改革の2026年〈上〉 「訓詁学」指導要領からの脱却を
学習指導要領の改訂を巡る中央教育審議会の教科等ワーキンググループ(WG)を傍聴していて、どうにも気になることがある。指導要領本体の記述を簡素化する文部科学省事務局の提案に対して委員から、一字一句の修正案はもとより「細かい説明は解説で」という意見が相次いでいることだ。
確かに指導要領本体は法令に準じる文書だから、法的拘束力を持つものとして語句にこだわるのは仕方がない。しかし一方で大綱的基準なのだから、むしろ改訂論議は教育現場の自律性・創造性を発揮する方向で議論される必要があろう。
しかし事務局はもとより委員にも、指導要領の記述一つで現場実践が差配できるような錯覚があるのではないか。本社も以前の社説でデジタル化に伴って細かい知識は解説に移すよう提案したが、現場が依然として解説の一字一句に縛られるのなら問題だ。
本社が「指導要領の訓詁学的解釈」と呼んでいたものは、改訂で文言や順番が変わったことに現場が過剰な解釈を加えることだった。1998年改訂で観点別評価が導入された際に示された4観点の順番から「知識・理解」よりも「関心・意欲・態度」が重視されたものだ、と受け止めたのが典型だ。
前回の改訂論議では「学力の3要素」を「資質・能力の三つの柱」に拡張させる論議が中心だったためWG委員自体が「訓詁学」に拘泥していることに、あまり気付かなかった。しかし今回、その悪癖が露呈したとみるのは偏見だろうか。
そもそも98年改訂まで現場は、指導要領の大綱化・弾力化を歓迎していた。というより管理職や官製系研究団体では指導要領の一言一句に拘泥していたが、指導要領の一字一句にこだわらないどころか指導要領すら参照しない教員もたくさんいた。
今回のWG等でも、委員から「指導要領を参照するのは年に5本の指に入るかどうか」「指導要領は文章が長くて読めない」といった現場実態が公然と語られている。それなのに解説の精緻化を求めるのは、矛盾していないか。解説はあくまで解説であって、法的拘束力は一切ないはずだ。
指導要領の法的拘束力や解釈を巡る立場の相違は、文部省対日教組(いずれも当時)という歴史的経緯から定着したことだ。戦後80年、「55年体制」からも年を過ぎた今、脱却すべき好機である。
せっかく「構造化」により指導要領をスリム化しようとする時、膨らんだ解説に縛られては本末転倒だ。改めて人生100年時代を生きる子どもたちにどのような資質・能力が必要かという願いを中心に、改訂論議を進めるべきである。
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