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2024年10月

2024年10月22日 (火)

「天笠検討会」論点整理(5) 教科書「使用」義務にも踏み込め

 天笠検討会の論点整理で画期的なのは、教科書の在り方にまで言及したことだろう。教科書制度を巡っては微妙な問題が山積していることも事実だが、これを機会にデジタル時代の大胆な見直しを進めたい。

 入試との関係は、前回論じた。付言すると「入試が必ずしも十分に変わっていない中で、授業改善の方向性と入試の出題傾向にズレが生じ、結果として教科書の内容も授業も変わりづらいのではないか」という指摘は、とりわけ高校に当てはまろう。大学受験対策に使えるかどうかが採択を左右し、最終学年では「演習」が主になっている。国語で「文学作品」の扱いが問題になる状況があるのは、本末転倒だ。そんな教育が横行したままでは、せっかく探究学習で育んだ資質・能力にもブレーキをかけかねない。高大接続改革の再審議はもとより、高校以下を含めた入試の在り方について正面からの議論が待たれる。

 さて教科書は「主たる教材」(教科書発行法)であり、学校には教科書を使用する義務が学校教育法で定められている。天笠検討会では座長代理で中央教育審議会教育課程部会長も務める奈須正裕・上智大学教授が6月の会合で「教科書を網羅的に教えないといけないという使用義務の捉え」について問題提起したが、論点整理では「教科書の内容を全て教えなくてはいけないという考え方」の根強さという表現にとどめている。

 教科書制度を危うくすることを承知で、あえて提案したい。学校の使用義務を、国の「供給義務」に替えることだ。

 使用義務のままにすることで実際には網羅的な扱いはもちろん、教科書の表現に授業が縛られ続けることになる。教科書検定は記述の一言一句をめぐって揺れてきたし、優れて専門性に基づくはずの教科書を「素人(レイマン)」である教育委員が全部読んで採択するという珍妙な運用も全国に拡大・定着した。

 共同採択地区が定められているのは、域内で教科書研究を深めることを狙いとしている。しかしネット時代に、地理的条件を考慮する必要もあるまい。極論すれば義務制でも各学校が実態に応じて個別に採択できるようにすれば、むしろ純粋に質で教科書が選ばれることになろう。

 一方で、教科書を見ないと学習指導要領の趣旨が十分理解できないという実態が現場にあることも認めざるを得ない。だからこそ「主たる教材」としての存在意義がある。それだけに指導要領の法的拘束力によって教科書使用義務が固く考えられ、「かえって教師の創意工夫や教師の指導力向上を阻んでいる」(論点整理)ことにもつながっている。

 悩ましいのは、義務制の教科書無償措置だ。使用義務を外せば、無償給与の根拠も崩れてしまいかねない。もちろん「使用」の解釈を緩くすれば、現行法令を改正する必要はない。

 いっそ供給義務に替えれば、主たる教材である教科書は引き続き届く。ただし現場がどう活用するかは、あくまで教職の専門性に委ねる。極端な話、教材研究に活用すれば必ずしも授業で使わなくていいことにしてはどうか。そこまで踏み込んでこそ、デジタル教科書・教材時代の教科書にふさわしい。

 余談を付け加えておこう。「教科書の内容は格段に充実し、ページ数が大幅に増えている現状」(同)をもたらしたのは当時の下村博文・文部科学相だし、児童生徒が自学自習できる教科書さえ主張していた。白黒化の提言は滑稽だったが、古い教科書観を助長し続けてきたのは保守合同前からの自民党だ。衆院選でも「日本の伝統」に基づく教育の主張が散見されたが、そんなアナクロニズムにいつまでも付き合っていてはVUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)時代に対応できなくなる。

 

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2024年10月17日 (木)

「天笠検討会」論点整理(4) 「内なる序列主義」脱する学習評価の根源的捉え直しを

 天笠検討会の論点整理では、学習評価に関する重要な指摘がある。「見取り・形成的評価・総括的評価が区別されず、学習評価の全てが総括的評価(評定の対象)として行われることにより、評価の結果が学習の改善に結び付きにくい」ことから「形成的評価と総括的評価の効果的な使い分けの在り方」の検討を求めていることだ。

 かねて本社は学習評価の根源的な捉え直しを主張してきた。論点整理も言及するように「依然としてノート提出の頻度などの『勤勉さ』の評価に留まってい」たり「毎回の授業で3観点全てを見取らないといけないといった誤解」があったりするのは、これも以前紹介した通り教職の専門性に当然含まれているはずの学習評価に「基礎知識の不足」(鈴木秀幸・教育評価総合研究所代表理事)があることの証左だろう。

 形成的評価を行っていない教師などいないはずだが、いつまでも指導要録に記載するための総括的評価に収れんするような評価材料集めに終始していては学習評価の意義そのものをねじ曲げよう。

 ところで論点整理は「入試が必ずしも十分に変わっていない中で、授業改善の方向性と入試の出題傾向にズレが生じ、結果として教科書の内容も授業も変わりづらいのではないか」と指摘している。教科書に関しては、別に論じよう。ここで入試と授業改善の関係に触れていることは見逃せない。

 しかし、あくまで教科書の問題にとどまっているのは残念だ。むしろ公立高校入試では、指導要領の全面実施前でも趣旨を先取りしたような出題がなされる傾向がある。大学入試でも、大学入学共通テストに切り替わる前の大学入試センター試験がそうだった。

 真の問題は「出題傾向」ではなく入試問題に向かう受験生の態度であり、テストで高得点を取らせるための指導に注力する下級学校側の問題ではないか。特に公立高校入試では、指導要録を原簿とする調査書(内申書)が大きく関わってくる。むしろ内申書の在り方が教師の姿勢を規定している、と言ったら言いすぎだろうか。

 真の問題は、教師がテストの点数で学力を測った気になっていることかもしれない。しかも出題されたテストが、テスト理論的に妥当性があるとは限らない。「経験と勘」によって作題されたとしても、ひとたび採点されると1点刻みで評価できるような「魔力」を持ってしまう。それが、ひいては英訳もできない「学力」の物神化をもたらしているのではないか。

 1970年代 、東京工業大学教授で数学教育協議会(数教協)委員長の遠山啓は点数による序列主義批判を展開した。教育政策のみならず「教師に内面化された能力主義も批判の対象となっていた」という(香川七海・日本大学准教授 「数学者・遠山啓による学校批判の性格」、教育社会学研究第110集)。それから半世紀になろうというのに、いまだに教育現場は「内なる序列主義」から脱し切れていない。

 もっと大きな問題は、児童生徒自身がテストの点数や入試で自分の「能力」が測られていると錯覚することではないか。テストの存在自体が「隠れたカリキュラム」として、今も序列主義を助長していよう。少子化で70年代のような「競争原理」が減退したにもかかわらず、むしろ点数主義の受験競争に対する意識は保護者も含めて一部で激化しているように見える。

 テストと入試の問題は、必ずしも指導要領改訂論議で扱う範囲ではないかもしれない。だからこそ制度面や条件整備面と連動した一体改革として切り込んでほしいし、高大接続改革の再論議も不可欠だ。もうベビーブームの再来はないことががはっきりした今、公教育も人口増加時代を引きずるわけにはいかない。

 

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2024年10月12日 (土)

【内側追抜】〈続々〉非公認・重複なし

「来年は党丸抱えで当選させてくれるんでしょ?」

   ――某議員(裏金チューチュー)

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2024年10月 8日 (火)

【内側追抜】〈続〉非公認・重複なし

「非公認でも比例には出られるんでしょ?」

   ――某議員(裏金チューチュー)

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2024年10月 7日 (月)

【内側追抜】非公認・重複なし

某元大臣「あの団体に支援の要請してもいいって話だよな? 当選すりゃ完全なみそぎだ」

地元秘書「……」

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2024年10月 2日 (水)

「天笠検討会」論点整理(3) 指導要領の柔軟化は裁量“回復”とセットで

 「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」(座長=天笠茂・千葉大学名誉教授、いわゆる天笠検討会)の論点整理では、学校と子ども一人一人の両面から「教育課程の柔軟化」を行うよう提言した。学校側の視点としては、教育課程の特例制度を活用するだけでなく各教科等の標準授業時数に柔軟性を持たせるような教育委員会・学校の裁量拡大についても検討すべきだとしている。

 これに関連して、週35週以上の年間最低授業週数や小学校45分、中学校50分の単位時間についても取り扱いの検討を求めている。読売新聞の読者なら、2月10日付1面トップのスクープを覚えていよう。記事の最後に天笠検討会の座長代理でもある奈須正裕・上智大学教授のコメントが付いている事情も、これで了解されるのではないか。

 さて、論点整理も述べている通り授業週数や単位時間は「現在でも学校に裁量が認められている」。そもそも学習指導要領は教育課程編成の「大綱的基準」だし、教育課程編成権は校長=学校にあることを改めて確認しておきたい。

 しかし実際には指導要領や法令が一言一句、拘束性を持つような硬直的運用がなされている。記事にある通り45分授業を40分にしている小学校などもあるが、依然として少数だ。

 確かに、学校教育法施行規則の記述を変えることは「ショック療法」としてあり得なくもない。しかし原則に立ち返れば、せいぜい指導通知1本も流せば済む話ではないか。というより本来「指導」するまでもない。

 「子供一人一人に応じて教育課程を実施する際の柔軟性」(論点整理)を言うのなら、必然的に40分とか45分とかの一斉授業にさえこだわる必要はないはずだ。一斉指導の時間だけ決めておき、後は一人一人の自主性に任せるというのも「自ら教材・方法・ペース等を選択できる学習環境」(同)のデザインに任され得る。授業時数特例校制度については、かつて社説で批判した。

 論点整理では「文部科学省⇒都道府県教育委員会⇒市町村教育委員会⇒学校という固定的な経路での情報伝達」、いわゆる指導要領の解釈を巡る「伝言ゲーム」問題に言及している。そもそも本社が「指導要領の訓詁学的解釈」と呼ぶ一言一句の過剰な読み込みも、今や55年体制の遺物だ。そこを誰もきちんと総括していないのが残念だし、行政の無謬(むびゅう)性・継続性にこだわると屋上屋を重ね続けることになる。

 論点整理は従来の知識・技能も「個別的知識及び技能」と「概念的知識・方略」に整理するよう提案している。それを現行の総授業時数の枠内で行うなら、なおさら以前論じた通り現場の裁量専門性の回復が必然的に求められることになろう。

 ここで「拡大」とか「高度化」ではなく、あえて「回復」を使った意図も読み取っていただきたい。繰り返すが、次期指導要領は現場への期待と信頼を根底に置かねばならない。

 

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