社説

2026年2月28日 (土)

次期指導要領「専門部会等」(7) 文科省事務局内の意思統一に疑問

 次期学習指導要領の改訂方針が、文部科学省事務局内ですら意思統一が徹底されていないのではないか――。そんな疑いを抱かせる一端が、20日にあった。中央教育審議会教育課程部会に17ある教科等ワーキンググループ(WG)でおそらく最も注目が低いであろう、産業教育WGでだ。

 当日配布資料の中に「専門高校における実践的・探究的な学び(イメージ)」と題するポンチ絵(概念図)がある。産業界との連携・協働による理論と実践の往還によって、生きて働く知識・技能(知・技)や未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力等(思・判・表)を育成して「社会を支え産業の発展を担う職業人」へと育っていくイメージだ。

 その右側で個別の知・技や思・判・表が「統合的な理解」「総合的な発揮」に昇華していくような図示を、企特部会委員でもある溝上慎一・桐蔭横浜大学教授が問題視した。「こういう理解では次期指導要領の新しさは何もない。(担当の産業教育振興室は)教育課程企画室と擦り合わせてはどうか」と苦言を呈したのだ。

 これを産振室の事務官や教科調査官だけの「勘違い」とみてよいのだろうか。教育課程課の調査官にも同じような誤解が広がっているとしたら、深刻な問題だ。というのも各WGが親部会の教育課程企画特別部会(企特部会)に報告した目標や高次の資質・能力(中核的な概念等)の「たたき台の暫定的な整理」、というよりその原案を作成した調査官が本当に改訂趣旨を理解しているのか前々から疑問に思っていた。

 そうでなければ、7項目から成る「検討の方向性」を了承した2日の企特部会が「スリムで骨太な記載」(当日の委員発言を基に追加した「留意すべきポイント」)を求めるはずはない。つまり調査官の多くが、現行指導要領のイメージを引きずり過ぎているということだ。

 改めて確認しておこう。2024年12月の諮問にもあった中核的概念はビッグアイデアなどとも呼ばれ、国際的にもコンピテンシー(資質・能力)ベースのカリキュラム改革で重視されている。アンドレアス・シュライヒャー経済協力開発機構(OECD)教育・スキル局長の言を借りれば「科学者や歴史家のように考える」ことだ。

 ビッグアイデアの下で、個別の内容は「イグザンプル(例)」(教育課程部会長の奈須正裕・上智大学教授)でしかない。だからこそ入れ替え可能になるのだし、デジタル学習基盤の下では学習者がコンテンツを与えられるだけでなく自分から「取りに行く」ことも容易だ。だからこそ“less is more”(少なく教えて豊かに学ぶ)が成立する。

 2日以降に開催されたWGでは、個別の学習内容に向けた議論に入ったところも少なくない。それでも高次の資質・能力の修正案が示されたWGを見る限り、微調整ばかりで中核的概念に値するような骨太案には程遠い。これでは「カリキュラム・オーバーロード(教育課程の過積載)問題に対応するための、内容や教科書の大胆な精選アイデアが出ようはずもない。

 今回の改訂論議は諮問以来、現行指導要領の資質・能力育成が「道半ば」だとの認識に立ってきた。このままでは次期指導要領も、道半ばに終始するのではないか。今からそんな恐れを抱くのは、無用の心配に過ぎようか。

【関連本社配信記事】 教育調査研究所
 WEB版 きょういくフォーカス マンスリー
 2026年2月「『高次』の資質・能力はどうなる

 

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2026年2月 5日 (木)

次期指導要領「専門部会等」(6) 議論自体も「道半ば」だ

 中央教育審議会教育課程部会「各教科等の専門部会等」の〝親部会〟である教育課程企画特別部会(企特部会)が2月2日に開催され、総則・評価特別部会(総則部会)と14のワーキンググループ(WG)から報告を受けた。これに基づき7項目にわたる検討事項を、文部科学省事務局が提案。それに沿って順次、各WGで「精査」が行われる。

 検討事項の指摘自体は、いちいちもっともである。というより各WGで、なぜ最初からこの方向で議論ができなかったのか。ひとえに事務局の準備不足と言わねばならない。

 今次改訂でも10年前と同様、諮問前の準備作業として「有識者会議」方式が採られた。「今後の教育課程、学習指導及び学習評価等の在り方に関する有識者検討会」(主査の天笠茂・千葉大学名誉教授来)、いわゆる天笠検討会だ。期間は2022年12月から24年9月。最後はバタバタとまとめた印象が拭えないが、12月末の諮問に主要事項はほぼ盛り込めた。

 この1年9カ月間に、並行して各教科等の内容を水面下で検討する余地は十分あったはずだ。しかし、そんな動きは一切聞こえてこなかった。まずは基本方針が決まってから、というのは建前としてはそうだろう。そうはいっても、教科調査官レベルで内々に議論することは可能だったのではないか。

 実際、文科省教育課程課編集の『中等教育資料』では教科等の枠を超えた企画が組まれてきた。それでも調査官レベルで、基本的な意識改革さえできていなかったと見なければならない。そうでなければ各WGで、従来の指導要領の発想にとらわれた事務局原案が出てくるわけがない。

 その結果、WG委員も従来の枠内でしか意見が出てこなかった。「端的に」記述するという総則部会の方針も効かず、本文に書き込めないとなれば「解説で丁寧に」という意見であふれた。指導要領や解説の記述ぶりで実践が差配できるという発想のままでは、現場の自律性・創造性が発揮される大綱的基準としての指導要領などできるわけがない。

 教科等だけではない。「中核的な概念」を巡る混迷も、そうだ。検討事項では、総則部会が言い換えた「高次の資質・能力」という用語を検討・議論の「足場」としては今後も使うものの告示文では使わず、知識・技能に関する「統合的な理解」と思考力・判断力・表現力等の「総合的な発揮」だけにするよう提案している。

 確かにWGで、高次の資質・能力という用語に懸念が続出したのは確かだ。しかし、それは「『高次』と言われても、よく分からない」といった「低」レベルの議論だった。せっかく学術に由来する中核的概念を、現場になじみのある言葉に言い換えた結果がこれである。教員養成部会では教職を「高度専門職」に位置付けるべきだとの議論が続いているが、高度専門職の議論とは思えない議論が多くのWGで交わされていた。

 事務局資料では、各WGの検討ポイントが1枚紙にまとめられていて大変便利である。そのうち社会・地理歴史・公民、算数・数学、理科の各WGに「批判的」という言葉が注釈なしに出ている。実際のWGでは「批判」という言葉が、現場の誤解を招くとして不使用や言い換えを求める意見も根強かった。クリティカル・シンキングを理解しようともしないで、何が高度専門職か。「経験の浅い教師が増えている」というのは、言い訳にもならない。

 要するに企特部会の「高度」な議論が、委員間に何も浸透していないのだ。議論のアーカイブ動画で「行間まで読んで」(企特部会主査の貞広斎子・千葉大学副学長)もらった結果が、これである。なるほど従来型の記述に拘泥するのも当然で、ましてや「見方・考え方」の位置付けが変わったことも理解しようがない。

 もっとも事務局の整理や説明が悪かった部分が、多分にあろう。その点、企特部会の議論で貞広主査から最初に指名された奈須正裕・教育課程部会長(上智大学教授)の発言が簡潔かつ意味深長で、しかも非常に分かりやすかった。別に【資料】として発言の起こしを掲載したので参照されたい。今次改訂で行おうとしているのは、そういうことなのだ。諮問は現行指導要領が「道半ば」だというが、次期指導要領まで「道半ば」にしないための議論が早急に求められる。

 

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【資料】企特部会での奈須正裕・教育課程部会長発言

 よろしくお願いいたします。まず積極的で挑戦的なご議論をいただいているということを、とてもありがたいなあと思っています。領域編成の問い直しも起こっていて、理科や家庭科なんかで進んでいるようです。前回の算数・数学のような取り組み、ありがたいなと思っています。
 まず今回の作業ですけど、そもそも教育内容は階層構造を成しているという理解が大事かと思います。教育内容というのは単なる同レベルの内容事項の列挙ではなくて、現行指導要領でも目標、内容、内容の取り扱いということになっていますし、さらにそれが学校に降りると単元、教材ということになっているわけですね。今回、内容の一つ上の桁っていうんでしょうかね、それとして見方・考え方、高次の資質・能力を設置したらどうか、という作業かと思います。さまざまな国や地域で既にやられていて、ビッグ・アイデアとか、かつてのブルーナーの構造のような改革で、新しいものではありません。ただ諸外国のを見ると記述や水準もさまざまで、どの程度の階層でこれを記述・整理するのがよいのかに正解はないようです。海外の取り組みに学びつつ、各学校の教育課程編成、教科書も含めた実践創造に有用性の高いものをプラグマティックに選択するということでいいのではないかなあ、と個人的には考えております。また教科等によって、あるいは親学問の性格によって、これが変わってくるということは一定程度あるんだろうと思います。
 その上で、まずシーケンスというか段階ですけど、今回、小中高で一つにまとめていただいてる教科等と、各学年・2学年のまとめていただいている教科等があります。内容はほぼ同じで発達段階等を意識した水準や深さの書き分けということだと思いますけれども、やはりできるだけ大きな桁で書いてはどうかと思うんですね。難しいように思うかもしれませんが、例えば「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」って見ようによってはめちゃくちゃ高度なんですよね。でも5歳児でも見ていくとあの方向性、あの質というものが表れているという話なわけだと思うんですよね。そう考えれば、もう少し学年段階をまとめるということも可能かなあと思います。
 それから領域の方もだいぶさまざまで、教科の中の主要な領域ごとにまとめてくださっている教科と、もっと小さな内容のまとまりを基盤にまとめてくださっている教科等があって、どうしても内容に近い方に落としていくと記述が細かく大きくなってきますし、内容事項との差が少なくなってくるので、わざわざ設置する意味が少し少なくなるかなあと思うんですね。丁寧に正確に記述したいということはとても分かるんですけど、ポイントが見えにくくなるということではあまり意味がないかなあと思います。
 次に、学習活動を記述に含めている場合があって、これも教科等によっては必然性があるんだと思いますけど、これをするという活動をこの水準に書いてしまうと、割と下の桁の話ですから、どうかなあと、ちょっと気にはなりました。
 また思考・判断・表現の総合的な発揮というところの記述、どうしても似たような記述が並んでしまうということがあります。現行でも思考・判断・表現のところは学習対象だけが変わって全部表現が似てるって話があるんですけど、あれ、とてももったいないので何とかならないかなあと。一段水準を上げれば、まとめた記述にできる可能性はあるんだと思いますので、またお考えいただければと思います。
 それから作業の進め方・発想ですけど、まず今の学習指導要領、現行の内容を整理・統合して、そこに統合的なものを見つけていくというボトムアップの方向性は当然あってしかるべきだと思います。ただ一方で、そもそもこの教科等の本質は何だ、見方・考え方というのもそういうお話でしたし、私は教科の任務という言い方をしてますけど、この教科はどういうふうに子どもの資質・能力、子どもの有能さを高め、一生涯を支えていくようなことが独自に可能なのかということを、もう一度問い直していただく中でのトップダウンのようなことも併せて考えていただく、特にその高次の資質・能力はどちらかというと上の方の桁ですから、この教科の本質、領域の本質は何かという議論から見直していく。またそうすることによって内容の精選ということも場合によっては可能となってくるということがあるのかなあと思います。
 その際、今回割と進んでいますけど、教科で親学問がはっきりとある場合も無い場合もありますけど、ただ単に教科は親学問そのものではありませんけれども、その親学問の在り方を改めて参照しながら考えるということも、この見方・考え方や高次の資質・能力、統合という議論の中では大事かなと思っています。以上です。

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2026年1月21日 (水)

次期指導要領「専門部会等」(5) 道徳科の現行維持とは驚いた

 中央教育審議会の教育課程部会「道徳ワーキンググループ(WG)」が20日、第2回会合を開催した。当初予定していた12月25日が先送りとなり、初会合から2カ月近くも空いた。

 それ自体には今さら不思議さを感じないが、文部科学省事務局の道徳科「目標・内容の構造化等」案を見て驚いた。現行を維持するとの提案だったからだ。

 各教科等を巡っては、教育課程企画特別部会(企特部会)「論点整理」の方針や総則・評価特別部会(総則部会)の指示に沿って各WGで議論が進められている。教科等の特質によっては一律に当てはめにくくても、しぶしぶ従うWGも少なくない。

 それが、道徳科に関しては▽引き続き観点別の目標は定めない▽目標の記載は現行を維持する▽目標とは別に見方・考え方は示さない▽高次の資質・能力は定めない――という。要するに、現状維持だ。そのため表形式化も、並行か並列かのパターンさえ選択せず「現行より一覧性高く、関係性を見やすく」(事務局)しただけになっている。

 この案に対して、ほとんどの委員から賛意が示された。これまで通りの実践を続けていいとのお墨付きを得たのだから当然だが、他のWG委員から不満が出ないか心配になる。

 仮に道徳教育の特性を考慮したとしても、疑問は残る。論点整理が提言した新しい見方・考え方は「シン見方・考え方」とでも呼ぶべきことは以前、指摘した。見方・考え方が資質・能力の育成だけでなく卒業後も灯台のように、よりよい社会や幸福な人生につなげるものと位置付けたからだ。

 事務局は目標と別に見方・考え方を示さない理由として、道徳科が各教科等と比べても目標自体がその後の人生という視点からも妥当性を有する特質があり「教科等を学ぶ本質的な意義の中核」の要素が目標に含まれているという前回答申の考えが引き続き妥当性を有しているからだと説明した。

 「霞が関文学」と言うより、下手な同義反復か循環論法ではないか。少なくとも、何の説明にもなっていない。「その後の人生」を導くというなら、ますます「灯台」が必要だろう。徳目を教え込みたい保守・復古派なら、批判のしどころだ。

 道徳科に関して、本社は以前も根本的見直しを主張した。教室の多様性が進むことを考えれば、経済協力開発機構(OECD)がラーニング・コンパス(学びの羅針盤)で提起したような「対立やジレンマに対処する力」がますます求められることは疑いない。「考え、議論する道徳」というなら、まさに道徳科が担うべき役割ではないか。しかし現状維持が「転換」から「実装」のフェーズへの移行になるというのだから、恐れ入る。

 それなのに委員の議論からは、まったく緊張感が感じられない。現状維持の方針に、安心し切っている雰囲気すらあった。唯一「いじめ防止を目的に教科化されて10年たつのに(認知件数が)増えていることは真剣に考えなければいけない」との発言があったが、あくまで控えめだった。

 やっても意味のない道徳の授業に年間35時間を割き、しかも19日の総則部会で示された方針によれば調整授業時数の削減対象にもならない。いったい、誰の得になるのだろうか。

 

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2026年1月 8日 (木)

改革の2026年〈下〉 教職改革は「高度」専門職の否定から

 先の社説では、次期学習指導要領を巡る中央教育審議会教育課程部会の教科等ワーキンググループ(WG)での議論に苦言を呈した。ここでは改訂諮問と両輪を成す教員養成部会とWG等にも、違和感を表明しておこう。教職=高度専門職だと、疑いもなく規定する委員の認識だ。

 教職は果たして、医師や弁護士と同じような高度専門職と言えるのか。教育界では自明とされることが多いが、法的な定義があるわけでもない。むしろ看護職と比すべきだろうが、ここで専門職論を述べる能力も意思もない。

 教員養成改革に関わって重要なポイントは、教員免許取得段階で高度専門職の資格を得たと認定できるかどうかだ。教職課程・免許・大学院課程WGの中間まとめ案(昨年12月18日)では「教科及び教職に関する科目」の単位数を実質2種免許相当分に落とした上で、20単位程度分は学部学科での「強み専門性に係る内容」学修に位置付けた。

 それで1種の「質」は落とさないという理屈だが、それなら「教科及び教職に関する科目」20単位程度分の専門性はどこに行ったのか。教員養成フラッグシップ大学の取り組みを参照したというが、少なくとも開放制の一般大学では単に従来の学部学科学修を読み替えたにすぎない。

 強み専門性を身に付ける学修を学生自らデザインするのだという理屈は聞こえがいいが、つぶしの効く資格として教員免許「でも」取ろうかという学生を理念的には排除することになる。養成は大学が責任を持って行うという教職課程コアカリキュラムの理念も建前として素晴らしいが、やはり新たな免許構想は一般大学にとって負担増になるはずだ。

 問題は、それが教員不足対策として期待されていることである。コアカリ論議の当時は、教職に就くつもりのない学生が教育実習を受けて実習先の学校現場に過剰負担となる「実習公害」が問題視されていた。文章化は一切されていないが、資格目当ての教職課程履修生を減らす意図が隠れていたことは否めない。その時とは状況がまったく異なっているのに、同じような文脈で改革論を展開していることに驚くばかりだ。

 採用試験受験者のすそ野を広げようとしながら、養成段階の質保証のために大学や履修生に負担を課す。依然として教職課程に盛り込む内容を追加すべきだとの期待は大きいのに、むしろ単位数自体を縮小してしまう。机上の空論としては成り立っても、実質が伴うことは期待できない。 要するに親部会の段階から、フィクションにフィクションを重ねた帰結である。

 改めて確認しておこう。少なくとも現行制度の教員免許は、自動車免許と同様に「教壇に立つ」資格を得るだけにすぎない。教員は改正教育基本法で、国公私立を問わず「絶えず研究と修養に励」むことが努力義務化された。つまり「学び続ける」ことで生涯にわたって高度専門職を「目指す」存在なのであって、養成や採用の段階で高度専門職性が担保されるわけではない。

 教員養成部会の論点整理(昨年10月15日)は、教員免許取得に至る学びを再構築した上で「より高い専門性は教職大学院で確保する」と言っている。普通に考えれば、養成段階では「低度」専門職であることを認めたに等しい。しかし、その自覚もなくフィクションを重ねているところに審議の深刻性がある。

 本社は教職を担う教員の多くが、高度専門職の域に達していることを決して否定するものではない。しかし、そこに至る道筋を具体的に示してこそ養成・採用・研修の「一体改革」ではないか。それには、まずは教職=高度専門職という安易な図式の否定から始めなければならない。

 だいたい、マニュアルを見ながら手術をする医者などいなければ六法全書を引き引き法廷に臨む法曹もいない。ましてや教科書の「赤刷り」に頼って授業をするような職業が、本当に「高度」専門職なのか。もちろん子どもをホリスティック(包括的)にみて教え導くことは、専門職として高度であることに疑いはない。だからこそ人格の完成(教基法)のように、高度専門職を目指し続けることこそが教職の本質なのだ。

 

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2026年1月 7日 (水)

改革の2026年〈上〉 「訓詁学」指導要領からの脱却を

 学習指導要領の改訂を巡る中央教育審議会の教科等ワーキンググループ(WG)を傍聴していて、どうにも気になることがある。指導要領本体の記述を簡素化する文部科学省事務局の提案に対して委員から、一字一句の修正案はもとより「細かい説明は解説で」という意見が相次いでいることだ。

 確かに指導要領本体は法令に準じる文書だから、法的拘束力を持つものとして語句にこだわるのは仕方がない。しかし一方で大綱的基準なのだから、むしろ改訂論議は教育現場の自律性・創造性を発揮する方向で議論される必要があろう。

 しかし事務局はもとより委員にも、指導要領の記述一つで現場実践が差配できるような錯覚があるのではないか。本社も以前の社説でデジタル化に伴って細かい知識は解説に移すよう提案したが、現場が依然として解説の一字一句に縛られるのなら問題だ。

 本社が「指導要領の訓詁学的解釈」と呼んでいたものは、改訂で文言や順番が変わったことに現場が過剰な解釈を加えることだった。1998年改訂で観点別評価が導入された際に示された4観点の順番から「知識・理解」よりも「関心・意欲・態度」が重視されたものだ、と受け止めたのが典型だ。

 前回の改訂論議では「学力の3要素」を「資質・能力の三つの柱」に拡張させる論議が中心だったためWG委員自体が「訓詁学」に拘泥していることに、あまり気付かなかった。しかし今回、その悪癖が露呈したとみるのは偏見だろうか。

 そもそも98年改訂まで現場は、指導要領の大綱化・弾力化を歓迎していた。というより管理職や官製系研究団体では指導要領の一言一句に拘泥していたが、指導要領の一字一句にこだわらないどころか指導要領すら参照しない教員もたくさんいた。

 今回のWG等でも、委員から「指導要領を参照するのは年に5本の指に入るかどうか」「指導要領は文章が長くて読めない」といった現場実態が公然と語られている。それなのに解説の精緻化を求めるのは、矛盾していないか。解説はあくまで解説であって、法的拘束力は一切ないはずだ。

 指導要領の法的拘束力や解釈を巡る立場の相違は、文部省対日教組(いずれも当時)という歴史的経緯から定着したことだ。戦後80年、「55年体制」からも年を過ぎた今、脱却すべき好機である。

 せっかく「構造化」により指導要領をスリム化しようとする時、膨らんだ解説に縛られては本末転倒だ。改めて人生100年時代を生きる子どもたちにどのような資質・能力が必要かという願いを中心に、改訂論議を進めるべきである。

 

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2025年12月14日 (日)

次期指導要領「専門部会等」(4) 教育課程の「2階」部分 平屋じゃ駄目なのか

 12日に開催された中央教育審議会の教育課程部会「特定分野に特異な才能のある児童生徒に係る特別の教育課程ワーキンググループ(WG)」第4回会合を傍聴していて、ふと疑問が浮かんだ。これは果たして、学習指導要領の改訂論議ですべき話なのかと。

 次期指導要領では「多様性の包摂」を基本的方向性の一つに掲げる。そのため学校として編成する「1階」の教育課程を柔軟化する一方、個々の児童生徒に着目した特例を新設・拡充して「2階」を設ける。しかも可能な限り、1階で包摂することを目指すという。

 そうした提起のあった教育課程企画特別部会(企特部会)を、うなずきながら聞いていた。これなら不登校や通級だけでなく、外国ルーツの子や特異な才能(特才)のある子も含め「誰一人取り残さない」教育課程が実現すると思ったからだ。

 企特部会の論点整理と前後して始まった「各教科等の専門部会等」では、教科等以外に「不登校児童生徒に係る特別の教育課程WG」と特才WGを特出しして設置し2階部分の特例を検討してきた。実は先の疑問は、不登校WGでも感じていた。

 特才WGでは、対象実施機関を当面は上位学校種や大学等、公的研究機関、社会教育施設、公的な法人に限ってスタート。具体的な留意点は「運用の手引き」で示し、事例が積み重なれば随時改善を図りたいという。上位学校種として「高等学校等」が明示されたのは、画期的でもある。

 しかし手引きでは活動場所や指導者、移動時間も含めた出席扱いなど細かく規定するという。議論でも、活動状況の報告など実施団体との連携が重要だという声が相次いだ。確かに在籍校が責任を持って指導要録に記録するには必要なことで、学校側の現実的な要望にも沿ったものだろう。しかし徹頭徹尾、教育課程のサプライサイド(供給側)の都合だ。デマンドサイド(需要側)である子どもたちのニーズは、あくまで「特例」を考慮される客体でしかない。

 サプライサイド行政からデマンドサイド行政への転換を提言したのは内閣府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ」(2022年6月)だが、仕掛け人は出向中の合田哲雄・現文科省高等教育局長だった。次期改訂は「合田路線」修正の上に成り立っていると言えなくもない。

 もちろん、指導要領に何も規定しなくていいと主張するつもりはない。しかし、たった一言でいいのではないか。教育課程は、児童生徒の最善の利益を図ることを第一にして柔軟に適用すると。どう適用するかの判断は、高度専門職のトップリーダーたる校長が最終判断すればいい。そうすれば、すべて「平屋」で包摂できる。

 ナショナル・カリキュラムである指導要領は、あくまで「意図されたカリキュラム」だ。もともと学校が編成する「実施されたカリキュラム」とはギャップがあるし、ましてや児童生徒の「達成されたカリキュラム」とは違う。教育課程政策として、前二つのカリキュラムと後者を区別して捉える時が来ているのではないか。その点で、合田局長の持論である指導要領の「教育プログラム」化は再考に値する。

 公教育の実施義務を厳密に課すことは、近代国家に不可欠だ。しかし権利主体である子どもがどのような教育と成長を選び取るかは、もっと柔軟でいいのではないか。もちろん保護者には普通教育を受けさせる義務を規定した、憲法に基づいてのことである。次期改訂が「試案」段階の理念に立ち返ろうという意図を含んでいるとすれば、なおさらである。

 

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2025年11月26日 (水)

次期指導要領「専門部会等」(3) 道徳科の根本的見直しを

 中央教育審議会の教育課程部会「道徳ワーキンググループ(WG)」が25日、初会合を開催した。18ある「各教科等の専門部会等」では、最後の発足となった。最初の外国語WGから2カ月、17番目の幼児教育WGからも1カ月遅れたのはなぜか。文部科学省事務局からの説明は、果たして一切なかった。その間、3回目に入ったWGも少なくない。

 10年前の「考える道徳への転換に向けたWG」が7カ月も遅れたことを考えれば、むしろ早いと言えるかもしれない。ただ前回は小・中学校の指導要領一部改訂で「特別の教科 道徳(道徳科)」が設置されたばかりで全面実施もされていない、という特殊事情があった。

 委員は11人で「特異な才能」WGの10人より多いものの、「不登校」WGと同数。「考える道徳」が16人だったのと比べても、明らかに少ない。前回は14回の会合を重ねたWGがあった一方、たった4回の会合で報告をまとめた。

 事務局資料では、道徳教育の課題を▽読み物教材の登場人物の心情理解に偏った授業になりがちで、多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深めるために考え、議論することが十分にできていない▽教科書の発問例に頼った授業など、型にはまった予定調和的な授業になりがちなど、「考え、議論する道徳」への質的転換が道半ばであるとの指摘がある――としている。委員からも、教師が求める正解を子どもが察知して本音を言わないといった実態が挙げられた。

 改革の方向性としては「考え、議論する道徳」への転換から「実装」のフェーズに移行することが提案された。しかし、教科化の眼目だった「考え、議論する道徳」ができていなかったのだとしたら致命的ではないか。

 これに先立つ17日の特別活動WGでは、八並光俊・東京理科大学名誉教授(日本生徒指導学会会長)が道徳に関して「いじめ防止で教科化したが、総括的な評価もないことに違和感を持っている」と述べていた。けだし正論だ。しかし一部改訂してまでも教科化を急いだ政治的思惑に、正論は通らない。

 教科化には授業時間の確保だけでなく、教科書を使わせるという意図もあった。しかし似たり寄ったりの教材になったばかりでなく、検定を経てパン屋が和菓子屋に替えられるという滑稽な事態も起こっている。

 内容を構造化して軽重を付けるのが、今次改訂の大方針だ。内容項目を網羅的に並べては、筋が通らない。初会合では論点が示されただけだが、「複数の内容項目を関連付けた学び」だけでは話にならない。次回は1カ月後の予定だというが、どんな案が出ることだろう。

 社会との関連付けを強化するのも、既定路線となっている。道徳教育を「真正の学び」にするためにも、旧態依然の読み物教材では改善は見込めまい。国内外で「対立や葛藤」(事務局資料)が激しくなっている中、むしろ現実に即したリアルな学びこそ求められる。

 事務局は道徳・特活・総合の関係性を整理することも提案しているが、いっそ調整授業時数制度を使って道徳科の時間を他領域に溶け込ませた方が効果的ではないか。やはり小中でも教育活動全体で行うよう戻すべきだ……と言ったところでむなしいが、根本的な見直しが不可欠であることは間違いない。 

 

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2025年11月24日 (月)

次期指導要領「専門部会等」(2) デジタル表形式を使い誤るな

 12日に開催された中央教育審議会の教育課程部会「総則・評価特別部会」第3回会合で、文部科学省事務局(教育課程課)が「デジタル学習指導要領」のイメージを提示した。教育課程企画特別部会(企特部会)の論点整理(9月25日)が提案した構造化・表形式化・デジタル化を具現化して「分かりやすく使いやすい指導要領」を目指す一環だ。

 それ自体に異論はない、というより遅すぎたぐらいだ。ウェブベースでナショナル・カリキュラムを提供しているオーストラリアの例が紹介されたのは2013年6月、前回改訂(現行指導要領)の準備作業を担った「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会(安彦検討会)」の第6回会合だった。

 中堅以上の教員なら現行指導要領の告示後、隣接校種も含め分厚い指導要領と解説の冊子がどさっと渡されてうんざりした覚えがあろう。学習内容を削減せず資質・能力の三つの柱を半ば機械的に当てはめたこともあって、カリキュラム・オーバーロード(教育課程の過積載)と現場の多忙化に拍車を掛けた側面も否めない。

 今後は準法令文書である指導要領本体よりも、デジタル指導要領を見ながら校内や教員個人でカリキュラム・マネジメント(カリマネ)を行うことが主流となろう。記述の簡素化も含め、表形式で視覚的に一覧できるメリットは紙をしのぐ。

 ダウンロードして「マイ指導要領」(事務局)にカスタマイズしたり、コピペして指導案などの作成に生かしたりできるのも省力化につながると言えば言える。デジタル教科書もそうだが、やはりPDF化には限界があると言わねばならない。

 関連する他校種や他教科の表が並べられる機能も、教科等横断を進めたい向きには便利だ。教科書の教師用指導書にQRコードがあればデジタル指導要領の該当部分に飛ぶことができるのも、教科書「を」ではなく教科書「で」教える転換に役立とう。何より「2階建て」で教室にも個人にも多様性を包摂する柔軟なカリキュラム編成に、効果を発揮することが期待される。

 ただ、注意しておきたい。参照できる部分が多すぎて、それに振り回されることだ。特に学級担任制を基本とする小学校は、今でさえ大変な指導案づくりに追われる恐れもある。マイ指導要領から学校・学年でデジタル指導案のひな型を作って共有し、個々の教員が少々手を加える格好でもいいではないか。それよりも、多様な児童生徒一人一人の理解に時間を掛ける方が重要だ。

 何より確認しておきたいのは、次期指導要領の下では学校や教員に自律性・創造性の発揮が今以上に求められているということである。というより「上から降ってくる改革」をこなすのが精いっぱいで判断停止に陥っている学校現場に、自律性・創造性を回復する契機としたい。

 大胆な提案も付け加えておこう。学習内容を「高次の資質・能力」(中核的概念)で構造化するなら、細かい知識は解説に移すくらいの大胆なスリム化を求めたい。そもそも、こんなに精緻なナショナル・カリキュラムを持つ国はないと言われている。デジタル指導要領なら、本体も解説もシームレスだから大して問題はなかろう。

 

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2025年11月22日 (土)

次期指導要領「専門部会等」(1) 「民主」育成に総動員で貢献を

 本社は以前「次期指導要領の論点整理 今後『太い骨』通せ」と題する社説を掲げた。大きな論議もなく中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)論点整理案(当時)に「民主的で持続可能な社会の創り手」という言葉を盛り込んだのが、いかにもお行儀よく見えたからだ。

 議論の場が「専門部会等」の場に移って約2カ月、そうした主張を修正しなければならない。文部科学省事務局(初等中等教育局教育課程課)が、案外本気で方針を教科等ワーキンググループ(WG)に徹底しようとしていると気付いたからだ。各WGでも、提起を前向きに受け止めようと発言が相次いでいる。

 「持続可能な社会の創り手」は、第4期教育振興基本計画の二つのコンセプトの一つでもある。実はそれも軽く感じた理由だったが、そこに「民主的な」を付けたとことで今日的な意義を増した。民主主義の危機は、国際秩序を無視した一部の国や元首の振る舞いはもとより国内外での排外主義の広がりにみられる通りだ。デジタル技術の進展が、それに拍車を掛けている。

 その前にある「自らの人生を舵(かじ)取りする力」も、そう考えると自己実現以上の意義を帯びてくる。予測不能で変化の激しい時代への対応というだけでなくフェイクニュース(偽情報)や切り取り情報に振り回されず自ら考え情報を集めて判断し行動することが、ますます求められるからだ。

 情報活用能力の育成強化も、そうした文脈でこそ意味を持つ。決して生成AI(人工知能)やイノベーション(革新)にさおさす政府方針に追従するだけではいけない。

 論点整理では見方・考え方を、より良い社会や幸福な人生につなげることを視野に入れて教科を学ぶ本質的意義とした。旧来の見方・考え方が教科内容を学ばせるにとどまっていたとするなら、「シン見方・考え方」とでも呼ぶべきものだ。気候変動や原発再稼働など複雑な問題にしても、あらゆる教科等のシン見方・考え方を総動員して教科等横断に働かせてこそ納得解が得られよう。

 前回改訂時のように言語能力のWGが設けられたわけではないが、ますます重要性を帯びる異質な他者とのコミュニケーションと合意形成のためにも国語や外国語を学ぶ現代的意義がある。社会参画に関わる教育も、「中心」とされた特別活動や社会科系教科だけが担うものではない。

 方法論として「『好き』(興味・関心)を育み、『得意』を伸ばす」「当事者意識を持って、自分の意見を形成し、対話や合意ができる」を両輪で掲げているのも最初は平板な表現に感じたが、これからの子どもたちが生き抜かなくてはならない社会を念頭に置けば有効性は大きい。

 問題はそうした時代への危機意識を全国100万の教職員が共有し、授業実践に落とし込めるかだ。単に担当教科や学校の課題だけ見ていては、子どもたちに「武器」を持たせず対立と分断の新自由主義社会に放り出すことになりかねない。教室や職員室を眺めるだけでも、社会や世界とつながる課題の本質が見えてくるはずだ。

 現行指導要領もそうだったが、2040年ごろまで実施される次期指導要領はそれほど重い意義を持つ。改めて各教科等や個々の授業で何が貢献できるかを考え、真に平和で民主的な社会・世界の担い手を育成するために総動員しなければならない。

 9月24日から始まった特別部会・WGの動向を受け、連続で論じていく。なお本社ではこれまで前回改訂を踏襲して「教科等WG」と総称してきたが、今後は総則・評価特別部会の役割が突出していることを受けて文科省表記に倣い「専門部会等」を原則とする。

 

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