社説

2021年10月 4日 (月)

教師の人材確保策 これも期待薄の論議だ

 文部科学省が、中央教育審議会「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会の審議まとめ案「『令和の日本型学校教育』を担う新たな教師の学びの姿の実現に向けて 」の意見募集を実施している(30日まで)。に論じた通り基本線は「最悪」なままだから多くの批判が集まることを期待したいし、財務省もぜひ概算要求の研修履歴管理システム調査研究費をゼロ査定としてほしい。

 今回論じたいのは、そのことではない。審議まとめ案の部会長一任を取り付けた9月27日の中教審特別委員会に示された事務局資料「優れた人材確保のための教師の採用等の基本的考え方」である。3月の諮問は「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」だから、やっと本丸の議論で第一歩を踏み出したというところだ。

 事務局資料では、教師の人材確保をめぐる現状と、それに対する「主な論点例」が示されている。例えば「学校現場における経験を重視した養成・入職モデル①」の論点例では「教職課程で学ぶ学生が、学習指導員等として学校現場を経験しながら、従事先の学校教職員や所属する大学の教職課程の担当教職員、同じ活動に参加する他の学生などからのフィードバックを受けつつ、理論と実践を往還した学びを深めることが有効と言えるのではないか」としている。単独で見れば結構なのだが、教職課程全体の見直しや実習先の学校での指導体制が整わなければ教員養成自体のブラック化を招きかねない。

 もっと問題なのは、「社会人等の登用を促進するための免許・採用の在り方(教師以外の学校関係職からの教職への転換)」の論点例だろう。「多様な人材を教職へ呼び込む観点から、教職課程を履修していない(在学途中に教職への志を持つようになった)現役学生も含めて、まず学習指導員等として学校現場に関わりを持つ職に採用された後、特別非常勤講師などで必要な知識経験を積み、それらの経験を加味して、免許状を取得し、教職に転換することも考えられるのではないか」としている。

 確かに多様な人材を登用する流れは、1月の答申を持ち出すまでもなく既定路線化されている。しかし、これは教員に憧れを抱く社会人や学生を無償ないしは薄謝の有償ボランティアとしてブラック職場に招き入れようとするものではないか。しかも安易に免許状を餌するのでは、教員の質の低下も心配になる。

 学校現場をブラック扱いとは、およそ教育専門ライターの書くことではないのは重々承知している。ただ、世間からそう呼ばれてもおかしくないほど現場実態は悪化しているのも事実だ。おまけに教員免許更新制の「発展的解消」に伴い研修が教員の「手かせ足かせ首かせ」(9月27日の特別部会での委員発言)になっては、現場がますます息苦しくなろう。

 もちろん現時点では「主な論点例」が示されただけだし、全体の制度設計いかんでは良案に化ける可能性がないわけではない。それでも更新制の先例を思うと、部分最適どころか部分最悪が重ねられて全体最悪に陥りかねないと危惧する。

 それよりも求められるのは、教職に自発性・創造性を取り戻させることではないか。中教審、というより文科省事務局の持って行き方に危うさを覚える。

 

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2021年8月24日 (火)

教員免許更新制 「廃止」の後に「研修地獄」?

 予想通りとはいえ、最悪の報告書になるかもしれない。中央教育審議会の特別部会「教員免許更新制小委員会」が23日におおむね合意した、審議まとめ案のことである。

 ちなみに審議まとめ案に、「廃止」という言葉は1回しか出てこない。それも別紙2の「検証ヒアリングの中では…教員免許更新制の廃止を求める意見も表明された」というくだりだ。代わりに「発展的解消」が使われている。

 では、何に「発展」させようというのか。審議まとめ案には「新たな教師の学びの姿」とあり、これが今後の教育界のキーワードになるらしい。そもそも小委が3月の諮問「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」を受けた「『令和の日本型学校教育』を担う教師の在り方特別部会」の報告をまとめるために置かれた小委だから、ある意味で自然かもしれない。

 しかし、発展的に解消された「姿」自体がくせものである。「学び続ける教師」の学びは「散漫なもの」であってはならず、「体系的・計画的な学び」でなければならないという。そのためにデジタル技術も用いてプラットフォームを構築し、研修履歴はもとより振り返りも逐一書けるようにし、「何が身についたのか」まで可視化するらしい。任命権者や含む監督賢者、学校管理職には、それを把握するとともに教員育成指標に基づいて「受講の奨励」を義務付けるという。「必ずしも主体性を有しない教師」には職務命令が出され、従わない場合には懲戒処分さえちらつかせている。

 振り返りが書けるポートフォリオというと、大学入試改革の一環として構想された「ジャパンeポートフォリオ](JeP)を思い出す。本社はJePの挫折を残念に思うものだが、この研修履歴プラットフォームでは教員養成の時代から退職後の再任用まで終生監視されることにつながりかねず背筋が寒くなる。

 「個別最適な教師の学び」を求めているのも、気味が悪い。もちろん審議まとめ案では「協働的な職場づくり」にも言及しているし、成案では校内研修とからめて充実を求めることになるのだろう。しかし育成指標という「教師版学習指導要領」に基づいて研修という名の「授業」が必修化され、対話という「指導」を通して「評価」を受けるというのは、いつも子どもにしていることだけに否定しづらかろう。その弱みを逆手に取ったような提案である。

 これなら10年ごとに30時間という方が、まだましかもしれない。「新たな姿」では多忙な中で毎年毎年、常に研修課題に追われることになりかねないからだ。一応は「一人一人の教師が安心して学びに打ち込める環境の構築」が掲げられ、成案までには記述の充実も図られるようだが、会合でも意見があったように条件整備には裏付けが必要だ。本当に十分な予算が確保できるか、おぼつかない。そもそも勤務時間内に研修時間が担保されなければ、絵に描いた餅になる。

 だから、「廃止」のニュースに喜んではいけない。「発展的解消」の先に待っているのは、「研修漬け」あるいは「研修地獄」かもしれないのだ。

 最後に皮肉を付け加えておこう。これからは公立学校教員にも「残業代」を支払わなければならなくなるかもしれない。教職調整額は教師の仕事が専門職として自発性、創造性に待つところが大きいことから、厳格な勤務時間の管理はふさわしくないという哲学の下で制度設計されている。それが全ライフステージにわたって育成指標に基づいた研修が求められるとしたら、もはや教職は自発的・創造的な仕事とは言えなくなるではないか。むしろ教職の魅力づくりとして望まれるのは官製研修の強化ではなく、自発的・創造的な自主研修の追求と保障のように思われてならない。

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2021年7月 9日 (金)

大学入試の「あり方」〈上〉 問われなかった政治責任

 文部科学省の「大学入試のあり方に関する検討会議」が正式に提言をまとめ、三島良直座長が萩生田光一文部科学相に手渡した。大学入学共通テストの実施直前になって頓挫した記述式問題と民間英語資格・検定試験活用という二つの目玉に関し、単に新課程入試(2025年度以降)でも断念を求めただけでなく経緯を検証した点でも高く評価されることだろう。

 へそ曲がりの本社は、まずその点に疑義を差し挟みたい。

 確かに今般の「高大接続改革」について、意思決定の在り方に問題があったことは疑いがない。検討の場が中央教育審議会→高大接続システム改革会議→文部科学省改革推進本部「高大接続改革チーム」へと移るにつれ、ますます不透明さが増したのも事実だ。

 問題の第一は中教審答申を、単なる会議提言が「上書き」したことだ。省庁再編前の旧中教審は文部省設置法に基づき、建議権さえ有した。少なくとも法令上は地方自治体における執行機関としての教育委員会と同様、教育の中立性を国レベルで担保するにふさわしかった。それに比べれば省庁再編後の新中教審は、政令を根拠としている。その分、大学審議会を前身とする大学分科会までも文科省事務局のコントロールが強まったように思えるのは気のせいだろうか。

 一方、検討会議は文科相決定により設置されたもので、いわゆる私的会議である。有識者と団体代表による構成は一見、幅広く公正な議論を担保しようとしたもののように見える。しかし中教審の「軽視」は極まったと言わざるを得ない。

 経緯の検証にしても、二つの目玉の見送りまでの話である。検討会議を設置した、萩生田文科相自身の判断が問われたわけではなかった。文科相の政治判断であるならば、その妥当性も検証されてしかるべきだった。

 もっと問われるべきは、下村博文・元文科相の政治責任だ。

 第2次安倍晋政権になって文教行政は、下村文科相兼教育再生相の恐怖政治にも似た剛腕によって主導された。それは本人が交通遺児から奨学金で大学を出て代議士にまでなり、発達障害の子息が海外留学で才能を開花させたという自身の個人的体験と信念に基づく側面も大きい。それを全否定するつもりは毛頭ない。むしろ高等教育の無償化など、下村氏だからこそ実現した政策や光が当たった分野があることは高く評価していい。

 しかし民主党政権から引き継いだ高大接続改革も、その剛腕が捻じ曲げた側面が否定できないのではないか。中教審やシステム会議の議事運営にしばしば首をかしげざるを得なかったのも、事務局の問題というより大臣という陰の存在に今風に言えば忖度(そんたく)したからだろう。

 その下村氏の思惑で進められた政策を、萩生田氏がひっくり返した。同じ自民党東京都連で、安倍政権の「お友達」内の対立が背景にあるとすれば興が覚める。

 「文部科学省においては、今回の事態が受験者等に与えた影響を真摯に受け止め、提言に盛り込んだ大学入学者選抜に係る意思決定のあり方に示された諸観点については、今後、広く他の施策においても生かされることを強く求める」――。提言の冒頭にうたわれた要請は、もっともである。しかし「文部科学省」とは、文科官僚のことなのか。政務三役の政治責任が問われない限り、同じ過ちを繰り返しかねない。もちろん文科官僚としての矜持(きょうじ)や能力も別途、問われるべきではあるが。

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2021年6月30日 (水)

授業時数特例 改訂時に緩和すべきだった

 文部科学省が28日、「授業時数特例校制度」を創設することを明らかにした。教科ごとに1割を上限として下回ることを認め、他の教科等に上乗せできるという。

 その理由を同省は、総授業時数は引き続き確保した上で、教科横断的な視点に立った資質・能力の育成や探究学習の充実に資するよう、カリキュラム・マネジメント(カリマネ)にかかる学校裁量の幅の拡大の一環として、弾力化した教育課程編成を認めるという。

 新学習指導要領の趣旨に照らして、誠にもっともらしい。おそらく中堅以下の教員は、誰も疑問を持たないだろう。しかし、ベテラン層は思い出してほしい。標準授業時数が本当に「標準」だった昔を。結果的に1割ほど下回ったとしても、誰も問題にしなかった。

 もちろん、そんな時代が総じて理想的だったと言うつもりはない。落ちこぼれは放置され、「お客さん」という嫌な隠語も日常的に使われていた。まだ発達障害という言葉も一般的に知られていなかった時代である。

 「ゆとり教育」批判に抗し切れなかった文科省は2001年に突然、学習指導要領を「最低基準」だと言い出した(現在は「基準性の一層の明確化」)。そこで求められたのが、「標準」時数の厳格な運用だ。当時、先進的な中学校を取材したが、教務部に相当な負担が掛かっていることが見受けられた。学力向上と評価基準策定と合わせて、あの頃から多忙化が深刻になったように思う。

 今回の指導要領改訂では、中央教育審議会で早々に「学習内容は削減しない」と宣言された。これも、ゆとり教育批判の再燃に先手を打った格好だった。しかし、それがかえって「コンテンツ(学習内容)ベースからコンピテンシー(資質・能力)ベースへの転換」をあいまいにしてしまった。学習内容の「習得」は維持されたまま、「何ができるようになるか」まで求められた。授業が過密化して当然だ。むしろ時数がもっとあっても足りない、というのが現場の実感だろう。

 カリキュラム・オーバーロードも懸念される中、時宜を得た制度だと受け止める向きもあるようだ。しかし肝心なのは、コンテンツの「扱い」の抜本的な見直しではないか。そもそも、ここまでコンテンツを厳密に示すナショナル・カリキュラムは諸外国にない。コンテンツの扱いも、真の意味で「標準」にすべきだった。大学入試改革が行き詰っているのも、やはりコンテンツ重視の体質が教育界のみならず世間一般に凝り固まっているからだろう。

 もう一つ嫌な感じがするのは、今回の制度化の発端が「履修主義と習得主義」論議から来ていることだ。これは表向き初等中等教育改革の審議過程で出てきた話だが(1月に答申)、源流は「個別最適化学習」で授業時数は弾力化すべきだという経済産業省「未来の教室」の攻勢だ。これに対抗し、差別化を図りたいという文科省の思いも分からないではない。

 しかし先に指摘したように、文科省自身が標準時数をめぐって方針転換した矛盾に矛盾を重ねた果ての制度化だと言わざるを得ない。働き方改革もそうだが、いま必要なのは現場の裁量拡大だ。お上に申請して特例を認めてもらう、上意下達の体質を強化することではない。

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2021年5月30日 (日)

教員免許更新制の存廃 まず確認しておくべきこと

 教員免許更新制について、中央教育審議会の小委員会が次回会合で存廃の議論を行うことにしている。これをめぐって今後、報道も活発化しよう。

 その前に、まず確認しておきたい。更新制は、教育界のほとんど誰もが望まずに導入されたということだ。皮肉っぽく言えば現場の不満をよそに、よくぞ10年1サイクルを回せたものだと感心する。

 そもそも更新制は2000年12月、臨時教育審議会以来の宿題だった「問題教員対策」を引き継ぐ形で森喜朗内閣の教育改革国民会議報告が提言した。早速01年4月に町村信孝文部科学相(当時)が中教審に諮問したものの、02年2月の答申では詳細な検討の上「なお慎重にならざるを得ない」との考えを示して導入を見送っている。なのに04年10月に中山成彬文科相(同)が再度諮問すると、今度は抗し切れずに06年7月の答申で導入を提言せざるを得なかった。要するに、そもそもが結論ありきの無理筋だったのだ。

 そのため答申後も、制度化を「走りながら考える」(当時の文部科学省教職員課長)ような状態だった。そうして09年度から急ごしらえでスタートした更新制が、本当に「自信と誇りをもって教壇に立ち、社会の尊敬と信頼を得ていく前向きな制度」(06年答申)になっているかどうかなど二の次、三の次の話だ。

 ちなみに最近の解説記事では、第1次安倍内閣の教育再生会議が提言したことを強調する向きも強い。確かに安倍晋三氏は首相就任直前に「ダメ教師には辞めていただく」(文春新書『美しい国へ』、06年7月)と書き、07年1月の再生会議第1次報告にも「真に意味のある教員免許更新制の導入」を盛り込んで実際に提言通り教育職員免許法改正を実現させた。しかし国会審議で安倍首相がおそらく文科官僚が起案した通りの答弁を無表情で読み上げるのを聞くにつれ「ああ、この人は関心がないのだな」と思わざるを得なかった。

 これまで更新制を維持する理由として、よく更新講習の受講者アンケートが挙げられてきた。しかし好評なのは、選択領域18時間に限った話だ。そうでなければ、わざわざ16年度に必修領域12時間のうち6時間を選択必修領域に割く必要などなかったろう。

 もちろん中教審小委が、きちんと検証を行わなければ恰好がつかない事情は分からないでもない。一部の委員や、事によると文科省内にさえ今や本気で更新制が必要だと考えている人がいるかもしれない。しかし経緯を振り返れば振り返るほど、真面目な議論がばかばかしく思える。

 政治主導で導入された無理筋の制度に、せっかく萩生田光一文科相が政治主導で道筋を付けてくれた存廃論議である。既に主張した通り、廃止の結論を出したとしても誰も困らない。

 返す返すも民主党政権の時に即刻廃止すべきだったと、悔やまれて仕方がない。確かに修士レベル化は優れたアイデアだったが、結果的にはかえって廃止を遅らせた。ましてや今、更新制の代替案として修士レベル化を蒸し返すようなアイデアがささやかれているのには、あきれるばかりだ。むなしい論議はさっさと結論を出して、本丸の養成・採用・研修改革に移ってほしい。

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2021年4月30日 (金)

一斉休校で母親失業 安倍前首相の責任を問え

 内閣府の「コロナ下の女性への影響と課題に関する研究会」が28日、報告書をまとめた。全国一斉臨時休校が要請された昨年3月以降、小学生を末子に持つ女性の就業率が低下し、非労働力化した割合が上昇するなど一定の「休校効果」があったという。末子が未就学児である女性に比べても、大きく減少した。

 これが「女性活躍」を旗印とした安倍政権の実態であった。改めて責任を追及しなければならない。

 一斉休校要請をめぐっては昨年10月、「新型コロナ対応民間臨時調査会」が調査・検証報告書で「エビデンスから考えると、今回のウイルスは、子どもは感染源にほとんどなっていない」「一斉休校は疫学的にはほとんど意味がなかった」という専門家の声を紹介しながら、「教育現場に混乱をもたらすことになった」と結論付けている。

 要請は、安倍晋三前首相の「政治判断」で行われたものだ。盟友である萩生田光一文部科学相が共働き家庭の児童生徒や給食、学童保育への配慮はもとより、仕事を休むことを余儀なくされる保護者に対する経済対策の必要性を訴えていたにもかかわらず、である。

 しかし「国民からは一定の評価を受けることになった」(報告書)ことからか、今に至るまで当の安倍前首相は責任を感じているようには思えない。民間臨調のインタビューにも「一斉休校もなかなか難しい判断だった」などと、反省するそぶりはなさそうだ。

 安倍前首相は、健康不安を理由に退陣したはずだ。しかし最近すっかり元気を取り戻したようで、保守系グループ「伝統と創造の会」顧問に就任したり、夕刊紙主催の憲法シンポジウムで「(枝野幸男・立憲民主党代表に対して)議論しろよ、という思いだ」とうそぶいたりしている。「難病」を抱える人にこんなことを言ってはいけないのかもしれなが、「桜を見る会」問題の追及や新型コロナウイルス感染症の拡大を止められない重圧に耐え切れずに、また政権を放り出したのではないかという疑念が拭えない。

 それはさておき、「政治は結果がすべて」が決めぜりふだった安倍前首相である。「政治判断」の結果責任を、きちんと総括してほしい。それとも、「今は首相の任にない」から答える必要はない、とでも言うのだろうか。

 今回の緊急事態宣言では子どもにも感染力が強い変異株の広がりが指摘しているにもかかわらず、一斉臨時休校は要請されていない。当然だ。それと比較すると、ますます昨年の「政治判断」が異様に思えてくる。もちろん、官房長官だった菅義偉・現首相も同罪である。

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2021年4月 1日 (木)

1人1台端末 「文房具」と言うのなら

 今日は新年度の始まりであるとともに、エイプリルフールである。いつも以上に馬鹿な主張も許されたい。

 今年度は、GIGAスクール構想の前倒しによる「1人1元年」となる。同構想をめぐっては、学校現場のみならず世間にも不安が広がっているようだ。

 急速な整備への戸惑いは仕方ないが、そもそも3クラスに1クラス程度の1人1台環境はもっと早く実現してもよかったはずだ。これからの時代を考えれば、情報端末を普段使いすることは避けられない。学校でも同様だ。大いに推進すべきである。

 ところで同構想を契機に文部科学省は、ICT(情報通信技術)を「文房具」だという言い方をするようになった。これは文科省の意図を超えて、示唆的な表現であるように思う。

 考えてもみてほしい。鉛筆や定規に「文房具指導員」が要るだろうか。近年では板書の仕方を指導する教職課程は少なくないが、現場の教師にチョークと黒板消しの指導や活用支援が必要だろうか。

 そもそもコンピューター自体が、ユーザー第一の発想で作られているのか。しかも日本ではインターフェースだのダウンロードだの、カタカナ語のオンパレードである。デジタル社会を進めるには高齢者にも使ってもらう必要があるが、そもそも使い方を教わらなければ使えないようなものを「文房具」とは呼べない。

 せめて子どもが使う端末は徹頭徹尾、安全性と操作性を担保してもらいたい。それは教員や指導員に委ねるのではなく本来、製造者責任だろう。使いにくいものを平然と売り込み、ブラックボックス化してきたのは他ならぬメーカーやサービス提供者ではなかったか。

 ところでGIGAスクール構想の実現や前倒しには、経済産業省の力もあった。同省は「未来の教室」事業を進め、民間事業者が開発した教材を学校に普及させることを目指している。結構なことだ。学校に役立つ教材開発は、いくらでもやってほしい。ただし、それで学校教育を変革しようなどというのは本末転倒だ。あくまでも学校教育が今以上にやりやすくなるため、やりたい教育を進めやすくするための教材開発であるべきである。

 「デジタルトランスフォーメーション(DX)」という言葉に代表されるように、ICTやデジタル化をめぐっては大言壮語がまん延している。ICTを使いこなす時代になっていること、そのためのリテラシーが必要なことは疑いがない。しかし、そのための負担をユーザー側に負わせる業界の体質と発想はいかがなものか。ましてや子どもや教員に負担を掛けて平然としていることに、疑問を持つべきだろう。

 本気でICTを文房具にしようとするなら、教員が誰にも教わらずセッティングにも苦労しないような機器であるべきである。そうでないのなら、機器の側に問題がある。もちろん学校教育の問題にとどまらない。ユニバーサルデザインを求めることこそが、社会変革ではないか……といい加減な大言壮語で締めくくるのも、4月馬鹿とお読み飛ばしいただきたい。
 

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2021年3月21日 (日)

養成・採用・研修諮問 すぐやれる改革が二つある

 萩生田光一文部科学相が、12日に初会合を開いた第11期中央教育審議会に「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」を諮問した。

 第9期の「働き方改革」、第10期の「初中教育包括」、そして第11期の「養成・採用・研修」と、泥縄式に諮問・答申されてきた感が否めない。困難は次々と先送りされ、教育現場への負担はますます肥大化するという矛盾をますます深めている印象さえある。とりわけ、何かと教育改革が迫られると「教員養成段階からしっかりと資質能力を身に付けさせなければならない」と言って教職課程を過密化させてきたのが実態だ。安全教育しかり、ICT(情報通信技術)教育しかりである。

 今回の諮問の大きな契機の一つに教員採用試験の倍率低下があるが、採用後はもとより養成段階も大変な教員養成学部・学科を優秀な受験生が選ぼうとするだろうか。教職の魅力をアピールするといっても今の教職が胸を張って魅力ある職場だとは、とても言えない。

 諮問は、「基本的なところまで遡(さかのぼ)って検討を行」うことを求めている。しかし、本当にそうするなら相当な困難を覚悟しなければならない。泥縄・先送りばかりの中教審=文部科学省に、それを期待するのは現段階で期待が薄い。

 そうした中で、すぐできて効果も大きい改革が二つある。一つは、教員免許更新制の即時廃止だ。

 諮問では萩生田文科相の意向を受けて「抜本的な見直し」を先行して結論を出すよう求めているが、手ぬるい。現場教員にとっては、明日廃止されても誰も困らないし支障もない。確かに国立教員養成学部などにとって免許更新講習という数少ない外部資金獲得の手段が失われることは経営的な打撃になるが、これも担当教員レベルには歓迎されよう。更新制導入を主導した安倍晋三前首相の影響力にも陰りがみられる中、今をおいて他はない。

 もう一つは、奨学金免除の復活だ。かつては教育職か研究職に10年就けば、日本育英会の奨学金は返還免除になった。日本学生支援機構への移行に伴って1998年に廃止となったが、研究職志望も含め学費負担は当時より深刻化している。おまけに当時のように、単位さえ積み上げて教育実習さえこなせば免許が取れる時代ではない。アルバイトもままならなず、採用後もブラック職場が待っている中で教職を志望せよと言っても無理な話だろう。せめて必死で教職を目指してもらえるようなインセンティブが不可欠だ。

 控えめに返還免除と言ったが、本来なら給付型奨学金を主張したいところだ。かつての師範学校は給費制だったため、士官学校と同様に優秀な貧乏学生が集まった。現在の日本も、戦前と同様の経済格差が広がっているとみた方がいいのかもしれない。

 諮問をめぐっては、外部人材の導入など批判的に検討しなければならない点が多々ある。特別部会が発足したら、順次論じよう。しかし養成・採用・研修の一体改革が、一筋縄で行かないことも確かだ。そうした中で、二つの改革は単独でも大きな効果を発揮しよう。特別部会委員に任じられた人には、ぜひ一考してもらいたい。

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2021年3月11日 (木)

震災10年の教訓 非常時対応も定数算定に

 東日本大震災から10年を、新型コロナウイルス感染症の終息さえ見えない中で迎えた。この10年間は、極めて象徴的な時期だったように思える。

 10年前のあの日、過去に阪神・淡路大震災を経験していたとはいえ、1000年に一度の出来事だという衝撃があった。しかしこの間、熊本地震、九州北部豪雨、大阪北部地震、西日本豪雨、北海道胆振東部地震など、局地的とはいえ日本列島どこにいても自然災害から逃れられないことが浮き彫りとなった。

 極めつけは、昨年初旬からのコロナ禍だ。日本どころか世界が災禍を突き付けられた。学校も例外ではない。

 「当たり前のように存在していた学校に通えない状況が続いた中で、子供たちや各家庭の日常において学校がどれだけ大きな存在であったのかということが、改めて浮き彫りになった」――。今年1月の中央教育審議会答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」の、コロナ禍を踏まえた一節である。この10年間、 東日本の被災地をはじめ各地で痛感されたことでもあろう。

 答申は、さらに続ける。「学校は、学習機会と学力を保障するという役割のみならず、全人的な発達・成長を保障する役割や、人と安全・安心につながることができる居場所・セーフティネットとして身体的、精神的な健康を保障するという福祉的な役割をも担っていることが再認識された」。これも、10年前から分かっていたことだ。

 しかるに、学校をめぐる状況はどうなったか。文部科学省の2016年度教員勤務実態調査では、小学校で3割、中学校で6割の教員が過労死ラインを超えて働く「ブラック職場」化していることが裏付けられた。これは、必ずしも震災対応のせいではない。むしろ被災地以外では、震災を想定した避難訓練さえ薄れがちになっている。

 むしろ全国どこでも、災禍を想定した「余白」を織り込んでおくべきだろう。カリキュラムもそうだが、教職員定数はむしろ現状で足りなくなっていると認識すべきだ。

 21年度予算案で、やっと小学校の35人学級化が盛り込まれた。成果であることに間違いはないが、10年前ならいざ知らず、今となって実現しても遅すぎる。しかも中学校は先送りとなり、高校は展望すら描けていない。

 あす開かれる第11期初の中教審総会では、「『令和の日本型学校教育』を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について」が諮問されるという。その意義は否定しないが、これ以上の労働強化となっては困る。何より第10期中教審は「学校の働き方改革」答申(19年1月)の延長戦で初等中等教育の在り方を検討してきたはずなのに、コロナ禍と、棚ぼたのような形で実現した1人1台や35人学級がなかったら「日本型学校教育」を顧みることさえなかったろう。

 教員の資質能力向上を言うなら、自主研修を含めた研修機会の保障が不可欠だ。あらかじめ職務専念義務免除の時間を織り込むことで、非常時への備えにもなろう。さらなる大幅な定数改善が必要であることは、言うまでもない。人材確保策に関しては、諮問が出たら改めて論じよう。

 10年前の被災地では、自らも被災しながら公務員の一人として避難所となった学校で地域住民の対応に追われながら、子どもの安全確認と学校再開に奔走した教職員の姿を忘れてはならない。そもそもコロナ禍で、勤務時間だけでは測れない苦労を教職員は強いられている。それに見合った条件整備をすることは、教職員の心身の健康はもとより、学校教育の質に直結する。そうした意義を、この10年の教訓として改めて確認したい。


〈関連記事〉
・生徒の健康、福祉…震災10年で思う「学校」の価値、次世代をどう育てるか(Yahoo!ニュースオトナンサー
・3.11の東日本大震災10年とコロナ禍、「学校」の役割とは(ベネッセ教育情報サイト

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2021年2月 7日 (日)

中教審初中答申 時期逸した「文学」の言葉

 本社は昨年8月の社説で、中央教育審議会の答申骨子案を「『虎ノ門文学』の最高傑作になりそうな予感がする」と書いた。その後すぐ安倍晋三首相が退陣するとは思ってもみなかったし、ましてや後を襲った「鉄壁の」菅義偉首相の支持率が乱高下することなど想像すらできなかった。

 第10期の任期に合わせるという「お尻」が切られる中でも大幅改定して緊急出版したものの、刊行のタイミングが時流とズレてしまった――1月26日の答申を評するなら、こうなろうか。

 そもそも「文学」に例えたのも、盤石と思われた安倍政権の下では「イソップの言葉」(レーニン)でしか語れないと思ったからだ。だからこそ「官邸の力が強く、政権に忖度(そんたく)しなければならない中にあって明治以来の三流官庁としての矜持(きょうじ)をよく保ったものだ」と評価した。

 象徴的な出来事があった。答申のサブタイトルにも使われた「個別最適」な学びをめぐって、経済産業省の浅野大介・サービス政策課長(教育産業室長)が「最近は自律調整型の学びと言い換えるようにしている」(昨年12月の「超教育協会」オンラインシンポジウム)というのだ。

 「個別最適化学習」の始まりは18年6月、文部科学省の「Society5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会」省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告と、経産省「『未来の教室』とEdTech研究会」第1次提言だった。というより経産省主導の色合いが濃かったことは、GIGAスクール構想も含めたその後の経緯を見れば明らかだ。

 もともと個別最適化学習の「学習」は、昨年10月の中教審教育課程部会で溝上慎一・桐蔭横浜大学長が発表した通り人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことである。つまりは「教育の言葉」ではない。そこまで明らかにされながらも中教審、というより文科省事務局は一部委員の懸念を聞き置き「個別最適」で通した。しかもイソップの言葉を捨て去ってもよさそうな時期に、である。

 言い訳はある。「個別最適な学び」とは、「『個に応じた指導』(指導の個別化と学習の個性化)を学習者の視点から整理した概念」だというのだ。だったら、なおさら教育の言葉で「指導の個別化と学習の個性化」と言えばいい。

 考えてみれば「令和の日本型学校教育」という扇の要のような総論がなかったら、総花的な答申に終始せざるを得なかったろう。1人1台端末にしても小学校35人学級にしても棚ぼたのように実現したもので、中教審での論議とは何の関係もなかった。すべては新型コロナウイルス感染症という奇禍が、奇貨に転じたものだ。

 間もなく発足する第11期中教審では、教員の養成・採用・研修が初等中等教育の中心テーマに浮上しそうな雰囲気である。元々は第9期の「働き方改革」答申の延長戦として初中教育の「包括諮問」がなされたはずだったが、これに対しても無力だったことが露呈してしまった。「教育」の論議をどう取り戻すか、今後の重い課題だろう。

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