

 教師をめぐる政策は養成・採用・研修を一体で行われなければならないというのも、昔から言われてきたことである。教師の質や教職の魅力に危機が訪れているとしたなら、まさに養成・採用・研修を一体とした抜本改革が必要になる。具体的には養成段階から安心して学べるような環境を用意するとともに、採用でも優遇。入職後は「研修の自由」が保証されなければならない。それでこそ、高度専門職と呼ぶにふさわしい。

 「教育の質は、教師の質を超えることはない」――経済協力開発機構(OECD)教育・スキル局のアンドレアス・シュライヒャー局長が繰り返す指摘を、何度聞いたか分からない。 もちろん文科省もそれを意識しているからこそ、教師の質にこだわっているはずだ。そうであるなら、本気で教師の質を向上させる政策づくりに取り組まなければならない。幾ら既成政策の部分最適を積み重ねたところで、全体最適にはならない。児童生徒のみならず教師のウェルビーイング(個人的にも社会的にも人々が心身ともに幸福な状態)を追求しようとするなら、なおさらである。

 

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