社説

2018年9月17日 (月)

新指導要領の全面実施に危機感を

 NHK総合のクイズバラエティー番組『チコちゃんに叱られる!』が話題になっている。それに倣えば「学校現場の足元が揺らいでいるのに、やれSociety5.0だの、EdTeckだのと浮かれている日本人の、何と多いことか」と言いたくなる。

 経済協力開発機構(OECD)が先ごろ公表した「図表でみる教育」2018年版のカントリーノート(国別要旨)によると、日本は学校裁量で決定する事項は21%にすぎない。それも「上位の当局が規定する枠組み内」でのことだ。

 20年度から順次、全面実施に入る新学習指導要領は、変化の予測が困難な社会に向けて必要な資質・能力の育成を打ち出す一方、学習内容を削減せずに実質的には増加させ、かつ知識の確実な習得までをも引き続き求めている。「質も量も」を実現するにはアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)とカリキュラム・マネジメント(カリマネ)の両輪で学校裁量を最大限発揮しないと、とてもこなせるものではない。

 インターネット会見でアンドレアス・シュライヒャー局長は新指導要領について、シンガポールやフィンランドのように自由度が高い教授法の革新に進んでいくことに期待を示した。それには専門職としての自律性や現場の裁量権、教師の働き方改革が必要だとしながらも、基本的には「21世紀で最も成功している」日本の教育制度を楽観視しているようであった。

 しかし、7月の「日本の教育政策レビュー」では、そうした教育モデルの持続可能性に警鐘を鳴らしていた。国内的には、そちらの方を深刻に受け止めるべきだろう。

 指導要領の改訂諮問以来、現場ではALへの関心が急速に高まった。「大学入試が変わらないと授業は変えられない」とうそぶいていた高校までも、である。それ自体は結構なことだ。しかし現場の教員が嬉々として授業改善に取り組む陰で、多忙化に拍車が掛かったことも否定できまい。

 そもそも現下の深刻な多忙化の要因には、「ゆとり教育批判」を受けた学力向上対策も大きい。もともと教えたがりの教員は、多忙感を抱かないまま長時間過密労働を唯々諾々と受け入れた。一方で、その中から単なる学力テスト対策だけでなく「PISA型学力」の模索も生まれた。

 いったん低下した学力がV字回復したという文部科学省のストーリーは、少なくとも「生徒の学習到達度調査」(PISA)に限ればOECDが言う通り事実ではない。ただ、いわゆる「ゆとり教育」にせよ「脱ゆとり」にせよ徹頭徹尾、過労死ラインをもいとわない現場の努力による成果だということを忘れてはいけない。

 「図表でみる教育」には、そんな現場の困難な状況が一向に改善されていないことを示すデータにもあふれている。むしろ、そこに注目して今後の教育政策を考えるべきだろう。

 OECDの立場からは、新指導要領はもとより教育の無償化を進める日本政府の方向性を好ましく評価するのは当然だろう。しかし第3期教育振興基本計画ひとつ取っても、国外から見た期待に値するほどのものではないことは明らかだ。

 まずは政策レビューの推奨事項にあるように「指導要領の改訂実施を優先する」ことを第一に考えて、その条件整備が本当に整っているかを、まさに真の意味でエビデンス(客観的な証拠)に基づいて検証すべきだろう。これ以上、裁量もないのに「子どものため」なら何でも引き受けてしまう良心的な現場に無理を強いるべきではない。

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2018年8月28日 (火)

免許外協力者会議 出さない方がましだ

 これほどひどい文案は久々に見た。ことによると最悪の部類に入るかもしれない。28日の文部科学省「免許外教科担任制度の在り方に関する調査研究協力者会議」に示された、報告書素案のことである。

 免許外担任の現状をめぐっては、第1回会合で示された基礎データだけでも事の重大さが読み取れた。会合を重ねれば重ねるほど、危機感が補強された感がある。各地で非常勤講師が確保できず新年度の授業が行えない実態が相次いで報じられるに及んで、対策の必要性は増すばかりだった。ましてや今後、教員需要が減少に転じれば事態はますます深刻となることは明らかだ。

 それなのに素案は、教育委員会や教員養成の現場に工夫と努力をツケ回す対策に終始しているといっても過言ではない。

 あまつさえ教科横断的な資質・能力の育成を求める新学習指導要領にかこつけて、複数免許の取得促進が「教師としての総合的な指導力の向上にもつながる」としている。ある意味で正論だ。「子どものため」という美談でもある。

 しかし新指導要領の趣旨を実施するための研修すらおぼつかないのに、認定講習を受けている暇などあるのか。更新講習と兼ねることすら提言しようというのは、制度的にも政治的にもセンスを疑う。

 養成段階から複数免許の取得を奨励しようともしているが、これも今後、教員採用の枠が狭まることで志望者自体が減るであろう必然性に目をつぶった話だ。ましてや希少免許状の養成を維持してほしいなどという論議は、国立養成系の統廃合を提言した別の有識者会議と矛盾していることに気付いていないのか。

 唯一みるべき点があるとすれば、更新講習を受けていない者を任用するため受講の弾力化を提言したことだろうか。それも、再任用には更新講習を「免除」してほしいという意見が続出した末でのことである。

 それでも免許外担任問題の深刻さ、ひいては教職員定数自体が機能不全に陥っていることの一端を白日にさらした協力者会議の意義は大きい。だからこそ「書きたいけど書けない」で済ませては、結果的にますます現場を疲弊させるばかりだ。

 次回までに多少の修文はあるのだろうが、限界は目に見えている。不十分な報告書なら、出さない方がましだ。いや、そもそも会議すら設けるべきではなかった。政府方針に忖度(そんたく)せざるを得なかったのなら、いっそ「免許外教科担任の解消にも資する遠隔教育の在り方に関する調査研究協力者会議」とでもすればよかったのだ。

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2018年6月30日 (土)

教育振興基本計画 もう廃止したら

 6月15日、「骨太の方針」はじめ一連の政府計画が閣議決定された。そこに第3期教育振興基本計画が含まれていたことに、どれほどの人が気付いただろう。

 文部科学省にとって振興計画は、改正教育基本法の目玉であるはずだった。というより改正に及び腰だった文科省が踏み切ったのは、振興計画を盛り込みたかったからに他ならない。2001年11月の「教育振興基本計画の策定と新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方」という奇妙な諮問が、それを象徴している。

 06年の教基法改正を経て、08~12年度、13~17年度と5年計画が策定されてきた。しかしこの10年間、振興計画が何がしか国の教育行政にプラスとなっただろうか。

 第1期計画は、単に各局課の政策課題を総花的に並べたにすぎなかった。第2期は「自律」「協働」「創造」というコンセプトを掲げ、局課横断的に課題を整理したが、結局は整理しただけに終わった。

 第3期は「基本的な方針→教育政策の目標→測定指標・参考指標→施策群」という構成で、客観的な根拠を重視した教育政策を推進するという。今はやりのエビデンス・ベースだ。政策目標や施策を総合的・体系的に示す「ロジックモデル」なるものも示した。こうした新機軸は、どれほど有効なのだろう。

 文科省が振興計画に期待したのは、そこに予算増額の根拠を盛り込むことだった。そこには省庁再編前とはいえ科学技術基本計画の“成功体験”があった。しかし第1期から財務省などのけん制により、積極的な文言は1行も残らなかった。「教育投資の確保」をうたう第3期にしても、結局は同じことだ。

 そのくせ一部とはいえ高等教育の無償化という非常に大きな予算化は、政権の不可思議な意向で突然降ってきた。振興計画の審議とはまったく関係なく、むしろ政府方針の後追い、追認を余儀なくされている。

 そもそも審議の過程で「第2期の検証が不十分ではないか」という指摘がたびたび出されていたにもかかわらず、ほとんど顧みられることはなかった。検証できない計画とは、いったい何なのか。今度は測定指標・参考指標があるから大丈夫だというのかもしれないが、指標の設定についての論議はお世辞にも精緻だったとは言えず、ほぼ事務局案を丸のみしたにすぎない。

 何の論議もなかったものもある。学校安全をめぐる「非常時の国民保護における対応等」が一例だ。文科省事務局から何の説明もなく審議過程で突然挿入され、中教審委員からの質疑も皆無だった。それでいて国際情勢が変わったから自治体の「ミサイル訓練」が不要になったというのだから世話がない。

 この10年ではっきり分かったのは、しょせん「文科省の行政計画」について内閣にお伺いを立て、承認してもらうものでしかないということだ。それも、政権への忖度(そんたく)をたたっぷり利かせての上でである。「政府計画」の建前が聞いてあきれる。

 そんなものなら省内の会議でやればいい程度のことだ。30人もの委員で専門の部会を設けても、ボトムアップというより事務局主導で案が固まっていっては会議費さえ無駄に思える。

 第3期計画も、教育政策のPDCAサイクルを事あるごとに強調している。しかし、そもそも中教審の審議過程、もっと言えば文科省自身にPDCAサイクルが働いているのか。どうせ政権への忖度が優先されるのなら、最初から言わない方がいい。当面あり得ないことだが、次に教基法改正が持ち上がったら振興計画に関する17条は廃止してはどうか。たぶん都道府県振興計画の担当者以外、誰も困らないであろう。

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2018年5月31日 (木)

モリカケ問題 本質は「行政のゆがみ」だ

 30日に行われた党首討論で安倍晋三首相は、森友学園問題の本質は首相や昭恵夫人の働き掛けではなく、なぜあの値段で引き渡され、小学校設置が認可されたかだと主張した。

 しかし加計学園問題も含め、首相や夫人の指示もないのに忖度(そんたく)によって「一点の曇りもない」プロセスを経てその意向を実現させる完璧なスキームが作られたのだとしたら、その方が空恐ろしい。

 むしろ問題の本質は、前川喜平・前文部科学事務次官が指摘するような「行政のゆがみ」が霞が関にまん延していることだろう。それはモリカケ問題にとどまらない。

 今国会では、東京23区内の大学新増設を抑制する地域大学の振興法が可決・成立した。しかし同法には、あまり報じられない例外がある。「専門職大学等」だ。

 そもそも専門職大学等の成り立ちからして怪しい。「新たな学校種」から高等教育機関への位置付けと変遷はしたが、何としても専門学校を格上げしたい意向が働き続けていた。2019年度開設を目指して設置認可を申請中の学校法人を見ても、それは明らかだろう。

 「社会人の学び直し」や学生の経済的支援にしてもそうだ。実務家教員を増やすという名目に、専門職大学等を優遇しようという意図が透けて見える。

 かように文教行政ひとつ取っても、違和感を抱くことがたくさんある。おそらく他の行政分野では、もっとだろう。嬉々として省益拡大を図ろうとする官庁もあるようだが。

 それで行政がただされるのだとしたら結構なことだ。しかし無用の改革で、かつ首相周辺の「お友達」のみにしか利益が及ばないものだとしたら、どうか。

 行政のゆがみのツケを負わされるのは、国民だ。そのことが最も深刻な問題の本質と言うべきだろう。

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2018年4月10日 (火)

文教行政の危機 政官の関係を見直す時だ

 森友・加計学園をめぐる忖度(そんたく)問題、前川喜平・前文部科学事務次官の授業内容に対する文部科学省の照会問題――。防衛省の日報問題は本社の範囲外なので論じないが、根は同じである。安倍1強体制の下で、前川氏が言うように行政がゆがめられている。

 「政治主導」は民主党政権が打ち出したものだが、少なくとも文部科学省においては政権発足当初の混乱を別にすれば、比較的うまく対応していたように思う。それは55年体制の下で、野党も含めた全方位的な国会対応によるノウハウがあったからだろう。

 しかし安倍自民党が政権を奪取し政治主導を狡猾に利用するようになると、文科省も他省庁と同様に相対的自律性を急速に失っていく。その中でも前川氏は、よく「面従腹背」を保っているなと当時から感心していたものだ。

 それでも下村博文氏が文部科学相の時には、誰が「主導」していたかが記者会見などで目に見えていた。自民党の「隠れキリシタン」(前川氏)馳浩文科相もそうだ。しかし水面下および松野博一文科相以降は、誰がどういう過程で忖度を迫っているかは、少なくとも国民には見えなくなっている。

 既に論じられているように、内閣人事局が霞が関にさまざまな弊害をもたらしていることは明らかだ。文教行政にとっても、一刻も早い廃止が求められよう。

 時々の政権が政治決断によって政策を主導するのはいい。それが民主主義の原則にかなっているからだ。しかし、それにブレーキを掛けて至極まっとうな政策に練り上げるには、官僚の力が欠かせない。政権に対する相対的自律性が、今こそ求められる。

 55年体制の時代がすべて良かったと言うつもりはないし、経済成長が望めない財政難の時代にあって、それが復活できるものとも思えない。だからこそ、政権交代時代に対応した政官の関係を見直す必要がある。

 気になるのが、省内での世代交代だ。天下り問題に伴う人事の混乱も相まって、かつての文教行政の“常識”が急速に失われているのではないかと懸念する。前川授業照会問題は、その典型だろう。

 何より行政のゆがみは、教育現場にツケが回される。しかし政権や与党の勝手に振り回されている場合ではない。22世紀まで生き抜く子どもたちにどういう教育を行うべきか、そのための条件整備はどうあるべきかについて真摯に考え、限界の中でも実現を図ろうとする文教行政が、今ほど切望される時はない。

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2018年3月18日 (日)

前川氏授業の調査 深刻な文科省の「世代劣化」

 名古屋市立中学校が前川喜平・前文部科学事務次官を講師に招いた2月の総合的な学習の時間について、文部科学省初等中等教育局教育課程課が市教委に授業内容の報告を要請していたことが分かった。きっかけは国会議員からの問い合わせだったというが、それにしては文面に前川氏への悪意が感じられる。

 天下り問題で辞職し、出会い系バーを利用した同氏を、道徳教育が行われる学校の場に、どのような判断で依頼したのか――。まるで前川氏の人格が反道徳的であるかのような書きぶりである。天下りはともかく、出会い系バーの方は違法性がないにもかかわらず一部新聞が1面肩で報じた在り方が政権側の意図をくんだと批判され、その後の週刊誌報道で性的欲求を満たす意思がなかったことが明らかにされたにもかかわらず、である。

 旧文部省系の現役官僚には前川氏を慕うだけでなく、批判的な者も相当数いるようだ。今回の報告要請の背景に、前川氏に対する怨嗟(えんさ)がなかったとは言えまい。しかも「考え、議論する道徳」を進める立場の初中局が、前川氏の道徳性を断じている。それも、その官僚たちが考える官僚としての道徳的価値で判断しているにすぎない。

 そんな省内の人間関係を問題視するのは、決して業界紙誌的な野次馬根性ではない。世代間のギャップが、今後の文教行政に深刻な劣化をもたらしかねないと懸念するからだ。

 少なくとも前川氏までの世代なら、個別学校の授業実践を文科省が直接問い合わせるなどということには極めて抑制的であるべきだという暗黙の合意があった。それは戦前・戦中の教育に対する反省であるとともに、戦後の「偏向教育」問題や教科書裁判など激烈な教育権論争を通して、旧文部省なりに得た教訓である。調査するにしても、ソフトなやり方はいくらでもあったはずだ。

 しかし最近ではいじめ問題や教科書採択問題など、担当課はもとより政務三役さえ現場に出張って調査する事例も珍しくなくなった。それが「異例」であるという感覚がまひし、法令上は何ら問題はないと平気で容認してしまう。

 例えば学習指導要領に関して、2003年の一部改訂をめぐり若手官僚には「なぜ改めて指導要領の基準性が問題になるのか。もともと指導要領は大綱的基準であって、現場の裁量が大幅に認められているではないか」という声があったという。指導要領通り、教科書通りに教えないことがしばしば政治問題化した戦後教育の歴史をまったく知らない世代らしい。日教組分裂後に採用された年次が既に課長級になっているから、それも致し方ないのかもしれない。

 しかし歴史に学ばない者は、歴史の繰り返しに抗し切ることもできないだろう。それで高校の新科目「歴史総合」を推進しようとしているのだから、先行きが不安である。

 今回の問題でもマスコミに発言している文科省OBの寺脇研氏は、前川氏との対談本『これからの日本、これからの教育』(ちくま新書)の中で、「命がけの文部官僚」剱木亨弘(けんのきとしひろ)元文部相を話題にしていた。そこまで苛烈ではなくとも、歴史的葛藤の下に営々と積み上げられてきたのが文教行政の英知だったはずだ。それを顧みずに「明治150年来」などと言って済ましている場合ではない。

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2017年12月29日 (金)

教師の働き方 「改革」には遠い

 中央教育審議会が報告した「学校の働き方改革」の特別部会中間まとめを受けて、文部科学省が緊急対策をまとめた。中教審総会の前には、2018年度予算案も閣議決定されている。少なくとも現状では、なお「改革」には程遠いと言わざるを得ない。

 もちろん中間まとめで、学習・生徒・進路指導など明らかに学校の業務以外に、これまで学校が引き受けてきた業務を14項目に整理し、学校が本来担うべき業務かどうかを「仕分け」(文科省)した意義は大きい。8月末の緊急提言で、教師の勤務時間の把握を求めたことに次ぐものだ。

 ただ、これも単に曖昧で済まされてきたことを、やっと明確化しただけにすぎない。しかも「基本的には学校以外が担うべき業務」と判定されたなら、明日にでも勤務から外されなければ道理が通らないはずだ。しかし登下校ひとつ取っても緊急提言が「連携を一層強化する体制を強化する」としているのは、何も言っていないに等しい。

 教師の本来業務はもとより、 「教師の業務だが、負担軽減が可能な業務」にしてもそうだ。負担軽減を言うなら、それ相応の予算措置が講じられてしかるべきだろう。ただ中教審の緊急提言を「受けた」文科省概算要求自体、義務教育費国庫負担金の総額をマイナス要求の範囲内に収めるなど不十分なものだった。しかも予算折衝では、小学校英語の加配要求が単年度2200人(9年間で6635人)から1000人(4年間で4000人)に圧縮された。中学校の生徒指導強化に至っては、500人(9年間で4100人)の要求に対して単年度50人という馬鹿みたいな数字だ。

 それでも省庁の論理からすれば、厳しい財政事情の中でも「改善」を勝ち取れたという評価になるのだろう。林芳正・文部科学相は閣僚折衝後の会見で①20年度段階での学級数減を見込んだ②標準授業時数を大幅に上回って授業をしている学校は、「働き方改革」の観点から現在の授業時数の範囲内で実施することが可能――という点から必要数を見直したと説明した。

 看過できないのは②だ。1998~99年告示の学習指導要領が実施直前になって巻き起こった「ゆとり教育批判」に対処するため、指導要領が「最低基準」だと突然言い張って教育現場に学力向上対策を求めたのは、いったいどこの省庁だったか。その結果、現場は標準時数以上の「確保」に奔走して学力向上の「V字回復」を果たしたが、それが多忙化に拍車を掛けたことは疑いがない。

 それなのに中間まとめには、「これまで学校現場に様々な業務が付加されてきた反省を踏まえ、今後、文部科学省において学校へ新たな業務を付加するような制度改正等を行う際には、既存の業務との調整や義務付けの必要性の検証、必要な環境整備等を行う必要がある」という一文さえある。いったい反省や検証は、いつするのか。

 もちろん、文科省の苦しい立場は分かっている。政権や文教族の後押しもないまま、徒手空拳で挑まなければならない状況に置かれているからだ。しかし、だからといって教育現場に努力ばかりを押し付けるのでは、進む改革も進まない。

 むしろ旧来の同省の行政手法が現下の課題解決に機能不全を起こしていることが露呈した、とみるべきではないか。ならば率先して「付加」した分の削減を提案するぐらいの覚悟が必要になろう。国民の総反発を招いても、だ。

 指導要領の改訂にしても、「質も量も大切」だとして実質的には質の分を大幅に増大させ、それに必要な条件整備は「死ぬ気で頑張る」と言った結果がこれだ。省や官僚個人を責めているのではない。予算獲得の見通しは暗い、という冷徹な現状認識をすべきであり、官僚的答弁ではなく、できないものは正直にできないと説明すべきだと言いたいだけだ。

 これはひとえに文教行政だけの責任ではないだろう。精神論だけで勝とうとした太平洋戦争末期の状況から、日本人の体質はなかなか脱却できない。国民学校が、その先兵を果たした教訓を忘れていないか。それで中間まとめも言う「日本型学校教育」の維持も何もあったものではない。

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2017年11月30日 (木)

小中教員 9000億円タダ働き!?

 薄々分かっていたこととはいえ、改めて数字で説明されると驚くというより笑うしかない。28日に行われた中教審「学校における働き方改革特別部会」第8回会合の終盤、清原慶子・東京都三鷹市長の質問に答えて、文部科学省初等中等教育局の伊藤学司財務課長が回答した教職調整額をめぐる「試算」だ。

 公立学校の教員は、時間外手当が出ない代わりに教職調整額として給料月額の4%が上乗せされる。ただし、この割合は1966年の勤務実態調査で平均残業時間が月8時間だった時代に決められたものだ。

 「しっかり試算を出しているものではない」と断りながらも、伊藤課長が控え目に説明した数字はこうだ。約1.5兆円の義務教育費国庫負担のうち、教職調整額1%分は約120億円に相当する。4%なら500億円弱になる。

 昨年の勤務実態調査で明らかになった残業時間を教職調整額に反映させるとしたら、「小学校で30%近く、中学校で40%程度に」引き上げなければならない。そうなると、追加費用は国庫負担ベースで3000億円を超えるという。負担割合は3分の1だから、事業費はその3倍だ。もし教育調整額を残業代に切り替えるとしたら、割増が加わって更に25%増となる――。

 勤務実態調査では、小学校教諭の3割、中学校教諭の6割が「過労死ライン」にあることが明らかになった。今の学校は、そうした教員の献身的な長時間過密労働によって支えられている。それも、乱暴に言えば9000億円の「タダ働き」によってだ。もちろん、ここには全額が地方交付税措置による公立高校教員の分は含まれていない。

 とはいえ現段階では教職調整額を大幅どころか1ポイント引き上げることさえ、まったく期待できない。ましてや残業代に切り替えるなど、残念ながら非現実的だ。かと言って「働き方改革」で削減できる労働時間など、たかが知れていよう。

 財務省の財政制度等審議会は29日の建議で、教員の働き方改革について「まずは教員の業務の見直し」を求め、文科省の教職員定数改善要求をけん制している。もっとも毎年のことであり、今年はむしろ控え目な表現だから額面通り受け取る必要はないのかもしれない。

 しかし、そもそも9000億円のタダ働きをさせているのが実態だとしたら、せめて文科省の概算要求分ぐらいは全額認めるべきではないのか。単年度3415人、9年間で総計2万2275人の増といっても、自然減や若返りに伴う給与減を含めればマイナス要求でしかない。

 安倍内閣の姿勢も問われよう。もっとも教育無償化にばかり気を取られて、それどころではないかもしれない。そもそも「教育再生」への対策は済んだ話で、後は「実行」だけだと思ってはいないか。第1次も含め政権の無策が学校現場を再生どころか疲弊させていることに気付くべきだ――と言ったところで、モリ・カケ問題のごとく聞く耳を持たないだろうが。

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2017年10月30日 (月)

「いじめ対策」で教育は再生したのか

 文部科学省が先ごろ、毎年恒例の「問題行動調査」の結果を公表した。いじめの「認知件数」に関しては、いまだに「発生件数」と混同しかねない報道ぶりも目につくが、それはおいておこう。認知件数が増えたからといって即、「発生」件数が増えたわけではないことは言うまでもない。

 同調査の「いじめ」定義は、2013年6月に制定された「いじめ防止対策推進法」に基づいている。その上で、「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」と付け加えている。

 そもそも同調査がいじめを定義しているのは、調査のためである。それが独り歩きして、定義に当てはまらないものは「いじめ」ではないとか、いじめが解消したとか、しゃくし定規的な対応を過去に招いたことは否定できない。だから法律で定義が明確になったのは、悪いことではない。

 そこには、たとえささいなものであっても「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているもの」(2条)をすべて把握して早期発見・早期対応することが必要だという考え方が背景にある。もちろん、早期発見・早期対応の重要性を否定するものでは決してない。

 改めて問いたいのは、現在の「いじめ対策」が本当に有効な「いじめ対策」になっているかどうかだ。

 いじめ防止法の眼目は、「重大事態」への対処にあろう。しかし法律に基づく重大事態の「発生」件数が前年度の314件から400件に増えている「事態」を、どうみるか。もちろん、見過ごされていた重大事態が事前に「対策」できたという好意的な見方もできよう。ただ深刻な自殺事件が絶えないことと併せて考えれば、本当に対策が奏功しているとは断言できない。

 過去に論じた通り、いじめ「対策」は「いじめ」以外の対策が必要だ。日本の学校教育が学習指導と生徒指導を両輪で行うものであり、道徳教育も各教科等も含めた学校教育活動全体で行うことが「日本型教育」だと誇るのなら、その特長を生かす条件整備をしてこそ真の「いじめ対策」と言えよう。

 ましてや、三つの柱で資質・能力の育成を目指す新学習指導要領への準備が始まっている時である。アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)の視点に立った授業改善を行うにも、学級集団の良好な人間関係が欠かせない。逆に、一人一人の多様性に気付かせ、お互いを尊重する契機にもできる。今こそ学習指導と生徒指導の両輪で子どもを育てることが、ますます求められよう。

 一方で、小学校の3割、中学校の6割が過労死ラインに置かれている教員の多忙化は深刻だ。教員自身にとって心身の健康の危機であるとともに、子ども一人一人に目が行き届ない恐れもある。中教審の「働き方改革」論議に期待したいが、現政権下での財政措置に限界があることは8月の特別部会緊急提言と、文科省の来年度概算要求を見ても明らかだろう。

 「いじめ対策」のための調査や報告に追われ、ますます多忙化に拍車を掛けては本末転倒だ。そもそも学習指導と生徒指導が両輪なら、生徒指導のうちの「いじめ対策」だけ取り出して対応すべきだという発想はいかがなものか。それより、いじめの起きにくい学校・学級づくりのための条件整備を、両輪で考えるべきである。 

 政権を奪還した安倍内閣が 「教育再生」実行の旗印の下、猛烈なスピード感で威勢よく成立させたいじめ防止法が本当に「防止」に役立っているか。来年で制定5年目を迎えるに当たり、改めて検証する必要があるのではないか。少なくとも「法律の通りやっていないじゃないか」と学校現場の尻をたたくばかりで、さらに疲弊させるような事態になってはならない。

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2017年9月27日 (水)

政権の「教育無償化」に注意を

 28日、衆院が解散される。安倍首相は理由の柱の一つに「人づくり革命」を挙げ、消費増税分で幼児教育や高等教育の無償化を実現するという。とりわけ高等教育の無償化は首相が5月に憲法改正とからめて表明して以来、さまざまな議論を呼んできた。

 ただ25日の記者会見での首相発言に、よくよく注意してほしい。「真に必要な子どもたちに限って高等教育の無償化を必ず実現する」「必要な生活費を全て賄えるよう、今月から始まった給付型奨学金の支給額を大幅に増やす」と言っている。

 現行の給付型奨学金は、自宅外通学の場合でも国公立で月3万円、私立で月4万円を支給するものである。返還不要はありがたいだろうが、生活の足しにしかならない。これで「意欲さえあれば大学に進学できる」と胸を張ることはできないだろう。

 首相が表明した「真に必要な子どもたち」が何を指すかも、よく分からない。ただ、その上限は給付型奨学金の2018年度新規対象者2万人を超えることはないだろう。少なくとも、大多数の学生には関係ない。これで「高等教育の無償化」を標榜するのは、誤解を招く。あるいは国民をミスリードする意図があると疑われても仕方がなかろう。実際、無償化に反対する人はあたかも大学進学者全員の授業料が無償化されると勘違いして論じている人が少なくない。

 残る無償化は、幼児教育だ。これには保育も含む(いわゆる幼児期の教育)。幼児教育の段階的無償化は、既に政権の方針になっている。首相が表明した3~5歳の完全無償化には年7300億円、0~2歳の「所得の低い世帯」では600~3800億円かかると試算されている。

 確かに2%の増税分で、5兆円余りの税収が見込める。「無償化」表明は、むしろこちらがターゲットだとみてよい。しかし、「全ての子どもたち」(首相)の無償化が、本当に必要なのだろうか。

 経済協力開発機構(OECD)のアンドレアス・シュライヒャー教育・スキル局長も、「図表で見る教育2017」の日本向け発表会見で、質の高い幼児教育への投資が最も効果が高いことを指摘した。ここでも注意したいのは、「質が高い」という部分である。そのためには「力のある教員を充てることだ」とも付け加えた。

 OECDの統計によると、幼児教育の在学率は2015年時点で3歳児80%、4歳児94%に達する。残り20%や6%の子どもをどう手当てするかが、最重要課題であろう。シュライヒャー局長は私費負担の高さも指摘したものの、全額無償化が即、質の向上につながるなどとは一言も言っていない。

 待機児童問題の解消は喫緊の課題だが、そうであれば集中的な投資がなおのこと求められよう。幼稚園教諭や保育士の待遇改善も確かに重要だが、これまで低賃金に抑えて経験の浅い若手を使い回してきた経営モデルこそが問われなければならない。

 このように安倍政権の「無償化」方針には、すり替えが多すぎる。うがった見方をすれば、18歳にまで広がった有権者に高等教育無償化の幻想をばらまき、その実は有力支持母体である幼児教育関係者を利するだけではないか。

 もとより本社は、幼児教育から高等教育までの完全無償化に反対するものではない。しかし、それは憲法を改正しないと実現できないものでは決してない。むしろ改正と同時に違憲状態となるような条文改正など、噴飯ものだ。だからこそ逃げずに政策と財源を国民に問わなければいけないのに、その姿勢は全く感じられない。「丁寧な説明」とは、丁寧な言葉遣いでも印象操作でもなかろう。 

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