コラム

2009年11月25日 (水)

【池上鐘音】半分当て外れ

▼きょうは本来、前回社説を翻して政府事業仕分けに対する批判を大々的に打つつもりであった。義務教育費国庫負担金に大なたが振るわれるであろうと想定してのことだった。しかし、いい意味で当てが外れた。案外まともな論議だったのである▼もちろん、必要かつ十分な論議が尽くされたわけではない。冒頭に差配役の枝野幸男議員が「教員の質と数を充実させる」という民主党方針に沿った討論を要請した影響もあったろう。それでも民間有識者から「国の責任も考えながら地方自治を組み立てるいい時期だ」という感想が漏れたように、冷静な論議の取り掛かりとしては評価に値する。少なくとも小泉政権下での三位一体改革論議とは、雲泥の差だ▼それに比して全国学力テストは、ひどいものだった。あくまで本社の見立てだが、調査の目的や導入の経緯を論者がバラバラにとらえていたものだから、核心を突く論議にならなかったように思う。評価者の中で最も事情に詳しいはずの某校長経験者さえ、である。といっても世間の理解はそんなものだろうし、文部科学省の説明の仕方も悪かった。本質を把握できるのは、本ブログを熱心に読んでくれるような好事家くらいであろうか▼実は国立大学運営費交付金は、もっとひどかった。論者が勝手な論点で論じていたものだから、最後まで論点が絞れなかった。もっとも国立大学の役割から起こして論ずるには、たとえ1時間半に延長したとしても論じ尽くせるテーマではないのだが▼もちろん先に論じたように、そもそも事業仕分けとは一定の限界がある手法だ。その点を押さえた上で、結果を受け止める必要がある。少なくとも「一言で簡単にひっくり返る話ではない」(鳩山首相)ような本質的な論議ができるとは限らないことに、重ねて注意を促しておきたい。

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2009年10月10日 (土)

【池上鐘音】匿名と実名

▼実名報道が新聞の原則であることは百も承知しつつ、会社員時代から匿名コメントを多用してきた。役人のオフレコ発言や雑談のたぐいだけではない。建前が重視される教育界、特に教員は個人名で本音を公にすることを極端に嫌う。実名コメントに限っていては、実態を正しく伝えられないからだ▼そうすると逆に、実名コメントの引用にはいっそう慎重になる。引用された人が記事を読んだ時にどう思うかを常に意識せざるを得ない。一方で、あまりに配慮し過ぎると文章が分かりづらくなる。取材対象者と読者とのはざまで悩むのは、この稼業を続ける限りついて回ることだろうと覚悟している▼山口県光市母子殺害事件のルポルタージュ『〓〓君を殺して何になる』(〓〓は実際の名字)を読んだ。少年法を破ってまで実名表記に踏み切った本を、しかも出版差し止めの仮処分申請中に購入するのは迷ったが、やはり職務上、目を通しておくべきだろうと思ったからだ。発売当日の夕方、渋谷で回った書店のうち2軒には置いていなかったが、1軒には入り口横に単独で平積みされていた▼何より徒手空拳のフリーライター(現在は大学職員)が体を張って取材・執筆した成果であるから、それに対して事件取材に足がすくむような意気地なしの同業者が是非を論ずることは、厳に慎みたい。その上であえて言えば、ルポというより取材ノートか取材日記みたいだと思った。フリージャーナリスト奥野修司氏の「インタビューの結果を読者に放り投げている」(朝日新聞10月8日付)という評価には、素直にうなずける▼確かに週刊誌に報道された「不謹慎な手紙」(本文より)の背景を追ったくだりなど、なるほどと思うところがないわけではない。しかし、よほどこの事件に関心を持って情報を集めている人でもなければ、無理をして買うほどのものでもないような気がする▼本社記者は世間で言われていることより自分が取材などで見聞きし感じたことの方が絶対的に正しいという妙な確信を持っているのだが、その確信を読者にどういう形で伝えるかは全く別問題だ。この偽装新聞社によるブログにしても思いのたけを無分別にぶつけることは決してしないし、できないのが記者倫理であり習性でもある▼「十を聞いて一を書く」というのは記事執筆の基本中の基本であり、読者に何を伝えるかを熟慮して構成に頭を悩ませるのは本務だと思っている。もう一つの基本である「客観的な事実を提示して、読者の判断に任せる」というのも、その上でのことだ▼著者は実名表記の理由を「匿名報道が〓〓君の人格を理解することを妨げている」からだと書き、記者会見でもそう語っている。それが元少年や周辺に取材して得た著者の実感なのであろうから、取材していない者が安易に批判はすまい。しかし、そのために実名のみならず卒業アルバムの顔写真まで掲載するのは、少なくとも先行した週刊誌と同レベルではないか、という疑念はぬぐえない。

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2009年9月23日 (水)

【池上鐘音】ダムに沈むはずだった温泉

▼以前、群馬の学校を取材した折、近くの川原湯温泉に泊まったことがある。値段が手ごろだったこと、砂風呂に引かれたこともあるが、何といっても決め手はキャッチフレーズの「ダムに沈む温泉」だった▼いつになるか分からない移転に施設改善にも二の足を踏む旅館の客室は、お世辞にも快適とは言えなかった。しかし住民の絶ち難い郷愁と、それを振り切ってまで新境地に向かおうとする悲痛な決意とが切々と感じられて、お湯とともに心地良く過ごせたことを思い出す▼源頼朝ゆかりと伝えられる温泉街の周辺では景勝地や寺社にも癒やされたが、あちこちに場違いな“壁”や水深表示があるのは異様でもあった。もうこの光景を見ることはないのか、いや沈む前にもう一度来たいものだ、と思いながら帰路に就いたものだった▼その川原湯温泉が揺れている。前原誠司国土交通相が民主党のマニフェスト通り、八ツ場(やんば)ダムの建設中止方針を表明したからだ。しかし激烈な反対運動を通して引き裂かれた地元が下したダムとの共存という苦渋の選択を、すぐに翻せるわけもない。反発は当然であろう▼成田空港拡張反対を「ゴネ得」と言い放って就任直後に辞任した大臣と比べるのは大変失礼だが、事はそれだけ微妙な住民感情に触れる問題である。もう少し上手なやり方はなかったのかと悔やまれる。そうすれば、対話の道は開けたはずだったろうに▼ただ、これを新政権ゆえの拙速と言って責めるだけというのも、また酷な話だろう。私たちは今、自民党政権下で長く続いた「土建行政」とでも言うべきものに対峙しているのだ。ダム問題の困難さは、政治転換の困難さの象徴でもある▼「教育費が橋や道路に化ける」というのは予算不足に泣かされてきた教育界の常とう句であるが、当事者も「橋や道路」に泣かされ続けてきたのだ。結論がどちらに落ち着くにせよ、公共の名の下に生活を犠牲にした人々のことを忘れてはいけない。

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2009年8月 8日 (土)

【池上鐘音】注意が必要

▼全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と保護者の年収などの関係を探った研究調査が、文部科学省の専門家会議に報告された。結果の重要性にかんがみて本社説でも取り上げようと考えたのだが、同じ研究グループによる調査に関して論じた以前の社説で尽きているように思うので、あえて繰り返さない▼しかし、これほどきれいに世帯収入と「学力」の関係が現れてしまうのは、見事と言うしかない。それだけに、調査結果を読むには注意が必要であろう。そこに介在しているのは家庭の文化や振る舞い、すなわちピエール・ブルデューの言う「文化資本」「ハビトゥス」の問題である▼研究グループ代表の耳塚寛明お茶の水女子大学教授が指摘するように、この種の調査に国がかかわった意義は大きい(『月刊高校教育』9月号「時の眼」)。だからこそ今後、研究の深まりと共に広がりをも期待したいし、「効果のある学校」(エフェクティブ・スクール)の在り方とその支援方策が教育政策の重要な課題としても追求されなければならない。「圧倒的にポジティブ」な学校の秘訣(ひけつ)は何かが、大いに気になるところである▼その上で注意を促したいのは、これはあくまで全国学力テストという限定された問題で測られる「学力」との関係だということである。「美術館や美術の展覧会へ行く」の解釈などは、その代表例だろう▼一つだけ難癖をつければ、保護者の行動の選択肢として「パチンコ・競馬・競輪に行く」という項目を設定していることである。競輪の推理は極めて論理的なものであり、膨大なデータの集積である予想紙(専門紙)を読むには高度なリテラシーが要求される。競馬はともかく、パチンコと一緒にされるのは合点がいかない――いや、これは全くの難癖である。

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2009年6月 7日 (日)

【池上鐘音】印度の日本人

▼今年アカデミー賞を受賞した『スラムドッグ$ミリオネア』(英、ダニー・ボイル監督)は、ヒンズー教徒によるスラムのイスラム教徒襲撃から物語が始まる。インドと言えばマハトマ・ガンジーの非暴力主義が有名だが、今も彼の国に暴力が渦巻いていることは日々のニュースでも明らかだ。しかし、そのガンジーすら生ぬるいと批判したインド人が仏教に改宗し、その衣鉢を日本人が継いでいるということを、どれだけの人が知っているだろう▼ガンジーを批判したのは、初代法相B・R・アンベードカル(1891-1956)。日本人、いや既にインドに帰化したから正確には元日本人が、佐々井秀嶺師(73)である。44年振りに一時帰国(これも正確には来日)し、1カ月半にわたり全国を巡った果てに7日、東京・大塚の護国寺で「最終公演」を行った▼インドのカースト制は、アンベードカルが起草した憲法で公式には廃止されたにもかかわらず、現実には厳然として存在する。かつて不可触民と呼ばれたアウトカーストをガンジーはハリジャン(神の子)と呼んだが、それを敢然と拒否したのがアウトカースト出身のアンベードカルだ。のみならずガンジーも信じたヒンズー教こそが差別の根源だとして56年、50万人ものアウトカーストを引き連れて仏教に集団改宗した▼よく知られているように、仏教は発祥の地であるインドでは13世紀初頭に壊滅した。それを復興したのがアンベードカルであり、その死から11年後に何の知識もなくタイから徒手空拳で飛び込んだ佐々井師が、現在1億人以上と言われるインド仏教徒の指導者となっているのは、まさに仏縁と言うほかない▼現在のインド仏教は系譜上、南伝仏教(上座部仏教、小乗仏教)に属する。一方、佐々井師はもともと東京・八王子の高尾山薬王院で得度した大乗仏教・真言宗の僧だった。護国寺講演でも佐々井師が小乗なのか大乗なのか問う質問があったが、師は断言した。「アンベードカルの思想と行動は、“超大乗”だ」▼20代半ばに学生浪曲師をやっていたダミ声の魅力もあって演説は人を引き付けるが、70年余の思いがあふれてか一回の講演や師の半生を描いた『破天―インド仏教徒の頂点に立つ日本人』(山際素男著、光文社新書)を読んだだけでは趣旨をつかみづらいのも確かだろう。しかし京都・種智院大学と横浜・総持寺に続く3回目の聴聞を経て、ある確信に至った。アンベードカルや佐々井師はまさに、ブッダや大乗仏教の確立者竜樹(150-250ころ)と同じことをしているのだと▼ブッダにしても竜樹にしても、当時のインド社会で苦しむ民衆に分け入り、その苦悩を共有する中で新しい宗教を生み出していったに相違ない。それが後世に語られる過程で、神秘性や超越性を帯びていったのだろう。佐々井師は、「『どん底のどん底のどん底』を見ずして、本当のインドを見たことにはならない」と再三繰り返す。日本のいわゆる鎌倉新仏教も、そうして生み出されたのだと推測させるものがある▼竜樹に呼ばれる夢を見てインド滞在を決意したという佐々井師が「帰国」で見せてくれたのは、「生きた」仏教、今まさに創造されようとしている仏教の姿である。ひるがえって考えれば現代の日本で現実の民衆の苦悩に応え得る仏教とはどうあるべきか、現実の課題として突き付けられた思いがする。師はこう呼び掛けた。「闘う仏教徒になってください」▼『スラムドッグ―』の襲撃場面では幼い主人公兄弟が逃げ惑う途中、子どもの姿をしたヒンズーの神を幻視する。それが物語の複線になっているのだが、映画の展開以上のメタファー(暗喩)を秘めているように思えてならない。憎しみの連鎖を断ち切ることを教えるのも、また仏教である。

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2009年4月19日 (日)

【池上鐘音】憂うつな4月

▼新年度に入ったというのに、この4月はどうにも憂うつだった。何も仕事が増えないためではない。移行措置の始まった新学習指導要領に関して、相変わらず「脱ゆとり」「ゆとり教育の見直し」という報道ぶりが続いたためである▼本社は以前にも、文部科学省が行ってきた教育課程行政を「ゆとり教育」と呼ぶことの不毛さを指摘した。用語上も、使用する場合は必ず「いわゆる『ゆとり教育』」という持って回った表記を使っている。本ブログを何度も訪問してくれるような好事家、いや真面目な読者は理解してくれるであろうが、所詮は場末のブログである。これだけ「脱ゆとり」がマスコミで連呼されると、一般の人たちはもとより、教員すら新指導要領がいわゆる「ゆとり教育」の是正を主眼として改訂されたものだと思い込んでしまうだろう▼今は移行措置や日常業務に追われてそれどころではないだろうが、新教育課程対応が今後、本格的に迫られるようになると、その“恐ろしさ”に気づくのではないか。どう恐ろしいかは先日ある教育専門誌の企画で取材したので、仁義として同誌発行後に論じたい▼もっとも今回は、「新学力観」指導要領(1989年改訂)の時のような混乱は起こらないかもしれない。いわゆる「脱ゆとり」と全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)への対応さえしていれば、保護者や地域が納得するのだから▼その時に起こるのは、「教育課程の基準」という指導要領の存在意義そのものの揺らぎである。指導要領に書いてあることでも不必要だと判断すれば従わなくてもいい、あるいは軽重がついても仕方がない、という考え方がまん延しかねない、というのは、うがった見方だろうか。高校未履修問題や「総合的な学習の時間」への消極的対応という、悪しき前例もある▼もっとも、それは悪いことではない、という立場もあろう。解釈をまったく現場に任せる、というのも一つの方法である。しかし一時期、指導要領の弾力性を説明していた文科省が、最近になってまたぞろ「最低基準」を強調しているのも気に掛かる▼世間とのギャップ、行政とのギャップの板挟みに遭うのは、いつも現場である。だからこそ、現場は教育行政で何が行われようとしているのか、冷静に把握していなければならないように思う。本社がチマチマと場末のブログで論じているのも、そのためである。

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