改革の2026年〈下〉 教職改革は「高度」専門職の否定から
先の社説では、次期学習指導要領を巡る中央教育審議会教育課程部会の教科等ワーキンググループ(WG)での議論に苦言を呈した。ここでは改訂諮問と両輪を成す教員養成部会とWG等にも、違和感を表明しておこう。教職=高度専門職だと、疑いもなく規定する委員の認識だ。
教職は果たして、医師や弁護士と同じような高度専門職と言えるのか。教育界では自明とされることが多いが、法的な定義があるわけでもない。むしろ看護職と比すべきだろうが、ここで専門職論を述べる能力も意思もない。
教員養成改革に関わって重要なポイントは、教員免許取得段階で高度専門職の資格を得たと認定できるかどうかだ。教職課程・免許・大学院課程WGの中間まとめ案(昨年12月18日)では「教科及び教職に関する科目」の単位数を実質2種免許相当分に落とした上で、20単位程度分は学部学科での「強み専門性に係る内容」学修に位置付けた。
それで1種の「質」は落とさないという理屈だが、それなら「教科及び教職に関する科目」20単位程度分の専門性はどこに行ったのか。教員養成フラッグシップ大学の取り組みを参照したというが、少なくとも開放制の一般大学では単に従来の学部学科学修を読み替えたにすぎない。
強み専門性を身に付ける学修を学生自らデザインするのだという理屈は聞こえがいいが、つぶしの効く資格として教員免許「でも」取ろうかという学生を理念的には排除することになる。養成は大学が責任を持って行うという教職課程コアカリキュラムの理念も建前として素晴らしいが、やはり新たな免許構想は一般大学にとって負担増になるはずだ。
問題は、それが教員不足対策として期待されていることである。コアカリ論議の当時は、教職に就くつもりのない学生が教育実習を受けて実習先の学校現場に過剰負担となる「実習公害」が問題視されていた。文章化は一切されていないが、資格目当ての教職課程履修生を減らす意図が隠れていたことは否めない。その時とは状況がまったく異なっているのに、同じような文脈で改革論を展開していることに驚くばかりだ。
採用試験受験者のすそ野を広げようとしながら、養成段階の質保証のために大学や履修生に負担を課す。依然として教職課程に盛り込む内容を追加すべきだとの期待は大きいのに、むしろ単位数自体を縮小してしまう。机上の空論としては成り立っても、実質が伴うことは期待できない。 要するに親部会の段階から、フィクションにフィクションを重ねた帰結である。
改めて確認しておこう。少なくとも現行制度の教員免許は、自動車免許と同様に「教壇に立つ」資格を得るだけにすぎない。教員は改正教育基本法で、国公私立を問わず「絶えず研究と修養に励」むことが努力義務化された。つまり「学び続ける」ことで生涯にわたって高度専門職を「目指す」存在なのであって、養成や採用の段階で高度専門職性が担保されるわけではない。
教員養成部会の論点整理(昨年10月15日)は、教員免許取得に至る学びを再構築した上で「より高い専門性は教職大学院で確保する」と言っている。普通に考えれば、養成段階では「低度」専門職であることを認めたに等しい。しかし、その自覚もなくフィクションを重ねているところに審議の深刻性がある。
本社は教職を担う教員の多くが、高度専門職の域に達していることを決して否定するものではない。しかし、そこに至る道筋を具体的に示してこそ養成・採用・研修の「一体改革」ではないか。それには、まずは教職=高度専門職という安易な図式の否定から始めなければならない。
だいたい、マニュアルを見ながら手術をする医者などいなければ六法全書を引き引き法廷に臨む法曹もいない。ましてや教科書の「赤刷り」に頼って授業をするような職業が、本当に「高度」専門職なのか。もちろん子どもをホリスティック(包括的)にみて教え導くことは、専門職として高度であることに疑いはない。だからこそ人格の完成(教基法)のように、高度専門職を目指し続けることこそが教職の本質なのだ。
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