社説

2018年12月26日 (水)

平成教育史・試論 教育課程〈中〉  曖昧な「生きる力」

 「生きる力」の育成――。1996年7月の旧中央教育審議会答申で掲げられて以降、2020年度以降に全面実施となる新学習指導要領でも変わらない、学校教育の理念だ。当時は「子供に[生きる力]と[ゆとり]を」とセットになっていたことさえ、つい忘れがちになる。今もって「ゆとり」の定義がないように、「生きる力」もまた曖昧なものだった。

 もちろん96年答申に、定義らしきものはある。①いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力②自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性③たくましく生きるための健康や体力――というものだ。

 ただ、それが具体的にどのような資質・能力なのか、現在から見ればあまりにも漠としている。「変化の激しいこれからの社会を生きていくために必要な資質・能力の総称」(2016年12月の中教審答申の注記)というのが、実のところ正確ではないか。

 ①にしても、「自ら学び~」は90年改訂指導要領を継承したものだった。一般には「新学力観」と呼ばれたが、当時の初等中等教育局キャリアは「ゆとりと充実」(77~78年改訂)に続く公式のキャッチフレーズを付けることを嫌った。それもレッテルを貼られたくないという以上に、具体化は学校現場の裁量に任せるべきだという考えが強かった。だから事細かに中身を示すことも、あえてしなかった。

 その“空白”を埋めたのは、教員上がりである同局の教科調査官と、中央→ブロック→都道府県→市町村→学校という“伝言ゲーム”だった。生活科の「雀の学校」(むちを振り振り)から「めだかの学校」(誰が生徒か先生か)へ、という説明や、「知識・理解」より「関心・意欲・態度」が上位だという明らかな誤解は典型例だ。

 それでも曖昧な学校教育が案外成功したことは、2000年から始まったPISAの好成績で証明された。今までの延長線上で“何となく”やっていたら、世界でもトップを走っていた。だから文部科学省も「『生きる力』はキーコンピテンシーと軌を一にしている」とうそぶいていられた。

 そもそも「生きる力」という言葉は何となく永田町・霞が関界隈でささやかれ始めたと思ったら、いつの間にか急浮上した感がある。折しも、相次ぐいじめ自殺事件などへの対応が急がれていた時期だ。対策の決定打がないままアピール効果を狙えるのも、曖昧なキャッチフレーズならではだ。

 だから「生きる力」とはどのようなもので、どうしたら育成できるかが整理されるには、今回の改訂を待たねばならなかった。「ゆとり教育」批判に正面から答えるべきだった08年1月の中教審答申も、指導要領の「構造化」は積み残さざるを得なかった。それだけ困難な課題だったことも確かだろう。

 では、今回の資質・能力論によって本当に「生きる力」は明らかになったと言えるのか。そこをはっきりさせることが、平成の教育課程史にとって重要なことだと思えてならない。いや実は単なる回顧ではなく、新指導要領の実現はもとより教員の働き方改革の成否さえ握っていると言ったら飛ばし過ぎであろうか。

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2018年11月23日 (金)

平成教育史・試論 教育課程〈上〉 「ゆとり教育」論を超えて

 天皇の代替わりが近づくにつれ、平成史を振り返ろうという企画が各紙で相次いでいる。教育に関しては、当然「ゆとり教育」が重要なキーワードの一つとなろう。ただ、これまでの報道ぶりを見ると、よくまとめているなと思う反面、隔靴搔痒(そうよう)の感も否めない。

 これに対して先輩記者・教育ジャーナリストである矢内忠氏の「平成の学校教育30年史」(時事通信社『内外教育』連載中)は平成の教育、中でも「ゆとり教育」研究の基本的文献となるべき論考だ。とりわけ学力低下論の影に経済産業省の存在があったこと(4月10日付)は、他にほとんど指摘されていない。

 その上で論じるのは蛇足以外の何物でもないのだが、かねて「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」という用語を使うべきではないという立場を取る本社としては、斜に構える本領を発揮して別の角度から未来志向の平成教育史を展望しておきたい。

 もっとも文部科学省は2016年5月の文部科学相メッセージで、それまで慎重に避けてきた「ゆとり教育」を行政用語として解禁してしまった。だから教育マスコミの端くれの端くれである本社も、本来は「ゆとり教育」をカギカッコ無しの用字用語として認めるべきなのだろう。それでもなお「ゆとり教育」は適切ではなく行政として撤回すべきだし、社会現象としてはともかく教育政策を分析する用語としても不適切である、という見解に変わりはない。

 そもそも先の文科相メッセージに、「ゆとり教育」の定義はない。「『ゆとり教育』か『詰め込み教育か』といった、二項対立的な議論には戻らない」と、否定的な文脈で使っているだけだ。08年1月の中央教育審議会答申で「『ゆとり』か『詰め込みか』」としていた文章に「教育」を付けただけだとも言えなくもない。

 確かに文部科学省担当者は口頭で、「『ゆとり教育』には戻らない」と明言することがある。それだけに文科省が「ゆとり教育」の過ちを認めて「脱ゆとり教育」にかじを切ったというストーリーは、いっそう確からしく耳に響く。

 しかし繰り返すようだが、「ゆとり教育」「脱ゆとり教育」には今もって文科省にすら定義がない。そのため、使う人によって意味内容が違ってしまう。それでは議論がかみ合いようもないし、平成教育史から教訓を得ることもできない。

 その点、矢内氏が先の連載で銭谷眞美・元文部科学事務次官から「私は『ゆとりと充実』の指導要領の時から、教育の問題を考える際の基本構図はずっと変わらないと思っている」という発言を引き出したのは貴重だ。

 実は文科省は、方針転換などしていない。授業時数や授業内容の増減だけを言うなら方針転換と呼べるかもしれないが、学習・授業の質の改善という点では頑固なほど一貫している――というのが、本社の見方だ。

 しかし、そのこと自体が今回の改訂を受け止める現場に混乱をもたらし、ますます疲弊させるのではないか。そればかりか、世界的潮流を受けた未来志向の教育に一刻の猶予もないはずなのに、かえって禍根を残す結果を招くのではないかという危惧さえ抱いている。今後、改めて展開したい。

【過去の社説】
もうやめよう、「ゆとり教育」論議
高校新指導要領 「脱ゆとり」どころではない
高校は「脱ゆとり」報道に惑わされるな
馳「ゆとり決別宣言」は間違いだ

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2018年10月12日 (金)

就活指針廃止 もう経団連に教育を語る資格はない

 経団連が「採用選考に関する指針」の廃止を正式決定した。これを受けて政府は、関係省庁連絡会議で現行ルールと同じ日程を決める方針だという。経団連もオブザーバーとして参加するらしい。

 確かに現行ルールは形骸化しているし、新卒一括採用そのものが時代に合わないというのも正論だろう。中西宏明会長は大学教育の現状に対して厳しい見方も示しているが、それも経済界からの要求としては分からなくもない。

 しかし今回の一件は、経団連がその社会的責任を放棄した、あるいは昔のように社会的責任は負えないと宣言するに等しい。既に大企業が日本経済をリードする力がなくなったというのなら、その通りだろう。ならば経団連は、経済界を代表して教育に口を出す資格も力も失ったことを認めるべきではないのか。

 大学教育をめぐっては現在、「三つの方針」に基づく大改革(3ポリ改革)が急展開している。その大きな動機の一つは、経団連をはじめとした経済界からの強い要請だった。責任を持ってしっかりした大学教育を求めるのなら、逆に日程の後ろ倒しを求めるべきところだろう。

 政府の新ルールが法的拘束力でも持たない限り、実質的には今以上の早期化を容認することになるのは必定だ。そうなれば大学教育に更なる支障をきたすのは必定だ。中西会長は、言っていることとやっていることが本質的に矛盾していることに気付いていないらしい。

 本社はかつて、内定ではなく即採用すべきだという主張を展開した。本気で新卒一括採用を見直すというのなら、在学中の内定は一切やめるか、卒業を待たずに採用するかするのが筋だ。

 本来は卒業論文・研究を含めた4年間の成長まで見届けなければ、学生の資質・能力を正当に評価することなどできないはずではないか。3ポリ改革が進む現在なら、なおさらだ。それでもなお優秀な人材だと在学中に判断できるのなら、卒業を待たずに採用すればいい。早く内定という唾を付けておきたいというのは、都合が良すぎる。

 それによって必要な人材が確保できないとしても、既卒者を含め通年採用で努力するしかない。それでもなお不足するなら、入社後に人材育成コストを掛ける必要も出てこよう。そこまでの覚悟で今回の廃止を打ち出したのでなかったとしたら、あまりにも勝手すぎる。

 政権の姿勢に関しては、改めて論じよう。まずは経団連が責任を放棄した以上、これ以上の無責任な発言は控えることを勧めたい。

 

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2018年10月 8日 (月)

専門職大学 何だこのお粗末さは

 驚いたというより、あきれた。来年度からスタートする専門職大学等について、申請のあった17件のうち設置認可が答申されたのは1件だけだった。2件は保留だから複数の大学・短大が初年度開設校となる可能性は高いが、既に14件が取り下げたという。

 大学設置・学校法人審議会も吉岡知哉・大学設置分科会長名で声明を出し、▽実習の内容、評価基準、実施体制が十分検討されていない▽優れた実務上の業績がない者が実務家の教授等として申請されている▽実践的かつ創造的な専門職業人材の専門性の支えとなるべき理論の教育が不足している▽教育課程連携協議会の構成員が不適切▽「実践の理論」を重視した研究を行う施設・設備が整備されていない――など「専門職大学制度の特色を活用してその社会的使命を十分に果たす適切な設置計画としては認められないものが多くみられた」と厳しく指摘。 「制度創設初年度であるものの、総じて準備不足で法人として大学設置に取り組む体制が不十分と感じられた」としている。もう、けちょんけちょんである。

 はっきり言って、専門学校気分が抜けていない申請が多かったのではないか。よもや、さほどの「お友達」でもないのに政権の後ろ盾と忖度(そんたく)を期待していたわけではあるまい。

 そもそも専門職大学等の制度化自体、怪しいものだった。元々は2007年9月、安倍晋三首相が第1次政権を福田康夫氏に禅譲した2日後に設置が決まった「専修学校の振興に関する検討会議」で、専修学校を1条項に位置付けるべきだとの関係者の主張に対して大学関係者などから猛反発があり、議論を引き継いだ中央教育審議会が民主党政権下の11年1月答申で「職業実践的な教育に特化した枠組み」を新たな学校種として創設することを提言しながら、捨て置かれていたものだ。

 それが安倍首相の政権奪還を経て、教育再生実行会議第5次提言に学制改革の目玉として「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関」が盛り込まれた。これを受けた文部科学省は「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」を発足させ、新たな学校種を断念して大学体系の中に位置付けることで決着。16年5月の中教審答申で制度設計が決まった。その間、日本再興戦略や「骨太方針」など政府からの援護射撃が続けられたことも見過ごせない。

 しかし検討会議や中教審の議論を聞いていても、なぜ新しい学校種や枠組みが必要なのか、既存の大学・短大では対応不可能なのか、明らかに議論はかみ合っていなかった。代わりに垣間見えたのが、私学助成を受けられる私立大学と違って都道府県認可である専門学校に国費を流せる仕組みをいかに作るかという、あからさまな利益誘導だ。18歳人口減少を見越した、専門学校の生き残り策であることも透けて見える。

 中教審答申後は不気味なほどスムーズに学校教育法改正にこぎつけ、19年度からの発足が決まった。その果てが、このしまつである。

 もちろん、「職人大学」構想からケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD、現あんしん財団)の汚職事件を経て創設された私立大学が一定の評価を得ているように、出自が怪しくても大化けする可能性はなくもない。しかし初年度申請を見る限り、全体として「産業界と密接に連携して教育を行う新たな高等教育機関として期待されている」(11月末に予定される中教審答申案)という内実が伴っているとは、とても思えない。

 ましてや実務家教員が多いとの理由で「真に必要な」学生への高等教育無償化措置で優遇されるとしたら、お門違いである。今後の動向にも注視していく必要がある。

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2018年10月 4日 (木)

教育勅語の活用 柴山新文科相は即撤回を

 2日に就任した柴山昌彦文部科学相が会見で、教育勅語を現代風にアレンジして「道徳等」に使うことを「検討に値する」と述べた。おそらくは文教・科学技術行政の課題が多すぎて、「特別の教科 道徳」(道徳科)の創設経緯や趣旨についてレクチャーを受ける時間がなかったのだろう。

 改めて振り返るまでもなく道徳科は「考え、議論する道徳」への転換を目指したものであり、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」(2016年12月の中央教育審議会答申)。たとえ教育勅語が掲げる徳目に柴山文科相が個人的に「普遍性を持っている部分が見て取れ」たとしても、アレンジだろうと何だろうと「教えていくことも検討に値する」というのは大臣発言として不適当のそしりを免れない。

 文教行政に明るくない柴山文科相は、おそらく過去の国会答弁や質問主意書に対する答弁書をもって、教育勅語を教材として用いることを否定しないのが政府統一見解だと思っているのであろう。しかし、答弁した当時の下村博文文部科学相自身が「考え、議論する道徳」の提唱者であったことを見逃してはならない。

 もちろん、下村氏は柴山文科相のような混同も狙って確信犯的に「従来の文科省の慎重な姿勢を一変させる答弁」(前川喜平・元文部事務次官、毎日新聞出版『面従腹背』)を行ったのであろう。しかし厳密に適用しようとすれば「多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢こそ道徳教育で養うべき基本的資質である」ことに疑いはない。

 それでも実際には『星野君の二塁打』にみられる通り、特定の価値観に誘導するような実践が残念ながら学校現場で行われていることも否定できない。そんな筋の悪い教材を検定教科書に採用することを容認あるいは促進してしまっているのは、政権の意図的な姿勢によるものに他ならない。

 そうした経緯や実態に無自覚な新大臣が教育勅語の「中身」を教えることを容認するような発言をしてしまっては、ますます「考え、議論する道徳」の趣旨がゆがむ。考え、議論した上で「普遍的」な価値に到達させようというのは、まさに「目指す方向の対極にある」ものである。

 教育現場に悪影響を及ぼさないためにも、そして何より大臣発言を根拠として教育現場に不当な介入を招かないためにも、金曜の定例会見で即刻撤回すべきだ。

 弁護士出身で安倍晋三首相にも近い柴山文科相は、不祥事続きの文科省を立て直す役割を担っているらしい。そうした新大臣に萎縮して文科省職員が注進しなかったとしたら、現場に混乱をもたらすどころか、ますます行政がゆがめられることになろう。たとえ柴山文科相が意図していなくても、である。

 それが分からないのであれば、国会が混乱する前に辞表を準備しておいた方がいい。省内に「あいさつ」運動など勧めている場合ではない。

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2018年9月17日 (月)

新指導要領の全面実施に危機感を

 NHK総合のクイズバラエティー番組『チコちゃんに叱られる!』が話題になっている。それに倣えば「学校現場の足元が揺らいでいるのに、やれSociety5.0だの、EdTeckだのと浮かれている日本人の、何と多いことか」と言いたくなる。

 経済協力開発機構(OECD)が先ごろ公表した「図表でみる教育」2018年版のカントリーノート(国別要旨)によると、日本は学校裁量で決定する事項は21%にすぎない。それも「上位の当局が規定する枠組み内」でのことだ。

 20年度から順次、全面実施に入る新学習指導要領は、変化の予測が困難な社会に向けて必要な資質・能力の育成を打ち出す一方、学習内容を削減せずに実質的には増加させ、かつ知識の確実な習得までをも引き続き求めている。「質も量も」を実現するにはアクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)とカリキュラム・マネジメント(カリマネ)の両輪で学校裁量を最大限発揮しないと、とてもこなせるものではない。

 インターネット会見でアンドレアス・シュライヒャー局長は新指導要領について、シンガポールやフィンランドのように自由度が高い教授法の革新に進んでいくことに期待を示した。それには専門職としての自律性や現場の裁量権、教師の働き方改革が必要だとしながらも、基本的には「21世紀で最も成功している」日本の教育制度を楽観視しているようであった。

 しかし、7月の「日本の教育政策レビュー」では、そうした教育モデルの持続可能性に警鐘を鳴らしていた。国内的には、そちらの方を深刻に受け止めるべきだろう。

 指導要領の改訂諮問以来、現場ではALへの関心が急速に高まった。「大学入試が変わらないと授業は変えられない」とうそぶいていた高校までも、である。それ自体は結構なことだ。しかし現場の教員が嬉々として授業改善に取り組む陰で、多忙化に拍車が掛かったことも否定できまい。

 そもそも現下の深刻な多忙化の要因には、「ゆとり教育批判」を受けた学力向上対策も大きい。もともと教えたがりの教員は、多忙感を抱かないまま長時間過密労働を唯々諾々と受け入れた。一方で、その中から単なる学力テスト対策だけでなく「PISA型学力」の模索も生まれた。

 いったん低下した学力がV字回復したという文部科学省のストーリーは、少なくとも「生徒の学習到達度調査」(PISA)に限ればOECDが言う通り事実ではない。ただ、いわゆる「ゆとり教育」にせよ「脱ゆとり」にせよ徹頭徹尾、過労死ラインをもいとわない現場の努力による成果だということを忘れてはいけない。

 「図表でみる教育」には、そんな現場の困難な状況が一向に改善されていないことを示すデータにもあふれている。むしろ、そこに注目して今後の教育政策を考えるべきだろう。

 OECDの立場からは、新指導要領はもとより教育の無償化を進める日本政府の方向性を好ましく評価するのは当然だろう。しかし第3期教育振興基本計画ひとつ取っても、国外から見た期待に値するほどのものではないことは明らかだ。

 まずは政策レビューの推奨事項にあるように「指導要領の改訂実施を優先する」ことを第一に考えて、その条件整備が本当に整っているかを、まさに真の意味でエビデンス(客観的な証拠)に基づいて検証すべきだろう。これ以上、裁量もないのに「子どものため」なら何でも引き受けてしまう良心的な現場に無理を強いるべきではない。

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2018年8月28日 (火)

免許外協力者会議 出さない方がましだ

 これほどひどい文案は久々に見た。ことによると最悪の部類に入るかもしれない。28日の文部科学省「免許外教科担任制度の在り方に関する調査研究協力者会議」に示された、報告書素案のことである。

 免許外担任の現状をめぐっては、第1回会合で示された基礎データだけでも事の重大さが読み取れた。会合を重ねれば重ねるほど、危機感が補強された感がある。各地で非常勤講師が確保できず新年度の授業が行えない実態が相次いで報じられるに及んで、対策の必要性は増すばかりだった。ましてや今後、教員需要が減少に転じれば事態はますます深刻となることは明らかだ。

 それなのに素案は、教育委員会や教員養成の現場に工夫と努力をツケ回す対策に終始しているといっても過言ではない。

 あまつさえ教科横断的な資質・能力の育成を求める新学習指導要領にかこつけて、複数免許の取得促進が「教師としての総合的な指導力の向上にもつながる」としている。ある意味で正論だ。「子どものため」という美談でもある。

 しかし新指導要領の趣旨を実施するための研修すらおぼつかないのに、認定講習を受けている暇などあるのか。更新講習と兼ねることすら提言しようというのは、制度的にも政治的にもセンスを疑う。

 養成段階から複数免許の取得を奨励しようともしているが、これも今後、教員採用の枠が狭まることで志望者自体が減るであろう必然性に目をつぶった話だ。ましてや希少免許状の養成を維持してほしいなどという論議は、国立養成系の統廃合を提言した別の有識者会議と矛盾していることに気付いていないのか。

 唯一みるべき点があるとすれば、更新講習を受けていない者を任用するため受講の弾力化を提言したことだろうか。それも、再任用には更新講習を「免除」してほしいという意見が続出した末でのことである。

 それでも免許外担任問題の深刻さ、ひいては教職員定数自体が機能不全に陥っていることの一端を白日にさらした協力者会議の意義は大きい。だからこそ「書きたいけど書けない」で済ませては、結果的にますます現場を疲弊させるばかりだ。

 次回までに多少の修文はあるのだろうが、限界は目に見えている。不十分な報告書なら、出さない方がましだ。いや、そもそも会議すら設けるべきではなかった。政府方針に忖度(そんたく)せざるを得なかったのなら、いっそ「免許外教科担任の解消にも資する遠隔教育の在り方に関する調査研究協力者会議」とでもすればよかったのだ。

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2018年6月30日 (土)

教育振興基本計画 もう廃止したら

 6月15日、「骨太の方針」はじめ一連の政府計画が閣議決定された。そこに第3期教育振興基本計画が含まれていたことに、どれほどの人が気付いただろう。

 文部科学省にとって振興計画は、改正教育基本法の目玉であるはずだった。というより改正に及び腰だった文科省が踏み切ったのは、振興計画を盛り込みたかったからに他ならない。2001年11月の「教育振興基本計画の策定と新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方」という奇妙な諮問が、それを象徴している。

 06年の教基法改正を経て、08~12年度、13~17年度と5年計画が策定されてきた。しかしこの10年間、振興計画が何がしか国の教育行政にプラスとなっただろうか。

 第1期計画は、単に各局課の政策課題を総花的に並べたにすぎなかった。第2期は「自律」「協働」「創造」というコンセプトを掲げ、局課横断的に課題を整理したが、結局は整理しただけに終わった。

 第3期は「基本的な方針→教育政策の目標→測定指標・参考指標→施策群」という構成で、客観的な根拠を重視した教育政策を推進するという。今はやりのエビデンス・ベースだ。政策目標や施策を総合的・体系的に示す「ロジックモデル」なるものも示した。こうした新機軸は、どれほど有効なのだろう。

 文科省が振興計画に期待したのは、そこに予算増額の根拠を盛り込むことだった。そこには省庁再編前とはいえ科学技術基本計画の“成功体験”があった。しかし第1期から財務省などのけん制により、積極的な文言は1行も残らなかった。「教育投資の確保」をうたう第3期にしても、結局は同じことだ。

 そのくせ一部とはいえ高等教育の無償化という非常に大きな予算化は、政権の不可思議な意向で突然降ってきた。振興計画の審議とはまったく関係なく、むしろ政府方針の後追い、追認を余儀なくされている。

 そもそも審議の過程で「第2期の検証が不十分ではないか」という指摘がたびたび出されていたにもかかわらず、ほとんど顧みられることはなかった。検証できない計画とは、いったい何なのか。今度は測定指標・参考指標があるから大丈夫だというのかもしれないが、指標の設定についての論議はお世辞にも精緻だったとは言えず、ほぼ事務局案を丸のみしたにすぎない。

 何の論議もなかったものもある。学校安全をめぐる「非常時の国民保護における対応等」が一例だ。文科省事務局から何の説明もなく審議過程で突然挿入され、中教審委員からの質疑も皆無だった。それでいて国際情勢が変わったから自治体の「ミサイル訓練」が不要になったというのだから世話がない。

 この10年ではっきり分かったのは、しょせん「文科省の行政計画」について内閣にお伺いを立て、承認してもらうものでしかないということだ。それも、政権への忖度(そんたく)をたたっぷり利かせての上でである。「政府計画」の建前が聞いてあきれる。

 そんなものなら省内の会議でやればいい程度のことだ。30人もの委員で専門の部会を設けても、ボトムアップというより事務局主導で案が固まっていっては会議費さえ無駄に思える。

 第3期計画も、教育政策のPDCAサイクルを事あるごとに強調している。しかし、そもそも中教審の審議過程、もっと言えば文科省自身にPDCAサイクルが働いているのか。どうせ政権への忖度が優先されるのなら、最初から言わない方がいい。当面あり得ないことだが、次に教基法改正が持ち上がったら振興計画に関する17条は廃止してはどうか。たぶん都道府県振興計画の担当者以外、誰も困らないであろう。

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2018年5月31日 (木)

モリカケ問題 本質は「行政のゆがみ」だ

 30日に行われた党首討論で安倍晋三首相は、森友学園問題の本質は首相や昭恵夫人の働き掛けではなく、なぜあの値段で引き渡され、小学校設置が認可されたかだと主張した。

 しかし加計学園問題も含め、首相や夫人の指示もないのに忖度(そんたく)によって「一点の曇りもない」プロセスを経てその意向を実現させる完璧なスキームが作られたのだとしたら、その方が空恐ろしい。

 むしろ問題の本質は、前川喜平・前文部科学事務次官が指摘するような「行政のゆがみ」が霞が関にまん延していることだろう。それはモリカケ問題にとどまらない。

 今国会では、東京23区内の大学新増設を抑制する地域大学の振興法が可決・成立した。しかし同法には、あまり報じられない例外がある。「専門職大学等」だ。

 そもそも専門職大学等の成り立ちからして怪しい。「新たな学校種」から高等教育機関への位置付けと変遷はしたが、何としても専門学校を格上げしたい意向が働き続けていた。2019年度開設を目指して設置認可を申請中の学校法人を見ても、それは明らかだろう。

 「社会人の学び直し」や学生の経済的支援にしてもそうだ。実務家教員を増やすという名目に、専門職大学等を優遇しようという意図が透けて見える。

 かように文教行政ひとつ取っても、違和感を抱くことがたくさんある。おそらく他の行政分野では、もっとだろう。嬉々として省益拡大を図ろうとする官庁もあるようだが。

 それで行政がただされるのだとしたら結構なことだ。しかし無用の改革で、かつ首相周辺の「お友達」のみにしか利益が及ばないものだとしたら、どうか。

 行政のゆがみのツケを負わされるのは、国民だ。そのことが最も深刻な問題の本質と言うべきだろう。

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2018年4月10日 (火)

文教行政の危機 政官の関係を見直す時だ

 森友・加計学園をめぐる忖度(そんたく)問題、前川喜平・前文部科学事務次官の授業内容に対する文部科学省の照会問題――。防衛省の日報問題は本社の範囲外なので論じないが、根は同じである。安倍1強体制の下で、前川氏が言うように行政がゆがめられている。

 「政治主導」は民主党政権が打ち出したものだが、少なくとも文部科学省においては政権発足当初の混乱を別にすれば、比較的うまく対応していたように思う。それは55年体制の下で、野党も含めた全方位的な国会対応によるノウハウがあったからだろう。

 しかし安倍自民党が政権を奪取し政治主導を狡猾に利用するようになると、文科省も他省庁と同様に相対的自律性を急速に失っていく。その中でも前川氏は、よく「面従腹背」を保っているなと当時から感心していたものだ。

 それでも下村博文氏が文部科学相の時には、誰が「主導」していたかが記者会見などで目に見えていた。自民党の「隠れキリシタン」(前川氏)馳浩文科相もそうだ。しかし水面下および松野博一文科相以降は、誰がどういう過程で忖度を迫っているかは、少なくとも国民には見えなくなっている。

 既に論じられているように、内閣人事局が霞が関にさまざまな弊害をもたらしていることは明らかだ。文教行政にとっても、一刻も早い廃止が求められよう。

 時々の政権が政治決断によって政策を主導するのはいい。それが民主主義の原則にかなっているからだ。しかし、それにブレーキを掛けて至極まっとうな政策に練り上げるには、官僚の力が欠かせない。政権に対する相対的自律性が、今こそ求められる。

 55年体制の時代がすべて良かったと言うつもりはないし、経済成長が望めない財政難の時代にあって、それが復活できるものとも思えない。だからこそ、政権交代時代に対応した政官の関係を見直す必要がある。

 気になるのが、省内での世代交代だ。天下り問題に伴う人事の混乱も相まって、かつての文教行政の“常識”が急速に失われているのではないかと懸念する。前川授業照会問題は、その典型だろう。

 何より行政のゆがみは、教育現場にツケが回される。しかし政権や与党の勝手に振り回されている場合ではない。22世紀まで生き抜く子どもたちにどういう教育を行うべきか、そのための条件整備はどうあるべきかについて真摯に考え、限界の中でも実現を図ろうとする文教行政が、今ほど切望される時はない。

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