教師の質確保答申 何を「スタート」すべきか
27日の中央教育審議会答申「『令和の日本型学校教育』を担う質の高い教師の確保のための環境整備に関する総合的な方策について」には、「全ての子供たちへのよりよい教育の実現を目指した、 学びの専門職としての『働きやすさ』と『働きがい』の両立に向けて」という長いサブタイトルが付いている。7月26日の「質の高い教師の確保特別部会」最終会合の段階では「…学校における『働きやすさ』と…」だったが、秋田喜代美・学習院大学教授の意見を受けて修正された。
確かに同部会では終始、教師が専門職であるという前提で議論が行われた。ただし究極的には教師の業務が「自発性・創造性に委ねるべき部分が大きい」という教職給与特別法(給特法)を維持する論理として利用されたにすぎない――と言ったら言いすぎだろうか。
27日の総会では部会長だった貞広斎子・千葉大学教授が改めて「むしろ、ここからが本番」と述べ、青海正・全日本中学校長会会長(東京都大田区立志茂田中学校長)も「スタートラインに立った」と応じた。しかし何をスタートすべきなのかは、よくよく考えなければいけない。
答申は「①学校における働き方改革の更なる加速化、②教師の処遇改善、③学校の指導・運営体制の充実を一体的・総合的に推進する必要性を提言した」と自賛する。これらは「相互に密接な関連を有する」というより三題ばなしのようなもので、三つが同時に実現しない限り「教職の魅力を向上させること」はできないことになる。ましてや①がほとんどゼロ回答では、働き方改革も進まない。そもそも2019年1月の働き方改革答申から既に5年半が過ぎており、今さら本番とかスタートとか言われても困る。
秋田教授は先の発言で「高度専門職」と言いかけて、すぐに「『高度』は入らなくてもいいが」と言葉を継いだ。そもそも最終盤での修正に遠慮して、せめて議事録に残してほしいという趣旨だったが「高度」こそが本質だろう。
出発点というなら、教職を真に高度専門職とするには何が必要かという観点から議論を始めるべきだった。それでこそ、養成・採用・研修も処遇も働き方も「一体」で改革論議ができたろう。それなのに「正規の勤務時間外に校務として行われる業務が、時間外勤務を命じられて行うものでないとしても、こうした業務も含めて時間を管理することが、学校における働き方改革を進める上で全ての出発点」と言われても、堂々巡りにしかならない。
確かに現状で教職を医師や弁護士と同等の高度専門職と呼ぶことは、とてもできない。それでも改正教育基本法では、国公私立を問わず教員が「絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない」存在とされた。開放制原則の下では教員免許の取得だけで「高度」専門職であることを保障されないが、採用後の研修によって常に高度専門職を目指すことが義務であり権利でもある。22年12月の中教審答申でも「学び続ける教師」を打ち出したではないか。
経済協力開発機構(OECD)のアンドレアス・シュライヒャー局長が言うように学校の質は授業の質を超えるものではないし、教育の質は教師の質を超えるものではない。教師の質を上げる第一歩が処遇改善であることに間違いはないが、処遇が悪化しても教育の質向上にまい進し続けてきたのが日本の教師だ。それに報いるためにも教職調整額の引き上げは遅きに失した感すらあるが、それにとどめてはいけない。
中教審総会では、答申を学習指導要領の改訂に反映させるよう期待する意見もあった。ただし、働き方改革のために教育課程をスリム化するというのは本末転倒だ。今回の答申が「日本の学校教育は更なる高みを目指」すと言うのなら、教育の質向上と教師の質向上を一体化させた議論こそ求められよう。「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」の論点整理骨子案に、その萌芽はある。
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