社説

2017年12月29日 (金)

教師の働き方 「改革」には遠い

 中央教育審議会が報告した「学校の働き方改革」の特別部会中間まとめを受けて、文部科学省が緊急対策をまとめた。中教審総会の前には、2018年度予算案も閣議決定されている。少なくとも現状では、なお「改革」には程遠いと言わざるを得ない。

 もちろん中間まとめで、学習・生徒・進路指導など明らかに学校の業務以外に、これまで学校が引き受けてきた業務を14項目に整理し、学校が本来担うべき業務かどうかを「仕分け」(文科省)した意義は大きい。8月末の緊急提言で、教師の勤務時間の把握を求めたことに次ぐものだ。

 ただ、これも単に曖昧で済まされてきたことを、やっと明確化しただけにすぎない。しかも「基本的には学校以外が担うべき業務」と判定されたなら、明日にでも勤務から外されなければ道理が通らないはずだ。しかし登下校ひとつ取っても緊急提言が「連携を一層強化する体制を強化する」としているのは、何も言っていないに等しい。

 教師の本来業務はもとより、 「教師の業務だが、負担軽減が可能な業務」にしてもそうだ。負担軽減を言うなら、それ相応の予算措置が講じられてしかるべきだろう。ただ中教審の緊急提言を「受けた」文科省概算要求自体、義務教育費国庫負担金の総額をマイナス要求の範囲内に収めるなど不十分なものだった。しかも予算折衝では、小学校英語の加配要求が単年度2200人(9年間で6635人)から1000人(4年間で4000人)に圧縮された。中学校の生徒指導強化に至っては、500人(9年間で4100人)の要求に対して単年度50人という馬鹿みたいな数字だ。

 それでも省庁の論理からすれば、厳しい財政事情の中でも「改善」を勝ち取れたという評価になるのだろう。林芳正・文部科学相は閣僚折衝後の会見で①20年度段階での学級数減を見込んだ②標準授業時数を大幅に上回って授業をしている学校は、「働き方改革」の観点から現在の授業時数の範囲内で実施することが可能――という点から必要数を見直したと説明した。

 看過できないのは②だ。1998~99年告示の学習指導要領が実施直前になって巻き起こった「ゆとり教育批判」に対処するため、指導要領が「最低基準」だと突然言い張って教育現場に学力向上対策を求めたのは、いったいどこの省庁だったか。その結果、現場は標準時数以上の「確保」に奔走して学力向上の「V字回復」を果たしたが、それが多忙化に拍車を掛けたことは疑いがない。

 それなのに中間まとめには、「これまで学校現場に様々な業務が付加されてきた反省を踏まえ、今後、文部科学省において学校へ新たな業務を付加するような制度改正等を行う際には、既存の業務との調整や義務付けの必要性の検証、必要な環境整備等を行う必要がある」という一文さえある。いったい反省や検証は、いつするのか。

 もちろん、文科省の苦しい立場は分かっている。政権や文教族の後押しもないまま、徒手空拳で挑まなければならない状況に置かれているからだ。しかし、だからといって教育現場に努力ばかりを押し付けるのでは、進む改革も進まない。

 むしろ旧来の同省の行政手法が現下の課題解決に機能不全を起こしていることが露呈した、とみるべきではないか。ならば率先して「付加」した分の削減を提案するぐらいの覚悟が必要になろう。国民の総反発を招いても、だ。

 指導要領の改訂にしても、「質も量も大切」だとして実質的には質の分を大幅に増大させ、それに必要な条件整備は「死ぬ気で頑張る」と言った結果がこれだ。省や官僚個人を責めているのではない。予算獲得の見通しは暗い、という冷徹な現状認識をすべきであり、官僚的答弁ではなく、できないものは正直にできないと説明すべきだと言いたいだけだ。

 これはひとえに文教行政だけの責任ではないだろう。精神論だけで勝とうとした太平洋戦争末期の状況から、日本人の体質はなかなか脱却できない。国民学校が、その先兵を果たした教訓を忘れていないか。それで中間まとめも言う「日本型学校教育」の維持も何もあったものではない。

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2017年11月30日 (木)

小中教員 9000億円タダ働き!?

 薄々分かっていたこととはいえ、改めて数字で説明されると驚くというより笑うしかない。28日に行われた中教審「学校における働き方改革特別部会」第8回会合の終盤、清原慶子・東京都三鷹市長の質問に答えて、文部科学省初等中等教育局の伊藤学司財務課長が回答した教職調整額をめぐる「試算」だ。

 公立学校の教員は、時間外手当が出ない代わりに教職調整額として給料月額の4%が上乗せされる。ただし、この割合は1966年の勤務実態調査で平均残業時間が月8時間だった時代に決められたものだ。

 「しっかり試算を出しているものではない」と断りながらも、伊藤課長が控え目に説明した数字はこうだ。約1.5兆円の義務教育費国庫負担のうち、教職調整額1%分は約120億円に相当する。4%なら500億円弱になる。

 昨年の勤務実態調査で明らかになった残業時間を教職調整額に反映させるとしたら、「小学校で30%近く、中学校で40%程度に」引き上げなければならない。そうなると、追加費用は国庫負担ベースで3000億円を超えるという。負担割合は3分の1だから、事業費はその3倍だ。もし教育調整額を残業代に切り替えるとしたら、割増が加わって更に25%増となる――。

 勤務実態調査では、小学校教諭の3割、中学校教諭の6割が「過労死ライン」にあることが明らかになった。今の学校は、そうした教員の献身的な長時間過密労働によって支えられている。それも、乱暴に言えば9000億円の「タダ働き」によってだ。もちろん、ここには全額が地方交付税措置による公立高校教員の分は含まれていない。

 とはいえ現段階では教職調整額を大幅どころか1ポイント引き上げることさえ、まったく期待できない。ましてや残業代に切り替えるなど、残念ながら非現実的だ。かと言って「働き方改革」で削減できる労働時間など、たかが知れていよう。

 財務省の財政制度等審議会は29日の建議で、教員の働き方改革について「まずは教員の業務の見直し」を求め、文科省の教職員定数改善要求をけん制している。もっとも毎年のことであり、今年はむしろ控え目な表現だから額面通り受け取る必要はないのかもしれない。

 しかし、そもそも9000億円のタダ働きをさせているのが実態だとしたら、せめて文科省の概算要求分ぐらいは全額認めるべきではないのか。単年度3415人、9年間で総計2万2275人の増といっても、自然減や若返りに伴う給与減を含めればマイナス要求でしかない。

 安倍内閣の姿勢も問われよう。もっとも教育無償化にばかり気を取られて、それどころではないかもしれない。そもそも「教育再生」への対策は済んだ話で、後は「実行」だけだと思ってはいないか。第1次も含め政権の無策が学校現場を再生どころか疲弊させていることに気付くべきだ――と言ったところで、モリ・カケ問題のごとく聞く耳を持たないだろうが。

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2017年10月30日 (月)

「いじめ対策」で教育は再生したのか

 文部科学省が先ごろ、毎年恒例の「問題行動調査」の結果を公表した。いじめの「認知件数」に関しては、いまだに「発生件数」と混同しかねない報道ぶりも目につくが、それはおいておこう。認知件数が増えたからといって即、「発生」件数が増えたわけではないことは言うまでもない。

 同調査の「いじめ」定義は、2013年6月に制定された「いじめ防止対策推進法」に基づいている。その上で、「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」と付け加えている。

 そもそも同調査がいじめを定義しているのは、調査のためである。それが独り歩きして、定義に当てはまらないものは「いじめ」ではないとか、いじめが解消したとか、しゃくし定規的な対応を過去に招いたことは否定できない。だから法律で定義が明確になったのは、悪いことではない。

 そこには、たとえささいなものであっても「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」(2条)をすべて把握して早期発見・早期対応することが必要だという考え方が背景にある。もちろん、早期発見・早期対応の重要性を否定するものでは決してない。

 改めて問いたいのは、現在の「いじめ対策」が本当に有効な「いじめ対策」になっているかどうかだ。

 いじめ防止法の眼目は、「重大事態」への対処にあろう。しかし法律に基づく重大事態の「発生」件数が前年度の314件から400件に増えている「事態」を、どうみるか。もちろん、見過ごされていた重大事態が事前に「対策」できたという好意的な見方もできよう。ただ深刻な自殺事件が絶えないことと併せて考えれば、本当に対策が奏功しているとは断言できない。

 過去に論じた通り、いじめ「対策」は「いじめ」以外の対策が必要だ。日本の学校教育が学習指導と生徒指導を両輪で行うものであり、道徳教育も各教科等も含めた学校教育活動全体で行うことが「日本型教育」だと誇るのなら、その特長を生かす条件整備をしてこそ真の「いじめ対策」と言えよう。

 ましてや、三つの柱で資質・能力の育成を目指す新学習指導要領への準備が始まっている時である。アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)の視点に立った授業改善を行うにも、学級集団の良好な人間関係が欠かせない。逆に、一人一人の多様性に気付かせ、お互いを尊重する契機にもできる。今こそ学習指導と生徒指導の両輪で子どもを育てることが、ますます求められよう。

 一方で、小学校の3割、中学校の6割が過労死ラインに置かれている教員の多忙化は深刻だ。教員自身にとって心身の健康の危機であるとともに、子ども一人一人に目が行き届ない恐れもある。中教審の「働き方改革」論議に期待したいが、現政権下での財政措置に限界があることは8月の特別部会緊急提言と、文科省の来年度概算要求を見ても明らかだろう。

 「いじめ対策」のための調査や報告に追われ、ますます多忙化に拍車を掛けては本末転倒だ。そもそも学習指導と生徒指導が両輪なら、生徒指導のうちの「いじめ対策」だけ取り出して対応すべきだという発想はいかがなものか。それより、いじめの起きにくい学校・学級づくりのための条件整備を、両輪で考えるべきである。 

 政権を奪還した安倍内閣が 「教育再生」実行の旗印の下、猛烈なスピード感で威勢よく成立させたいじめ防止法が本当に「防止」に役立っているか。来年で制定5年目を迎えるに当たり、改めて検証する必要があるのではないか。少なくとも「法律の通りやっていないじゃないか」と学校現場の尻をたたくばかりで、さらに疲弊させるような事態になってはならない。

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2017年9月27日 (水)

政権の「教育無償化」に注意を

 28日、衆院が解散される。安倍首相は理由の柱の一つに「人づくり革命」を挙げ、消費増税分で幼児教育や高等教育の無償化を実現するという。とりわけ高等教育の無償化は首相が5月に憲法改正とからめて表明して以来、さまざまな議論を呼んできた。

 ただ25日の記者会見での首相発言に、よくよく注意してほしい。「真に必要な子どもたちに限って高等教育の無償化を必ず実現する」「必要な生活費を全て賄えるよう、今月から始まった給付型奨学金の支給額を大幅に増やす」と言っている。

 現行の給付型奨学金は、自宅外通学の場合でも国公立で月3万円、私立で月4万円を支給するものである。返還不要はありがたいだろうが、生活の足しにしかならない。これで「意欲さえあれば大学に進学できる」と胸を張ることはできないだろう。

 首相が表明した「真に必要な子どもたち」が何を指すかも、よく分からない。ただ、その上限は給付型奨学金の2018年度新規対象者2万人を超えることはないだろう。少なくとも、大多数の学生には関係ない。これで「高等教育の無償化」を標榜するのは、誤解を招く。あるいは国民をミスリードする意図があると疑われても仕方がなかろう。実際、無償化に反対する人はあたかも大学進学者全員の授業料が無償化されると勘違いして論じている人が少なくない。

 残る無償化は、幼児教育だ。これには保育も含む(いわゆる幼児期の教育)。幼児教育の段階的無償化は、既に政権の方針になっている。首相が表明した3~5歳の完全無償化には年7300億円、0~2歳の「所得の低い世帯」では600~3800億円かかると試算されている。

 確かに2%の増税分で、5兆円余りの税収が見込める。「無償化」表明は、むしろこちらがターゲットだとみてよい。しかし、「全ての子どもたち」(首相)の無償化が、本当に必要なのだろうか。

 経済協力開発機構(OECD)のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長も、「図表で見る教育2017」の日本向け発表会見で、質の高い幼児教育への投資が最も効果が高いことを指摘した。ここでも注意したいのは、「質が高い」という部分である。そのためには「力のある教員を充てることだ」とも付け加えた。

 OECDの統計によると、幼児教育の在学率は2015年時点で3歳児80%、4歳児94%に達する。残り20%や6%の子どもをどう手当てするかが、最重要課題であろう。シュライヒャー局長は私費負担の高さも指摘したものの、全額無償化が即、質の向上につながるなどとは一言も言っていない。

 待機児童問題の解消は喫緊の課題だが、そうであれば集中的な投資がなおのこと求められよう。幼稚園教諭や保育士の待遇改善も確かに重要だが、これまで低賃金に抑えて経験の浅い若手を使い回してきた経営モデルこそが問われなければならない。

 このように安倍政権の「無償化」方針には、すり替えが多すぎる。うがった見方をすれば、18歳にまで広がった有権者に高等教育無償化の幻想をばらまき、その実は有力支持母体である幼児教育関係者を利するだけではないか。

 もとより本社は、幼児教育から高等教育までの完全無償化に反対するものではない。しかし、それは憲法を改正しないと実現できないものでは決してない。むしろ改正と同時に違憲状態となるような条文改正など、噴飯ものだ。だからこそ逃げずに政策と財源を国民に問わなければいけないのに、その姿勢は全く感じられない。「丁寧な説明」とは、丁寧な言葉遣いでも印象操作でもなかろう。 

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2017年9月16日 (土)

「ミサイル安全」より防災対策だ

 15日朝に北朝鮮が発射したミサイルは、8月29日とほぼ同じコースで列島上空を通過した。全国瞬時警報システム(Jアラート)も同じ12道県に国民保護情報を出し、休校は9校から1校に減ったものの、登校時間を遅らせたのは3倍以上の122校に上った。

  「発射直後から落下まで完全に探知して、追尾していた」(菅官房長官)というなら、なぜ東日本の全域近くに広がる地域が対象となったのか、そもそも茨城県が入っていながら千葉・東京・神奈川の3都県が外れているのはなぜかなど「国民」としても疑問は多々ある。しかし問題にしたいのは、教育界の対応である。

 ニュースを見ていれば、10分もしないうちに北海道南部、せいぜい青森県を除いて危険性がないことは判断できたはずだ。それなのに登校時間を遅らせる学校が続出したのは、明らかに過剰反応と言うべきである。

 それを助長したのは、明らかに9月8日付の文部科学省事務連絡であろう。「北朝鮮による弾道ミサイル発射に係る対応について」。通知・通達ではないため同省のホームページには掲載されておらず、そのため一般国民は行政のチェックがしにくい。一部の教育関係団体や教育委員会が引用しているので、検索を工夫すれば探すことはできるのがせめてもの幸いだ。

 事務連絡は、自治体の国民保護計画を参考にしながら危機管理マニュアルや学校安全計画を見直しておくとともに、自治体と連携した避難訓練を推進することを求めている。のみならず「始業前においては、登校前の児童生徒等は自宅待機とし、登下校中又は既に登校している児童生徒等については…行動をとること等について、あらかじめ注意喚起しておくこと」と留意を求める丁寧ぶりだ。

 そもそも、どんな兵器が搭載されているか分からないミサイルに、どう対処せよというのか。Jアラートの表現を「頑丈な建物や地下」から「建物の中、または地下」に言い換えたところで、何ら変わるものでもない。「政府としては、国民の安心・安全の確保に万全を期して」いると言われても空手形のようなものであり、それなのに「保護者、児童生徒等を必要以上に不安にさせることがないよう十分配慮すること」を求めるのは矛盾している。

 何より問題だと思うのは、それによって極めて必要性の低い「ミサイル安全」が学校安全で最優先されることだ。ただでさえ学校は交通安全や火災訓練などに追われている。東日本大震災以来クローズアップされてきた防災教育がおろそかにならないかと心配になる。

 百歩譲ってミサイル安全の教育が必要だとしても、防災を題材に自らの身は自らで守る思考力・判断力・表現力を身に付けさせる中でこそ対応すべきだ。それを政府の要請通りに行動することを求めては、ものを考えない国民づくりに加担するだけである。

 それこそが政権の狙いだ、とまでは言わない。ましてや「戦争ができる国づくりの一環だ」などと言うつもりもない。しかし確固たる戦略もないまま泥縄式に政策を進める政官界の体質は、戦前と変わらないようにも思えてならない。少なくとも政権の意向がここでも行政をゆがめていることだけは、強調しておきたい。

〔過去の社説〕
教職課程コアカリ 忖度の「ミサイル教育」
「ミサイル安全」 学校教育の過剰反応は避けよ

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2017年8月29日 (火)

「ミサイル安全」 学校教育の過剰反応は避けよ

 29日早朝、北朝鮮が予告なしに列島上空を通過するミサイルを発射した。とはいえ、この間の経緯を考えれば日本に飛翔体が落下する可能性など極めて低いことは素人目にも明らかだろう。それなのに、まるで日本が攻撃対象になったかのような大騒ぎには強い違和感を覚えざるを得ない。

 新幹線や電車が止まることも奇異だが、一部の学校が休校したり、登校時間を変えたりしたのは明らかに過剰反応ではなかったか。危機管理は重要だが、実際に措置を取るかどうかは冷静な判断を要しよう。

 あえてこうした苦言を呈するのも、学校に過剰反応を求める「上から」の恐れが実際にあるからだ。

 6月に公表された次期小・中学校学習指導要領解説の総則編に、奇妙な文言が入っていた。今回から明記された「安全に関する指導」に関連して、生活安全、交通安全,防災安全の3領域のみならず、情報関連の事件・事故防止とともに「国民保護等の非常時の対応等の新たな安全上の課題に関する指導を一層重視し」とある。国民保護といえば、今朝テレビを点けた多くの人が白抜き文字で目にしたことだろう。

 一応、根拠は3月に策定された第2次学校安全推進計画にあるらしい。確かに同計画には「従来想定されなかった新たな危機事象の出現などに応じて」とある。ただし、これは明らかにテロ等を想定したものである。2020年に控える東京五輪・パラリンピックを考えれば、理解できなくもない。しかし、「ミサイル安全」となると別だ。

 解説書を根拠に、ミサイル避難訓練を求めるようなことがあってはいけない。現実的な危険が想定しにくいのに、危機をあおるのは別の目的があるとしか思えないからだ。

 教職課程コアカリキュラムにこっそり「我が国の学校をとりまく新たな安全上の課題」がたくしこまれていたことは、既に論じた。どうやら現政権は、より外堀から徐々に埋めていき既成事実を作っていく目論見らしい。姑息としか言いようがない。

 実は総則の解説には、先の一文に続いて「安全に関する情報を正しく判断し、安全のための行動に結び付けけるようにすることが重要である」とある。思考力・判断力・表現力は学校教育法30条2項が定める学力の3要素の一つであるとともに、次期指導要領で育成すべき資質・能力の一つでもある。

 18歳選挙権に対応した主権者教育も、来年3月に告示予定の高校指導要領のみならず小学校からの課題でもある。政権の意向を批判的に検討して自ら判断し行動できるようにすることも、大切な資質・能力の育成だ。もちろん、その上で政府の言うミサイルの脅威に賛同する判断をすることも尊重されよう。しかし学校が防空演習を強要されるような事態は、絶対に拒否しなければならない。

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2017年6月15日 (木)

教職課程コアカリ 忖度の「ミサイル教育」

 記事配信を本業とする本社としては本来、依頼メディアに記事掲載されてから論じるべきことかもしれない。しかし、それではパブリックコメント(意見公募手続)の終了後になってしまう。また報道の最末端にいる者として、国家権力のチェックを怠ったことも正直に恥じ入らねばならない。

 教職課程コアカリキュラム(コアカリ)に関して14日夜、上智大学で緊急シンポジウムがあった。25日が期限のパブコメを出す際の参考にしてもらおうと開催されたものだ。

 コアカリの策定、もっと言えば再課程認定で文部科学省が何を狙っているかは、この際おいておこう。各論に問題は多々あるにしても、本社は必ずしも課程認定の厳格化に総論として反対するものではない。

 看過できないのは、シンポで指摘された以下の点だ。3月の第4回「教職課程コアカリキュラムの在り方に関する検討会」の案には、学校安全の到達目標の一つに「生活安全、交通安全及び災害安全等の各領域の安全管理並びに安全教育の両面から具体的な取組を理解している」とあった。

 それがパブコメの案では「生活安全、交通安全、災害安全の各領域や我が国の学校をとりまく新たな安全上の課題について、安全管理および安全教育の両面から具体的な取組を理解している」(傍線はシンポ報告者のレジメによる)に変更されている。

 報告者は「これ(傍線部分)が何かは混とんとしている」と控えめだったが、会場に参加していた文科省の審議会行政にも詳しい研究者は「ミサイルのことに決まっている」と喝破した。確かに最近、北朝鮮のミサイル発射を想定した自治体の避難訓練に学校も巻き込む例が増えてきている。

 もちろん手続き上は問題がない。座長一任を取り付ければ、その後に事務局と相談の上で修正が加わるのはよくあることだ。しかしそこに当該検討会はおろか中教審等でも一切議論されていないことがたくし込まれたとすれば、やはり政権の意図を疑わざるを得ない。

 思い起こされるのが、以前論じた「解釈改訂」だ。当時の下村博文文部科学相は学習指導要領本体の改訂を待たずに、解説を一部改訂して「領土教育」を盛り込むという異例の措置に出た。

 パブコメを受ける格好で、政権の意図を体現しようとしたこともある。次期指導要領の「海洋教育」のことだ。以前の社説で紹介した通り一部中教審委員の異論を受けて、結果的には現代的課題ではなく社会科等に位置付ける形で落ち着いた。

 文教行政に政治的な意向をこっそり反映させることは、今に始まったことではない。しかし森友・加計の両学園問題で注目された忖度(そんたく)がまん延している証左とみることもできよう。誰が行政をねじ曲げているのかは、明らかだ。それも形式上は「正当」な手続きを踏んだ上で、である。

 本社はもともと、パブコメの実効性に期待していない。反対意見が多く寄せられたとしても、どうせ聴き置かれるだけなのは今に始まったことではないからだ。「ミサイル教育」にしても、支持する国民はあろう。しかし安倍一強の下でどのような政治が進められているのか、たとえ細事であっても書かずにいられない。

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2017年5月17日 (水)

高大接続改革 本丸は「入試」ではなく「教育」

 文部科学省が「高大接続改革の進捗(しんちょく)状況」を発表し、「高校生のための学びの基礎診断」「大学入学共通テスト」(いずれも仮称)と2021年度大学入学者選抜実施要項の実施方針等の案をパブリックコメント(意見公募手続)に掛けた(6月14日まで)。

 6月いっぱいの策定が「年度初頭」に当たるのかどうか疑問だが、そもそも「目途」と逃げを打ってあったのは「霞が関文学」の真骨頂である。しかし、これまでの経緯を振り返っても、なかなか「進捗」しない状況には苦笑せざるを得ない。

 今さら共通テスト案の妥当性を論じるつもりはない。既に文科省自身、修正が効かないほど周辺政策も含めガチガチに固めて動き出しているからだ。「10年かけて育ててほしい」という担当者の説明は、本音だろう。かつて本社も配信記事で「10年後」を展望して論じた。

 高大接続には「入試接続」と「教育接続」があるとの説に従えば、入試接続はこの際どうだっていい。個人の人生にとっても社会への人材輩出にとっても、教育接続を進めることの方が絶対的に重要だからだ。

 その点、大学側は既に18歳人口減の再本格化を控えて「三つの方針」(3ポリ)改革に血眼になっている。「入試が変わらないと変われない」とうそぶいていた高校側も、高大接続改革論議の効果も相まって変わらなければいけないという機運が出てきた。

 大学教育と高校教育がコンピテンシー(資質・能力)ベースで転換してくれば、その間にある大学入学者選抜もコンテンツ(学習内容)ベースからの転換を余儀なくされるはずだ。どういう入試をするかは、技術的な問題でしかない。その技術論でいつまでも迷走しているのは、入試接続のわなに文科省自身が陥っているようなものである。

 過度の入試依存は、大学入学経験者の人生にいびつさを与えてきた。若い時期にどこの大学を出たかで人間の価値が決まるはずはないのに、世間ではいまだに偏差値信仰がこびりついている。

 少子高齢化やグローバル化をはじめとした社会の変化を、深刻に受け止めるべきだ。今こそ教育に注力し、少数精鋭で有意な人材を輩出しなければならない。それは決して国や経済のためという矮小化された戦略ではない。現行憲法の保障する幸福追求権の実現であり、改正教育基本法さえ追認した平和で民主的な国家の理想の実現である。

 幸か不幸か、本丸であるべき入学者選抜実施要項はザルのようなものである。3ポリ改革の自由度を縛らないための配慮でもあるのだろうが、それだけに大学側は真剣にアドミッション・ポリシーに基づく入学者選抜の在り方を模索してほしい。

 それは当然、入学後の教育につなげるための手段でしかない。「高大連携」で高校側へ正確なメッセージとして伝えることから、教育接続への第一歩が始まろう。国に頼っても、資金を出してくれないばかりか口ばかり出されたあげく混迷に巻き込まれるだけである。

【過去の社説】
高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜 (2010.11.25)
大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から(2011.1.16)
「終焉」した大学入試に対応が急務だ(2012.2.11)
大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない(2012.6.8)
高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ(2012.9.2)
実行会議4次提言 半年遅らせただけの「大改革」論議(2013.11.2)
大学入試改革 「人物本位」は誤解を招く(2013.11.9)
大学入試改革 各方面で「覚悟」を(2013.11.21)
「発展レベル」テスト まずは必要性と緊急性の共通認識を(2014.6.21)
〔戦後100年へ③〕高大接続改革 「入試」から決別する時だ
(2015.1.4)
「基礎学テ」をセ試改編の「高大接続テスト」に(2015.7.3)
高大接続改革 あえてスケジュールにこだわれ(2015.12.30)
残念な複数回先送り 新テストの“入試接続”依存
2016.1.30)
高大接続改革 できることだけ着実に進めよ(2016.9.5)


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2017年2月10日 (金)

新指導要領(2) 「三つの柱」更なる検証を

 育成すべき「資質・能力の三つの柱」を基に、教科・領域等に横串を、学校段階に縦串を刺して、学習指導要領を「構造化」する――。今回改訂の眼目である。今後10年に向けた検証の第一は、まさに「三つの柱」自体に置かれるべきだろう。

 ①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学びに向かう力・人間性等。これら三つの柱が、学校教育法30条2項で定める「学力の3要素」(①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学習態度)に沿ったものであることは容易に想像がつこう。

 だから「学力の3要素」との違いをめぐって混乱が起きて当然だし、過去の例からも一字一句の違いをめぐって“トンデモ解釈”が流布する恐れさえある。それはひとえに、緻密で分かりにくい「構造化」を選んだ文部科学省の責任である。

 「三つの柱」に比べれば、改訂の準備作業段階で国立教育政策研究所(国研)が提唱した「21世紀型能力」の方がよほど分かりやすく、すっきりしていた。基礎力・思考力・実践力の3層構造で、思考力が中心となって「生きる力」を育成する、というものだ。

 「資質・能力」検討会では国研の報告に対して、3層の外に「人格」を位置付けることを求めた。それによってますます「日本型資質・能力の枠組み」が完成するとの期待を抱かせるに十分だった。

 しかし中教審の本格論議以前に、この21世紀型能力を採用しない方針が事実上決まっていた。代わりに文科省事務局が議論を誘導したのが、「三つの柱」の原型だった。要するに「学力の3要素」との整合性を重視する方法を選んだのだ。

 本来、資質・能力は国際バカロレア(IB)の「10の学習者像」のような単純なものでも良かったのではないか。「明治以来140年」をうたうにしても、21世紀型能力はその現代的解釈として見事に通用する。

 そもそも「学力の3要素」に、妥当性はあったのか。学校教育法に規定する際、中教審に諮ったわけではない。きちんとした教育学・学習科学の裏付けもなく、文科省の政策的判断として立法されたにすぎない。つまり「教育」ではなく「政治」だ。

 中教審答申は、「三つの柱」が「2030年に向けた教育の在り方に関するOECDにおける概念的枠組みや、本年5月に開催されたG7倉敷教育大臣会合における共同宣言に盛り込まれるなど、国際的にも共有されている」としている。後者について、伊勢志摩サミットで配られた「リーマンショック時並み」という妙な資料と同レベルとは言わないが、同様の国内向けである色彩が濃い。

 文科省が説明する通り、確かに米国のカリキュラム・リデザイン・センター(CCR)によるカリキュラム・デザインのベン図にある三つの円が「三つの柱」に対応しているのだが、「知識」の円が知識・技能に、「スキル」の円が思考力・判断力・表現力にという対応関係は合っているのか。「人間性」に至っては、むしろ同センターのアイデアを拝借したものと言うべきだろう。

 もちろん21世紀に向けたコンピテンシー・ベースのカリキュラムをどうデザインするか、国際的にも定説があるわけではない。だからこそ今後10年、学校現場と研究者を総動員した実践研究によって検証と模索を続けるべきだ。少なくともその間、政治的な判断は極力排除したい。

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2017年1月 3日 (火)

新指導要領(1) 壮大な未完の「転換」

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会の答申が、昨年12月21日にまとまった。諮問から2年余り、前段の「育成すべき資質・能力」検討会を含めれば4年にわたる大掛かりな改訂である。文部科学省事務局の膨大かつ緻密な作業と粘り腰には、中教審委員ならずとも労をねぎらいたい思いがする。当初から注目してきた通り、総論には大賛成だ。しかし3月に小中学校の告示を控えた今、無念さと懸念が募る。

 次期指導要領は、これまでの「延長」なのか、「転換」なのか。当の文科省は、転換という言葉を嫌っているらしい。確かに指導要領の「構造化」は前回2008年改訂以来の課題だったし、1998年改訂から掲げた「生きる力」、ないしは臨時教育審議会答申を受けた89年改訂の「自己教育力」―あえて「新学力観」は留保しておこう―を継承したものであることも確かだ。

 そもそも「生きる力」とは、どうすれば育成できるのか。今までの指導要領ではその点が必ずしも明確ではなく、その解釈も実践も学校現場に任されていた。その脇の甘さは「新学力観」時代からのネックであり、それゆえに、いわゆる「ゆとり教育批判」にも足元をすくわれた。

 だからこそ本社は、「資質・能力」シフトを掲げた今回の改訂に大きな期待を掛けていた。これによって、ようやく21世紀型の教育に向かって具体的なスキル育成に乗り出せるとともに、08年の中教審答申で指摘されていた「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立から脱するだけでなく、二項対立そのものを無化できると考えたからだ。そのように位置付けてこそ、90年代の「受験競争の緩和」にとどまらない「(狭い)学力」偏重も是正できたろう。

 とりわけ資質・能力検討会が切り開いてくれた「21世紀型」の地平は、過去と未来の指導要領に現実的な結節点を見せてくれたように思った。コンピテンシー(資質・能力)の深い学びにはコンテンツ(学習内容)や教科ならではの学びが不可欠だというのも、その範囲内で大いに同意できる。多少強引と思えなくもないトップダウン式の審議会運営も、大転換のための必要悪としてなら黙認できた。

 しかし今回それを逆手に取って学習内容の削減を「一切」行わないという方針を、さほどの議論もなく既定路線として誘導したのは問題だ。今でさえ次期指導要領の理念が現行時数でこなし切れるのか、現場からは懸念が出ている。

  文科省事務局は、よほど「ゆとり教育批判」の再燃を恐れているらしい。「脱ゆとり教育宣言」が極めて永田町・霞が関ムラ内のお家事情で発せられたとはいえ、文科省自身が二項対立に捕われていることの査証にしかならない。

 そもそも現行の学習内容を、無条件に認めたままでいいのか。各教科では、極論すれば「親学問」のミニ版を改訂のたびごとに足したり引いたりしてきたにすぎない。無藤隆・中教審教育課程部会長は扱いに「メリハリ」を付けることを提唱しているが、次期指導要領にも明記されるのか、少なくとも答申上の保証はない。

 残念だったのは、14年6月で実質上打ち切られた高等学校教育部会の「審議まとめ」で提唱された「市民性」(シチズンシップ)の論議が一向に深まらなかったことだ。「コア」は高校教育にとどまるべきものではない。教育が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法1条)の育成を期すというなら、市民(シチズン)としての判断に資する知識とは何かが本格的に検討されなければならなかった。アカデミーに進むための知識は、あくまでオプションだ。

 今回の改訂は、文科省による机上プランでしかない。それも八方美人的な政策判断をさんざん重ねた上に、だ。「カリキュラム・マネジメント」の美名の下、全ての課題解決を押し付けられる学校現場はたまったものではない。

  今こそ教育現場と研究者の総力を挙げて次期指導要領を実践的に検証し、改革提言を行うべき時だ。それも自主編成だの教育の条理だのという時代遅れではない、エビデンスに基づいた未来志向と社会連帯の教育課程論議を、である。今すぐ着手してこそ、やっと2030年改訂での「転換」が展望できよう。少なくとも今回は、さまざまな点で「未完」と言うべきである。

 

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