社説

2020年2月 8日 (土)

大学入試検討会議 歴代文科相のヒアリングを

 文部科学省の「大学入試のあり方に関する検討会議」が7日、第2回会合を開催した。まずは経緯の検証ということで、英語と記述式の別に報告書が示された。12人もの外部弁護士が協力したという詳細なものだ。

 ただ、これには大きな限界がある。「議事録や報告書等から整理した」(各報告書)ということだ。もっとも会議の間や背景に何があったのか、ますます疑念を浮かび上がらせることができると評価することもできよう。

 実際に議論でも、まず益戸正樹・UiPath特別顧問が民間企業人の立場から「どうも結論が先にありきで、20年度というターゲットイヤーに縛られすぎていたのではないか」と口火を切った。それに続いて末冨芳・日大教授が、必ずしも英語民間活用に積極的ではなかった高大システム改革会議最終報告の2016年3月から8月までに積極的な流れが形作られたことを指摘。検討組織体が位置付けられない中の5カ月間にどのような意思決定がなされたことをただした。

 これに対して文科省事務局は、「英語力評価及び入学者選抜における英語の資格・検定試験の活用促進に関する連絡協議会」(14年12~17年9月)と「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)検討・準備グループ」(16年5月~、現「大学入学共通テスト」検討・準備グループ)で流れができたと説明した。

 しかし、事務方の説明を素直に聞くことはできない。その間、まさに省内でどういう「意思決定」と指示があったかこそが問われなければならないだろう。審議会は行政の「隠れみの」とも言われる通り、資料提出や進行・質疑応答、裏表の調整で役人がいかようにもコントロールできる。今回の一件も議事録や報告書等の「表」を見るだけでなく、まさに「裏」で何があったかを解明しなくてはならない。

 となれば、話は簡単だ。第2次安倍政権の発足から文部科学相(12年12月~15年10月) として強力に英語教育や入試改革を推し進めた下村博文氏や、「5カ月」の間に文科相(15年10月~16年8月)を務めた馳浩氏に問いただせばよい。14年7月から文部科学審議官、16年6月から文部科学次官を務めていた前川喜平氏を呼ぶのも一興である。

 第2次政権以降、政務三役主導の文科行政が進行したことは明らかだ。ならばその「責任」は、政治が負わなければならない。しかし萩生田光一・現文部科学相は、この日の会合でも中座前に「課題があるまま進んでしまったのは、もしかすると大きな課題は文科省そのものの体質にもあったかなと自分自身の反省を含めて思う」と述べた。まるで「職員」に判断ミスがあったかのような口ぶりである。

 重ねていうが、二つの柱の見送りでますます現場の混迷を深めたのは萩生田文科相の「責任」である。どうも安倍政権は国民の理解を得るまで何度も何度も同じ説明を繰り返し、しれっと次の改善に移すのが「責任」だと思っているふしがある。これでは役人の士気が下がって当然だろう。

 というより政治に屈した思考停止や政府方針の忖度(そんたく)の中でしか政策を考えられず、ねじ曲げられた文教行政が定着してしまうことを恐れる。純粋に教育の在り方を考えようとする古き良き文科省の体質を回復させることこそが、教育界のためにも国民・住民のためにも必要だ。

 国会で追及が続いている「桜」問題も、決してさまつな話ではなく現政権と行政運営の在り方を問うものだろう。検討会議でも、そうした本質を突き詰めるよう委員の一層の奮起を求めたい。
 

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2020年1月18日 (土)

大学入試検討会議 看過できない文科相発言

  最後の大学入試センター試験を直前に控えた15日、「大学入試のあり方に関する検討会議」が初会合を開催した。「大学入試のあり方」に対しては、改めて論じたい。ここでは、あまり報道されないだろうし議事録の公開も遅れるだろうが看過できない発言があったので、長文になるが起こしておく。開始から約1時間過ぎ、公務のため退席する際に行った萩生田光一文科相の発言である。

 みなさん本当に忙しい中ありがとうございます。これからまだ議論が続けていただけるかと思います。率直な、さまざまなご意見をいただきたいというふうに思います。私もこの二つの制度を立ち止まるに当たっては、一部報道なんかでは何か「政権の支持率を憂して」みたいなことを言われましたけど、そんなふうじゃなくて、本当に局の皆さんとも夜な夜な本当に真剣な議論をし、また多くの皆さんの声を聴いて、最終決断をしました。今まで積み上げてきていただいた多くの皆さんのご苦労があるわけですし、これは少なからず国民の皆さんの税金を使わせてもらってさまざまな制度設計してるわけですから、やめるということも大きな責任があるという、そういう判断の下で最終決断をしました。従って、やり直しをするに当たってですね、洋服の上から書くような議論をしたんではならないんだと思ってます。ぜひ、きょう選ばれた委員の先生方は、過去の議論に参加をしていただいた先生方もいらっしゃいます。それから、外からさまざまな問題提起をしていただいた先生方もいらっしゃいます。また、今回のこの問題が発生して、さまざまなアドバイスいただいた先生方もいらっしゃいます。それぞれ実はもうお立場がある皆さんですから、会議原則公開は私、大いに結構なんですけれど、しかし検証の事になりますとね、あの時に私が気付いたことは、実は野党の皆さんが国会で指摘をしました。野党の皆さんが指摘をしたことは、後ほど議事録を見ると、専門家の先生たちも問題提起をしていたり、外からのさまざまな提言もあったりするわけですよ。なのに、なぜここまで来てしまったのかっていうのは私は当時、不思議でならなかったんです。この平場でですね、メディアの皆さんの前で、例えば文科省の批判をするとかですね、他の委員の皆さんの発言に対して意見具申するっていうのは結構大変なことだと思うんで、決して目を隠すつもりはありませんけれども、どこかでは1回ちょっと雰囲気の悪い会議をやってもらったらいいんじゃないかと。一度はクローズでぜひ、そんなこともやっていただいて、後ほど議事録を出していただくということを1回やっていただいたらいかがかな、と思ってます。これ以上後退するわけにはいきませんので、「あの時、足を止めて皆さんで話し合って本当にいい制度になった。子どもたちも前向きに大学受験を目指すことができるようになった」と思ってもらえるような制度を作るために、ぜひ先生方の力をお借りしたいと思いますので、ぜひ闊達なご議論を賜りますよう、お願いをしたいと思います。併せて、文科省側もいろいろ思いはあるんでしょうけど、ここはもうすべてオープンにして、皆さんにさらしてですね、話をしていただきたいなと思うんです。例えばね、さっきセンター試験の説明の中で「私立大学や短大が、約700校がセンター試験を利用してます」って、こういう報告がありました。普通の人はそう思うわけですよ。だけど、これは入試の要するに700校っていうけれど、700校のうちのA大学の1学部の1学科のほんの一部が使ったって1校ってカウントしているわけですよね。ですから結果として、いわゆる選抜区分で割り戻したら何のことはない、3割の大学しか最初から使う予定がありませんでしたって。そして、あれだけですね、「4技能が大切だ。記述式も大切だ」って、大学や大学関係者、会う人すべてが私に言ってくれました。だけど文科省が共通テストでやめたからといって自力でやるっていう学校は、これしかないわけじゃないですか。本当に大事だと思ったら、なぜやらないのか私は不思議でしょうがない、わけですぅ。ですから、そういうことも含めて、数字は変なマジックは要りませんから、もう裸の数字を出していただいて、先生方にさまざまな議論をしていただく準備をしてもらいたいなと思います。「共通テストは700校の私立が使ってます」って言ったらそう思うけれど、そんなことはないわけですよ。700校の、ごく一部の学部の人たちが利用してるだけであって、圧倒的、国公立の大学の受験システムであることは、今の段階では否めないわけです。じゃあここに本当に私立の皆さんの思いっていうものを付加していくことが可能なのかどうなのかっていうことは、これから含めて考えていかなくちゃならないんで、数字はね、格好付けなくていいですから正しく示していただいて。また先生方にも繰り返しになりますけれども、どうぞ忌憚のないご意見をいただいて、ご批判も真摯に受けたいと思いますので、これから約1年間、長い時間になりますけれども、よろしくお願い申し上げて、今日は中座をお許しいただきたいと思います。以上です。

  もちろん約1時間の説明や議論を受けての発言なので、文脈が分からないと理解できない部分はあるだろう。しかし、ずっと傍聴していても、また改めて文字に起こしていても、何を言っているのか理解に苦しむ。「クローズ」については17日の定例会見でもクラブ記者に追及されていたので、ここでは論じない。

 推測すれば、過去の経緯については文科省や検討に参加した委員が悪かった、ということなのだろう。 それにしても政権の中枢を担ってきた者として、さらには文教族であり文科省通を自負しているらしい者として当事者意識の無さには、あきれ返るばかりだ。

 おそらく大臣は、本気でそう思っているのかもしれない。だとすれば、そのような認識で二つの見送りを判断したことになる。どこが「真剣な議論」の上での「最終決断」か。「『あの時、足を止めて皆さんで話し合って本当にいい制度になった。子どもたちも前向きに大学受験を目指すことができるようになった』と思ってもらえるような制度を作る」などと、どの口が言うのだろう。

 大臣の意向すら判然としない中では、これからの会議がどう進んでいくのか現段階ではさっぱり見通せない。個別試験との「役割分担」が落としどころになるのだろうが、 新課程入試の2年前予告に間に合わせるため1年間と検討期間を区切ったのも期待できない一因である。

 もちろん萩生田氏が検討会議の最後まで大臣を務め上げる保証もないから、途中で潮目が変わる可能性もなくはない。しかし、どちらにしても現段階では疑念や不安ばかりが募る検討会議の今後である。

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2019年12月 8日 (日)

PISAの「低下」 安倍政権の責任も大きい

 3日に発表されたPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)2018の結果について、各紙が1面トップなどで大きく取り上げた。今回の中心分野となった読解力が、得点も順位も大きく下がったからだ。文部科学省も発表資料で、統計的に有意に低下したことを認めている。

 ささやかな疑問が幾つかある。一つは、数学的リテラシーと科学的リテラシーを「引き続き世界トップレベル」と片付けていることだ。しかしOECD当局のカントリーノート(国別概要)を見ると、「読解力と科学的リテラシーについては、最近の傾向として明らかに低下した」と、科学的リテラシーの平均得点についても統計的に有意な低下を認めている。数学的リテラシーに関しても、「一見して明らかな安定」により見えにくくなっているが「習熟度上位層の得点は低下傾向にあった」と指摘している。

 読解力については、OECDの分析を紹介する形で「長期トレンド」としては統計的に有意な変化が見られない「平坦」タイプだとしている。確かに当局が今回そう紹介しているのだから、その通りではある。しかし、待ってほしい。文科省はPISA03が発表された段階で文科省は、既に「世界トップレベルとは言えない状況」と言っていたではないか。しかも06と続く低迷を経て09以降は「V字回復した」というストーリーまで付けて。

 PISA03の結果が発表された04年末は、依然として「ゆとり教育」批判が冷めやらぬ時期だった。既に学力向上路線にかじを切っていたにもかかわらず文科省が公式に「学力低下」を認めたことで、「ゆとり教育を反省して改めた」という“誤解”を広げた。もちろん省内にも誤解を広げるような言動をしていた者がいたのだろうが、一方で非公式スポークスマンにとどまらず「ゆとり教育」は修正されていないと認識している者は、当時の幹部の中にさえ少なくなかった。

 「ゆとり教育」論は過去にさんざん論じたし今回の本論ではないので繰り返さないが、要するに文科省はご都合主義でデータの解釈を示す可能性が大いにあるということだ。表向きは「エビデンス(客観的な証拠)に基づく教育政策」とうたっているが、むしろ現実には政権への忖度(そんたく)を優先していることは周知の通りだろう。永田町を通して世論が表れている、などという珍奇な論理も勘弁してほしい。

 一方、OECD当局の「エビデンスに基づく」指摘と併せて考えれば、相当な危機だと深刻に受け止めるべきだろう。確かにアンドレアス・シュライヒャー局長は、日本向けのインターネット記者会見で「学習指導要領の改訂は正しい方向に向かっている」と楽観視している姿勢を示した。これも誰かがそう注進しているからだろうが、国内的に見れば指導要領の理念の実現自体が決して楽観視できる状況にはない。

 後出しジャンケンで恐縮だが、本社は今回のPISAで日本の結果は低下するだろうと予想していた。上がる要素がないからである。そもそも前回のPISA15の結果発表自体、おかしかった。低下傾向が現れたことに、もっと危機感を持った分析と発表をすべきではなかったか。そうしなかった理由は明白だ。指導要領改訂の中央教育審議会答申を直前に控えていたからである。多くのマスコミも文科省発表を素直に受け止めて、そう問題視しなかった。

 そんな程度なら、今に始まったことではない。役人の常でもある。もっと重大なのは、12年をピークにして少なくとも読解力が低下傾向に入ったということだ。何が言いたいか。12年末に、政権交代があったことである。

 安倍晋三首相は「民主党政権に比べて良くなった」と自らの成果を強調することを常としている。しかし第2次安倍政権以降、PISAの少なくとも読解力は明らかに低下したではないか。「世界トップレベルの学力」を政権の重要課題として掲げ続けているのに、である。

 理由は明らかだろう。安倍政権はこの間、学校現場を良くする条件整備に本気で取り組んでこなかった。「なんちゃって教職員定数改善計画」も含めて、だ。スローガンだけの無策で、後は現場の努力に丸投げしてきた。その帰結が、多くが過労死ラインを越えて働く教職員の過酷な勤務実態ではなかったか。「学校の働き方改革」にも政権の無策ぶりが発揮され、文科省の対策も基本的には3年後の勤務実態調査に先送りされる極めて限界のあるものにとどまった。教職給与特別法(給特法)の改正が批判されているが、改正給特法だけが悪いわけではない。文科省がどうでもいい改革しか提示できなかったことをこそ問題視すべきだ。

 もちろんPISA型読解力の低下には、いろいろな要因があるのも確かだ。しかしICT(情報通信技術)機器の整備ひとつ取っても、政権の無策さが招いた結果と言っても過言ではない。とりわけ「世界トップレベル」を掲げ、かつSociety5.0への対応に執心している政権である。なぜ、トップを維持するコストに関心が向かなかったのか。

 少なくとも読解力だけは「世界トップレベル」でなくなったことに、政権としても深刻な反省をしなければなるまい。だからこそ今回は、年末に向けて深刻に受け止め予算編成に反映させるのがエビデンス・ベースというものだろう。よもや第1次政権のように「教育界」にダメ出ししたり、不祥事続きの文科省に責任を押し付けたりはすまい。「平静」を装って柔らかい言葉遣いで実質は恫喝まがいの姿勢を取ることも、同様である。

 

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2019年11月16日 (土)

混迷する大学入試改革 「高大接続」の再議論から

 英語4技能評価のために民間資格・検定試験を活用する「大学入試英語成績提供システム」が異例の見送りとなって以降も、大学入学共通テストの国語と数学への記述式問題導入をめぐって批判が続いている。

 まず確認しておこう。2016年3月の高大接続システム改革会議は「記述式問題や英語の多技能を評価する」新たな枠組みが提供されれば「教科の知識に偏重した1点刻みの評価の改革という点については大きく改善される」という論理で、中央教育審議会の高大接続改革答申(14年11月)が提言していた年複数回実施を見送っていたことを。英語4技能評価のみならず記述式まで見送られたら、今般の入試改革の前提が崩れてしまう。

 ここで本社は、記述式を断固導入すべきだと主張したいのではない。そもそも「入試改革」論議の在り方が間違っていた、ということだ。

 改めて原点に戻りたい。高大接続改革は、大学教育、高校教育、そして「大学入学者選抜」を一体で改革するものである。先の答申では、「既存の『大学入試』と『公平性』に関する意識を改革し…多様な背景を持つ一人ひとりが、高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で『公正』に評価し選抜するという意識に立たなければならない」と指摘していた。これこそが本来、「入試改革」の先にあるべき「大学入学者選抜改革」のあらゆる出発点であらねばならなかった。

 しかし議論の場がシステム会議に移ると、なぜか文部科学省事務局自体が「公平」な「入試」にこだわり出した。英語民間検定活用の制度設計が、その典型だ。本社はCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)を「入学者選抜」に導入すべきではないという意見を支持しないが、「1点刻み」の「入試」に適用できないことは当然のことだ。異なる検定を活用する以上、それを個別大学が利用するには多元的な評価が必然的に求められる。それだけの改革なはずなのに「入試」に拘泥することで、文科省は自ら墓穴を掘ってしまった――というのが今般の混迷の主因だろう。

 萩生田光一文部科学相は自らの下に検討会議を設け、新教育課程に対応する2024年実施の「入試」に向け英語4技能の仕組みについて1年かけて結論を出したいと表明した。2年前ルールで22年度に予告するにしても、あと2年以上の猶予ができる。そうであれば、今こそ高大接続改革論議をやり直す時だ。

 その際、戻るべきは不可解な進め方をしたシステム会議ではなく、あくまで中教審答申だろう。あの時までに行った議論をきちんと整理すれば、そう時間を要することもなかろう――あくまで「きちんと」の話であるが。

 ちなみに本社は、10年9月に文科省委託で北海道大学がまとめた「高大接続テスト」構想に戻るのが一番いいと思っている。共通テストの作問作業も生かしつつ思考力・判断力を重視した出題とし、追・再試験を2回目のテストとして実施すれば複数回受験も実現できる。

 英語4技能に関しては、あくまで高校が判定したCEFRの段階別評価を信頼する。それが「高校教育改革」からいっても筋だろう。高校現場に評価の自信がないというなら、民間検定を援用してもいい。受検を奨励すれば、活用が見送られた実施団体に対するせめてもの救済策になろう。実際に受検を促している自治体や学校は少なくないし、何より「学びの基礎診断」という枠組みがあるではないか。

 そんな妄想はさておき、いま検討すべきは弥縫(びぼう)策ではない。大学教育、高校教育、入学者選抜を本当の意味で一体的に改革する高大接続の理念に立ち返って、見直しを行うことである。

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2019年11月 5日 (火)

萩生田文科相 自らの責任取って辞任を

 萩生田光一文部科学相が、大学入学共通テストに伴う英語民間試験活用のための「大学入試英語成績提供システム」導入を見送ることを決めた。記者会見では「私の下に検討会議を作」って1年かけて結論を出したい考えを示したが、今回の見送り決断だけでも辞任に値する。今後の検討は後進に譲るべきだ。

 萩生田文科相は9月の就任直後から、初年度は「精度向上期間」と位置付けて予定通りの実施を表明していたはずだ。この「精度」という言い回し自体が物議をかもすのだが、それはおいておこう。確かに民間試験活用の制度設計が欠陥だらけであることは就任以前の問題である。

 それでも認定試験の受検開始まで半年を切り、しかも共通ID申し込み開始の当日になっての見送り決定は混乱に拍車を掛けるだけにすぎない。言い回しは別としても精度の低い制度をソフトランディングさせる方策は、いくらでもあったはずだ。

 例えば大学の判断で認定試験を受検しなかった者ができるだけ不利にならないよう合否判定で定員を分割するなどの配慮を要請することも、大学入試があくまで大学が主体となって行うものであれば十二分に考えられよう。本社もそう主張しようと機をうかがっていた。

 そもそも混乱に火が付いた背景には、文科相の言い回しにあったことは明らかだ。「精度」もそうだが、「身の丈」発言もそうだ。萩生田氏が本当に格差を容認する思想を持っているかどうかは別にしても、こういう不用意な言い回しをすること自体が文科相としての資質を疑うに値する。

 何より「身の丈」発言が、世間ばかりか政界の反発を招き制度見送りを余儀なくされた決定的要因だったことを確認しておこう。それがなければ、ソフトランディングの余地もまだあったのではないか。

 萩生田氏はもともと加計学園問題などで文科相に充ててよいのか疑義を向けられていた人物だ。就任会見でも、それまでの姿勢に反省のそぶりは見せなかった。首相最側近だけあって、言い回しも姿勢も政権の在り方を象徴していよう。

 いっそう気持ちが悪いのは、自民党の世耕弘成参院幹事長が萩生田文科相の判断を「受験生の立場に立った思いやりにあふれた決断だと思っており、高く評価したい」と述べたことだ。この人は国会でも安倍首相をヨイショしていたが、いつまでもお友達だけで褒め合っていては批判にきちんと耳を傾けることもなかろう。

 安倍首相は萩生田氏を絶対に守ろうとするだろう。内閣改造後3人目を出したくないというだけでなく、彼自身が思想を同じくする盟友だからだ。内閣支持率の安定が、そんな姿勢を助長してきた。国民が、内閣の尊大な姿勢やゆがめられた行政運営を許してきたとも言える。今回の怒りを、受験生や高校関係者だけにとどめてはいけない。

 問題は英語試験活用にとどまらない。萩生田文科相の下で、さらなる行政のゆがみが生み出される恐れもある。文部科学省は旧文部省以来、一貫して資質は育成可能との立場を取っているが、いい大人の、しかも政治家の、ましてや大臣の資質に向上に期待するだけむなしい。一刻も早い退任を期待する。

 

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2019年9月30日 (月)

今こそ真の「高大接続改革2.0」へ一歩を

 「大学入試英語成績提供システム」をはじめ、2020年から始まるとされる大学入試改革に懸念が広がっている。文部科学省は最近この改革が高校の新学習指導要領で学んだ生徒が受験に入る24年(大学入学年度は25年)との2段階で行われることを強調し始めているが、改革前夜になって足元が混迷しているものに4年の猶予期間を設けたところで解決できるとは思えない。

 ところで本社は2016年2月の『教育と医学』に特集論文として「『十年後』に向け混迷に終止符を」を寄稿した。入試改革に関して主張すべき点はほぼ盛り込んだと今も思っている。ただ昨今の混迷度合いを見るにつけ、「10年」はもっと伸ばさないといけないかもしれない。

 大学入試センターは先ごろ、毎年恒例のシンポジウムを開催した。テーマは「高大接続における特別選抜の意義と課題―広義の育成型入試に焦点を当てて」。共通テストや英語提供システムが揺らいでいる時に何をのんきな、という気もしないでもないが、そもそも高大接続システムの設計責任は文科省にあるし、スケジュール的にはタイムリーな企画である。いや、こちらの方が改革の本丸に迫る課題だとさえ言えるかもしれない。

 報告された事例自体いずれは興味深いものだったが、それ自体が改全体革への大きな影響力を持つとは思えない。現状では残念ながら、個別大学の特殊な事例としてスルーされてしまうだろう。それもまた「『痛み』の時期」(前掲論文)として必要なのかもしれない。

 それよりも耳を傾けるべきは、大阪大学高等教育・入試研究開発センターの川嶋太津夫センター長の基調講演だろう。改めて今回の改革が何を目指し、また目指すべきなのかを振り返らせてくれた。シンポを聞き逃した向きには、センターのホームページに当日のプレゼンテーション資料がアップされているから参照されたい。

 川嶋センター長は今の高大接続改革が不完全燃焼だとの見方を示した上で、「高大接続改革2.0」の必要性を訴えた。「入試をより精緻化するよりも、入学の教育の在り方を変えるべき」だとするなどの指摘は、まさに改革の本丸だ。いや、そもそも20年改革なるものが本来目指すべきバージョンであった。

 文科省をはじめ、今は20年度改革に向けて円滑なスタートができるよう必死にならざるを得ないだろう。改革に批判的な人たちも、次のターゲットは24年改革かもしれない。しかし10年先にある真の改革に向けた準備を今からしないと、とても間に合わない。

 まずはセンターに大規模な研究開発予算を付けることだ。CBT(コンピューター活用型テスト)の実現に向けて、などというちゃちなものではない。国立教育政策研究所がスタートさせた教育革新の研究プロジェクトとも連動させながら、学習科学に裏打ちされた高大接続の評価・育成システムを展望することが待たれよう。たとえ実現可能性が薄くても、である。米国などのテスト実施機関では当然の基礎研究として行われていることだ。共通テストの受験料を据え置くために国費を投入するぐらいだから、何の問題もあるまい。将来に向けた先行投資として、まさにムーンショットではないか。

 目先の生徒の指導に悩んでいるところに、今ごろ原則論や理想論を語られても――と現場からお叱りを受けることは百も承知だ。しかし1点刻みの「公平」な入試から脱却できなければ、人工知能(AI)に負けない人材育成どころではない。ましてやスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16)から指弾されたように、持続可能な開発目標(SDGs)の達成に貢献することなどできないだろう。新教育課程――あえて「新学習指導要領」とは言わない――のバージョンアップのためにも、真の高大接続改革2.0に向けて一歩を踏み出す時である。

 

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2019年8月15日 (木)

終戦記念日に 「自由」の危機まん延を憂う

 今月初めに予定していた公開シンポジウムの取材を、前日になって編集部と相談の上で取りやめた。主催者側から、あくまで事前の原稿チェックを求められたからだ。

 取材先から原稿確認を求められることは、しばしばある。掲載媒体によっては応じることもよくあるが、それはあくまで発注先の編集部判断である。今回は新聞協会加盟社の発行する題字を背負っていたため、報道の自由を守るためには検閲につながる一切の要求を容認することはできなかった。

 問題なのは、今回の主催者が某国立大学の研究センターだったことだ。学問の自由を守るべき大学の一部門が、報道の自由に鈍感だということを看過すべきではない。

 あえて難癖を付けたのは、いま自由と平和に対する危機がまん延しているように思えるからだ。某政治家の「戦争しないとどうしようもなくないですか」を持ち出すまでもなく、今や過去の敗戦に想像力も至らず、戦前・戦中に自由が制限されてきた歴史さえ顧みない世代が社会の中心を担ってきている。

 あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由・その後」の一件にみられる通り、表現の自由そのものを問うた企画に対してさえ表現の自由の乱用だと疑義が向けられた。それだけでなく、「市民の血税で日本人の心を踏みにじっていいのか」と某首長が言ったり、「日本人に対するヘイト(憎悪)」などと主張する報道機関さえあったりするしまつである。

 危機というのは、個別具体の自由が制限されることの積み重ねだけではない。その制限を許容する雰囲気が広く世間に醸成されていることだ。学問の自由に敏感であるはずの大学、しかも教育学系の研究センターでの鈍感さも、その一端と言えよう。

 公金を支出する以上は表現の自由も制限されてよいという論理を許容するなら、国の助成を受ける以上は国の方針に反する研究もできないという批判に応じざるを得なくなる。ただでさえ研究者個人の自由な研究ができにくい環境が進行する中で、自由への鈍感さが自らの首を絞めかねないということに想像すら至らないとしたら背筋が寒くなる。

 もっとも先の研究センターにしても、本社古巣の業界紙のように事前チェックにほいほいと応じるメディアがあってこその勘違いであろう。それも、報道の自由が戦後も徹底されなかった証左とみることもできよう。その上で、業界紙基準を一般紙にも強いて平然としている無自覚さにこそ戦慄せざるを得ない。

 安倍首相がひた走る「お試し改憲」も、それが蟻の一穴となって次々と市民的自由に制限が加えられる改悪が繰り返されかねない。実は今、それを受け入れる土壌が着々とできつつあるのではないか。

  今こそ唯一の希望である教育で、自ら考え自主的に判断し主体的に行動できる市民を育成しなければならない。しかし教員養成大学には教員免許更新講習以来、国の方針を無批判に前提とする教育・研究が常態化してきている。それが現場をますます苦しめる結果となりかねないのに、である。その上に大学教員の養成を掲げる最高学府が学問の自由にさえ鈍感になってしまったとしたら、絶望感しか抱けない。

 

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2019年7月 4日 (木)

安倍1強で教育は今後も良くならない

 参院選が公示された。改憲以外に争点らしい争点もなく、6年半の安倍政権に評価を下す選挙とも言える。若者の間には好調な就職状況も反映してか、自民党支持が強いという。しかし売り手市場なのは団塊世代の大量退職後に進んだ人手不足という人口動態的な現象でもあり、入社後はブラック職場や低賃金が待っているのでは浮かばれまい。

 ではこの6年半、教育は良くなったのか。今後の残り総裁任期で、教育は良くなるのか。いずれも否、と断じたい。

 ブラックといえばこの間、教員の過酷な勤務実態が明らかになり、わずかながら世間にも同情が広がったのは光明というべきかもしれない。しかし、考えてみよう。ちょうど第1次安倍政権に差し掛かる2006年の調査と比べて、10年後の16年には1日当たり小学校で平日43 分・土日49 分、中学校で各32 分・1時間49 分増加している。よもや民主党政権のせいで急増し、安倍政権で減少したなどとは言えるまい。

 悪化した理由は明らかだ。05年度の義務制第7次完成以来、新たな教職員定数改善計画は策定されていない。その間、学力向上対策に加えて特別支援教育や不登校、外国人児童生徒への対応など、よりきめ細かな対応が求められているからだ。確かに17年度から通級指導と日本語指導の加配定数を10年かけて基礎定数化する措置が進行しているが、これをもって「新たな改善計画」などと呼ぶのは看板に偽りがある。

 「世界トップレベルの学力と規範意識」というのが、安倍政権の教育再生スローガンの一つである。これ自体が何を言わんとしているのかさっぱり分からないが、トップレベルなるものを維持するために尻をたたく以外に何か「内閣の最重要課題」にふさわしい財政措置を伴う施策を打ってきたか。その有力な指標らしいPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の18年調査結果は年末にも発表されるだろうが、果たして今回も「上位グループ」と言い張れるかどうか密かに危ぶんでいる。

 政権に返り咲いた直後は下村博文・文部科学相の下、教育再生実行会議を使って猛スピードで改革を進めた。しかし例えばその第1弾であるいじめ対策で、いじめの重大事態が減少したか。確かに起こってしまった重大事態に対する第三者による事後の検証などは進んだが、新たな重大事態は後を絶たない。それはそうだろう。いじめ調査なども含めて現場の多忙化が加速し、平素からいじめを生まない環境づくりがおろそかになってしまっている。道徳の教科化によっていじめが抑制されたなどというエビデンス(客観的な証拠)も、もちろん聞いたことがない。

 確かに高等教育に関して無利子奨学金の拡大が進んだことや、給付奨学金と一部「無償化」が導入されたのは画期的なことだ。しかし奨学金に関して言えば下村氏の個人的な思いが結実した側面が強く、政権を投げ出すまで銀のさじをくわえて生きてきた首相には消費増税の口実以外に思い入れが感じられない。無償化措置にしても「真に必要な」者という限定が最初から付いていた。おまけに今後10年ぐらいは消費税率を上げる必要はないらしいから、中所得者層の学生にまで「暖かい風」が吹くことは全く期待できない。

 進んだことは何かといえば、モリ・カケ問題に代表される教育行政のゆがみだ。そうでなくても「学校の働き方改革」にみられる通り、財政措置を当てにしない範囲内での施策展開を余儀なくされている。先月27日に発足した中央教育審議会初等中等教育分科会「新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会」で小川正人臨時委員(前期中教審副会長・初中分科会長・「学校における働き方改革特別部会」部会長)が、現行の定数も「今ある業務量にふさわしい教職員数を算出しているわけではない」と指摘し、働き方改革で確定された本来業務を踏まえて業務量を客観的に把握した上で、それに見合った定数改善の方策を検討するよう提案したのは傾聴に値する。しかし、その意見が顧みられる見通しは暗いと言わざるを得ない。

 潮目を変えるには、安倍1強に歯止めをかけることからしか始まらない。何も今の野党に政権を取らせよなどと主張するつもりはないが、少なくとも与党内の勢力図が変わらない限りは希望すら持てない。

 もちろん現下の厳しい財政事情の中、どんな内閣であっても有効な打開策を見いだすのが難しいのは民主党政権を振り返れば明らかだ。しかし首相が何と言おうとも、悪夢とまでは言わないが今後いい夢を見られる可能性も少ないだろう。あくまで本社の守備範囲である、教育政策の話であるが。

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2019年5月21日 (火)

「やってる感」全面展開の実行会議11次提言

 これで今でも「大方針」だと胸を張れるのだろうか。

 政府の教育再生実行会議がまとめた第11次提言は、19ページだった1月の中間報告に対して33ページにわたっている。確かに「作文」としての統一性は取れているが、中身はゴミみたいな提言の寄せ集めにすぎない。

 「今が取り組むべき最後のチャンス」「対応が遅れた場合、我が国は新たな国際競争の大きな潮流の中で埋没してしまうおそれさえあります」――。確かにSociety5.0時代を控えて、問題意識だけは大言壮語だ。しかしICT(情報通信技術)が「マストアイテム」だという割に、地域格差の拡大が深刻になっている環境整備に関しては要因・背景を分析して対応を可及的速やかに行うだの、教育委員会だけでなく地方公共団体全体に直接かつ継続的な働き掛けを行うだの、極めて具体性・有効性に欠ける。

 奇妙なことだが、むしろ同会議に参考資料として示された自民党の教育再生実行本部第12次提言、とりわけ「次世代の学校指導体制実現部会」の提言の方が、はるかに具体的だ。文章も整いすぎるほど整っている――というより、いつもよく目にするような言い回しにあふれている。きっと霞が関あたりの優れた「文学者」が書いたに違いない。

 そんな党「本部」提言の中にも、極めて珍妙な文章がある。「高等学校の充実に関する特命チーム」提言だ。そこでは、高校制度が「昭和の学校」から脱却し切れていない状況にあり、今こそ「令和」にふさわしい高校へ生まれ変わることが必要だと指摘する。良くも悪くも高校改革が「平成」の時代に進行した歴史を知らないのか。少なくとも、それに対する総括はない。

 そうした「昭和」の頭で提言されたのが、高校普通科の改革だ。党「本部」提言にはサイエンス・テクノロジー科だのアスリート科だの事細かな「改正イメージ」が示されて、肝心の政府「会議」提言では四つの「類型の例」にまとめられているが、今さら細分化の発想はいかがなものか。それでいて文系・理系のバランスが取れた科目履修を求めるなど、今以上にカリキュラム編成を窮屈にするような矛盾した提案を平気で並べている。

 実行会議は、確かに第2次提言ぐらいまでは是非はともかく「実行」のスピードに目を見張るものがあった。しかし発足から6年が過ぎ、10次以上を重ねるまでもなく「やってる感」で出し続けているような提言が目に付く。第11次は、その際たるものだ。

 こんな「大方針」を受ける中教審も大変だと同情したくもなるが、おそらく心配はないだろう。官僚の頭の中で、ある程度の整理はできているに違いないからだ。たとえどこかに忖度(忖度)したかのようなゴミを寄せ集めた提言でも、である。

 そうして答申にこぎつけたとしても、教育現場にとって困難な現状を打開するような施策が出てくる期待は現段階で薄いようにしか思えてならない。文教政策の形成をめぐるそうした空虚さ自体が、実は深刻な問題なのかもしれない。
 

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2019年5月 6日 (月)

初中教育諮問〈2〉 「人員増」じゃない? 徹底追及を

 10連休明けに当たる7日付の『内外教育』(時事通信社)に、注目すべき記事が2本載っている。中央の動きを伝える「スポット」欄の「教員弾力配置へ標準法見直し」と、取材メモから裏話も含めて伝える「インサイド」欄の「財務省も納得?」だ。

 やはりネット時代にあっても、専門誌は購読すべきものである。記事の内容は、ぜひ当該誌で確認してもらいたい。ただ、「現状の人員のまま」(スポット記事)と「教科担任制イコール人員増」のイメージを文部科学省の初等中等教育局担当者が否定したくだり(インサイド記事)は看過できない。

 とはいえ中央教育審議会では4月17日の総会で諮問直後に自由討議が1回行われただけで、初等中等教育分科会に至っては8日の開催予定である。たとえ真偽を尋ねても、現段階で方針は「何も決まっていない」と言われるのが関の山だろう。これは業界用語で言う「観測気球」の可能性が高い。未確定情報を一部報道機関に流して、関係者や読者の反応を見ようとするものだ。

 しかし本社は、かなり確度の高い検討方向ではないかとみる。インサイド記事にもあるように現下の情勢では、教員の純増につながるような教職員定数改善に「財務省が納得するわけがない」。だからこその「弾力配置」だ。

 本社は先の社説で、小学校の教科担任制が教職員配置と免許制度の「義務教育9年間」に関係してくる出あろうことを指摘しておいた。そう考えれば、スポット記事で紹介されているような案は容易に思いつく。だからこそ焦点は、定数増につなげられるかどうかにあった。記事を読む限り、予想の中では最低の案だ。

 そもそも、この時点で手の内を明かすこと自体に文科省の限界が露呈していよう。表向きは現状維持に見えて、実は純増せざるを得ないような仕組みをたくし込むような高等戦術を仕掛けているのなら別なのだが。

 記事にあるような「配置」は、現場からいって机上の空論であることは明らかだ。しかも中学校教員に更なる負担を強いるもので、働き方改革に逆行すると言っても過言ではない。「専門性の向上」など、昨年論じた免許外教科担任制度の協力者会議報告と同根のフィクションにすぎない。

 せっかく観測気球が上がったのだから、ぜひ中教審の委員・臨時委員には徹底追及を期待したい。その過程でようやく、新時代の在るべき教職員定数について議論の端緒が開けよう。たとえ定数改善が実現しなくても、である。文科省の腹案のままでは、ますます現場を窮地に陥らせる「改善」が行われかねない。

 もっとも最近、間違いや不正確な記事配信も少なくない本社のことである。ポイントや読みがずれているかもしれない。だからこそ中教審等では事務局に丸め込まれることなく、徹底的に議論してもらいたい。

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