【内側追抜】某党首討論会
「与党で過半数割れなら即刻、退陣することになる。退陣したら次の内閣が信を問うため即刻、解散することになる」
――某首相
中央教育審議会の教育課程部会「道徳ワーキンググループ(WG)」が20日、第2回会合を開催した。当初予定していた12月25日が先送りとなり、初会合から2カ月近くも空いた。
それ自体には今さら不思議さを感じないが、文部科学省事務局の道徳科「目標・内容の構造化等」案を見て驚いた。現行を維持するとの提案だったからだ。
各教科等を巡っては、教育課程企画特別部会(企特部会)「論点整理」の方針や総則・評価特別部会(総則部会)の指示に沿って各WGで議論が進められている。教科等の特質によっては一律に当てはめにくくても、しぶしぶ従うWGも少なくない。
それが、道徳科に関しては▽引き続き観点別の目標は定めない▽目標の記載は現行を維持する▽目標とは別に見方・考え方は示さない▽高次の資質・能力は定めない――という。要するに、現状維持だ。そのため表形式化も、並行か並列かのパターンさえ選択せず「現行より一覧性高く、関係性を見やすく」(事務局)しただけになっている。
この案に対して、ほとんどの委員から賛意が示された。これまで通りの実践を続けていいとのお墨付きを得たのだから当然だが、他のWG委員から不満が出ないか心配になる。
仮に道徳教育の特性を考慮したとしても、疑問は残る。論点整理が提言した新しい見方・考え方は「シン見方・考え方」とでも呼ぶべきことは以前、指摘した。見方・考え方が資質・能力の育成だけでなく卒業後も灯台のように、よりよい社会や幸福な人生につなげるものと位置付けたからだ。
事務局は目標と別に見方・考え方を示さない理由として、道徳科が各教科等と比べても目標自体がその後の人生という視点からも妥当性を有する特質があり「教科等を学ぶ本質的な意義の中核」の要素が目標に含まれているという前回答申の考えが引き続き妥当性を有しているからだと説明した。
「霞が関文学」と言うより、下手な同義反復か循環論法ではないか。少なくとも、何の説明にもなっていない。「その後の人生」を導くというなら、ますます「灯台」が必要だろう。徳目を教え込みたい保守・復古派なら、批判のしどころだ。
道徳科に関して、本社は以前も根本的見直しを主張した。教室の多様性が進むことを考えれば、経済協力開発機構(OECD)がラーニング・コンパス(学びの羅針盤)で提起したような「対立やジレンマに対処する力」がますます求められることは疑いない。「考え、議論する道徳」というなら、まさに道徳科が担うべき役割ではないか。しかし現状維持が「転換」から「実装」のフェーズへの移行になるというのだから、恐れ入る。
それなのに委員の議論からは、まったく緊張感が感じられない。現状維持の方針に、安心し切っている雰囲気すらあった。唯一「いじめ防止を目的に教科化されて10年たつのに(認知件数が)増えていることは真剣に考えなければいけない」との発言があったが、あくまで控えめだった。
やっても意味のない道徳の授業に年間35時間を割き、しかも19日の総則部会で示された方針によれば調整授業時数の削減対象にもならない。いったい、誰の得になるのだろうか。
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先の社説では、次期学習指導要領を巡る中央教育審議会教育課程部会の教科等ワーキンググループ(WG)での議論に苦言を呈した。ここでは改訂諮問と両輪を成す教員養成部会とWG等にも、違和感を表明しておこう。教職=高度専門職だと、疑いもなく規定する委員の認識だ。
教職は果たして、医師や弁護士と同じような高度専門職と言えるのか。教育界では自明とされることが多いが、法的な定義があるわけでもない。むしろ看護職と比すべきだろうが、ここで専門職論を述べる能力も意思もない。
教員養成改革に関わって重要なポイントは、教員免許取得段階で高度専門職の資格を得たと認定できるかどうかだ。教職課程・免許・大学院課程WGの中間まとめ案(昨年12月18日)では「教科及び教職に関する科目」の単位数を実質2種免許相当分に落とした上で、20単位程度分は学部学科での「強み専門性に係る内容」学修に位置付けた。
それで1種の「質」は落とさないという理屈だが、それなら「教科及び教職に関する科目」20単位程度分の専門性はどこに行ったのか。教員養成フラッグシップ大学の取り組みを参照したというが、少なくとも開放制の一般大学では単に従来の学部学科学修を読み替えたにすぎない。
強み専門性を身に付ける学修を学生自らデザインするのだという理屈は聞こえがいいが、つぶしの効く資格として教員免許「でも」取ろうかという学生を理念的には排除することになる。養成は大学が責任を持って行うという教職課程コアカリキュラムの理念も建前として素晴らしいが、やはり新たな免許構想は一般大学にとって負担増になるはずだ。
問題は、それが教員不足対策として期待されていることである。コアカリ論議の当時は、教職に就くつもりのない学生が教育実習を受けて実習先の学校現場に過剰負担となる「実習公害」が問題視されていた。文章化は一切されていないが、資格目当ての教職課程履修生を減らす意図が隠れていたことは否めない。その時とは状況がまったく異なっているのに、同じような文脈で改革論を展開していることに驚くばかりだ。
採用試験受験者のすそ野を広げようとしながら、養成段階の質保証のために大学や履修生に負担を課す。依然として教職課程に盛り込む内容を追加すべきだとの期待は大きいのに、むしろ単位数自体を縮小してしまう。机上の空論としては成り立っても、実質が伴うことは期待できない。 要するに親部会の段階から、フィクションにフィクションを重ねた帰結である。
改めて確認しておこう。少なくとも現行制度の教員免許は、自動車免許と同様に「教壇に立つ」資格を得るだけにすぎない。教員は改正教育基本法で、国公私立を問わず「絶えず研究と修養に励」むことが努力義務化された。つまり「学び続ける」ことで生涯にわたって高度専門職を「目指す」存在なのであって、養成や採用の段階で高度専門職性が担保されるわけではない。
教員養成部会の論点整理(昨年10月15日)は、教員免許取得に至る学びを再構築した上で「より高い専門性は教職大学院で確保する」と言っている。普通に考えれば、養成段階では「低度」専門職であることを認めたに等しい。しかし、その自覚もなくフィクションを重ねているところに審議の深刻性がある。
本社は教職を担う教員の多くが、高度専門職の域に達していることを決して否定するものではない。しかし、そこに至る道筋を具体的に示してこそ養成・採用・研修の「一体改革」ではないか。それには、まずは教職=高度専門職という安易な図式の否定から始めなければならない。
だいたい、マニュアルを見ながら手術をする医者などいなければ六法全書を引き引き法廷に臨む法曹もいない。ましてや教科書の「赤刷り」に頼って授業をするような職業が、本当に「高度」専門職なのか。もちろん子どもをホリスティック(包括的)にみて教え導くことは、専門職として高度であることに疑いはない。だからこそ人格の完成(教基法)のように、高度専門職を目指し続けることこそが教職の本質なのだ。
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学習指導要領の改訂を巡る中央教育審議会の教科等ワーキンググループ(WG)を傍聴していて、どうにも気になることがある。指導要領本体の記述を簡素化する文部科学省事務局の提案に対して委員から、一字一句の修正案はもとより「細かい説明は解説で」という意見が相次いでいることだ。
確かに指導要領本体は法令に準じる文書だから、法的拘束力を持つものとして語句にこだわるのは仕方がない。しかし一方で大綱的基準なのだから、むしろ改訂論議は教育現場の自律性・創造性を発揮する方向で議論される必要があろう。
しかし事務局はもとより委員にも、指導要領の記述一つで現場実践が差配できるような錯覚があるのではないか。本社も以前の社説でデジタル化に伴って細かい知識は解説に移すよう提案したが、現場が依然として解説の一字一句に縛られるのなら問題だ。
本社が「指導要領の訓詁学的解釈」と呼んでいたものは、改訂で文言や順番が変わったことに現場が過剰な解釈を加えることだった。1998年改訂で観点別評価が導入された際に示された4観点の順番から「知識・理解」よりも「関心・意欲・態度」が重視されたものだ、と受け止めたのが典型だ。
前回の改訂論議では「学力の3要素」を「資質・能力の三つの柱」に拡張させる論議が中心だったためWG委員自体が「訓詁学」に拘泥していることに、あまり気付かなかった。しかし今回、その悪癖が露呈したとみるのは偏見だろうか。
そもそも98年改訂まで現場は、指導要領の大綱化・弾力化を歓迎していた。というより管理職や官製系研究団体では指導要領の一言一句に拘泥していたが、指導要領の一字一句にこだわらないどころか指導要領すら参照しない教員もたくさんいた。
今回のWG等でも、委員から「指導要領を参照するのは年に5本の指に入るかどうか」「指導要領は文章が長くて読めない」といった現場実態が公然と語られている。それなのに解説の精緻化を求めるのは、矛盾していないか。解説はあくまで解説であって、法的拘束力は一切ないはずだ。
指導要領の法的拘束力や解釈を巡る立場の相違は、文部省対日教組(いずれも当時)という歴史的経緯から定着したことだ。戦後80年、「55年体制」からも年を過ぎた今、脱却すべき好機である。
せっかく「構造化」により指導要領をスリム化しようとする時、膨らんだ解説に縛られては本末転倒だ。改めて人生100年時代を生きる子どもたちにどのような資質・能力が必要かという願いを中心に、改訂論議を進めるべきである。
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