社説

2017年9月16日 (土)

「ミサイル安全」より防災対策だ

 15日朝に北朝鮮が発射したミサイルは、8月29日とほぼ同じコースで列島上空を通過した。全国瞬時警報システム(Jアラート)も同じ12道県に国民保護情報を出し、休校は9校から1校に減ったものの、登校時間を遅らせたのは3倍以上の122校に上った。

  「発射直後から落下まで完全に探知して、追尾していた」(菅官房長官)というなら、なぜ東日本の全域近くに広がる地域が対象となったのか、そもそも茨城県が入っていながら千葉・東京・神奈川の3都県が外れているのはなぜかなど「国民」としても疑問は多々ある。しかし問題にしたいのは、教育界の対応である。

 ニュースを見ていれば、10分もしないうちに北海道南部、せいぜい青森県を除いて危険性がないことは判断できたはずだ。それなのに登校時間を遅らせる学校が続出したのは、明らかに過剰反応と言うべきである。

 それを助長したのは、明らかに9月8日付の文部科学省事務連絡であろう。「北朝鮮による弾道ミサイル発射に係る対応について」。通知・通達ではないため同省のホームページには掲載されておらず、そのため一般国民は行政のチェックがしにくい。一部の教育関係団体や教育委員会が引用しているので、検索を工夫すれば探すことはできるのがせめてもの幸いだ。

 事務連絡は、自治体の国民保護計画を参考にしながら危機管理マニュアルや学校安全計画を見直しておくとともに、自治体と連携した避難訓練を推進することを求めている。のみならず「始業前においては、登校前の児童生徒等は自宅待機とし、登下校中又は既に登校している児童生徒等については…行動をとること等について、あらかじめ注意喚起しておくこと」と留意を求める丁寧ぶりだ。

 そもそも、どんな兵器が搭載されているか分からないミサイルに、どう対処せよというのか。Jアラートの表現を「頑丈な建物や地下」から「建物の中、または地下」に言い換えたところで、何ら変わるものでもない。「政府としては、国民の安心・安全の確保に万全を期して」いると言われても空手形のようなものであり、それなのに「保護者、児童生徒等を必要以上に不安にさせることがないよう十分配慮すること」を求めるのは矛盾している。

 何より問題だと思うのは、それによって極めて必要性の低い「ミサイル安全」が学校安全で最優先されることだ。ただでさえ学校は交通安全や火災訓練などに追われている。東日本大震災以来クローズアップされてきた防災教育がおろそかにならないかと心配になる。

 百歩譲ってミサイル安全の教育が必要だとしても、防災を題材に自らの身は自らで守る思考力・判断力・表現力を身に付けさせる中でこそ対応すべきだ。それを政府の要請通りに行動することを求めては、ものを考えない国民づくりに加担するだけである。

 それこそが政権の狙いだ、とまでは言わない。ましてや「戦争ができる国づくりの一環だ」などと言うつもりもない。しかし確固たる戦略もないまま泥縄式に政策を進める政官界の体質は、戦前と変わらないようにも思えてならない。少なくとも政権の意向がここでも行政をゆがめていることだけは、強調しておきたい。

〔過去の社説〕
教職課程コアカリ 忖度の「ミサイル教育」
「ミサイル安全」 学校教育の過剰反応は避けよ

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2017年8月29日 (火)

「ミサイル安全」 学校教育の過剰反応は避けよ

 29日早朝、北朝鮮が予告なしに列島上空を通過するミサイルを発射した。とはいえ、この間の経緯を考えれば日本に飛翔体が落下する可能性など極めて低いことは素人目にも明らかだろう。それなのに、まるで日本が攻撃対象になったかのような大騒ぎには強い違和感を覚えざるを得ない。

 新幹線や電車が止まることも奇異だが、一部の学校が休校したり、登校時間を変えたりしたのは明らかに過剰反応ではなかったか。危機管理は重要だが、実際に措置を取るかどうかは冷静な判断を要しよう。

 あえてこうした苦言を呈するのも、学校に過剰反応を求める「上から」の恐れが実際にあるからだ。

 6月に公表された次期小・中学校学習指導要領解説の総則編に、奇妙な文言が入っていた。今回から明記された「安全に関する指導」に関連して、生活安全、交通安全,防災安全の3領域のみならず、情報関連の事件・事故防止とともに「国民保護等の非常時の対応等の新たな安全上の課題に関する指導を一層重視し」とある。国民保護といえば、今朝テレビを点けた多くの人が白抜き文字で目にしたことだろう。

 一応、根拠は3月に策定された第2次学校安全推進計画にあるらしい。確かに同計画には「従来想定されなかった新たな危機事象の出現などに応じて」とある。ただし、これは明らかにテロ等を想定したものである。2020年に控える東京五輪・パラリンピックを考えれば、理解できなくもない。しかし、「ミサイル安全」となると別だ。

 解説書を根拠に、ミサイル避難訓練を求めるようなことがあってはいけない。現実的な危険が想定しにくいのに、危機をあおるのは別の目的があるとしか思えないからだ。

 教職課程コアカリキュラムにこっそり「我が国の学校をとりまく新たな安全上の課題」がたくしこまれていたことは、既に論じた。どうやら現政権は、より外堀から徐々に埋めていき既成事実を作っていく目論見らしい。姑息としか言いようがない。

 実は総則の解説には、先の一文に続いて「安全に関する情報を正しく判断し、安全のための行動に結び付けけるようにすることが重要である」とある。思考力・判断力・表現力は学校教育法30条2項が定める学力の3要素の一つであるとともに、次期指導要領で育成すべき資質・能力の一つでもある。

 18歳選挙権に対応した主権者教育も、来年3月に告示予定の高校指導要領のみならず小学校からの課題でもある。政権の意向を批判的に検討して自ら判断し行動できるようにすることも、大切な資質・能力の育成だ。もちろん、その上で政府の言うミサイルの脅威に賛同する判断をすることも尊重されよう。しかし学校が防空演習を強要されるような事態は、絶対に拒否しなければならない。

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2017年6月15日 (木)

教職課程コアカリ 忖度の「ミサイル教育」

 記事配信を本業とする本社としては本来、依頼メディアに記事掲載されてから論じるべきことかもしれない。しかし、それではパブリックコメント(意見公募手続)の終了後になってしまう。また報道の最末端にいる者として、国家権力のチェックを怠ったことも正直に恥じ入らねばならない。

 教職課程コアカリキュラム(コアカリ)に関して14日夜、上智大学で緊急シンポジウムがあった。25日が期限のパブコメを出す際の参考にしてもらおうと開催されたものだ。

 コアカリの策定、もっと言えば再課程認定で文部科学省が何を狙っているかは、この際おいておこう。各論に問題は多々あるにしても、本社は必ずしも課程認定の厳格化に総論として反対するものではない。

 看過できないのは、シンポで指摘された以下の点だ。3月の第4回「教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会」の案には、学校安全の到達目標の一つに「生活安全、交通安全及び災害安全等の各領域の安全管理並びに安全教育の両面から具体的な取組を理解している」とあった。

 それがパブコメの案では「生活安全、交通安全、災害安全の各領域や我が国の学校をとりまく新たな安全上の課題について、安全管理および安全教育の両面から具体的な取組を理解している」(傍線はシンポ報告者のレジメによる)に変更されている。

 報告者は「これ(傍線部分)が何かは混とんとしている」と控えめだったが、会場に参加していた文科省の審議会行政にも詳しい研究者は「ミサイルのことに決まっている」と喝破した。確かに最近、北朝鮮のミサイル発射を想定した自治体の避難訓練に学校も巻き込む例が増えてきている。

 もちろん手続き上は問題がない。座長一任を取り付ければ、その後に事務局と相談の上で修正が加わるのはよくあることだ。しかしそこに当該検討会はおろか中教審等でも一切議論されていないことがたくし込まれたとすれば、やはり政権の意図を疑わざるを得ない。

 思い起こされるのが、以前論じた「解釈改訂」だ。当時の下村博文文部科学相は学習指導要領本体の改訂を待たずに、解説を一部改訂して「領土教育」を盛り込むという異例の措置に出た。

 パブコメを受ける格好で、政権の意図を体現しようとしたこともある。次期指導要領の「海洋教育」のことだ。以前の社説で紹介した通り一部中教審委員の異論を受けて、結果的には現代的課題ではなく社会科等に位置付ける形で落ち着いた。

 文教行政に政治的な意向をこっそり反映させることは、今に始まったことではない。しかし森友・加計の両学園問題で注目された忖度(そんたく)がまん延している証左とみることもできよう。誰が行政をねじ曲げているのかは、明らかだ。それも形式上は「正当」な手続きを踏んだ上で、である。

 本社はもともと、パブコメの実効性に期待していない。反対意見が多く寄せられたとしても、どうせ聴き置かれるだけなのは今に始まったことではないからだ。「ミサイル教育」にしても、支持する国民はあろう。しかし安倍一強の下でどのような政治が進められているのか、たとえ細事であっても書かずにいられない。

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2017年5月17日 (水)

高大接続改革 本丸は「入試」ではなく「教育」

 文部科学省が「高大接続改革の進捗(しんちょく)状況」を発表し、「高校生のための学びの基礎診断」「大学入学共通テスト」(いずれも仮称)と2021年度大学入学者選抜実施要項の実施方針等の案をパブリックコメント(意見公募手続)に掛けた(6月14日まで)。

 6月いっぱいの策定が「年度初頭」に当たるのかどうか疑問だが、そもそも「目途」と逃げを打ってあったのは「霞が関文学」の真骨頂である。しかし、これまでの経緯を振り返っても、なかなか「進捗」しない状況には苦笑せざるを得ない。

 今さら共通テスト案の妥当性を論じるつもりはない。既に文科省自身、修正が効かないほど周辺政策も含めガチガチに固めて動き出しているからだ。「10年かけて育ててほしい」という担当者の説明は、本音だろう。かつて本社も配信記事で「10年後」を展望して論じた。

 高大接続には「入試接続」と「教育接続」があるとの説に従えば、入試接続はこの際どうだっていい。個人の人生にとっても社会への人材輩出にとっても、教育接続を進めることの方が絶対的に重要だからだ。

 その点、大学側は既に18歳人口減の再本格化を控えて「三つの方針」(3ポリ)改革に血眼になっている。「入試が変わらないと変われない」とうそぶいていた高校側も、高大接続改革論議の効果も相まって変わらなければいけないという機運が出てきた。

 大学教育と高校教育がコンピテンシー(資質・能力)ベースで転換してくれば、その間にある大学入学者選抜もコンテンツ(学習内容)ベースからの転換を余儀なくされるはずだ。どういう入試をするかは、技術的な問題でしかない。その技術論でいつまでも迷走しているのは、入試接続のわなに文科省自身が陥っているようなものである。

 過度の入試依存は、大学入学経験者の人生にいびつさを与えてきた。若い時期にどこの大学を出たかで人間の価値が決まるはずはないのに、世間ではいまだに偏差値信仰がこびりついている。

 少子高齢化やグローバル化をはじめとした社会の変化を、深刻に受け止めるべきだ。今こそ教育に注力し、少数精鋭で有意な人材を輩出しなければならない。それは決して国や経済のためという矮小化された戦略ではない。現行憲法の保障する幸福追求権の実現であり、改正教育基本法さえ追認した平和で民主的な国家の理想の実現である。

 幸か不幸か、本丸であるべき入学者選抜実施要項はザルのようなものである。3ポリ改革の自由度を縛らないための配慮でもあるのだろうが、それだけに大学側は真剣にアドミッション・ポリシーに基づく入学者選抜の在り方を模索してほしい。

 それは当然、入学後の教育につなげるための手段でしかない。「高大連携」で高校側へ正確なメッセージとして伝えることから、教育接続への第一歩が始まろう。国に頼っても、資金を出してくれないばかりか口ばかり出されたあげく混迷に巻き込まれるだけである。

【過去の社説】
高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜 (2010.11.25)
大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から(2011.1.16)
「終焉」した大学入試に対応が急務だ(2012.2.11)
大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない(2012.6.8)
高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ(2012.9.2)
実行会議4次提言 半年遅らせただけの「大改革」論議(2013.11.2)
大学入試改革 「人物本位」は誤解を招く(2013.11.9)
大学入試改革 各方面で「覚悟」を(2013.11.21)
「発展レベル」テスト まずは必要性と緊急性の共通認識を(2014.6.21)
〔戦後100年へ③〕高大接続改革 「入試」から決別する時だ
(2015.1.4)
「基礎学テ」をセ試改編の「高大接続テスト」に(2015.7.3)
高大接続改革 あえてスケジュールにこだわれ(2015.12.30)
残念な複数回先送り 新テストの“入試接続”依存
2016.1.30)
高大接続改革 できることだけ着実に進めよ(2016.9.5)


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2017年2月10日 (金)

新指導要領(2) 「三つの柱」更なる検証を

 育成すべき「資質・能力の三つの柱」を基に、教科・領域等に横串を、学校段階に縦串を刺して、学習指導要領を「構造化」する――。今回改訂の眼目である。今後10年に向けた検証の第一は、まさに「三つの柱」自体に置かれるべきだろう。

 ①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学びに向かう力・人間性等。これら三つの柱が、学校教育法30条2項で定める「学力の3要素」(①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学習態度)に沿ったものであることは容易に想像がつこう。

 だから「学力の3要素」との違いをめぐって混乱が起きて当然だし、過去の例からも一字一句の違いをめぐって“トンデモ解釈”が流布する恐れさえある。それはひとえに、緻密で分かりにくい「構造化」を選んだ文部科学省の責任である。

 「三つの柱」に比べれば、改訂の準備作業段階で国立教育政策研究所(国研)が提唱した「21世紀型能力」の方がよほど分かりやすく、すっきりしていた。基礎力・思考力・実践力の3層構造で、思考力が中心となって「生きる力」を育成する、というものだ。

 「資質・能力」検討会では国研の報告に対して、3層の外に「人格」を位置付けることを求めた。それによってますます「日本型資質・能力の枠組み」が完成するとの期待を抱かせるに十分だった。

 しかし中教審の本格論議以前に、この21世紀型能力を採用しない方針が事実上決まっていた。代わりに文科省事務局が議論を誘導したのが、「三つの柱」の原型だった。要するに「学力の3要素」との整合性を重視する方法を選んだのだ。

 本来、資質・能力は国際バカロレア(IB)の「10の学習者像」のような単純なものでも良かったのではないか。「明治以来140年」をうたうにしても、21世紀型能力はその現代的解釈として見事に通用する。

 そもそも「学力の3要素」に、妥当性はあったのか。学校教育法に規定する際、中教審に諮ったわけではない。きちんとした教育学・学習科学の裏付けもなく、文科省の政策的判断として立法されたにすぎない。つまり「教育」ではなく「政治」だ。

 中教審答申は、「三つの柱」が「2030年に向けた教育の在り方に関するOECDにおける概念的枠組みや、本年5月に開催されたG7倉敷教育大臣会合における共同宣言に盛り込まれるなど、国際的にも共有されている」としている。後者について、伊勢志摩サミットで配られた「リーマンショック時並み」という妙な資料と同レベルとは言わないが、同様の国内向けである色彩が濃い。

 文科省が説明する通り、確かに米国のカリキュラム・リデザイン・センター(CCR)によるカリキュラム・デザインのベン図にある三つの円が「三つの柱」に対応しているのだが、「知識」の円が知識・技能に、「スキル」の円が思考力・判断力・表現力にという対応関係は合っているのか。「人間性」に至っては、むしろ同センターのアイデアを拝借したものと言うべきだろう。

 もちろん21世紀に向けたコンピテンシー・ベースのカリキュラムをどうデザインするか、国際的にも定説があるわけではない。だからこそ今後10年、学校現場と研究者を総動員した実践研究によって検証と模索を続けるべきだ。少なくともその間、政治的な判断は極力排除したい。

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2017年1月 3日 (火)

新指導要領(1) 壮大な未完の「転換」

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会の答申が、昨年12月21日にまとまった。諮問から2年余り、前段の「育成すべき資質・能力」検討会を含めれば4年にわたる大掛かりな改訂である。文部科学省事務局の膨大かつ緻密な作業と粘り腰には、中教審委員ならずとも労をねぎらいたい思いがする。当初から注目してきた通り、総論には大賛成だ。しかし3月に小中学校の告示を控えた今、無念さと懸念が募る。

 次期指導要領は、これまでの「延長」なのか、「転換」なのか。当の文科省は、転換という言葉を嫌っているらしい。確かに指導要領の「構造化」は前回2008年改訂以来の課題だったし、1998年改訂から掲げた「生きる力」、ないしは臨時教育審議会答申を受けた89年改訂の「自己教育力」―あえて「新学力観」は留保しておこう―を継承したものであることも確かだ。

 そもそも「生きる力」とは、どうすれば育成できるのか。今までの指導要領ではその点が必ずしも明確ではなく、その解釈も実践も学校現場に任されていた。その脇の甘さは「新学力観」時代からのネックであり、それゆえに、いわゆる「ゆとり教育批判」にも足元をすくわれた。

 だからこそ本社は、「資質・能力」シフトを掲げた今回の改訂に大きな期待を掛けていた。これによって、ようやく21世紀型の教育に向かって具体的なスキル育成に乗り出せるとともに、08年の中教審答申で指摘されていた「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立から脱するだけでなく、二項対立そのものを無化できると考えたからだ。そのように位置付けてこそ、90年代の「受験競争の緩和」にとどまらない「(狭い)学力」偏重も是正できたろう。

 とりわけ資質・能力検討会が切り開いてくれた「21世紀型」の地平は、過去と未来の指導要領に現実的な結節点を見せてくれたように思った。コンピテンシー(資質・能力)の深い学びにはコンテンツ(学習内容)や教科ならではの学びが不可欠だというのも、その範囲内で大いに同意できる。多少強引と思えなくもないトップダウン式の審議会運営も、大転換のための必要悪としてなら黙認できた。

 しかし今回それを逆手に取って学習内容の削減を「一切」行わないという方針を、さほどの議論もなく既定路線として誘導したのは問題だ。今でさえ次期指導要領の理念が現行時数でこなし切れるのか、現場からは懸念が出ている。

  文科省事務局は、よほど「ゆとり教育批判」の再燃を恐れているらしい。「脱ゆとり教育宣言」が極めて永田町・霞が関ムラ内のお家事情で発せられたとはいえ、文科省自身が二項対立に捕われていることの査証にしかならない。

 そもそも現行の学習内容を、無条件に認めたままでいいのか。各教科では、極論すれば「親学問」のミニ版を改訂のたびごとに足したり引いたりしてきたにすぎない。無藤隆・中教審教育課程部会長は扱いに「メリハリ」を付けることを提唱しているが、次期指導要領にも明記されるのか、少なくとも答申上の保証はない。

 残念だったのは、14年6月で実質上打ち切られた高等学校教育部会の「審議まとめ」で提唱された「市民性」(シチズンシップ)の論議が一向に深まらなかったことだ。「コア」は高校教育にとどまるべきものではない。教育が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法1条)の育成を期すというなら、市民(シチズン)としての判断に資する知識とは何かが本格的に検討されなければならなかった。アカデミーに進むための知識は、あくまでオプションだ。

 今回の改訂は、文科省による机上プランでしかない。それも八方美人的な政策判断をさんざん重ねた上に、だ。「カリキュラム・マネジメント」の美名の下、全ての課題解決を押し付けられる学校現場はたまったものではない。

  今こそ教育現場と研究者の総力を挙げて次期指導要領を実践的に検証し、改革提言を行うべき時だ。それも自主編成だの教育の条理だのという時代遅れではない、エビデンスに基づいた未来志向と社会連帯の教育課程論議を、である。今すぐ着手してこそ、やっと2030年改訂での「転換」が展望できよう。少なくとも今回は、さまざまな点で「未完」と言うべきである。

 

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2016年12月30日 (金)

TIMSS・PISA(下)読解力 読み方がズレている

 2015年に実施された二つの国際学力調査では、好調だった理数系とは裏腹に、PISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の読解力が前回(PISA2012)に比べ有意に低下した。「理由が見当たらない」と戸惑いをみせながらも分析を披露していた文部科学省の説明は、若干苦しかったように思う。というより、事は「テスト」ではない「調査」(アセスメント)の読み方という、本質的な問題なのかもしれない。

 そのことが非常に分かりやすく示されたのが、15日に行われたNPO法人教育テスト研究センター(CRET)など主催のシンポジウムだった。信州大学の林寛平・大学院助教は「大規模国際アセスメントの目的と限界を正しく理解し、『犯人捜し』ではなく、長期的な視点に立った政策立案につながることを期待したい」と述べていた。

 林助教によると、そもそも読解力の測定は他の分野に比べて振れ幅が大きい。しかもPISA自体、相関しか示せず、因果まで説明できないものである。PISAの調査設計には国際的合意が必要なので、長い時間が掛かる。教育政策の改善は、それを待ってはいられない。読解力が「低下」したというのなら、その要因は他の調査などで補うなど立体的に分析すべきだ、という。

 そう考えると、初めてPISAとTIMSS(国際教育到達度評価学会=IEA=の「国際数学・理科教育動向調査」)が同時発表された2004年末の「悪夢」を思い出す。PISA2003で数学的リテラシーや科学的リテラシー以上に読解力が大幅に落ち込んだことが、学力低下の客観的根拠だと騒ぎ立てられたことだ。

 国際順位の「低下」は、参加国・地域の増加によるものが大きい。読解力調査は初回のPISA2000で中心分野だったから、一応は前回の得点差が統計的に有意なら低下したとは言えるのだが、もともと振れ幅が大きいとしたらそう深刻になる必要はなかったはずだ。OECD当局も当時「日本は依然トップグループだ」と評価していた。

 それを当時の文科省までもが「もはや日本はトップではない」と認め、読解力指導の強化に乗り出した。そのこと自体は悪くない。しかし今に至るまでの「ゆとり」「脱ゆとり」の混迷に自ら足をはめたことは、2008年、そして2017年の学習指導要領改訂にまで良くない影響を及ぼしたとしたら残念である。

 PISA2015が全面的にコンピューター使用型調査に移行した影響が、読解力の測定に影響を与えたことは否定できない。林助教も「過去の得点との比較可能性が若干損なわれた」と指摘していた。

 改めて当局者のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長の言に耳を傾けてみよう。「得点が下がったと考えるのではなく、21世紀型スキルを身に付けさせるために教育はどのような改善ができるのか、という見方をしたい」

 いま考えるべきは、これから人工知能(AI)時代に生きる子どもたちに「デジタル読解力」をいかに身に付けさせるかだ。まとめサイトが社会問題化する中、情報の真偽を判断する力も「意味」を理解できる人間にしかできない資質・能力だろう。

 文科省もよく分かっているはずだ。だからこそ新井紀子・国立情報学研究所教授と連携するなどして分析調査に乗り出すのだろう。しかし対策が「読解力対策」に終始する限り、学校現場に対して「これからは読解力の向上が重要だ。そのためには、まず語彙(ごい)の教え込みが必要だ」という、ズレたメッセージを与えかねない。

 次期指導要領については新年に改めて論じたいが、せっかくコンテンツ(学習内容)ベースからコンピテンシー(資質・能力)へのシフトを展望した教育課程の構造化が試みられたというのに、調査や指導の捉え方が従来のままでは的外れな改革になってしまう。何より文科省自身が「脱ゆとり宣言」の自縄自縛で国が指導を強化すれば学力も「向上」すると思ったままでは、先が思いやられるというより現場をますます苦しめることになりはすまいかと危惧する。

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2016年12月 7日 (水)

TIMSS・PISA(上)理数系 “教科の外から出ない”改革?

 代表的な二つの国際学力調査、TIMSS(国際教育到達度評価学会=IEA=の「国際数学・理科教育動向調査」)とPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の2015年結果が、相次いで発表された。6日の中央教育審議会教育課程企画特別部会はPISA解禁に合わせて19時からの開会となったが、30分前の開場と同時に配られた資料に「ポイント」が入っていたのはフライングではないのか――という難癖はおいておこう。

 理数系(TIMSSは算数・数学と理科、PISAは数学的リテラシーと科学的リテラシー)に関して文部科学省は、現行学習指導要領で授業時数や学習内容を大幅に増やしたため、ともに前回(各11年、12年)に比べ改善したとしている。しかし、手放しで喜んでいいのか。PISAの読解力に課題があることは明らかだが、調査結果をどう評価するか、われわれ自身の読解力も問われよう。

 学校で学んだ知識・技能を測るTIMSSの得点は、いずれも前回より統計的に有意な上昇となっている。文科省が言うように、指導要領改訂の効果があったと認めてよい。実社会の課題に活用できる力を問うPISAも数学が前回の参加国中7位から5位(OECD加盟国中2位から1位)、科学が4位から2位(同いずれも1位)に上昇した。

 ただしPISAの報告書や要約を読むと、意外なことが書いてある。数学は比較可能な03年以降、科学は同06年以降、得点差に統計的有意差はないというのだ。03年の「PISAショック」はもとより、06年の結果も、文科省は「もはや日本は世界トップクラスではない」根拠にしたのではなかったのか。

 文科省が挙げるもう一つの改善理由が、質問紙調査の結果だ。確かにTIMSSもPISAも、国際平均より依然低いものの「学習が楽しい」「将来に役に立つ」という回答が増加しているのは「改善」と言えなくもない。

 しかしOECDの説明を聞くと、見方が少し変わってくる。日本は科学の成績が高いにもかかわらず、学習を楽しんでいる度合いも、将来の職業につなげようという意欲も低い。

 ここから何を読み取るか。日本の生徒は、あくまで授業を「勉強」、あるいは良い成績を取る対象としか捉えておらず、社会につなげようという意識が薄い――もっと言えば、社会とは関係のないものと思っていないだろうか。

 学習の生産性という分析も興味深い。日本は理科の学習時間が比較的短いにもかかわらず、PISAで好成績を収めている「生産性の高い」国だ。確かに文科省が説明するように、授業では観察・実験の機会は増えただろうし、OECDもその点を評価する。しかし、それが肝心の生徒に伝わっておらず、単なるテストのための勉強のままだとしたら、どうなるのか。

 教育改革に関しては昔からよく「教室の戸で止まっている」というような言い方がされてきた。実際の授業や教員に反映していない、という例えだ。それに倣えば、教科の学習がいつまでも教科の外に出ない、もっと言えばペーパーテストの紙の上に閉じこもったままなのではないか。

 理科の学習は、職業に直結するだけではない。主権者として社会の課題を科学的な知識や思考力を基に判断し、意思決定するためにも不可欠だ。あえて例を挙げるなら、いくら放射線教育を強化したとしても、原発避難者に対する偏見がなくならなかったり、立地県以外に原発再稼働に対する関心が薄かったりしていては、何にもならない。

 とかく日本ではテストといえば、少しでも高い点数が取れればいい、順位は一つでも上の方がいい、と考えがちになる。しかし、両者が「テスト」でなく「調査」であることは、全国学力・学習状況調査と同じだ。とりわけPISAは国際学力コンテストではあり得ず、結果を科学的根拠(エビデンス)として各国の教育政策に反映させることを目的としている。そこから読み取るべき課題を読み取らずに「改善」を喜んでいては、「社会に開かれた教育課程」の行く手が阻まれることにならないか。6日の特別部会で次期学習指導要領の答申案が示されただけに、ますます心配になる。

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2016年11月23日 (水)

「海洋教育」に対する別の違和感

 年末の中央教育審議会答申に向けて大詰めを迎えている次期学習指導要領の在り方について、8月の「審議のまとめ」から記述を充実させる項目として「海洋教育」が急浮上している。これに対して21日の教育課程部会では委員の奈須正裕・上智大学教授がカリキュラム論の立場から「強い違和感」を述べていたが、本社も別の角度から強い違和感を表明しておきたい。

 海洋教育は10月26日の同部会で、文部科学省事務局の報告に突如として出てきた。審議まとめに関して約1カ月にわたり行われたパブリックコメント(意見公募手続)で「個別の項目については、海洋教育、主権者として求められる力、特別支援教育、多様性と教育等に関する御意見が寄せられた」のだという。

 におうなと思っていたら、果たして11月14日の教育課程企画特別部会に出された1枚紙の「答申に向けて記述の充実を図る事項(案)」に「教科横断的な視点に基づく資質・能力の育成」として、いわゆる主権者教育の次に海洋教育が入っていた。

 パブコメの資料には、▽多数の島から構成され、四面を海に囲まれている海洋国家である我が国の教育においては、海運など海事関連の産業が国民生活と日本経済を根底で支える重要な役割を担っていることが正確に理解されるようにする必要がある▽グローバル化が進む社会という観点から、領土や国土に関連しての領海・EEZ(編注=排他的経済水域)など海洋の重要性や意義の理解に関する内容が盛り込まれることが必要である――とある。

 奈須教授の違和感とは、これが「資質・能力」として挙げられていることだった。いずれも「コンテンツ」(学習内容)に属する話であり、これまで社会科等で取り上げられていたものでもある。教科横断的な視点として取り上げては、カリキュラムや学力、資質・能力の構造が崩れてしまう。それよりは、審議まとめにある「現代的な諸課題」として「グローバル化の中で多様性を尊重するとともに、現在まで受け継がれてきた我が国固有の領土や歴史について理解し、伝統や文化を尊重しつつ、多様な他者と協働しながら目標に向かって挑戦する力」の方がよほど資質・能力論的だしダイナミックだ――というのが、奈須教授の指摘である。

 さすがは「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」(2012年12月~14年3月)以来、改訂論議をリードしてきた専門家の卓見である。しかし学のないひねくれ者の本社としては、別の違和感を抱いている。

 パブコメにより一般国民の意見を取り入れて修正する、というのは公正で透明な行政運営としては誠に望ましい。ただ、特段の説明もなくパブコメで指摘されたからといっていそいそと盛り込むのは、出来レースと疑われても仕方なかろう。

 もちろん、意見を受け入れる土壌があったことは理解する。現行の政府「海洋基本計画には「学習指導要領を踏まえ、海洋に関する教育を充実させる」とあって、ご丁寧にも「必要に応じ学習指導要領における取扱いも含め、有効な方策を検討する」としている。しかし海洋基本法自体が07年4月の第1次安倍内閣下で成立し、現行計画が13年4月の第2次安倍内閣下で閣議決定された偶然を思うと、怪しくてたまらない。

 怪しいといえば、やはり第2次安倍内閣下の14年1月に突如として指導要領解説が「改訂」され、領土・領海教育が中学校社会科などに盛り込まれたことが思い起こされる。この時は下村博文・文部科学相(当時)の判断だったので、むしろ爽快なほどの政治的意図が感じられたものだった。

 控え目に言っても、学校現場で取り上げることが必須な〇〇(マルマル)教育をまた一つ増やすだけである。本来は必要な学校がカリキュラム・マネジメントにより創意工夫で行えばいいだけのものを、わざわざ特出しして入れようとするのはプログラミング教育よりたちが悪い。

 何より今回の改訂作業ではコンピテンシー・ベースの論議が中心で、コンテンツの議論はほとんどなされなかった。前者は前者で見識なのだが、学習内容の削減は行わないと早々に表明した割には後から余計なものが付け加わるのには、ますます違和感を抱く。もちろんフリーハンドである答申後の告示文編集作業で強いてたくし込ませるよりはよほど「透明」だが、「公正」だとはとても思えない。

 怪しさついでに付言すれば、以前から海洋教育に関する企画が某専門紙で展開されている。事情が推察できるだけに批判するつもりはないが、エネルギー教育と同じにおいを感じてしまうのは自然だろう。そういえばエネルギー教育も、東日本大震災から5年を過ぎて徐々に“解禁”されてきた。ますます妙な空気が漂ってきている。

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2016年10月 4日 (火)

就職活動日程 いっそ採用したら

 10月に入り、一部企業で内定式が行われている。就職・採用活動をめぐっては、経団連が2017年度新卒学生の日程を、今年度と同じく4年生の3月に説明会開始、6月から選考解禁とする方針を決めた。次年度以降は今後、再検討するという。

 会員企業には15年度卒までの3年生12月説明会開始、4月選考解禁が良かったとする意向が強い一方、政権の意向を受けて後ろ倒しにした以上、完全に戻すとは言い出しにくい、ということらしい。

 画期的な提案を申し上げたい。選考解禁が12月だろうと4月だろうと構わない。その代り内定ではなく即、採用するのである。

 もし「やっぱり卒業して学位が欲しい」という学生に逃げられることを心配するなら、残りの在学期間を大学への派遣研修と位置付けてはどうか。企業の課題に直結するテーマを卒論や卒業研究に設定するよう、指導すればよい。初任給の満額支給と言わなくても、奨学金プラスアルファなら経済的負担に悩む学生側にもメリットは大きい。

 馬鹿なことを言うな、と思うだろうか。しかし、よくよく考えてもらいたい。「大卒」を求めると言いながら、実質3年間の学修で、下手をすると3年生も終わっていないのに内定を出している馬鹿な選考をしているのは誰かと。

 大学が「狭き門」だった時代なら、激烈な入学者選抜競争をくぐり抜けてきた者は一定の優秀な人材となる可能性は高かったろうし、「大学では余計なことをするな。企業に入ってから鍛える」と、うそぶくこともできた。しかし、今や大学進学がユニバーサル段階に入った現実を、よくよく直視すべきだ。

 新卒一括採用の見直しというのも、かねてから経団連の主張ではなかったか。青田買いしたくなるほど有能な人材なら卒業を待たずに採用すればいいし、まだ実力不足だと思うのなら、卒業後に期待すればいいだけの話だ。

 いま大学には「三つの方針」を基にした、卒業認定・教育課程・入学者選抜の一体的改革が求められている。4年間で厳しい教育を行って社会に有意な人材を育てようとしているのも、社会からの要請に応えようとしているからだ。

 経団連はこれまで教育に対して、さまざまな提言をしてきた。それは良しとしよう。しかし選考開始が4月だ8月だ、中を取って6月だなどという議論に、教育的な発想はあるのか。

 大学教育への支障を顧みようともしない経団連に、企業の社会的責任を語る資格はない。内定即採用ができないくらいなら、教育に対する口出しも一切するなと言いたいくらいだ。根本二郎氏(故人、元中教審会長)のような見識のある経済人はもう出ないほど、経済界は劣化してしまったのか。

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