社説

2017年5月17日 (水)

高大接続改革 本丸は「入試」ではなく「教育」

 文部科学省が「高大接続改革の進捗(しんちょく)状況」を発表し、「高校生のための学びの基礎診断」「大学入学共通テスト」(いずれも仮称)と2021年度大学入学者選抜実施要項の実施方針等の案をパブリックコメント(意見公募手続)に掛けた(6月14日まで)。

 6月いっぱいの策定が「年度初頭」に当たるのかどうか疑問だが、そもそも「目途」と逃げを打ってあったのは「霞が関文学」の真骨頂である。しかし、これまでの経緯を振り返っても、なかなか「進捗」しない状況には苦笑せざるを得ない。

 今さら共通テスト案の妥当性を論じるつもりはない。既に文科省自身、修正が効かないほど周辺政策も含めガチガチに固めて動き出しているからだ。「10年かけて育ててほしい」という担当者の説明は、本音だろう。かつて本社も配信記事で「10年後」を展望して論じた。

 高大接続には「入試接続」と「教育接続」があるとの説に従えば、入試接続はこの際どうだっていい。個人の人生にとっても社会への人材輩出にとっても、教育接続を進めることの方が絶対的に重要だからだ。

 その点、大学側は既に18歳人口減の再本格化を控えて「三つの方針」(3ポリ)改革に血眼になっている。「入試が変わらないと変われない」とうそぶいていた高校側も、高大接続改革論議の効果も相まって変わらなければいけないという機運が出てきた。

 大学教育と高校教育がコンピテンシー(資質・能力)ベースで転換してくれば、その間にある大学入学者選抜もコンテンツ(学習内容)ベースからの転換を余儀なくされるはずだ。どういう入試をするかは、技術的な問題でしかない。その技術論でいつまでも迷走しているのは、入試接続のわなに文科省自身が陥っているようなものである。

 過度の入試依存は、大学入学経験者の人生にいびつさを与えてきた。若い時期にどこの大学を出たかで人間の価値が決まるはずはないのに、世間ではいまだに偏差値信仰がこびりついている。

 少子高齢化やグローバル化をはじめとした社会の変化を、深刻に受け止めるべきだ。今こそ教育に注力し、少数精鋭で有意な人材を輩出しなければならない。それは決して国や経済のためという矮小化された戦略ではない。現行憲法の保障する幸福追求権の実現であり、改正教育基本法さえ追認した平和で民主的な国家の理想の実現である。

 幸か不幸か、本丸であるべき入学者選抜実施要項はザルのようなものである。3ポリ改革の自由度を縛らないための配慮でもあるのだろうが、それだけに大学側は真剣にアドミッション・ポリシーに基づく入学者選抜の在り方を模索してほしい。

 それは当然、入学後の教育につなげるための手段でしかない。「高大連携」で高校側へ正確なメッセージとして伝えることから、教育接続への第一歩が始まろう。国に頼っても、資金を出してくれないばかりか口ばかり出されたあげく混迷に巻き込まれるだけである。

【過去の社説】
高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜 (2010.11.25)
大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から(2011.1.16)
「終焉」した大学入試に対応が急務だ(2012.2.11)
大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない(2012.6.8)
高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ(2012.9.2)
実行会議4次提言 半年遅らせただけの「大改革」論議(2013.11.2)
大学入試改革 「人物本位」は誤解を招く(2013.11.9)
大学入試改革 各方面で「覚悟」を(2013.11.21)
「発展レベル」テスト まずは必要性と緊急性の共通認識を(2014.6.21)
〔戦後100年へ③〕高大接続改革 「入試」から決別する時だ
(2015.1.4)
「基礎学テ」をセ試改編の「高大接続テスト」に(2015.7.3)
高大接続改革 あえてスケジュールにこだわれ(2015.12.30)
残念な複数回先送り 新テストの“入試接続”依存
2016.1.30)
高大接続改革 できることだけ着実に進めよ(2016.9.5)


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月10日 (金)

新指導要領(2) 「三つの柱」更なる検証を

 育成すべき「資質・能力の三つの柱」を基に、教科・領域等に横串を、学校段階に縦串を刺して、学習指導要領を「構造化」する――。今回改訂の眼目である。今後10年に向けた検証の第一は、まさに「三つの柱」自体に置かれるべきだろう。

 ①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学びに向かう力・人間性等。これら三つの柱が、学校教育法30条2項で定める「学力の3要素」(①知識・技能②思考力・判断力・表現力③学習態度)に沿ったものであることは容易に想像がつこう。

 だから「学力の3要素」との違いをめぐって混乱が起きて当然だし、過去の例からも一字一句の違いをめぐって“トンデモ解釈”が流布する恐れさえある。それはひとえに、緻密で分かりにくい「構造化」を選んだ文部科学省の責任である。

 「三つの柱」に比べれば、改訂の準備作業段階で国立教育政策研究所(国研)が提唱した「21世紀型能力」の方がよほど分かりやすく、すっきりしていた。基礎力・思考力・実践力の3層構造で、思考力が中心となって「生きる力」を育成する、というものだ。

 「資質・能力」検討会では国研の報告に対して、3層の外に「人格」を位置付けることを求めた。それによってますます「日本型資質・能力の枠組み」が完成するとの期待を抱かせるに十分だった。

 しかし中教審の本格論議以前に、この21世紀型能力を採用しない方針が事実上決まっていた。代わりに文科省事務局が議論を誘導したのが、「三つの柱」の原型だった。要するに「学力の3要素」との整合性を重視する方法を選んだのだ。

 本来、資質・能力は国際バカロレア(IB)の「10の学習者像」のような単純なものでも良かったのではないか。「明治以来140年」をうたうにしても、21世紀型能力はその現代的解釈として見事に通用する。

 そもそも「学力の3要素」に、妥当性はあったのか。学校教育法に規定する際、中教審に諮ったわけではない。きちんとした教育学・学習科学の裏付けもなく、文科省の政策的判断として立法されたにすぎない。つまり「教育」ではなく「政治」だ。

 中教審答申は、「三つの柱」が「2030年に向けた教育の在り方に関するOECDにおける概念的枠組みや、本年5月に開催されたG7倉敷教育大臣会合における共同宣言に盛り込まれるなど、国際的にも共有されている」としている。後者について、伊勢志摩サミットで配られた「リーマンショック時並み」という妙な資料と同レベルとは言わないが、同様の国内向けである色彩が濃い。

 文科省が説明する通り、確かに米国のカリキュラム・リデザイン・センター(CCR)によるカリキュラム・デザインのベン図にある三つの円が「三つの柱」に対応しているのだが、「知識」の円が知識・技能に、「スキル」の円が思考力・判断力・表現力にという対応関係は合っているのか。「人間性」に至っては、むしろ同センターのアイデアを拝借したものと言うべきだろう。

 もちろん21世紀に向けたコンピテンシー・ベースのカリキュラムをどうデザインするか、国際的にも定説があるわけではない。だからこそ今後10年、学校現場と研究者を総動員した実践研究によって検証と模索を続けるべきだ。少なくともその間、政治的な判断は極力排除したい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月 3日 (火)

新指導要領(1) 壮大な未完の「転換」

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会の答申が、昨年12月21日にまとまった。諮問から2年余り、前段の「育成すべき資質・能力」検討会を含めれば4年にわたる大掛かりな改訂である。文部科学省事務局の膨大かつ緻密な作業と粘り腰には、中教審委員ならずとも労をねぎらいたい思いがする。当初から注目してきた通り、総論には大賛成だ。しかし3月に小中学校の告示を控えた今、無念さと懸念が募る。

 次期指導要領は、これまでの「延長」なのか、「転換」なのか。当の文科省は、転換という言葉を嫌っているらしい。確かに指導要領の「構造化」は前回2008年改訂以来の課題だったし、1998年改訂から掲げた「生きる力」、ないしは臨時教育審議会答申を受けた89年改訂の「自己教育力」―あえて「新学力観」は留保しておこう―を継承したものであることも確かだ。

 そもそも「生きる力」とは、どうすれば育成できるのか。今までの指導要領ではその点が必ずしも明確ではなく、その解釈も実践も学校現場に任されていた。その脇の甘さは「新学力観」時代からのネックであり、それゆえに、いわゆる「ゆとり教育批判」にも足元をすくわれた。

 だからこそ本社は、「資質・能力」シフトを掲げた今回の改訂に大きな期待を掛けていた。これによって、ようやく21世紀型の教育に向かって具体的なスキル育成に乗り出せるとともに、08年の中教審答申で指摘されていた「ゆとり」か「詰め込み」かの二項対立から脱するだけでなく、二項対立そのものを無化できると考えたからだ。そのように位置付けてこそ、90年代の「受験競争の緩和」にとどまらない「(狭い)学力」偏重も是正できたろう。

 とりわけ資質・能力検討会が切り開いてくれた「21世紀型」の地平は、過去と未来の指導要領に現実的な結節点を見せてくれたように思った。コンピテンシー(資質・能力)の深い学びにはコンテンツ(学習内容)や教科ならではの学びが不可欠だというのも、その範囲内で大いに同意できる。多少強引と思えなくもないトップダウン式の審議会運営も、大転換のための必要悪としてなら黙認できた。

 しかし今回それを逆手に取って学習内容の削減を「一切」行わないという方針を、さほどの議論もなく既定路線として誘導したのは問題だ。今でさえ次期指導要領の理念が現行時数でこなし切れるのか、現場からは懸念が出ている。

  文科省事務局は、よほど「ゆとり教育批判」の再燃を恐れているらしい。「脱ゆとり教育宣言」が極めて永田町・霞が関ムラ内のお家事情で発せられたとはいえ、文科省自身が二項対立に捕われていることの査証にしかならない。

 そもそも現行の学習内容を、無条件に認めたままでいいのか。各教科では、極論すれば「親学問」のミニ版を改訂のたびごとに足したり引いたりしてきたにすぎない。無藤隆・中教審教育課程部会長は扱いに「メリハリ」を付けることを提唱しているが、次期指導要領にも明記されるのか、少なくとも答申上の保証はない。

 残念だったのは、14年6月で実質上打ち切られた高等学校教育部会の「審議まとめ」で提唱された「市民性」(シチズンシップ)の論議が一向に深まらなかったことだ。「コア」は高校教育にとどまるべきものではない。教育が「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」(教育基本法1条)の育成を期すというなら、市民(シチズン)としての判断に資する知識とは何かが本格的に検討されなければならなかった。アカデミーに進むための知識は、あくまでオプションだ。

 今回の改訂は、文科省による机上プランでしかない。それも八方美人的な政策判断をさんざん重ねた上に、だ。「カリキュラム・マネジメント」の美名の下、全ての課題解決を押し付けられる学校現場はたまったものではない。

  今こそ教育現場と研究者の総力を挙げて次期指導要領を実践的に検証し、改革提言を行うべき時だ。それも自主編成だの教育の条理だのという時代遅れではない、エビデンスに基づいた未来志向と社会連帯の教育課程論議を、である。今すぐ着手してこそ、やっと2030年改訂での「転換」が展望できよう。少なくとも今回は、さまざまな点で「未完」と言うべきである。

 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月30日 (金)

TIMSS・PISA(下)読解力 読み方がズレている

 2015年に実施された二つの国際学力調査では、好調だった理数系とは裏腹に、PISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の読解力が前回(PISA2012)に比べ有意に低下した。「理由が見当たらない」と戸惑いをみせながらも分析を披露していた文部科学省の説明は、若干苦しかったように思う。というより、事は「テスト」ではない「調査」(アセスメント)の読み方という、本質的な問題なのかもしれない。

 そのことが非常に分かりやすく示されたのが、15日に行われたNPO法人教育テスト研究センター(CRET)など主催のシンポジウムだった。信州大学の林寛平・大学院助教は「大規模国際アセスメントの目的と限界を正しく理解し、『犯人捜し』ではなく、長期的な視点に立った政策立案につながることを期待したい」と述べていた。

 林助教によると、そもそも読解力の測定は他の分野に比べて振れ幅が大きい。しかもPISA自体、相関しか示せず、因果まで説明できないものである。PISAの調査設計には国際的合意が必要なので、長い時間が掛かる。教育政策の改善は、それを待ってはいられない。読解力が「低下」したというのなら、その要因は他の調査などで補うなど立体的に分析すべきだ、という。

 そう考えると、初めてPISAとTIMSS(国際教育到達度評価学会=IEA=の「国際数学・理科教育動向調査」)が同時発表された2004年末の「悪夢」を思い出す。PISA2003で数学的リテラシーや科学的リテラシー以上に読解力が大幅に落ち込んだことが、学力低下の客観的根拠だと騒ぎ立てられたことだ。

 国際順位の「低下」は、参加国・地域の増加によるものが大きい。読解力調査は初回のPISA2000で中心分野だったから、一応は前回の得点差が統計的に有意なら低下したとは言えるのだが、もともと振れ幅が大きいとしたらそう深刻になる必要はなかったはずだ。OECD当局も当時「日本は依然トップグループだ」と評価していた。

 それを当時の文科省までもが「もはや日本はトップではない」と認め、読解力指導の強化に乗り出した。そのこと自体は悪くない。しかし今に至るまでの「ゆとり」「脱ゆとり」の混迷に自ら足をはめたことは、2008年、そして2017年の学習指導要領改訂にまで良くない影響を及ぼしたとしたら残念である。

 PISA2015が全面的にコンピューター使用型調査に移行した影響が、読解力の測定に影響を与えたことは否定できない。林助教も「過去の得点との比較可能性が若干損なわれた」と指摘していた。

 改めて当局者のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長の言に耳を傾けてみよう。「得点が下がったと考えるのではなく、21世紀型スキルを身に付けさせるために教育はどのような改善ができるのか、という見方をしたい」

 いま考えるべきは、これから人工知能(AI)時代に生きる子どもたちに「デジタル読解力」をいかに身に付けさせるかだ。まとめサイトが社会問題化する中、情報の真偽を判断する力も「意味」を理解できる人間にしかできない資質・能力だろう。

 文科省もよく分かっているはずだ。だからこそ新井紀子・国立情報学研究所教授と連携するなどして分析調査に乗り出すのだろう。しかし対策が「読解力対策」に終始する限り、学校現場に対して「これからは読解力の向上が重要だ。そのためには、まず語彙(ごい)の教え込みが必要だ」という、ズレたメッセージを与えかねない。

 次期指導要領については新年に改めて論じたいが、せっかくコンテンツ(学習内容)ベースからコンピテンシー(資質・能力)へのシフトを展望した教育課程の構造化が試みられたというのに、調査や指導の捉え方が従来のままでは的外れな改革になってしまう。何より文科省自身が「脱ゆとり宣言」の自縄自縛で国が指導を強化すれば学力も「向上」すると思ったままでは、先が思いやられるというより現場をますます苦しめることになりはすまいかと危惧する。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月 7日 (水)

TIMSS・PISA(上)理数系 “教科の外から出ない”改革?

 代表的な二つの国際学力調査、TIMSS(国際教育到達度評価学会=IEA=の「国際数学・理科教育動向調査」)とPISA(経済協力開発機構=OECD=の「生徒の学習到達度調査」)の2015年結果が、相次いで発表された。6日の中央教育審議会教育課程企画特別部会はPISA解禁に合わせて19時からの開会となったが、30分前の開場と同時に配られた資料に「ポイント」が入っていたのはフライングではないのか――という難癖はおいておこう。

 理数系(TIMSSは算数・数学と理科、PISAは数学的リテラシーと科学的リテラシー)に関して文部科学省は、現行学習指導要領で授業時数や学習内容を大幅に増やしたため、ともに前回(各11年、12年)に比べ改善したとしている。しかし、手放しで喜んでいいのか。PISAの読解力に課題があることは明らかだが、調査結果をどう評価するか、われわれ自身の読解力も問われよう。

 学校で学んだ知識・技能を測るTIMSSの得点は、いずれも前回より統計的に有意な上昇となっている。文科省が言うように、指導要領改訂の効果があったと認めてよい。実社会の課題に活用できる力を問うPISAも数学が前回の参加国中7位から5位(OECD加盟国中2位から1位)、科学が4位から2位(同いずれも1位)に上昇した。

 ただしPISAの報告書や要約を読むと、意外なことが書いてある。数学は比較可能な03年以降、科学は同06年以降、得点差に統計的有意差はないというのだ。03年の「PISAショック」はもとより、06年の結果も、文科省は「もはや日本は世界トップクラスではない」根拠にしたのではなかったのか。

 文科省が挙げるもう一つの改善理由が、質問紙調査の結果だ。確かにTIMSSもPISAも、国際平均より依然低いものの「学習が楽しい」「将来に役に立つ」という回答が増加しているのは「改善」と言えなくもない。

 しかしOECDの説明を聞くと、見方が少し変わってくる。日本は科学の成績が高いにもかかわらず、学習を楽しんでいる度合いも、将来の職業につなげようという意欲も低い。

 ここから何を読み取るか。日本の生徒は、あくまで授業を「勉強」、あるいは良い成績を取る対象としか捉えておらず、社会につなげようという意識が薄い――もっと言えば、社会とは関係のないものと思っていないだろうか。

 学習の生産性という分析も興味深い。日本は理科の学習時間が比較的短いにもかかわらず、PISAで好成績を収めている「生産性の高い」国だ。確かに文科省が説明するように、授業では観察・実験の機会は増えただろうし、OECDもその点を評価する。しかし、それが肝心の生徒に伝わっておらず、単なるテストのための勉強のままだとしたら、どうなるのか。

 教育改革に関しては昔からよく「教室の戸で止まっている」というような言い方がされてきた。実際の授業や教員に反映していない、という例えだ。それに倣えば、教科の学習がいつまでも教科の外に出ない、もっと言えばペーパーテストの紙の上に閉じこもったままなのではないか。

 理科の学習は、職業に直結するだけではない。主権者として社会の課題を科学的な知識や思考力を基に判断し、意思決定するためにも不可欠だ。あえて例を挙げるなら、いくら放射線教育を強化したとしても、原発避難者に対する偏見がなくならなかったり、立地県以外に原発再稼働に対する関心が薄かったりしていては、何にもならない。

 とかく日本ではテストといえば、少しでも高い点数が取れればいい、順位は一つでも上の方がいい、と考えがちになる。しかし、両者が「テスト」でなく「調査」であることは、全国学力・学習状況調査と同じだ。とりわけPISAは国際学力コンテストではあり得ず、結果を科学的根拠(エビデンス)として各国の教育政策に反映させることを目的としている。そこから読み取るべき課題を読み取らずに「改善」を喜んでいては、「社会に開かれた教育課程」の行く手が阻まれることにならないか。6日の特別部会で次期学習指導要領の答申案が示されただけに、ますます心配になる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年11月23日 (水)

「海洋教育」に対する別の違和感

 年末の中央教育審議会答申に向けて大詰めを迎えている次期学習指導要領の在り方について、8月の「審議のまとめ」から記述を充実させる項目として「海洋教育」が急浮上している。これに対して21日の教育課程部会では委員の奈須正裕・上智大学教授がカリキュラム論の立場から「強い違和感」を述べていたが、本社も別の角度から強い違和感を表明しておきたい。

 海洋教育は10月26日の同部会で、文部科学省事務局の報告に突如として出てきた。審議まとめに関して約1カ月にわたり行われたパブリックコメント(意見公募手続)で「個別の項目については、海洋教育、主権者として求められる力、特別支援教育、多様性と教育等に関する御意見が寄せられた」のだという。

 におうなと思っていたら、果たして11月14日の教育課程企画特別部会に出された1枚紙の「答申に向けて記述の充実を図る事項(案)」に「教科横断的な視点に基づく資質・能力の育成」として、いわゆる主権者教育の次に海洋教育が入っていた。

 パブコメの資料には、▽多数の島から構成され、四面を海に囲まれている海洋国家である我が国の教育においては、海運など海事関連の産業が国民生活と日本経済を根底で支える重要な役割を担っていることが正確に理解されるようにする必要がある▽グローバル化が進む社会という観点から、領土や国土に関連しての領海・EEZ(編注=排他的経済水域)など海洋の重要性や意義の理解に関する内容が盛り込まれることが必要である――とある。

 奈須教授の違和感とは、これが「資質・能力」として挙げられていることだった。いずれも「コンテンツ」(学習内容)に属する話であり、これまで社会科等で取り上げられていたものでもある。教科横断的な視点として取り上げては、カリキュラムや学力、資質・能力の構造が崩れてしまう。それよりは、審議まとめにある「現代的な諸課題」として「グローバル化の中で多様性を尊重するとともに、現在まで受け継がれてきた我が国固有の領土や歴史について理解し、伝統や文化を尊重しつつ、多様な他者と協働しながら目標に向かって挑戦する力」の方がよほど資質・能力論的だしダイナミックだ――というのが、奈須教授の指摘である。

 さすがは「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会」(2012年12月~14年3月)以来、改訂論議をリードしてきた専門家の卓見である。しかし学のないひねくれ者の本社としては、別の違和感を抱いている。

 パブコメにより一般国民の意見を取り入れて修正する、というのは公正で透明な行政運営としては誠に望ましい。ただ、特段の説明もなくパブコメで指摘されたからといっていそいそと盛り込むのは、出来レースと疑われても仕方なかろう。

 もちろん、意見を受け入れる土壌があったことは理解する。現行の政府「海洋基本計画には「学習指導要領を踏まえ、海洋に関する教育を充実させる」とあって、ご丁寧にも「必要に応じ学習指導要領における取扱いも含め、有効な方策を検討する」としている。しかし海洋基本法自体が07年4月の第1次安倍内閣下で成立し、現行計画が13年4月の第2次安倍内閣下で閣議決定された偶然を思うと、怪しくてたまらない。

 怪しいといえば、やはり第2次安倍内閣下の14年1月に突如として指導要領解説が「改訂」され、領土・領海教育が中学校社会科などに盛り込まれたことが思い起こされる。この時は下村博文・文部科学相(当時)の判断だったので、むしろ爽快なほどの政治的意図が感じられたものだった。

 控え目に言っても、学校現場で取り上げることが必須な〇〇(マルマル)教育をまた一つ増やすだけである。本来は必要な学校がカリキュラム・マネジメントにより創意工夫で行えばいいだけのものを、わざわざ特出しして入れようとするのはプログラミング教育よりたちが悪い。

 何より今回の改訂作業ではコンピテンシー・ベースの論議が中心で、コンテンツの議論はほとんどなされなかった。前者は前者で見識なのだが、学習内容の削減は行わないと早々に表明した割には後から余計なものが付け加わるのには、ますます違和感を抱く。もちろんフリーハンドである答申後の告示文編集作業で強いてたくし込ませるよりはよほど「透明」だが、「公正」だとはとても思えない。

 怪しさついでに付言すれば、以前から海洋教育に関する企画が某専門紙で展開されている。事情が推察できるだけに批判するつもりはないが、エネルギー教育と同じにおいを感じてしまうのは自然だろう。そういえばエネルギー教育も、東日本大震災から5年を過ぎて徐々に“解禁”されてきた。ますます妙な空気が漂ってきている。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月 4日 (火)

就職活動日程 いっそ採用したら

 10月に入り、一部企業で内定式が行われている。就職・採用活動をめぐっては、経団連が2017年度新卒学生の日程を、今年度と同じく4年生の3月に説明会開始、6月から選考解禁とする方針を決めた。次年度以降は今後、再検討するという。

 会員企業には15年度卒までの3年生12月説明会開始、4月選考解禁が良かったとする意向が強い一方、政権の意向を受けて後ろ倒しにした以上、完全に戻すとは言い出しにくい、ということらしい。

 画期的な提案を申し上げたい。選考解禁が12月だろうと4月だろうと構わない。その代り内定ではなく即、採用するのである。

 もし「やっぱり卒業して学位が欲しい」という学生に逃げられることを心配するなら、残りの在学期間を大学への派遣研修と位置付けてはどうか。企業の課題に直結するテーマを卒論や卒業研究に設定するよう、指導すればよい。初任給の満額支給と言わなくても、奨学金プラスアルファなら経済的負担に悩む学生側にもメリットは大きい。

 馬鹿なことを言うな、と思うだろうか。しかし、よくよく考えてもらいたい。「大卒」を求めると言いながら、実質3年間の学修で、下手をすると3年生も終わっていないのに内定を出している馬鹿な選考をしているのは誰かと。

 大学が「狭き門」だった時代なら、激烈な入学者選抜競争をくぐり抜けてきた者は一定の優秀な人材となる可能性は高かったろうし、「大学では余計なことをするな。企業に入ってから鍛える」と、うそぶくこともできた。しかし、今や大学進学がユニバーサル段階に入った現実を、よくよく直視すべきだ。

 新卒一括採用の見直しというのも、かねてから経団連の主張ではなかったか。青田買いしたくなるほど有能な人材なら卒業を待たずに採用すればいいし、まだ実力不足だと思うのなら、卒業後に期待すればいいだけの話だ。

 いま大学には「三つの方針」を基にした、卒業認定・教育課程・入学者選抜の一体的改革が求められている。4年間で厳しい教育を行って社会に有意な人材を育てようとしているのも、社会からの要請に応えようとしているからだ。

 経団連はこれまで教育に対して、さまざまな提言をしてきた。それは良しとしよう。しかし選考開始が4月だ8月だ、中を取って6月だなどという議論に、教育的な発想はあるのか。

 大学教育への支障を顧みようともしない経団連に、企業の社会的責任を語る資格はない。内定即採用ができないくらいなら、教育に対する口出しも一切するなと言いたいくらいだ。根本二郎氏(故人、元中教審会長)のような見識のある経済人はもう出ないほど、経済界は劣化してしまったのか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年9月 9日 (金)

指導要領審議まとめ せめて裁量拡大と脱知識偏重を

 次期学習指導要領をめぐる中央教育審議会教育課程部会の「審議のまとめ」が、9日からパブリックコメント(意見公募手続)に掛けられた(10月7日まで)。

 1点刻みの評価は時勢に合わないが、あえて採点すれば、官僚の作文としては85点、経済協力開発機構(OECD)向けのリポートとしては70点、学校現場にとっては55点、本社の期待値に照らせば45点――というのが正直な感想だ。言いたいことはたくさんある。しかし既に配信記事で小出しにしているし、いずれ本格的に論じる機会もあろう。

 一つだけ指摘をしておきたい。最近、審議まとめを練り上げたはずの中教審部会委員からさえ、控え目ながら細部についての異論が公然と語られていることだ。詳細は既報および今後の配信記事を参照いただきたいが、まさに我が意を得たりという思いがしている。

 もちろん、教科横断・学校種別縦断で資質・能力の育成を打ち出した意義は極めて大きい。だからこそ本社は諮問以前から改訂に対する期待を一人騒ぎ立ててきたのだが、むしろ今は落胆の方が上回っている。

 パブコメで意見を述べたところで、寄木細工のように緻密に組み立てられた審議まとめは文言しか変えようがないだろう。しかもその寄木細工は、いびつな模様をしているか、無理やり模様をそろえたとしか思えない。

 今回は資質・能力シフトができたことで良しとするにしても、このままでは学校現場の首を絞めることは必定だ。文科省もそれが分かっているから条件整備も併せて論じてきたのだが、その思惑とは裏腹に必要な教職員定数の改善は消費増税の見送りで可能性すら吹き飛んでしまった。

 だから今は最低限、あえて2点だけ要望する。

 1点目は、学校の裁量を大幅に認めることである。単なる「カリキュラム・マネジメント」で済む話ではない。むしろ審議まとめが細部の矛盾やしわ寄せをすべてカリマネに負わせている問題点は、改訂の準備作業に携わった識者が指摘しているところだ。研究開発校や教育課程特例校などの制度を活用すれば済む話でもない。弾力的な運用を認めないと、内容すらこなし切れない可能性がある。

 2点目はそれとセットで、細かい知識の習得を問わないことである。その点で、教育課程企画特別部会の段階で本文にあった「概念的な知識」が途中で脚注に落とされたのは問題だ。委員の異議を受けて審議まとめの最終修文では「特に主要な概念に関するもの」などという表現で復活したように見えるが、かえって訳が分からない。ここは今後の審議で更に詰めるべきところだろう。

 関連して、大胆な提案をしたい。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で、A問題を抽出調査にしてはどうか。悉皆(しっかい)調査はB問題だけにし、概念的知識が身についているかだけを問うのである。そうすれば内容項目を網羅的に習得させなければならないという強迫観念から、少しは解放されよう。

 学術研究の成果を踏まえたと言いながら、実際には事務局主導で都合のよいところだけつまみ食いし、行政の整合性と政治的な配慮をたっぷり加えた上で、決して綺麗とは言えない形の模様で次期指導要領は彩られてしまった。それでも10年間は、これで回していくしかないのだろう。だからこそ成果と限界をしっかり認識しつつ10年間の実証研究と10年後の検証に付すためにも、せめて裁量ぐらい認めてあげないと現場の疲弊は増すばかりか、破綻の可能性もなしとは言えない。


【過去の社説】

「21世紀型スキル」重視に備えを(2013.1.2)
「21世紀型能力」に今から照準を(2013.7.23)
“21世紀型”指導要領に今から準備を(2014.4.7)

〔戦後100年へ②〕指導要領の「構造改革」に英知結集を(2015.1.3)


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 5日 (月)

高大接続改革 できることだけ着実に進めよ

 スケジュールに迫られて、やっと現実的になってきたようだ。文部科学省が公表した「高大接続改革の進捗(しんちょく)状況について」のことである。

 高等学校基礎学力テストは現時点でCBT(コンピューター利用型テスト)・IRT(項目反応理論)方式を見送ってPBT(紙のテスト)を基本とする。大学入学者学力評価テストの記述式問題は1月に実施し、大学側が受験生について採点する案も検討する――。妥当なところだろう。

 学力評価テストの英語4技能は、将来的に民間の資格・検定試験の活用に委ねることを表明した。中央教育審議会と、それに続く高大接続システム改革会議の議論で「合教科・科目型」「総合型」などが迷走する中で唯一、現実的だったのが資格・検定の活用だった。分かっていたこととはいえ、断言するのにここまで掛かるというのが今回の改革論議を象徴している。

 高大接続改革をめぐる本社の解説と主張は、『教育と医学』2月号の所論でほぼ尽きている。その上で指摘しておきたいのは、今回の改革論議が理念先行で走り過ぎ、現実論がおろそかだったことである。「短文記述式」のように、現実論が理念をねじ曲げた感さえある。

 単純に考えよう。高大接続改革の理念は細部に異論はあっても、総論でその意気や良し。そのために必要なテスト開発は、いくらでもやればいい。できるものから、着実に進めればいい。しかし開発できっこないもの、開発が困難なものに期待を掛ける余裕はない。

 焦点はマークシート式問題の改善かもしれない。全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)のB問題がそうだったように、うまくすれば受験生や学校現場に対する強力なメッセージになる。

 出題傾向が変わって「試験対策ができない」と批判されても、文句は受け付けるべきではない。そもそも「対策」で1点刻みの点数を少しでもアップさせれば有利になるようなテストは、高大接続改革の理念に反する。

 ただし、それも試験としての妥当性が保証されていることが前提だ。その検証の方に、エネルギーを優先させるべきだったのかもしれない。何より個別選抜改革の方が本丸だったのに、新テストに合わせて2020年度に先送りしたのはいただけない。

 「改革は不可欠だ」という関係者の総論賛成を取り付けた点で、中教審は成功した。後は、その理念を着実に具体化していくことである。併せて、本当に高校と大学を「学力の3要素」でつなぐことが妥当かどうかなど、各論についても検証が求められよう。

 本社が先の所論で「10年後」と打ったのは、そういうことである。理想形にたどり着くには、少なくとも10年はかかるだろう。「次期学習指導要領下」でさえ拙速だ。だからといって「拙速はいけない」と、何も改革しなくていいわけではない。出題傾向が変わるだけでも、大きな改革だ。

 「車の両輪」改革のもう一方を担う教育課程改革でも、あれほど動かなかった高校現場が動き出したのはアクティブ・ラーニング(AL)が入学者選抜に直結しそうだと踏んだからである。授業を通して、選抜を通して、これからの時代に生きる者にはどういう資質・能力が求められるのかを伝える改革に、是非ともしたい。

【過去の社説】
高大接続テスト 先送りでも済まない「全入時代」の入学者選抜 (2010.11.25)
大学入試の抜本改革はセンター試験の廃止から(2011.1.16)
「終焉」した大学入試に対応が急務だ(2012.2.11)
大学改革実行プラン 「衝撃」は軽視できない(2012.6.8)
高大接続諮問 受験競争が無になる大改革だ(2012.9.2)
実行会議4次提言 半年遅らせただけの「大改革」論議(2013.11.2)
大学入試改革 「人物本位」は誤解を招く(2013.11.9)
大学入試改革 各方面で「覚悟」を(2013.11.21)
「発展レベル」テスト まずは必要性と緊急性の共通認識を(2014.6.21)
〔戦後100年へ③〕高大接続改革 「入試」から決別する時だ
(2015.1.4)
「基礎学テ」をセ試改編の「高大接続テスト」に(2015.7.3)
高大接続改革 あえてスケジュールにこだわれ(2015.12.30)
残念な複数回先送り 新テストの“入試接続”依存
2016.1.30)

【関連本社配信記事】
「高大接続テスト」はどうなったの?(ベネッセ教育情報サイト 2010.12.2)
「高大接続テスト」は「入試」ではない!?同 2010.12.16)
1点刻みの「入試」は不要に? 全入時代の大学入学(同 2010.12.22)
「21世紀型」大学入試が世界の潮流に!?(ベネッセ教育情報サイト 2012.1.16)
「学生に勉強させる」大学に 中教審が提言(同 2012.5.10)
いずれはセンター試験の存廃も課題に!?(同 2012.5.24)
入試に依存した高校教育は衰退する―「高大接続テスト」提唱者・佐々木隆生氏に聞く―(月刊高校教育2012年6月号
大学入試を大改革へ……「一発勝負」「1点刻み」なくなる!?(ベネッセ教育情報サイト 2012.7.5)
教えて!「中教審に高大接続の新部会」
(キャリアガイダンス.net 2012.8.29)
大学入試、わずか1年で「大改革」を提案?(ベネッセ教育情報サイト 2012.9.13)

センター試験はどうなる? 大学入試の「大改革」検討(同 2012.11.1)
2013年の大学入試「大改革」はどうなる‐渡辺敦司‐(同 2013.1.7)
高校版「全国学力テスト」を大学入試にも活用?-渡辺敦司-(同 2013.2.7)
教えて!「センター試験が廃止される?」(キャリアガイダンス.net 2013.6.18)
センター試験「廃止」は本当か‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2013.6.27)
入試以外でも変革を……必要な大学と高校の「教育」改革‐渡辺敦司‐(同 2013.10.6)
教えて!「大学入試は今後どうなる?(第4次提言を受けて)」?」(キャリアガイダンス.net 2013.11.19)
大学入試の「1点刻み」見直し、なぜ必要? ‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2013.12.11)
東大の推薦入試は「教育再生実行会議」の先取り? ‐渡辺敦司‐(同 2014.2.26)
教えて!「達成度テストって何?」(キャリアガイダンス.net 2014.3.19)
2021年度からの「発展レベル」テスト まだ姿は見えず‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2014.7.9)
「発展レベル」テスト、勉強の姿勢も変える必要‐渡辺敦司‐(同 2014.7.11)
大学入試改革は高校・大学の「教育」を変えるため‐渡辺敦司‐(同 2014.11.14)
教えて!「いつからどんな? 二つの新たな学力テスト」(キャリアガイダンス.net 2014.11.19)
大学入試が「公平」でなくなる!?-渡辺敦司-(ベネッセ教育情報サイト 2014.11.21)
なぜ国は入試改革を急ぐのか‐渡辺敦司‐(同 2014.12.5)
「新テスト」検討上の課題指摘 大学入試センターが「専門的見地」からシンポ(
内外教育2014.12.9)
大学教育の改革、入試改革より早く進む?-渡辺敦司-(ベネッセ教育情報サイト 2014.12.26)
中教審で何が議論され、何が議論されなかったのか(月刊高校教育2015.年2月号
2016年度には「新テスト」の作問イメージ 文科省が実行プラン‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2015.1.28)
京大の「特色入試」に見る国の「高大接続」改革-渡辺敦司-(同 2015.2.4)
教えて!「大学の『個別』入試はどうなる?」(キャリアガイダンス.net 2015.2.17)
大学入学の「新テスト」、夏までに方向性-渡辺敦司-(ベネッセ教育情報サイト 2015.4.1)
大学入試、既に変わりつつある? 「高大接続」先取り‐渡辺敦司‐(同 2015.5.27)
重要なのは「主体性」の育成 ●安西祐一郎氏が講演─教育EXPO(上)(内外教育 2015.6.23
新テストは「軽量化」が必要 ●高大接続改革セミナーで─教育EXPO(下)(同 2015.7.3
大学入学の新テストは「2段構え」導入 今の中1と小3で‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2015.7.14)
大学の教育・入試、変化は意外に早い? 組織運営の見直しが急務‐渡辺敦司‐(同 2015.7.29)
多面的入試は「学力不問」じゃない! 東大・京大を例に‐渡辺敦司‐(同 2015.8.19)
次期指導要領、高校の科目は新テストも意識‐渡辺敦司‐(同 2015.8.26)
教えて!「二つの新テストの今後」(キャリアガイダンス.net 2015.9.29)
「基礎学力テスト」、大学入試に使えるのは今の小3から!?‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2015.9.9)
「教科を超えた力」が社会や進学でも不可欠に……?‐渡辺敦司‐(同 2015.9.11)
まだまだ大きく変わる? 国公立大学の入試‐渡辺敦司‐(同 2015.10.2)
あすの教育 荒井克弘大学入試センター名誉教授に聞く 新テストは学力調査と入学試験を混同(内外教育 
2015.10.6
あすの教育 佐々木隆生北星学園大学教授に聞く 関係者が対案持ち寄り対話を(同 2015.10.27

教えて!「どうなる国立大学の推薦・AO入試」(キャリアガイダンス.net 2015.11.24)
いまだ見えない「新テスト」問題のイメージ‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2015.11.25)
東大の推薦にみる入試改革の「公平性」‐渡辺敦司‐(同 2015.11.27)
新テスト「完成形」は新課程から? それまでは活用力重視へ‐渡辺敦司‐(同 2015.12.4)
【特別インタビュー】二つの新テストのゆくえ/安西祐一郎(
月刊高校教育2016年1月号
入試改革で新課程の高校科目を先取り!?‐渡辺敦司‐(2016.12.11)
教えて!「見えてきた?新テストの試験問題」(キャリアガイダンス.net 2015.12.24)
2016年の教育、新テストと次期指導要領の姿いよいよ‐渡辺敦司‐(ベネッセ教育情報サイト 2016.1.8)
大学入試・教育改革と「18歳人口」の深いカンケイ‐渡辺敦司‐(同 2016.1.13)
センター試験の後継テスト、リスニングどころじゃない「4技能」‐渡辺敦司‐(同 2016.1.15)
全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の英語から大学入試「新テスト」へ‐渡辺敦司‐(同 2016.1.20)

「十年後」に向け混迷に終止符を(教育と医学 2016.2月号
入試批判には依然「紋切型」も ●センター試験、新テストめぐりシンポ(内外教育 2016.1.29付
教えて! 「センター試験って何だったの?」(キャリアガイダンス.net 2016.1.26)
大学入試の英語、2020年度から「話す」「書く」も対象に(ベネッセ教育情報サイト 2016.2.3)
新テスト、なぜ次々と軌道修正?(同 2016.2.19)
東大の推薦入試 「ハードル高すぎ」の意味(同 2016.3.4)
いつでも、どこでも? 高校基礎学力テスト(同 2016.2.16)
「推薦・AO」2020年度入試まで存続も…… 重要なのは大学入学後!(同 2016.3.18)
教育政策動向ウォッチ〈1〉新テスト制度設計、迷走・後退の要因は…?(月刊高校教育 2016年4月号)
「人工知能」は人間の答案を採点できるのか?
(同 2016.4.1)
中2以降の大学入試と教育はこうなる……?(ベネッセ教育情報サイト 2016.4.6)
英語能力テストの大学入試活用、まだまだ進む? (同 2016.4.15)
大学、真面目に出席するだけじゃダメ? もっと予習・復習が必要(同 2016.4.27)
教育News 入学者選抜で「学力の3要素」後押しする高大接続改革に(新教育課程ライブラリ Vol.4
今月のキーワード 「高大接続システム改革」(教育図書出版会 2016.5.6)
SSHやSGHが大学入試改革などの先導役に!?(ベネッセ教育情報サイト 2016.5.11)
数学+理科=「理数探究」 高校の新科目、新テストでも出題(同 2016.5.25)
特別企画2 高大接続システム改革会議「最終報告」を読む―先行する「大学改革」にも注目を(月刊高校教育 2016年6月号
センター試験にも多くの意義 ●東北大が大学入試めぐりフォーラム(内外教育 2016.6.3付
新テスト「センター試験が変化」 ●河合塾シンポで文科省の前担当者が説明(同 2016.6.7付
「教育」としての入試改革を ●大学入試センター入研協の討論会で(同 2016.6.21付

中高生にとって「五輪」はスポーツだけではない! 「科学五輪」でチャンスも!?(ベネッセ教育情報サイト 2016.6.17) 
教育時事 見方・読み方 新テスト、どこまで後退?(SYNAPSE 2016年6・7月号

オープンキャンパスでは「大学改革」もチェック!(ベネッセ教育情報サイト 2016.7.22)
「科学の甲子園」は2017年3月! 教育改革でチャンスも広がる?(同 2016.7.29)

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年5月11日 (水)

馳「ゆとり決別宣言」は間違いだ

 馳浩文部科学相が10日、「ゆとり教育との決別宣言」(教育の強靭化について)を発表した。次期学習指導要領を控え、学習内容の質と量の問題をしっかり説明するためだという。しかし、かえって世間にはびこる誤解を定着させるばかりか、教育課程行政はもとより文教行政全体にとっても悪影響をもたらす。あえて撤回を求めたい。

 もっとも、明らかにされたペーパーは「決別」という割に新味はない。ゆとりか詰め込みかの二項対立から脱却することは、現行指導要領の基となった2008年1月の中央教育審議会答申にも書いてある。「学習内容の削減を行うことはしない」と明記されている点も、昨年8月の中教審教育課程企画特別部会「論点整理」で「現行学習指導要領の各教科等との授業時数や指導内容を前提としつつ」とあるのと、意味はほとんど同じだろう。

 ただ、微妙かつ重大な違いがある。08年答申は「ゆとり」か「詰め込み」か、になっているのに対して、決別宣言では「ゆとり教育」か「詰め込み教育」か、となっているのだ。

 管見の限り文部科学省が公式文書で「ゆとり教育」という用語を使ったのは、これが初めてだ。広く政府全体で言えば、第1次安倍内閣下の教育再生会議が07年1月の第一次報告で「『ゆとり教育』を見直し」としたのが唯一ではなかったか。

 文科省はこれまで、自ら進める教育課程政策を「ゆとり教育」と呼んだことはなかった。少なくとも初等中等教育局担当者の認識はそうだったし、「実は文科省は、世の中で言われている『ゆとり教育』を放棄したわけでは全然ない」というOBの証言もある。ましてや「ゆとり教育」の誤りを認めて「脱ゆとり教育」に政策転換した、などというのはマスコミ報道が創り出した言説、ストーリーにすぎない。

 馳宣言の遠因になったとみられる4月の日本経済新聞コラムは、「新・ゆとり」という前川喜平・文部科学審議官の言を紹介している。「語弊を恐れずに言えば」(前川審議官)その通りだ。世間が「ゆとり教育からの転換」「脱ゆとり」などと呼んでいた教育課程政策は、「ゆとり教育」と呼ばれていた路線の本質に何の変更もなかった。単に学習内容の一部や授業時数を増やしただけで「方針転換だ」などと叫ぶのは、「ゆとり」の意味さえ理解できていないことの証左である。

 「ゆとり教育」も「脱ゆとり」もマスコミ用語なのだから、その限りで行政的には無視していい。だからこそ08年答申は、あえて二項対立からの脱却を打ち出したはずだ。それなのに馳大臣は、あえて自ら「ゆとり教育」のストーリーに乗り、決別の裏返しで「ゆとり教育」そのものを公的に認めてしまった。「全否定ではありませんよ」(閣議後会見)などと付け加えても、報道されるわけがない。

 「論点整理」が早々に学習内容を削減しないことを打ち出したのも、「ゆとり教育批判」の再燃を恐れたからだとみられる。担当者の気持ちは分からないでもない。しかし、それが逆に学校現場を窮地に陥らせることに思いは至らなかったのか。ましてや現場の「疑心暗鬼」に応えるという馳大臣の説明は、逆に不安と混乱を広げることになろう。

 馳大臣はもっと慎重で、物事を深く理解している人だと思っていた。しかし今さら「ゆとり教育」論のリングに上がるのは政治家のパフォーマンスとして喝采を浴びる計算だったかもしれないが、責任ある文科相の立場としては不適切だ。古傷を突いて鮮血を飛び散らせるのは、プロレスだけにしてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

 ↑ランキングに参加しています。奇特な方はクリックしていただけると、本社が喜びます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

コラム | 本社より | 社説